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気ままに読書会コミュの柄谷行人著「マルクスその可能性の中心」

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2001年05月04日
 小森陽一氏が、本書の解説の冒頭でこう書いている。
「マルクスをその「可能性の中心」において読むとは、
どのようにして可能か?」
「“作品”の外にどんな哲学も作者の意図も前提しないで読むこと」
 本書の冒頭で著者はこう明確に述べている。
私にとって、マルクスを「読む」ことは、価値形態論において「まギ思惟されていないもの」を読むことなのだ。(中略)マルクスをその可能性の中心において読むとは、そういうことにほかならない。(p.26−26)
 この本に限らず、著者の「作品」への取り組む姿勢は、ある意味で一首していると言えるだろう。「まだ思惟されていないもの」とは、「まだ言語によって考えられていないもの」である。何と言えばよいかわからないもの、「言葉にならないもの」である。
マルクスを読むように、私は漱石を読んできた。(中略)それらは、私が折りにふれてたちかえり、自分の思考を確認するテクストであるだけではない。むしろ、それらを「読む」ということをおいて、私の「思想」なるものは存在しないのである。(本書あとがきより) この評論はマルクスの『資本論』についての評論でも、他の作品についての評論でもない。マルクスが『資本論』において、経済学の理論を「どう読んだか」についての評論である。
 それはさらに著者自身が「『マルクスが経済理論をどう読んだか』という問題をどう読むか」を記したものにもなっている。その意味で氏の評論はマルクスについて語っても漱石について語っても「自己言及的」であることを免れない。というより、そうした「超越論的」な姿勢そのものが、著者が持つ「批評」に対する姿勢でもあるのだ。「貨幣形態=音声文字=意識」(p.54)と氏が述べるとき、そこには経済・文学・哲学を見通す視線が働いている。それはしかし「構造」ではない。少なくとも「目に見える構造」ではない。
 そこには「交換=翻訳=共同主観」を成立させるある「同一性の意識」が働いている。それを論理的に考察することなく自明のものとして受け入れ、論理の基盤とするとき、「価値形態=象形文字=差異」は隠蔽され、「バベルの神話」(p.63)−−かつて言語はひとつしかなかったという−−が導入される。
 このとき著者が述べようとしているのは、経済・文学・哲学に共通するそうした「システム=構造」ではなく、「同一性の意識」がそのような「システム=構造」を生み出したということ、そしてそれがまたひとつのまとまった「哲学体系」を生んでしまうような「建築への意志」について、である。
 常に著者は実践的に書く、という行為を続けているように感じる。
 漱石からマクベスヘ、そしてマルクスへと続く氏の思考は、その論理的な鋭さとはうらはらに、まるで連想ゲームのような流動性に満ちている。「一冊の完璧な本を書こうとする気持ちをすてきれない」(『隠喩としての建築』あとがきより)ながらも「漱石論」「マルクス論」を「完成」させることなく、次のテーマ、興味に向かって転回を続けていく。しかも「書きながら」転回していくのである。その部分で著者の「書き方」は変わっていない。「マクベス論」の時点ですでに「結論部の大幅な変更」が行われていることは、『可能なるコミュニズム』『倫理21』に一部が掲載された『トランス・クリティ←ク』(とその改稿)を考え合わせるととても興味深いものがある。
 上にも書いたように、それは著者にとって「書く」ということが引き起こす必然的な転回でもあるように思う。氏の文章の「自己言及性」が、氏自身に対しても絶えず働き続けているのだろうと思えてくる。
 氏の文章を「絶対的」なものとして捉えることは、もしかしたら逆に氏の思考を「曲解」
することであるのかもしれない。しかし、流動する氏の思考の展開=転回そのものは、疑
いもなく「実践的=(柄谷)倫理的」な行あではないか、と思う。


032 柄谷行人『マルクスその可能性の中心』
            講談社学楯文庫(1990/7)
「思想」を生きる
「マルクスその可能性の中心」、「歴史について−−武田泰淳」、「階級について−漱石試論I」、「文学について一漱石試論?」の四編からなる本書が単行本化されたのは七八年であり、表題作は、七四年に発表された。
 いくぶん六○年代から七○年代のマルクス主義思想の動向に精通した者ならば、「マルクスその可能性の中心」がどのような思想的系譜の上に書かれたのかについては、一目瞭然であろう。柄谷の背後には、直接的に、ルイ・アルチュセールがいる。小林秀雄のマルクス論が挟まり、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』がある。しかし、その書かれているところを分解して諸要素に分ければ、ほとんど柄谷固有のものがなにも残らなくなるということを強く意識して書かれた本書を一読したときは、私は、わたしたちの時代の(思想家)に初めて出会ったという衝撃を受けた。しかも、私と同じ歳なのである。衝撃は、言うまでもなく、痛棒の角であった。
 全部他者の(言葉)から成っている本書は、しかし、文字どおり、柄谷のオリジナルな思考なのである。何も新しいものを付け加えないで、なおオリジナルである、とはどういうことか。思考「テキスト」−一柄谷の場合は、マルクスの資本論−−の読み換え、組み扱えによって、別な「読み」を発見することである。
 マルクスの資本論とは、古典経済学のテクストに対する「読み」であり、その読解の方法こそマルクスの「思想」である、と柄谷はいう。そして、資本論を読む独得な読み方こそ柄谷の「思想」なのである。構造主義をくぐり抜けたマルクス主義は、古典的なマルクス主義の理解であるとともに、マルクスの思考の可能性を新に展開するステップでもある。その中心に、他でもない柄谷が立っていたのである。
町中央公論』90・11掲載*のち『書物の快楽』に収録


柄谷行人『マルクス、その可能性の中心』
加藤弘一
 ポール・ヴァレリーをヨーロッパ最高のインテリと呼ぶことに反対する人はいないと思うが、彼は第一次大戦直後の講演で、ヨーロッパの優位はテクノロジ←の独占の結果にすぎず、この独占がくずれたら、地理上の一小地域(アジア大陸から突き出した一つの岬)の地位に転落するだろうと語っている。
 ヨーロッパの精神的価値を代表していた詩人は、科学技術を回避したところに「精神独自の価値」がそびえ立つなどという感傷には目をふさがれていなかった。彼は最高のインテリであると同時に、いや、最高のインテリだからこそ、最高のリアリストでありえたのだ。
 柄谷行人が一連の仕事の出発点としたマルクスもまた、リアリストとしてのマルクスである。マルクスという名前に熱い思いいれをもっている人は、ここで読みほぐされていくマルクスの作品の姿に、当惑を通りこして、裏切られたと感ずるかもしれない。マルクスの名で知られている教説の数々が、マルクス自身の論理を適用することによって、単なる感傷であったことがあきらかにされていくからだ。
 マルクスの学説の中心は剰余価値説にあるとされている。人間の労働力が商品として市場に登場しているという古典派経済学の分析をうけて、マルクスは労働力が買値以上の価値を生み出すことのできる特別な商品である由縁を説き、資本家はこの特別な商品を普通の商品同様に買いたたくことによって、労働力が生み出す余分な価値(剰余価値)を労働者からこっそり奪いとっていると主張したのである。労働力の神秘性という光源に照らすなら、古典派経済学は資本家の自己正当化の論理としてあらわれざるをえない。『資本論』を書いたマルクスの意図は、古典派経済学の批判にあったといっていい。
 だが、『マルクス、その可能性の中心』の柄各は『資本論』のもう一つの中心、価値形態論に注目する。剰余価値説では労働力の神秘性が重視されたが、価値形態論では商品そのものが神秘をおびたものとしてあらわれる。
 商品は、一見したところでは自明で平凡な物のように見える。が、分析してみると、それは形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとにみちたきわめて奇怪なものであることがわかる。(『資本論』)
 ふつう、われわれは個々の商品にはそれぞれの価値がそなわり、その価値にしたがって売買・交換されるのだと考えている。労働価値説を提唱したリカルドーなら、商品の価値を決めるのは、それを生産するのに要した労働力の量で、その量の評価が価格だというだろう。マルクスもその点についてはリカルドーに同意している。商品には人間的労働という「共通の本質」が内在しているというわけである。しかし、柄谷によれば、価値形態論のマルクスはそうした見方をしりぞける。そのような「同一性は貨幣によって出現」させられたからである。
 いったい、一着の上着と20エレのリンネル布がどうして等価だといえるのだろうか?それは、5マルクという価格を取り払ってみれば、10メートルと10リットルが等しいというようなものではないだろうか?剰余価値説のマルクスのように、一着の上着を作るのに要した労働量と20エレのリンネル布を織るのに要した労働量が等しいといったところで、事態は変わらない。人間的労働という「共通の本質」は、普遍的尺度としての貨幣の言い換えにすぎないからだ。そもそも、貨幣というものが存在しない社会では、人間的労働などという観念自体、通用しない。問題は、ある人間の労働と他の人間の労働が等価であるなどということがなぜ
いえるのか、ということである。
 価値形態論のマルクスはこう答えている。
 彼等はあいことなる生産物を交換において等価物として等置することにより、あいことなる労働を人間的労働として等置する。彼らは意識していないが、しかしそう行なうのである。(『資本論』)
 言っていることは明解である。等価だから交換するのではなく、交換したから等価になったというわけだ。
内在的価値や「共通の本質」としての人間的労働もまた、交換の結果として見いだされたものであり、貨幣経済という制度を暗黙の前提にしていることはいうまでもない。
 忘れてならないのは、交挽は交換である限りにおいて、柏手の同意なしには成立せず、いかなる根拠も保証もないということだ。心をこめて作ったから、必ず交換してもらえるなどという甘い話ではないのである。今日の市場経済は、さまざまな経済外的規制によって、比較的安定した交換が保証されているかに見えるが、一皮めくれば力と偶然の支配するせめぎあいの場であることにかわりはない。商品の奇陸さの考察は商品が商品であることの危うさ、つまりは交換の危うさの認識にいきつく。交挽は、そのつど、何を考えているかわからない相手を前にした、「命がけの飛躍」であるはかないのである。
 柄谷はマルクス主義者の誤解してきたマルクスに対して、真のマルクスを擦護しているのだろうか?なるはど、剰余価値説のマルクスに対して、価値形態論のマルクスを立て、後者によって前者の労働力神話を批判していることは確かである。だが、両者を同じ次元に並べることができるかどうかは議論の余地がある。剰余価値説は古典派、特にリカルドーの労働価値説に対抗する学説として、それ自体ひとつの経済学説であり、またそうであってこそ資本主義批判として意味を持つが、交換の危うさの認識としてつきつめられた価値形態論は経済学そのものの根拠を問う批判であり、人間が負わされた基本的条件の省察へと深められていく。交換の問題から、殺人という罪と禁固十年という罰はなぜ等価かという問いへ向かうのは、必然なのである。
 こうした経済学の根拠への問いは労働力神話にもとづく資本主義批判を無効にする一方、交換を儀礼として考察する立場を可能にし、各民俗社会に見られる経済行為に芸能としての多梯性を見ていく経済人顆学の視界を開くものだろう。
 しかし、柄谷は『資本論』に固執する。『資本論』という作品は分裂を抱えこんでいるが、その一方の項である価値形態論は、同時に、なぜ分裂が避けられないかを解明する突破口となるからだ。交換という語が盲詣吾学や人類学、法学、現象学、数学基礎論にいたるまで、発見的な隠喩として横断的に使われるのは、人間の条件としての分裂を追求するためなのである。
 今回文痺化された『マルクス、その可飴性の中心』は、この分裂を青年の自己発見として語っている点、まだ甘いといえば甘いが、同時にわかりやすくもあるだろう。「マルクス自身の負うた傷」、「幻影を破られて、現実に自分がなんであり、なににすぎないかを思い知った人間の得る自己認識」という表現は、柄谷の最初の動機が何だったかをよく示している。
 自己発見を自己発見として語るのは危険である。幻想が破られたという告白は、今の自分は現実を知っていると暗に誇示することにつながるからだ。
 柄谷の仕事が冷有の緊張を維持してきたのは、自己を語ることを禁じ、形式化に向かったことによると考えられる。柄谷の追う分裂は、厳密に構築された体系がその極限で崩壊する瞬間にしか垣間見えず、それゆえ柄各の文章はつねに無へ向かっての跳躍とならざるをえないのだ。
(1985『週刊宝石』)

コメント(4)

この本の扉の言葉:
マルクス「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題である。」
アンドレ・マルロー「人間は自分の姿を、知見をふやすことによっては見出しえない。彼らが自分の姿を発見するのは、彼が提起する課題においてである。」
ハイデッカー「本質的な思想家は一つの課題しかもたない。」
柄谷は資本論の「価値形態論」をソシュールの言語学やフロイトの精神分析学を参照しながら独自に読み解いている。少しずつ要約を書いていこうと思う。
一言断っておきたい。私はマルクス主義者ではありません。レーニンから始まるマルクス・レーニン主義はマルクスの思想の本質から外れたものと思っています。ソ連崩壊後社会主義は資本主義に破れたとされましたした。が、柄谷著「世界共和国へ」はマルクスの考えを発展させ、今後の世界の行く先を示しています。これもこれから取り上げていきたいと思っています。
初めまして。
私もずっと柄谷行人を読んできました。
マルクスの価値形態論における「相対的価値形態」と「等価値形態」の《あいだ》には、「命がけの飛躍(宙返り)」があるといっています。この《あいだ》こそが、木村敏のいう《あいだ》のありかたに等しいと思います。
この《あいだ》は、「自」、つまり「〜から」という一つの自律性をもっています。この「自」は、「おのずから」と「みずから」をつなぐもので、これがマルクスの用語でいう「相対的価値形態(=おのずから)」と「等価値形態(=みずから)」ということになるのでしょう。マルクスは「意図せずに、そう行う」といっていますが、その「意図しないこと」の「こと性」にこそ、木村のいう生命論的差異(著書「関係としての自己」より)の働きがあるのでしょう。私たちにはそれを客観的に見ることはできません。しかしそれは確かにそうであるように感じられる何かの働きとしてあるのです。
私はこの文脈で柄谷と木村の《あいだ》を読んでいます。
急ぎ足に書きましたが、何かのお役に立てたら幸甚です。
yoshiさん
 コメントありがとうございます。大変参考になりました。ただ、生命論的差異とはたとえば文に「花がある。」と書かかれたものを読んだ経験と、、五感を働かせて実際に花があると感覚的に「花がある。」と感じている経験の差なのでしょうか。

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