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気ままに読書会コミュの W.ギーゲリッヒ 河合俊雄(訳)[意味への問いについて]

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子どもの救助あるいは時間の横領 ─―意味への問いについて
                          W.ギーゲリッヒ 河合俊雄(訳)

 ドイツ語の「意味」(Sinn)という言葉は非常に様々なこと、いやそれどころか正反対のことさえ表わす。ここでそのように互いに矛盾する語義をほんのいくつか挙げてみると、意味という語はまず、「五感」(funf Sinn)や「感覚的快楽」(Sinnnengenuss)などの表現に見られるような感覚的なものと同様に、例えば「精神薄弱」(Schwachsinn)という言葉に認められるように悟性能力、あるいは精神的―深遠なものを表わす。あるいは「強情」(Strrsinn)や「快活」(Frohsinn)といった用法に見られる人間の個人的特徴と同時に、話の非個人的内容や言葉の客観的意味をも表わす。一つの言葉がここに挙げた例の他に
さらになおいくつものことを表わすことから、精神―物質、観念論―感覚論、主観(人間)―客観(世界)などのしばしば引き含いに出される二元論に疑問を投げかけることができよう。しかしこの会議(訳者後記参照)において意味が話題とされる際には、問題となるのは上述のあれやこれやの意味でなく、ま
だ言及されていない一つの「意味」、よく「超越」と同列にして論じられている、かの特別な意味であろう。即ち問題とされるのは意味一般、つまり人生や存在そのものの絶対的な意味や目的であって、従ってこれはすぐれて元型的なテーマなのである。
 「元型は荘重に、それどころが大げさに語る。元型の話しぶりは私には恥ずかしいぐらいで、私の感情にそむく。それはあたかも石こうを釘で、あるいは皿をナイフでガリガリとひっかくようである」(『ユング自伝』)。これを言ったのは、元型論の敵対者でなく、まさにそれの創始者自身、かのカール・グ
スタフ・ユングてある。彼に関してはしばしば、元型的なささやきを好んだだの、神秘的なものに耽溺したのだと、まことしやかに言われでいるけれど、様々な神学的な影響にさらされたにもかかわらず彼は明らかに、世俗的な冷静さをもち、元型の言語から批判的に距離をとったのである。今、「意味経験と超
越経験」というこの会議のまさしく元型的――荘重で誇大なテーマを考えるに際して、ユングのこの痛烈な言葉を心にとめておきたい。
 意味と超越への問いは元来、神学者の特権である。心理学者がこのテーマにアプローチすると、思いもかけず神学的思考に吸い込まれてしまう危険がある。それ故に、前もって心理学者の独自の立場を思い起こしておくのが望ましい。ここで心理学的思考の本質的側面の一つを、ある実際の例にもとづいて思い起こしてみたい。ある女性の患者は、何匹かの犬に追いたてられている夢を見た。目が醒めた後でも、彼女は激しい鼓動を感じた。 彼女はこの夢をどう理解したか。それは以下の彼女のことばから見てとれる。即ち、それはひどい夢だったけれど、犬が自分に追いつくことができなかったから、そう「否定的」だけということでもあるまい、と。彼女は明らかに、犬と追跡とを否定的なものとして、逃げおおせたことを展望を開く肯定的なものとして見ている。従って彼女は、覚醒状態においてもこの夢を夢の中の唯一の登場人物、即ち夢自我(夢のなかの自分自身)から眺めており、無意識的に夢自我とその価値観に同一化しているわけである。ある意味では、夢において夢自我が始めた逃走を、彼女は覚醒状態においても、犬から逃げることあるのみ、と続けているのである。 心理学的思考は、夢を全く異なる仕方で理解する。夢を見た人を無造作に夢自我やそれの利益と同一視することはないので、従って夢自我の価値判断をそのまま鵜呑みにする必要もない。むしろそれとは正反対に、心理学的思考は片寄らない立場から夢を考察するので、それによって全体的出来事が反映され、夢自我のみならず、いわば犬も夢を見た人に属しているものとして捉えることが可能になる。それは、なぜそもそも追跡が生じたのか、という問いを投げかける。ひょっとすると、追跡が逃走の原因であるというように単純なことでなく、全くそれとは逆に、夢にあらわれた逃亡が、犬に追われることの原因をなしてさえいるのかもしれない。この患者は生来いつも逃げてばかりいる人で、犬による追跡を機会としてはじめて、これまでは欠けていたけれども、それなしでは済ますことのできない何かが彼女に押し迫ってきているのかもしれない。逃げきったという夢のおわりは、ひょっとすると真のはじまりかもしれない。そして追跡という夢のはじまりの場面は、実は逃亡の後に続く結果にすぎないのかもしれない。さらには次のようなことが言えるかもしれない。夢自我にとって苦境(Not)として現われることが、夢を見た人にとって(そして心理学的意識一般にとって)実はまさになくてはならないもの(das Notwendige)なのであり、何かに不足して逃亡している人の苦境に転機を与えようとしているものなのである。かくして心理学的思考は、いわば通常の見方の逆転を意味し、識と呼ばれている夢自我から距離を取ることを可能にするのである。 今日において、意味経験、超越経験、意味発見の問題、意味充足への道、等々がテーマとして取りあげられる際には、意味ということが不可欠であることがたいてい暗黙の前提として存在している。今日の空虚さを何とかしなければ
ならない、と。意味がないという状況において、満たされるべき必要のみが注目されている。ちょうど生態学的危機において、解釈されるべき実際問題のみに注意が注がれているように。思うに、このような文化批判的、社会政治的態度でもってしては、この問題のしかけた罠にかかる形になってしまう。即ち、「父権的意識」と呼ばれている、母、無意識を象徴する竜を殺した意識(ノイマン)にこの悲惨な状況の責任があると々は考えているのに、このような態度でもってしては、まさにその竜を殺した意識にとどまり続けることになってしまうのである。しかしこの意味コンプレックスは、一つの夢、あるいは一つの元型的ファンタジーとも考えられ、それを心理学的問題として看破することもできよう。その夢とは、おおよそ次のようになろう。即ち、我々は意味のなさによって悩まされているので、意味経験、超越経験によってそれから逃れようとしている。心理学的見方からすれば、当然のことながら、全く逆に考えられることがいくつかあろう。つまり意味発見はもはや疑いの余地なく確かな目標でなくなり、意味のなさは単に苦境や欠乏としてではなく、なくてはならない必然性として理解できるかもしれない。意味と意味発見はまさに改めて問う必要のある問題となろう。通常の考え方によれば意味探究は意味喪失による困窮の結果とされるのに対して、さきの患者の夢の場合と同じように、意味経験がまさに意味の空洞化の原因をなしているのではないか、という可能性が問われねばならないであろう。ひょっとすると我々はここにおいても、夢の中のただ一つの登場人物、つかの間の夢自我と同一化し、それどころか覚醒状態においても全く無意識にこの観点から判断を下しているので、心理学的意識の観点から見ることができないのかもしれない。筆者はこの解釈を展開していきたい。なぜなら心理学の課題は、我々がある種の態度、価値、目標を自然で疑う余地ないものとしてみなしているうちに、どのような元型的ファンタジーに知らず知らずのうちにはまり込んでしまっているか、そのファンタジーに対抗してどのような新しい元型的観点が夢のイメージ、病理、等々の経験において生じてきているかを意識化することに存するからである。心理学の課題は困難の除去を求めることに存するのでない。心理療法においては、いかにして苦しめられている状況を脱するかが問題なのでなく、逆にいかにして本来的に、真に、困難な状況に入っていくかが課題となる。即ち、我々はもはや単にその問題に行きあたった者としてそれに対面しているのみならず、まさにその問題状況にとらえられ、襲われ、それによって変えられていくのである。 今世紀、殊にここ二0年間において、意味ということを体験し、発見するための教えや方法が雨後のたけのこのように生じた。あるものは禅などの超越的瞑想や薬を用い、あるものはキリスト教の希望を担って聖書を再び掘り返した。さらにあるものは無意識から生じてくる魅惑的な絵画に夢中になったり、ディスコの騒音に酔ったりし、別のものは地下室で叫ぶことによって不安と抑制とを取り去り、身体を動かすことによって緊張から解放されようとした。これらは確かにさまざまな異なる声なのであるが、結局のところ、次のように叫んでいる一つのコーラスを成している。即ち、空虚と意味のなさから逃げることあるのみ、我々を悩まし、制限し、苦しめるものから逃げることあるのみ、と。治療的テクニックと手がかりがますます多く生じてき、心理学と心理療法の勉強がはやっているかげに、恐るべきダイナミズムを持った極めて憂慮すべきモチーフもまたひそんでいるのではないか、という疑いを筆者は禁じえない。それは即ち、無、闇、失なわれた中心、神の死、病理、意味の空洞化を前にして我々全体が感じているパニック的な不安であり、その不安が意味発見や自己経験による救いへの強い衝動を呼び起こしているのである。意味充足への衝動、意味経験の必然性の確信、そしてそもそも意味と意味のなさについて主題的に語ることは、決しで自明で普遍人間的なことではない。正にその反対に、意味ヘの問いを絶対的にたてることは我々にとってこの世で最も自然なことに思われるものの、それは人類史的に見て風変りでエキゾチックな産物なのである。筆者の知る限りでは、それはやっと一九、二0世紀において歴史に登場する(注1)。今仮りに、古代ギリシャ人に人生の意味への問いを投げかけたとしてみよう。もちろん知的には彼はこの問いを理解したであろうが、この問いでもっで我々が実のところ何を聞きたかったのかは彼にはおそらく見当もつかなかったであろう。なぜなら、そのような問いは彼の精神的世界において何らの位置も占めていなかったからである。それではどのような世界において、意味への問いが登場しうるのか。意味コンプレックスの元型的場所とは何か。それはどこに由来しているのか。私見によればその答えは、意味コンプレックスはギリスト教に由来し、キリストにその元型的場所を持つ、ということになる。この答えを理解するためには、いかに人間存在の根元的な変化がキリスト教と共にこの世に到来したか、あるいはより正確に言え、どのようにキリスト教にその首尾一貫した根拠づけと定式化を見出したかをまず明らかにする必要がある。キリスト教の特質を浮きぼりにするための対照的な背景として、筆者は儀礼的文化にさかのぼって、その際意識的にそれの二つの本質的特徴だけを取りあげてみたい。即ち、思春期儀礼における幻滅、(2)「神は死んだ」のテーマのニつである。
 (1) 青年のイニシェーションにおける本質的要素の一つは幻滅である(注2)。
若者には、女、子供には隠されている部族の秘密が伝授される。つまり、女、子供は、踊りや儀礼の際に登場する仮面は本当に神々であり、がらがらの出すうなりは大いなる霊みずからの声であることを信じている(注3)。イニシエーションはこのような子供の信仰を破壊する。イニシェーションを受けるものには、仮面はごく普通に人間によって作られ、あたりまえの人間によって、例えばフリッツおじさんや近所のマイヤーさんによってかぶられることが教えられる。イニシェーションは(なかんずく!)一つの大きな仮面剥がしである。イ二シェーションを受ける者は幻滅を通じて、新しい元型的観点が支配している世界へと移行する。信じていた子供は殺され、その代わりに――従ってまた新しい名前(新しい本質と起源)を帯びて――秘密を知っている人が生まれてくる。その人とは、神経が参ってしまったり、シニカルになってしまったりすることなしに酔いを醒ますような秘密を守り耐えうる成年男子なのである。シニカルな態度とはこの場合、全てが見せかけと遊びに過ぎないから神々の存在をもはや認めないということを意味している。儀礼的文化における人間とは(ある観点からすれば)本質的に「幻滅した者」である。儀礼的文化とは、幻滅からの生活を意味する。しかしその際当然のことながら、幻滅ということば、
現代人がそれにすぐさま結びつけがちな憤懣や怨恨などの連想がつきまとわないよう注意しないといけない。今日ふつう幻滅として理解されているのは、幻想からの解放でなく、満たされず、あるいは満たされえない希望に憤懣やる方なく固執することであるから。古代世界では反対に、幻滅と諦観をもとにし、
全ての神話と儀礼的世界が建設的に作りあげられる。仮象はあらわれであり、仮面剥しを経験した者はまさにそれ故に、自、神秘に満ちていてかつ醒めた仮面かぶりになれるのである。
 もちろんイニシエーションの本質は幻滅につきるものではなく、それを通じて元型的な諸力と関係を持つようになることも当然のことながら大切である。
それでも幻滅はイニシエーションの全過程における一つの大切な要素であり、この論文のテーマにとって重要であり、なかんずく古代的人間において決して宗教的経験から追い越されたり切り離したりしえない、まさに宗教的体験の基礎や成分をなしているのである。仮面はその本質において常に、霊の本当のあ
らわれと単なる仮装、あるいは宗教とショービジネスの両方なのである。ジョゼフ・キャンベルは、仮面世界の「劇場的領域」や「信じさせる論理」について述べており、W.F.オットーは、「仮面は直接的現前と絶対的不在を一つにしている」(注4)と述べている。仮面は真理と司祭の欺瞞の両方を体現している、とさえ言っていいかもしれない。もっともここでの「司祭の欺瞞」は、司祭が個人として密かにはたらく欺瞞を意味しているのではなく、誰がかぶるにしても仮面自体が既にまどわすという側面を有していることをさしているのであるが。仮面の本質は、仮装によってあからさまに偽ることに存するのであるが、その際には既に、仮面剥しを認めることがふくまれている。仮面は客観化された欺瞞―幻滅(Tsuschung-Enttaushung)である。そして仮面が元来、だますという要素を内に秘めているからこそ、司祭が利己的な動機から行う欺瞞に悪用されることがあるのである。仮面について述べたことは、神話についても当てはまる。神話ということばが後の時代において「うそのおとぎ話」という一面的に否定的な意味を帯びることになったのは、神話がその本質的起源からして、「真のことば」W.F.オットー)と「つくりごとと」の両方を一つに体現しているからである。 付言しておくと、イニシエーションにおける幻滅を論じる際に筆者が問題としたいのは、経験的―事実的に行われる啓蒙行為ではなく、むしろ、仮面や神話においてその客観化が見出される、心理学的、存在論的な幻滅のことである。
 (2)「神は死んだ」のテーマ。神が死んだ、とは一00年前に言われたことであるが、それはおそらく今日においても、大胆で衝撃的な主張であろう。死んだ神とは、我々にとって未曽有の観念である。
 それに対して原初的文化にとっては、これは馴染のある、あたりまえの観念であったろう。殊にシャーマニズムの文化においては、「死者」という表現と「神」ということばは根本において同義語である。死者は神で、神々とは死者のことなのである。これについては全世界に数多くの証拠がみられるけれど、
ここでは旧約聖書にみられる古代特有の話を例としてあげておきたい(サムエル記上、二八)。サウル王は、亡くなったサムエルを冥界から呼び起こすために、口寄せの女の助けを求めた。あらわれてきた死者はエロヒムという言葉で形容される。即ちそれは通例において神を意味していた言葉であり、イスラエルの唯一の神も同じ言葉で呼ばれていたのである。
 ここに略述した、前キリスト教的人間存在の二つの本質的特徴を背景に置くと、キリスト教の特殊性と根本的特異性とがくっきりと浮かび上がってくる。とはいうものの、絶対的な意味で言われているキリスト教(das Christentumとは何なのだろうか。そもそもそういうものは存在するのだろうか。
唯一絶対のキリスト教について述べることは、全く許されえない総括化ではなかろうか。結局のところ存在するのは、さまざまな教会、無数の信条と宗派から成るキリスト教、トマス・アクィナス、マルチン・ルター、マイスター・エックハルト、アシジのフランチェスコのキリスト教、ビューリタン、異端審問
官、敬虔派、メランヒトン、ヨハン=セバスチャン・バッハ、等々のキリスト教だけであり、それは途方もなく多様である。これらのキリスト教のうちのどれが、ここで問題となるのであろうか。羅列したもののどれでもない。かといって、キリスト教の全ての変種から導き出された最小公分母にすぎないよう、
貧弱で抽象的な構造物としてのキリスト教でもない。筆者が意識的に、絶対的な意味でのキリスト教について論じるのは、「キリスト教」が個々の経験的なキリスト教徒たちが持つ宗教的意見や感情の単なる包括概念ではなく、超個人的で精神的な現実性と歴史的力である、という確信を持っているからである。その力はキリスト教的ヨーロッパ世界の歴史において、時には人間の信仰確信、経験、意図をこえて実現化し、顕現化してきたのである。従って筆者は、キリスト教を人間的なもの、人間的な教えとしてではなく、むしろ自立的で客観的な、いわば元型的な現実性として理解している。逆にそのような元型的な現実性に、人間があれやこれやの仕方でさらされることがありうるのである。ここで問題となるのは、この「真」の(wirklich)、つまり実際に影響を及ぼしている(wirkend)キリスト教なのである。それは歴史的に、一方ではキリスト教徒の基礎的な記録から、他方では西洋の精神発達から見てとれる。それ故に、どれが「正しい」キリスト教なのか、どのようにキリスト教の福音が歴史的イエス、バウロ、ペテロによってもともと考えられたのか、等々の神学的問いにわずらわされる必要はなく、経験的な現象学の多様性の前に屈して、本質認識を断念する必要もないのである。さて、このような説明をおこなったので、今やキリスト教の特徴描写に取り組むことができよう。
 キリスト教の神は明らかに、生きているもの、生命の神である。その首尾一貫性は、神が人間にも永遠の生命を与え、死から全く力を奪ってしまうまでに及んでいる。次に、古代的世界において秘密が厳重に守られたのに対して、キリスト教ではその逆に告知や伝道が重要となる。そして古代文化が青年のイニ
シエーションにおいて幻滅をもたらしたのに対して、キリスト教におけるそれに対応する儀式は、「堅振」(Fir-mung)や「堅信礼」(Konfirmation)ということばから見てとれるように、その正反対のものをもたらす。その意図は明らかに、子供の信仰を固め、大人の生活という条件の変化にもかかわらずに信仰が継続するようにすることにある。それ故に、信仰というのは他の宗教においては全く重要でなかったり、あるいは二義的にしか過ぎないものであるのに、キリスト教はそもそも信仰の宗教なのである。そしてキリスト教において、酔いから醒めて冷静になるという要素が排除されている故に、信仰は常に疑念と誘惑とによっておびやかされているのである。原始人においては、そのようなことは生じえないであろう。なぜなら原始人は、疑念、仮面剥しをとっくに経験してしまっているのみならず、それを自分の現在の精神的存在の基礎としているからである。彼らは、子供やキリスト教徒とは違って神々の実体的現実性を信じない。神々とは、目に見える仮面や感覚的に捉えられる神々の像、即ち仮象、遊び、メタファーのことであり、それらはただメタファーとして現実的であり、現前している。それらは存在していると同時に、また存在していない。神の立像は神自身である。それは、立像の背後に潜んでいて、それ自体で存在している神への単なる「象徴的指示」ではない。それでいて同時に、古代的人間にとっては、神々の像は、人間によって切り整えられた材木や石の単なるかたまりにすぎないのである。キリスト教の望んでいるのは、幻滅の回避である。いかにすれば諦念や仮面剥しなしに信じ続けられるか、いかにすれば究極的な死なしに生き続けられるか、という道をキリスト教は示そうとしている。それは次のような福音ではじまる。「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それがあなたがたに与えられるしるしである」(ルカ、二−一二)。全てのキリスト教の福音は、子供元型によってしるしづけられている。子供が規準となっているのである。
 ベツレヘムにいた他の全ての子供たちは、原初的文化での思春期儀礼において行われるのと全く同じようにして、この世の子供のもつ元型的運命に従って殺された。ところが、キリストだけは、神的な子供として死の運命を免れて(それと同時に、人生における運命への服従全般を免れて)、大人の生活へと移行することができたのである。ところで、キリスト教における神的な子は「真実の人間」(ルター)でもあるので、子供が救われると同時に、救済者、救い主、平和の君に対する人類の子供じみた願望も誇大化され、かき立てられることとなった。突然にして、イニシエーションとしての子供の死は、サタン的な子供殺しとして見なされるようになり、それから子供を何が何でも守らねばならない絶対的に悪いこととして考えられるようになったのである。人間は、自分も神的な子供と同じように、子供殺しの生じない人生を送れることを信じたり、望んだりしてもいいようになった。その人生とは、もはや周知の「盲目の」運命によって支配されているのではなく、その代わりに、ある父親的な神の――それが寛大であれ厳格であれ――個人的な摂理だけに従っているのである。 確かにギリシャ人にとっても、人間は神々の子供であった。例えばアポロの子、アフロディテの子、などのように。しかし、それぞれの神々が自分の子供に与える賜物は、子供存在そのものではない。例えばアフロディテにおいてはその賜物は愛である。それに対して、キリスト教での神の子供においては、子供存在が二重化する。なぜなら、神を前にして人間が子供であるという形式をとるにとどまらず、人間に与えられる賜物の内容もまた、神の子供であることであるから。それは、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい」(マルコ、一0−一四)という言葉からわかるように、個人的でほとんど馴れ馴れしいばかりの我−汝の関係であり、存在論的な子供存在なのである。キリスト教の神は父なる神、親愛なる父であって、これは、父なるゼウス、父なるオケアヌスなどの他の神々とは全く違ったあり方をしている父を意味している。信仰、愛(アガペー)、希望、――これがこの父のもたらす美徳であり、救われた子供の美徳なのである。「幼な子のようにならなければ…」(マタイ、一八-)。この、子供になるということは、子供が子供のままで大人の年齢に入るという先に述べたことと、どのように調和しうるのであろうか。子供が子供としての自らの存在を守り保つなら、さらに改めて子供になるはずがあるまい。しかし厳密に考えるなら、子供を救うということは、生物学的あるいは教育学的に理解された子供存在、文字どおりの子供の年齢に固執することを意味するのではないであろう。むしろそれは、自然な子供存在をまだ体験していなかった大人が、真の(「精神的」つまり心理学的―存在論的な)子供存在への移行という本来的なイニシエーションを受けることを意味している。この限りにおいて、キリスト教における子供の救助(維持)は、はじめて子供になることという側面を同時に持っている。
 仮面の中に、神自身を直接的に現前させようという人間の子供じみた要求は、子供の死とともに殺され、犠牲にされているはずであった。その子供じみた要求とは、仮面がもはや本当に「仮りの面」ではなく、神がかくの如き存在ではなく、神々が全く具体的かつ実体的に、いわば「物自体」として存在すること――それが可視的であるにせよ(迷信)、彼岸的―不可視的であるにせよ(神秘主義)--を求めるもののことである。さて、子供の死とともに、神々と死者の存在が解放されるはずであった。それらは、決定的に遠くに離れたものとして、力をそがれた影として、単なるイメージとして存在するので、それによって人間も自由になるはずであった。即ち、人間は自分自身にだけ、つまり仮面のかぶり手にだけになるので、「心理学的差異」(注5)という、人間と仮面(メタファー)との間の差異、人間と魂との間の差異が生じてくるのである。
子供の死によって人間存在は自らとの非−同一性の状態にいたり、人間は既に間(あいだ)、分裂から、そして分裂において生きていることになるので、従って自分から分裂的になる(神経症的に分裂的になる)必要はないはずであった。人間は影の領域にその故郷を持っているはずであった。
 ところが逆に、神的な子供が死の運命から逃避したことによって、所有要求がはじめて本来的に生じてくる。ことばは今や自ら肉とならねばならず、我々のこの大地は神の国とならねばならない。人間はもはや仮面の単なるかぶり手であってはならず、仮面と同一化して、仮面を具体的現実的に(肉において
!)体現せねばならない。人間は自ら人格(ペルゾーン)であらねばならないのである(人格(ペルゾーン)−ペルソナー仮面)。そしてこの同一性が完璧でなく、「単に」ある役割を演じていたり仮面をかぶっていたりすることがまだ見てとれる場合には、自己体験や自分の真の自己の発達から逃避しょうとす
る「個人的な防衛」として今やみなされるようになる。ペルソナ、仮面、役割、職務や位、肩書き、権標、服装、等々は今や非本質的な「外面性」として片づけられると同時に、自我や自己と呼ばれているうつろな中心が本来的に現実的なもの、本質的なものとしてみなされるようになってくる。それに対してかつてにおいては、人間は他の全ての存在物と同じょうに、「外面性」にまさにその本質を持っていた。プラトンは、(彼において既に超感覚的なものになっていた)本来的に現実的なものを、目に見える「外観」(エイドスあるいは「イデア」)をさしあたり意味する言葉でまだ呼んでいたのである。
 いわゆる外的なものの評価を引き下げ、「自己発達」を目標とすることによって、個人至上主義的、人格至上主義的な心理学の思想世界のただ中に我々はとどまってしまう。法外なインフレーションを学問的に正当化せねばならないそのような心理学は、人格を崇拝する故に、姿を変えたキリスト教神学の延長
に他ならない。即ち、発達の観念においては、人間を仮面の担い手として理解する考え方とは正反対のものが認められるのである。発達観念の機能は、子供殺しから救うことに存する。発達とは、子供を殺す必要がないこと、子供は命を保つことが許されており、生き続けねばならないことを意味する。これは途
方もなく慰めになる考え方なので、心理学がなぜそれほども発達的な考え方に執着しているのかが理解できよう。なるほど確かに、子供は数多くの同一性の危機を経験し、幾つもの段階を経て変化せねばならず、その際に象徴的に死さえも体験せねばならない。しかしそれは、再生して最後に大人になるためだけ
の死なのである。かくして発達観念という観点からみるならば、大人とは結局のところ、「性器的段階」あるいは「太陽−合理的段階」(ノイマン)に到ろうとしている、発達し遂げた子供にしかすぎないのである。もちろんこの表現は、経験的あるいは存在的な意味ではなく、心理学的−存在論的な意味で用いられたものである。自明のことながら、ごく普通の発達観によれば、人間は大人になり、成熟、成年、自立性、等々のことを達成せねばならない。そして当然のことながら、ごく普通の心理療法も、治療が成功した場合には、大人になるというこの目標に到達する。しかしながら、ここでの大人であるということは、教育学的とでも言うべき意味においてだけのことである。それに対して存在論的−心理学的に見れば、発達という考えに基づく心理学は人間を子供存在におしとどめているだけでなく、人間が積極的かつ明白に子供存在を守るように誓い、それに固着するようにさえしていることになる。真に大人になるとは、子供であることから出ていくこと、そこから去ることを意味するはずである。
しかし発達という考えに基づく心理学においてはどうであろうか。そのような心理学は人間を幼年時代から、父親と母親から理解しており、人間が自分でも同じ理解の仕方ができるように長年にわたる徹底操作を通じて教育する。しかしもし私が、自分の由来と起源とを幼年時代に捜し求め、私の――健全なもの
であれ台なしになってしまったものであれ――本質において私を幼年時代から理解しているのならば、たとえ私が教育学的観点から見れば大人になっていたとしても、私は(心理学的に)子供のままであり、子供存在にしばりつけられていることになる。私の発達を個人的な両親からではなく、むしろ「それらに
よって布置された」母親元型や父親元型(注6)から導き出したとしても、事の大勢に変わりはない。どちらの場合にしても、家族小説の世界にとどまることになってしまう。そして母親と父親から分離しようと努めれば努めるほど、それは自分の人生に及ばす彼らのヌミノースな権力に対する畏敬の念を示してい
ることになって、いわば捧げ物をしているように彼らの存在をますます重要なものにしてしまう。かくしてこれは、自分の子供存在をますます認知していることになるのである。従って、そのような仕方で理解される大人は、はじめて本来的に「子供」になることによって子供存在にとどまることが許されるので、発達という観念は人格の同一性の連続性を保証する機能を持っていることがわかる。
 第二に「発達」とは、私が自分を発達させねばならないということ、私が発達すべきものであるということを意味している。この場合には私の本質はまさに私自身に存し、仮面や、私がそれでないものには存していない。むしろ私は自分自身と同一であり、少なくともそうであるべきである(「同一性発見」と言われるように)。第三に心理学的な発達観念は内省と結びついている。即ちそれは、人間の本来的なものはその内面に(注7)、聖書で「内なる人」と呼ばれているもののなかに捜し求めるべきである、という見解につながってくる。
そのような内なる人は、あたかも外皮の下に隠れている芯のように、前面にあらわれている自我と非本来的なペルソナの陰に隠れているので、発達、発展させねばならない、というのである、noli foras ire ; in te ipso redi: in interiore homine habitat reitias(外に向って行くな。汝自身の内にかえ。内なる人が真理の座である――アウグスティヌス)。人格の連続性、自己自身との同一性、内面化は発達という考え方のご一つの贈り物である。それに対して仮面の世界においては、第一に非連続性(「子供の死」という断続としても、仮面の多神教的多数性としても)、第二に非同一性、第三に感覚的な「外的」現実性の内に立つという意味での切迫性(言い換えれば、
外的現実に切迫してさらされているということ)の三つが対応していることになろう。
 子供殺しについての元型的観念から見れば、児童虐侍の心理学が明らかになるかもしれない。児童虐待は恐るべきばかりに頻発し、他の観点から見ればほとんど理解不可能に思われる。たとえ粗暴な人間だとしても、どうしてか弱い子供を虐待し、殺すようになるのであろうか。そのようなことが生じるのは、
心理学的な(元型的な)子供を殺害する必然性についての認識が、文化的に抑圧されているからである。その認識は、あまりに具体化されて現実の子供に対して無理矢理に行為化されることを通じて、救われ、そして救われるべき神的な子供と同一化している世界のただ中において、再び重んじられるようになる
ことを密かに努めているのではなかろうか。なぜならヘロデ王による子供の殺りくは、過去における歴史的な、即ち一回限りの出来事ではなく、キリストという子供と共に与えられ、彼によってもたらされた元型的な(永続する)可能性であるから。キリストという子供がその愛の使いと共にあらわれる際にはい
つも、子供を殺りくするヘロデ王もどこかで同時に布置されるのである。
 いかにして希望が確立され、幻滅が根本的に避けられうるのであろうか。それは、全人生と全歴史とに、包括的で全く隙がないように一つの意味が与えられることを通じてなされる。その意味付与の包括性は、そこから漏れ落ちるものが全くないほどに完璧でなければならない。なぜなら、それでもなおかつ含
まれていないものが存在するのなら、それは創出された意味に疑問を投げかけ、希望を裏切るかもしれないからである。救助を効果的に遂行するために、キリスト教は革命的に新しく法外なことを成し遂げた。即ちそのためにキリスト教は、現実の全体を眼下におさめ、根本的に把握せねばならないのである。勿論これは、キリスト教が、存在的、経験的に全てを把握せねばならないことを意味するのではない。そうではなくて、全てを包括している全体という観念、か今一点に中心化された全体性の観念――それは体系の観念とさえ形容しえよう――を、キリスト教が存在論的に実現するように努め、そこからの必然的な結果として、この観念を実際に(徹底して)考えねばならなかったということを味しているのである。従って次のようなことが言われる。「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとさ
れたのである」(エペソ人への手紙、一−一0)。ここではじめて、唯一絶対的な人生、歴史の意味を問うことが可能になり、必要となった。なぜなら、この一つに帰せしめる力によってはじめて、普遍絶対的な意味での人生や歴史が存在するようになったからである。どうしてこの一つに集める行為の以前、
普遍絶対的な意味での人生について語る必要があったろう。そういうことが必要であったはずがない。なぜならその以前においては明らかに、人生は一つの統一体にまとめられているのでは全くなく、分割されていたから。古代的な人間は、全体としての人生をあまりにも度外視していたので、自分の実際の年齢
すら心に留めておかないほどであった。彼らは人生の全体についての展望を得ようと努めはしなかった。むしろ彼らは、人生における個々の、自足的で閉じられた状況、即ちそのつどそのつどのものに注目した。あらゆるものを唯一の原理(「キリスト」と呼ばれている)に服させることを待ってはじめて、人生
の意味への問いに見られるような、神による救済計画の基礎をなしている「体系的な」問題状況が登場することが可能になったのである。個人の人生や世界における個々の時間は一つの全体性、普遍絶対的な意味での時間へとひとまとめにされる。キリスト教は全体主義的な要求をもって登場し、あらゆるものの
画一化を求め、またそれをもたらす。もちろんここで述べているのは、皮相的−政治的、あるいは経験的な意味においてではなく、究極的、形而上学的、即ち心理学的な意味においてだけのことである。キリスト教は様々な意味において新紀元(Zeitenwende)であり、新紀元をもたらす。既に見てきたように、キリスト教の出現と共に人間存在の方向が、前キリスト教的−儀礼的な人間本質とはいわば全くさかさまになった。それ故にキリスト教は転換点(Wende)を意味する。第二にキリスト教は、はっきりと転換点を設け、またそれであろうとする故に転換点である。「見よ、私はすべてのものを新たにする」(ヨハ
ネの黙示録、二一−五)。さらにはまた、それ以来、歴史における零ポイントが実際に存在するようになった故に、それは転換を意味する。その点から前方に向っては紀元後の恩寵の年が、後方に向っては古いアイオンの年が数えられるのである。しかしキリスト教はなかんずく、時間を横領した(entwenden)故に、即ち時間をその根源的な存在からそらし(abwenden)、無理やりに自分のものとした故に、時間の転換点(Zeitenwende)である。つまりキリスト教は、歴史に零ポイントを設けることによって、時間をその本質と性格において、いわばその定義と概念において、自分の支配下に置いてしまったのである。それはあたかも、ある土地のど真中に自分の旗を立てることによって、その土地を所有するようなものである。先に引用した『エペソ人への手紙、第一章一0』の「ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめよう……」という個所において、原典では特徴的なことに、「一つに帰せしめる」という表現に
anakephalaiosasthaiという言葉が用いられている。これは語源的に、頂上、頂点に集める、ということを意味する。かつては時間自身にとって「全体」であることが固有であったので、全体性は時間の全体にわたって、時間の連続の中に分けられ、拡散されていた。それに対して、今や全体は時間がらもぎ取ら
れる。今や全体は時間のある一点に引き集められねばならず、今、「個人」、「自己」の中に引き入れられねばならない。時間には、ただ空虚な広がり、単なるバラメーターとしての性格が残ることになる。従ってキリスト教の出現以来、普遍絶対的な時間、唯一の時間連続、直線的な時間、ただそれだけが存在
している。その直線的な時間は、キリストがそれであるところのある定点から、前方と後方へと無限に広がっている。今や全ての出来事と瞬間は時間の中にあり、真珠がネックレスに結びつけられているように、全てが時間直線というひもで数珠つなぎにされているのである。 これらは当然のことながら、「歴史的な」論証ではない。「時間連続」という考え方は、歴史的キリスト教のはるか以前に、ギリシャ哲学において既に存在しており、キリスト教の成立から何百年も経過した近代においてはじめて、時間を連続として理解することが本来的に浸透してくる。ここで述べていることは、むしろ本質に関係しているのである。即ち、確かに根本においては、時間連続という哲学的観念は常に可能である。しかしそれをいわば神的に正当化して荷なっているもの、その観念が排他的で全てを支配する時間概念となることを可能にしたもの、その観念に法外な元型的力を与えているもの、それはキリストである、ということなのである。キリスト教の救済業の成功のためにと、キリスト教的観念一般のために、「時間連続」が絶対不可欠なことはたやすく
見てとれる。連続性が神話的背景――時間の本質――に根ざしている限りにおいて、個人の連続性(救済)も保証されるのである。時間が連続であるということを抜きにしては、個人の同一性の連続性は根拠を欠くことになろう。神話的−儀礼的な文化での時間は、それとは根本的に異なっている。まず第一に、
そこでの時間は原則的に複数的である。その名ごりは、我々が今日においても時々、よかった時や悪かった時(Zeiten)のことを語ったり、「おお時よ、おお習慣よ」(O tempora, o mores)と声をあげたりすることに認められる。この時間は連続ではなく、その中で出来事が生じる空の入れ物ではない。そうで
はなくて、ここでは出来事自身が時間である。ネオプラトニズムにおいて描写され(注8)、近年新たにC・G・ユングがその共時性の理論でもって再発見したように、時間は定量から、独立的な部分から成り立っている。そしてそのそれぞれの部分が固有の性質と元型的内容とを有し、それぞれが自分自身で完成
して閉じられているのである。ここでは時間の本質はイマジネーション自体に存することになる。時間(Zeiten)とは元型的なイメージや状況のことであり、感官で捉えられる(感覚的である故にこそ意味を帯びた)多くの個々の瞬間や束の間のことなのである。そして個々の瞬間の間には、ユングの述べた、かの意味ある符合が既に形づくられているのである。ここではしかし、時間の本質に関しては、このわずかな示唆で甘んじておかねばならない。 しかしいかにしてキリスト教は、全ての物と瞬間とを実際に支配している原則を見出しえたのであろうか。存在し生じるもの全てが関係づけられてくる中心としての、かのキリストは、内容的にいかなる原則なのであろうか。いかにしてキリスト教は、ゲーテの言う「全能の時間」を根本から変え、手中におさめることを成し遂げたのであろうか。その処方は聖書のある言葉から再構成することができる。「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」(使徒行伝、四−一二)。この文からはなかんずく、存在するもの全てに対する根本的な「否!」を聞きとることができる。世界の中のものはもはや、それ自身において神的で意味あるものであってはならない。そこから時間が窃取され反転されたアルキメデス的支点を発見するための方法的原理とは、世界における全ての物の根本的否定と価値低下である。このことは以下のアウグスチヌスの引用でさらに明瞭になろう。そこで彼は、全てのものに神であるかどうかを尋ねている。「私は大地に尋ね、大地は、自分はそれでない、と答えた。そして大地にあるもの全ては、私に同じことを言った。私は海と、その深みと、海で生きているはっている生物に尋ねた。彼らは私に、自分たちは汝の神でない、自分たちの上を捜せ、と言った。たなびく風、大気の領域、そこに住むものに私は尋ねた。彼らは言った。アナクシメネスは勘違いをしていた、自分たちは神ではない、と。天に、太陽と月と星とに私は尋ねた。自分たちは汝の捜している神ではない、と彼らは言った」(アウグスチヌス『告白』、一0−六)。 「我々は、汝の捜し求めている汝の神ではない」というのはきわめて特徴的な個所である。明らかにアウグスチヌスは、大地と海、太陽と風、花嫁と売春婦、キヅタと豹、幸運と死、等々の感覚で捉えられる形象をもってただ存在しているだけの神々、自ら立ち現れる神々では満足しなかった。そうではなくて、彼は一つの神を捜し求めた。その神に彼は全く特殊な必要条件を課し、神は承認されるためにはそれを満たさねばならなかったのである。つまりキリスト教の神は単なる存在者ではなく、存在すべき者、捜され求められている者なのである。それ故にパウロにとって、ギリシャの儀礼におけるキリスト教との唯一・可能な接触点は、知られざる神、この空所、この実体的に満たされていないもの、であった。どのような神が求められているのかは、アウグスチヌスが順番に言っていることから見てとることができる。即ち、世界のある領域からある領域へと、次から次にその神性が奪われていき、世界は徹底的に世俗化される。アウグスチヌスはここで、体系的な破壊を行っている。さて、何が残るのだろうか。無、何も残ってはこない。キリスト教は意味付与をもたらすと同時に、それと同じくらい根源的な仕方で、無への撤退、全てから離れたものヘ、即ち絶対(Ab-solut)ヘの撤退をももたらすのである。絶対的な神が捜し求められ、一つの意味が与えられ、宗教が創設されねばならない時には必然的に、感覚で捉えうる現実性の中にたちあらわれている全ての神々からの離脱(abso
-lvere)が生じ、全てのイメージ的−感覚的な存在が否定されるようになる。絶対は捜され求められているものとして、ユートピアとしてだけ存在し、目の前に見出されるものとしては決して存在しない。それは(絶対的な)意志としてのみ存在する。そして絶対へのこの意志は、存在からの蜂起を意味しているのである。 時間を根本から変えるアルキメデス的な転換点は、時間のただ中にすえられた、ただ一つの零ポイントであ。それは時間を古いアイオンと新しいアイオンとに分かつと同時に、時間を俗世(此岸)と永遠の生命(彼岸)とに分断している。そのことを通じて零ポイントは時間の軸となり、以前に細分されていた」時間がはじめて全体となり、一つの時間連続を形成しうるのである。そして、あらゆる現実的連関を離れて、絶対的に思考するという仕方によってのみ、全体という観念は実際に考えられうるのである。それに伴って、何によっても部分的であるとして相対化されない無、彼岸が捏造されることになる。全体という観念はそれ自身において、存在からの蜂起である(注9)。
 ゲオルク・ビュヒナーに次のようなことばがある。「無は生まれてくるべき世界神である」。こう述べたことによってビュヒナーは、無意識のうちにキリスト教の命令に従っている。ここで彼があからさまに要求していることは、一八00年の昔に、暗黙のうちにとっくに現実となっていたのである。キリスト自身は無である。なぜならキリストは大地ではなく、風でなく、太陽でなく、その他の何でもないから。キリストはまさに存在論的に知られざる神であり、空白、空所であることを本質とする神である。キリストは、実体的から絶対的に直接現前する、受肉したロゴスであらねばならず、もはや単なる仮面(感覚的に媒介されたメタファー的な現実)であってはならないが故に、無であらねばならない。キリスト教においては、無という元型的観念が、人間に現実として与えられた。それ以来、世界は――中世においてキリスト教が眠って休止をした後で――あたかも鉄が磁石の山に引きつけられているように、無に向って駆り立てられているのである。
 キリスト自身が無であるというのは、決してけなしたり、評価を貶めたりする表現として受けとめられてはならない。それはキリストへの攻撃でもないし、キリストを取るに足りないものとして正体をあばく試みでもない。それは評価とは全く関係がなく、キリストという観念の特殊な本質と内容とを記述することのみが主眼となっているのである。キリストが「無」であるというのは、キリストやこの無が無であり、取るに足りないものであるということを意味しているのでは全くない。その反対に、無としてのキリストはあまりに現実的で強力な神であるので、全地球を征服してしまい、工業文明という形姿でモスクワや北京においてさえあがめられているのである。
 当然のことながら、キリスト教の特徴をこのように描写したからといって、信者から信仰の基盤を奪うことを目的にしているわけではない。正しく理解ない。なぜなら既に述べたように、ここで取り扱っているのはキリスト教徒の個人的体験や信仰確信ではなくて、超個人的で歴史的な現実性としてのキリス
ト教であるからである。キリスト教徒が個人としていだく信仰と、信仰において経験される意味内容とが純粋で深いものであることは、この分析によって全く侵されてはいない。
 キリスト、無。このことによって我々は、キリスト教が救済を約束するだけでなく、実際に救済であることを今や理解できる。なぜならキリスト教は、全てを体系的に無に、即ち絶対に基づかせることによって、起りうるあらゆる幻滅からも免がれうるからである。子供とその希望との救助は確かに高くつい。
子供殺害からの逃避と言葉の受肉化とは、感覚的な世界の全体がまず形而上学的−心理学的に破壊され、おそらくそれに続いて物理的にも壊滅されるという代価を支払うことによってのみ成就しえたのである。その際子供の救助は、子供殺しの観念を子供殺害としてキリストが理解することに既に認められる。子
供殺害として見なされることによって、子供の死は最初から悪く非合理なものというニュアンスを帯びて存在価値を奪われ、それでもって既に避けられてしまっているのである。
 古代的人間は仮面剥しを自分の子供存在の死として体験することによって、それを自らに引き受けた。世界自体の方は神々に満ちあふれ続けた。ところがキリスト教は仮面剥しを世界に対して行い、仮面剥しは世界の属性であるから世界が責任を担うべきであるとする。子供殺しが回避されることによって、コ
スモス(現れることの「輝き」)が単なる被造物(作られた)ヘと破壊される結果になるのである。しかしその代わりに、人間の信仰と希望は保持される。
それでもさらに自分自身と仮面との間の分裂を避け、人格の統一性という意味で一でなければならないはずの者に、神経症的な引き裂きという形での分裂がまさにはね返ってくることになる。それは、統一的な時間連続が古いアイオンと新しいアイオンとに分裂しているのと全く同じである。「全体性」(「全
体」という観念)と分裂存在は明らかに対をなしている。両者は同一のものである。神経症的な解離は全体性への意志にその本質的根拠を有しているので、救いとなる全体を求める際に生じ、まさにそのような全体を求めることが神経症的解離の実現化である。欠けることのない「体系的な」全体であらねばなら
ないなどと思ってもいないものに、どうして分裂が生じるなどということがありえようか。
 初期のキリスト教徒たちの高揚感は法外なものであったに違いない。なぜなら全てが時間の軸に関係づけられ、その軸に従属している限りにおいて、キリスト教の教えは存在のプレローマ的な充満をもたらしたからである。それは、かつて存在したことのなかった優越感、心理学的な意味での(存在的でなく存
在論的な意味での)「物の−上に−立つこと」をもたらした未曽有の勝利だったのである。しかし心理学的な意識から見れば、この軸がまさに零ポイント、無である限りにおいて、キリスト教的な充満は同時にニヒリズムの絶対的空虚であることが判明する。世界のあらゆる富と栄光をはっきりと拒んだかのキリストは無である。なぜならキリストは世界の内における支配者であるだけでなくて、はるかにそれ以上のもの、即ちかの軸、絶対的な原理、もはや内世界的なものではない世界のロゴスなのであるから。 キリスト教的な意味付与と――意味付与は必ず「キリスト教的」なものではなかろうか――ニヒリズム的な意味空洞化とは同一の過程である。アウグスチヌスによる神の捜し求めは、まさに神々の破壊として、そして世界の世俗化として成就した。神を求めることは神々のいなくなった世界における経験に対する一つの反応ではなくて、むしろ逆にそれは、神々のいなくなった世界という大胆な考えをはじめて体系的にうち立てたのである。それは、かくしてキリスト教の全アイオンのために、後でなされるべき世俗化の方法的プログラムが計画されたことを意味し、そのプログラムはやっと今日に至って、サイバネティックスの発見に伴ってその現実化の最終段階に入ったのである。サイバネティックス的に、単に機能的な関係のシステムとして考えられた世界とは、完成されたキリスト教、完全な世俗化を意味し、「ことごとく、キリストにあって一つに帰しめられるように」というかの約東の成就なのである。それ故に、「意味への問い」もキリストの一九00年後になってやっと登場する。かくも長い間かかって、物自身のうちに宿っている意味は徐々に浸食されていった。絶対的な零ポイントまで徹底して意味が浸食し尽くされてはじめて、意味への問いが生じてきたのである。
 今日においても、意味探究と意味破壊とが同じものであり、(今日に理解されている意味での)意味経験それ自体がニヒリズムから連続的に生じてきていることを、次に意味経験という言葉についての簡単な観察によって多少とも明らかにしたい。一見すると、意味経験において、意味ということが問題となり、主眼に置かれているかの如くに見うけられる。しかしよくよく耳を傾けてみると、意味それ自体はまさにどうでもいいものであって、実のところ意味の経験ということに全ての関心が集中していることが明らかになる。即ち意味経験について語ることは、全く抽象的な仕方にとどまっているのである。一体何が真に客観的に意味あるものなのか、ということは全く問われていない。決定的なのは、何らかの意味が、主観的にそもそも体験されることである。つまり、抽象的なもの、即ち何らかの主観的感情の単なる所有だけが求められているのである。一言で言えば求められているのは高揚(Erbauung)であり、そのことばには「信仰心を教化する」というキリスト教的な意味や、自我の「建設」という意味も含まれているのである。
 従って意味経験とは、経験された内容全てが立ち戻って関係づけられうる一つの潜在的な中心点が構成されることだけを本質的に意味している。内容を中心点に関係づけるという心的過程、即ち内容を一つの原理の下に服させるという過程は、通常「体験」と呼ばれ、体験として感じられる。そして生命が多か
れ少なかれ全体として集められ、その際にはじめて生じてくる中心へと集められる体験は、意味経験、超越経験と呼ばれている。存在するもの全ては、意味経験、即ち潜在的中心の建設や構成を仲介するのに原理的に役立つことができる。また次のように言うこともできよう。意味経験とは、自我が高められ建設
され、即ち真に本来的かつ明確に世界の中心にうち立てられる仕方を名づけたものである、と。自我は完全に中心となったので、自己とも呼ぶことができよう。意味経験とは、心理学的な権力獲得の過程である。意味経験が自我の高揚と建設をもたらすことによって、世界は意味体験を仲介するだけの――薬物中
毒者の社会における隠語で言えば――「原料」になってしま。それ故に意味経験は、物、瞬間や夢のイメージ等々を単に消費し尽くすこととして、それら自身に宿っている具体的で感覚的な性質を無化することとして、その正体を現わす。
 なぜ意味付与の教えや技術はますます数を増していくのであろうか。なぜ多くの現代人は、新しい形の治療や、新しく流行中の意味を、次から次へと試してみるのであろうか。それは、単なる消費としての意味探究が中毒のようなものであることによる。麻薬もいわば全てのものから離れ超越したもの、「受肉
したロゴス」である。なぜなら麻薬は食物や飲物のように栄養を与えず、逆に消耗させるから。中にはそれ自体において逃避、消費、空洞化である。それは世界の内における充実ではなく、かの幽霊のようで虚無な充満をもたらし、その充満はそれ自体、さらにより大きい空虚と貧困の始まりである。飽和量が増大していくことによってのみ中毒が満足を見出すのと同じように、体験する自我もますます多くの、常に新しい刺激を意味体験のために必要とする。なぜなら自我は単に(静的な)無や零ポイントではなく、(動的な)食い尽くしていく無化であるから。このことは必ずしも個々の存在的な個人について考えれば正しくないかもしれないが、心理学的現実として理解された「現代人」、いわば元型的な「アントロポス」の現代におけるヴァリェーション形については当てはまっていることである。これに従って、近代における学問的認識も現実を消費することとして捉えることができる。世界におけるますます多くの、そしてますます分化した局面が、飽くことを知らない学間の前に明らかにされるべき問題として投げかけられねばならず、即ちアウグスチヌスによって大ざっばに示された軌道に乗って、全ての局面に体系的で欠けることのない仮面剥しがなされるのである。存在のあらゆる領域、存在における極徴のミクロの領域から巨大な渦状星雲にいたる全てのものに対して、私は汝の捜し求めている神でない、という告白が強要される。そのことを通じて、唯一の神、世界の軸――それが自我であれ無であれ――の力と誉れとが増大されるのである。
 経験という言葉は様々なことを意味する。ユングにならって筆者は心理学において、本来的な経験を、「方法として営まれた模倣」(Br.3,349)である求められた経験から区別する。本来的な経験は生じることであり、身にふりかかってくることである。「何かを経験する」とは、幻滅し、より優れたものに教
えられることである。今日における正当な経験とは何であろうか。それは第二次世界大戦後の一九四六年にカール・ヤスパースによってなされた講演『ヨーロッパ精神』の中のある表現に露見している。それをここで一つの例として引用してみたい。「しかし底無しの状態が我々に目まいを引き起こし、まだ最悪
のことが我々の目前にさし迫っているように思われるなら、次のことばが当を得ている。即ち、全てが沈んでしまったとしても、神は残る。超越が存在するということで十分である」(注10)。
 ここにおける本来的経験とは何であろうか。それは底無しの状態、目まいの感情、全ての沈下である。だがヤスパースは、自分自身それに我々から、これらの経験をだまし取っていることになる。なぜなら彼が底無しの状態について述べているのは、残っている神を指摘することによって、その後でいっそう徹底的かつ今度限りに底無しの状態を否認する、目的のためにだけであるから。
このヤスパースの引用には、本来的な経験とその上にかぶせられた意味付与の両方が認められる。真の経験を信仰への飛躍によって防衛したことによって、ヤスパースはここで単に哲学者、現象学者としての資格を失ったのみならず、ドイツの破局という経験すべきものの価値をも貶めた。つまり彼の発言の根本において、望まずして以下の趣旨が同時に含まれている。何百万という人間が殺され、あるいは意味なく焼かれ、世界は廃墟と灰になり、ドイツ民族はぬぐいされない屈辱を被った――これらのことは究極的に我々の何の害になりえようか。超越が存在するということで十分だ。別の表現を用いるなら、たとえ全世界を失おうとも、それが人間にとって何の害になりえようか。神が残っているということで十分だ。
 それで本当に十分なのであろうか。世界なしの単なる超越で十分なのであろうか。さて見受けるところドイツ人はそれを信じ、信仰という救いの岩の上に見事に、世界を見下しものともしない経済の奇跡――使い捨て消費社会――を築き上げ、ナチの第三帝国というドイツ人につきまとっている時代を逃れるこ
とができた。ヤスパースや、彼と同じように考えている者は、心理学的に何も学ばなかった。第三帝国から語りかけてくるもの、幻滅させる経験として我々に迫って来るものに彼らは耳を傾けようとはしないのである。超越は不死身にし、この世界におけるあらゆる富と誉れの必然的な喪失の痛みを忘れさせる。
出来事はたとえいかに大きな音をたてて生じたにしても、聞かれることなしに消えていく。しかし第三帝国からの知らせ、使者は、神が残るということでは全くなく、殺害、死、破壊、無意味、崩壊である。死はドイツからの名匠の一人である、と詩人が言った。我々の時代においては、「それが、あなたがたに
与えられるしるしである」(ルカ、二−一二)という言葉がこの事態に適しているであろう。なぜならそのしるしとは、噛み、消化するために我々に与えられているパンくずであるから。それは我々に何を望んでいるのであろうか。筆者には、それはまさに幻滅、カタストロフ、即ち下への転換、没落、地獄への下降を望んでいるように思われる。
 ナチの時代ばかりではない。核爆弾による世界破局の表象と、経済成長の終焉や環境破壊の観念も時代のしるしに属している。心理学的には、これらの表象が「正しい」かどうかは本質的なことでない。大切なのは、それらの表象が我々に何を語りかけてくるか、ということだけなのである。
 しかしこの幻滅させる経験は、とりわけ精神史において後から後へとあらわれてきた。例えば一九世紀初頭には、神は存在しないという死んだキリストの語りが宇宙からジャン・バウルのもとへ下りたってきた。ヘルダーリンにおいては、乏しい時代と神の欠亡という観念が生じてきた。二ーチェは、あらゆる
客のなかで最も無気味なもの、即ちニヒリズムの到来を経験した。今世紀になっては、フロイトの分析上の経験において、死の本能という観念が認識されることを迫った。心理学へのユングの個人的イニシエーションから、『死者への
七つの語らい』(邦訳『ユング自伝』)が生じてきた。ひょっとすると時代のしるし、殊に心理学のしるしは、キリスト教によって抑圧された死の回帰を意味しているのではなかろうか(注11)。
 ロマン主義以来、ドイツ語圏においてはヨーロッパをAbendland(夕の国)とみなすファンタジーが存在している。なぜキリスト教−ヨーロッパ的世界は、政治的、精神的に世界の中心にならんとしていた、まさに一番の登り坂の時に、自らをAbendlandとして空想したのであろうか。もっともこのファンタジーにおいて、Abendlandという言葉が「沈みゆく太陽の国」(注12)を意味することに、キリスト教−ヨーロッパの人間は耳を傾けようとしなかったのであるが。そういうファンタジーが存在したからこそ、今世紀の初頭にオズブァルト・シュペングラーがアーベントラント、西洋の没落をはっきりと描き出し、後に例えばC・G・ユングが「闇に包まれていく」西欧の現代について語ったのは全く首尾一貫したことである。この普遍的なファンタジーの指し示す方向は明らかに、アーベントラントの夜への下降である。ここでヘッセにならって、朝の国への旅の第一歩を踏み出したり、エーリッヒ・ノイマンの言葉を借り、光に向っての意識の発達を宣伝したりすることは、果して心理学に正当なのであろうか。そうではなくてこれはまさに、「十全な」闇、精神錯乱への道を示しているのではなかろうか。なぜなら真に闇に包まれることは、単に暗いのではなく、暗黒の本質さえも暗くなって、暗黒が暗黒としてではなく光として現れることであるから。その場合に、ユングの言う意識の無意識化が生じるのである。
 あらゆる朝への旅に対して、ユングは次のような態度を示している。「正当に相続できるはずのないものに対して、それを所有しているかのようにふるまうよりも、シンボルがないという宗教上の貧困をきっばりと告白する方がはるかにいいように私には思われる」。「……同じようにして宗教的貧困も、精神
の偽りの富を断念しようとする。それによって、偉大な過去の残した乏しい遺物からのみならず、エキゾチックな香りのする全ての誘惑から身を引いて、意識の冷たい光のもとで世界の不毛さが星まで広がっている自分自身に立ち戻ってくることができるのである」(G.W.9,1,28f.)。
 シンボルの貧困、信仰喪失、空虚、意味消失から、何らかの意味付与を見出すことによって逃れたり、あるいは、例えばいわゆる個性化の分析などを通じて意味経験を方法的に営んだりすることは可能である。その際には、夢というかの罪のない産物でさえ、意味消費に駆り立てられている自我の欲望の前に投
げ出されてしまうことになる。しかしまた、方法的に営まれていない経験、既に昔から我々のもとにやってきている本来的経験をすることも可能である。即ちそれは、ニヒリズム、フロイトの死の本能、神の死、西洋(アーベントラント)の没落、ナチの時代の破局、学問的に解釈された世界の不毛性、ばかげた
哲学や劇、破壊された環境、核戦争、経済成長の終焉、そして当然のことながら精神病理における経験である。
 意味のなさとは、それまでに生活の中に実際に存在していたはずの客観的意味が、何らかの理由で突然に失なわれるかのような経験的事実を指しているのではない。生活自体はむしろ、それがいつもそうであったように同じままである。生活を見る我々の見方のみが変わったのである。意味と意味のなさとは経
験的事実ではなく、元型的なファンタジーや観点であり、そのような元型的観点に基づいてはじめて、生活の実際が眺められ、体験されうるのである。さて、意味と意味のなさが客観的−経験的な真理ではなく、単に心的な真理を有しているのなら、先に列挙した没落や消失の観念や現象は全て、いわば我々を悩ましつきまとうファンタジーの表現として理解することができる。冒頭に引用した夢におけるのと同じように、このファンタジーにおいても何か新しいものが「現代人」の意識に侵入しようとし、それを根本から変換しょうとしている。
無気味ではあるけれども、意味のなさとは、我々のところへやって来て扉をたたき、接待を求めている客であろう。それどころか我々は、空虚と意味のなさによる幻滅を、なくてはならない必然的なものとして必要とさえしているのかもしれない。この必然的なものによって我々は新紀元という名の時代転換の苦
境から抜け出して、死者と仮面の時代という反−転換(ent-wenden)された時代へと転換することができる。それと同時に我々は、人生の意味という観念にとって代わるような、苦境からの転換という意味での存在の運命的な必然性(Notwendigkeit)に基づく人生へともたらされる。そうすれば問題になるの
は、「人生」が果して意味をもっているかどうか(つまり我々にとって、自己中心的に)ということではもはやなく、個々の具体的な出来事や夢のイメージのそのつどの意味(感覚で捉えられる内容)が何であるかということになろう。
意味のなさの経験は、我々が自分では神的な子供ではなく、またそうである必要もなくて、ただ死すべき人間である、という内容からなる知識を示しているのかもしれないので、従ってそれは、我々を幻滅させはするけれども同時に自由にする知識へのイニシエーションであるかもしれない。我々は、子供の死か
ら生まれた「死者たちの子供」(サムエル記上、二六−一六)なのである。そして中心の喪失は、キリスト教の存在論的全体主義の粉砕を意味するだけかもしれないので、そこから出発して、自我、自己、全体性、中心化、個人、発達、意味、救済、等々ぬきの心理学、この全ての神学的な荷やっかいから解放された心理学への展望が開きうるかもしれないのである。
 当然のことながら、このような過激な結論を前にしては多くの人は身じろぎをし、次のように反論するであろう。「全ての発達観念と全体性の観念を一挙に捨ててしまうのは一体必要なのであろうか。なぜなら、発達的思考が時々示す一面性と無秩序を制御することも可能かもしれないのに。全過程をおおって
いる全体的なものへの視点を放棄することなしに、発達過程の中での個々の段階に一層の注意を配ることで十分ではなかろうか。自我そのものを克服するのではなくて、場合によって生じうる自我の硬直を避けるだけで間に合っているのではなかろうか」。筆者の思うところでは、このような妥協策では十分でな
い。毒を食わば皿までというように、我々は今や子供を捨て去らねばならず、子供と共に、英雄的自我の発達、人格の統一性、我々の自己のマンダラ的全体性、「全体なるもの」等々の子供じみた美しい夢を捨て去らねばならない。こう述べたからといってい先に挙げた観念はよくなく、あるいは間違っているので、心理学から追放されねばならない、ということが主張されているわけではない。もちろんそれらは存在することを「許されている」し、それどころかそれらの観念は実際に存在しているので、心理学はそれらを自らの思考の対象として真剣に受けとめねばならないのである。それらの観念は良くも悪くもなく、ただ単に存在しているのである。ここで批判が向けられているのは、心理学がこれらの観念と同一化して、それらを自らの思考の原理とすることに対してだけである。
 幻滅、空虚、意味のなさ、没落――これだけで終わりであろうか。キリスト教によって押し進められた世界の意味空洞化がまず明らかにされた後で、それと同じようにこの論文は世界における荒廃に肩を貸そうとしているのではなかろうか。そのように問う人がいるかもしれない。これに対しては、この論文を
「肯定的」展望で終えるなら、次のように述べることができよう。即ち、幻滅は自己目的ではなく、暗黒は、もし我々がそれに耐えられる場合には、それ自身から光を生み出す。そしてH・ゲールツが適切に述べているように(注13)、「ゴルゴの身の毛もよだつような薄ら笑い」は、もしも我々がゴルゴの凝視を持ちこたえうるなら、いつか最後には「微笑へとなごむ」のである。しかしこれら全ての展望が正しいと強調するつもりは全くない。それは、世界の冷たい不毛性を擁護して語るつもりがないのと同じことである。筆者はそもそも何かのために(あるいは何かに反対して)語るつもりは全くないので、意味の側にくみしているわけでも意味のなさの側にくみしているわけでもない。なぜならば、何かのために語れば、筆者のみが語ることになって、筆者の有する知識と筆者の抱くハッピーエンドヘの子供じみた願望のせいで存在する現在が飛び越される結果になってしまうからである。そうすればただ端的に存在するものから遠ざかって、時間の横領をますます押し進めることになろう。それ故にむしろ、時間が自分から明瞭に語るままに任せたいのである。
 時間が語りかけてくるのは主として、没落のファンタジーである。「砂漠が広がる」(ニーチェ)。筆者がキリスト教の荒廃した世界へと我々を押し込んでいるわけではなくて、既述の現象をはじめとする多くの時間の現象が、このことを行っている。筆者は時間の行っていることをたどるように努めているだ
けである。今日において時間は、多くの現象において不毛性と没落とを示している。しかし万一ゴルゴがほほ笑みはじめる時がいつか訪れるなら、時間はそれと同じくらい多くの現象において、自らこの微笑を示すであろう。そうすれば、今でもまだ可能な真の意味経験という、ここでは十分に扱われなかったテ
ーマを論じる時ともなろう。しかし我々は既に今から、このテーマについて頭をひねらねばならないのであろうか。我々は「全体」、完全なイメージ、展望に絶対的に固執して、我々の現在から遠ざからねばならないのであろうか。無頓着に(全く一面的な)そのつどのものに浸りきることによって、時間から盗まれた全体性を再び時間に返することはできないのであろうか。そのようにしていれば時のたつうちに多くの一面的な状況が集まってくることによって、時間は時間から意図された全体を織りなすのではなかろうか。
 意味空洞化へのたてつきはそれ自身として、意味空洞化を押し進めていく存在からの蜂起に他ならず、時間の横領に対する戦いは、この横領そのものである。自然への回帰や、前キリスト教的なものへの回帰は成功しえない。むしろ我々は、キリスト教的な横領(Entwendung)とまさに和解して、横領という事
態と真剣にかかわり続けねばならない。横領(Entwendung)が単に行為に移されるのではなくて、真に考慮せられ、横領として考えられるのなら、横領は既にそれ自身から脱皮して反−転換(ent-wenden)し始めよう。なぜなら、「絶対的零ポイント」が横領に基づいているだけに過ぎないということが、本当に思索され認識されるのなら、零ポイントは既に絶対であることを終えてしまっているからである。零ポイントは、一つの点として、根源的時間の多様性の中へと回帰していく。確かにその点は、中心化された全体という観念を提示したり、「教示」したりはするけれども、まさにそれ故に、実際に自分が全体や中心であるにはほど遠いのである。それはユングの言う意味での神経症や個性化に似ている。というのはこの場合にも、神経症的な分離を克服するように戦うことは全くの的はずれで、それでは神経症の永久化を招くだけであるから。むしろ大切なのは「(神経症を通じてある人が)自分自身と一致していないことを知れば、そのは個性化されている」(Br.3.51)というような意味での、神経症の意識的な認識なのである。
 意味コンプレックスは、意味と意味のなさについての真理を自ら露わにする。意味コンプレックスが意味の空洞化された現代について語る際には、我々を待ち受け、経験されることを散々に待ちわびているものが意味では決してなくて、意味のなさという空虚であることを意味コンプレックスは自ら示している。捜し求められている意味充足に対して、ユートピアという言葉が今日において好んで用いられるならば、意味コンプレックス自身がユートピア的で偽りの意味付与であることが露見する。そして中世というまだ無傷の世界や古代において、
あるいは未開人において、まだ確固たる意味構造が存続していたということを意味コンプレックスが主張するならば、古き良き時代というこの元型的ファンタジーは、意味の本質と場所についてのヒントを与えてくれる。つまりこのファンタジーは、意味が元型的なものであるので、従って根本的に以前のもので、過ぎ去ったものであり、決して現前するものではないことを教えてくれているのである。さらにはそれは、我々自身にとっての意味経験を捜し求めることを通じて意味をもとうとして努めることによってではなく、むしろ逆に意味を手離して、意味を正当な所有者である祖先と死者とにゆだねることによってのみ、我々にとっても意味が存在しうることになることを教えてくれているのである。

(1) ウルリッヒ・マン(Ulrich Mann)は"Sinn und Gluck" in Herre nalber
Text 28,S.73において次のように述べている。「伝統的な哲学における議論では、主として『何かあるものの意味』がテーマであった。しかし今世紀において、新しい形での意味への問いが登場して、絶対的なものになった。これは新しい事である」。
(2) Heino Gehrts, Initiation, in : GORGO 8/1985.S.1-62参照。
(3) これに関しては、Heino Gehrts, Die Opferung des zeugerisch verbunde
-nen Paares, in GORGO 1/1979, S.32ff.における例を参照のこと。
(4) Joseph Campbell, The masks of Gods, Primitive mythology. (Viking
Compass Edition) , New York 1970, S.22 ; W. F. Otto, Dionysos, 4, Aufl
-age, Frankfurt a. M. (Klosterrnann) 1980, S. 84.
(5) 心理学的差異については、 W. Giegerich, Die Gegenwart als Dimension
der Seele, Anal. Psychol. 9, 1978, S. 99-110 ; Idem, Der Sprung nach
dem Wurf, GORGO ll 1979, S. 49-71 (殊に注8)参照
(6) W. Giegerich, Die Neurose der Psychologie oder das Dritte der Zwei,
Anal. Psychol. 9, 1978, S. 255 f.参照
(7) 内面化については、筆者は次の論文で取り扱った。W.Giegerich, Der Spru
-ng nach dem Wurf, GORGO 1/1979, S. 49-71.
(8) Shmuel Sambursky, Das Gespenst des Verganglichen. Eranos-Jahrbuch,
47-1978. 参照
(9)GORGO 2/1979,S.62-69における『多神教についてのディスカッション』の中
の筆者の発言参照のこと。筆者は、自己を上へと高めるという意味での「自己傲慢」(Selbst-uberhebung)と、「全体的展望」という観念を提示した。
(10) Benno v. Wiese, Die deutsche Tragodie von Lessing bis Hebbel, Hambu
-rg (Hoffmann und Campe) , 1955, S. 673 から引用した。
(11) これに関しては、ヒルマンによる画期的な書物、James Hillman, The dream
and the underworld, New York (Harper & Row), 1979 参照。
(12)「時間の夕方」については、ヘルダーリンによってはっきりと取り上げられ
た("Fnedensferer" [1801-1802]、"Der Rhein" [180l])。
(13) 私信による。


〔訳者後記〕ここに訳出したのは、ドイッ分析心理学会(一九八一年)において行なわれた講演をもとにして書かれた、Wolfgang Giegerich, Die Rettung des Kindes oder die Entwendung der Zeit : Ein Beitrag zur Frage nach dem Sinn. GORGO 5/1981,S. 9-32という論文である。これは既に英訳され、雑
誌Harvestに発表されている。著者のヴォルフガング・ギーゲリッヒとはユング派の分析家で、シュトウットガルトのユング研究所の講師である。分析家になる以前には、アメリカのラットガース大学でドイツ文学の助教授をしていた。若年ながら、かのエラノス会議で既に四回の発表を行って、中心的メンバーの一人になりつつある。 ギーゲリッヒはヒルマンと共に、ユング心理学(分析心理学)がら発展してきた「元型的心理学」を代表している。元型的心理学は、心理療法における個人の心の問題を越えて、我々の歴史、文化、観念を規定している超個人的で元型的な背景を、現象学的にイメージとして捉えようとするものである。従って人間が魂やイメージを持つのではなくて、むしろ逆にイメージやファンタジーが我々の存在を規定しており、我々は(超個人的な)魂の中に存在していることになる。これは根本においてハイデッガーの世界内存在の考え方に類似している。従ってギーゲリッヒは、ハイデッガーの「存在論的差異」にならって、人間と魂、あるいは人間とイメージとの間の区別を「心理学的差異」と名づけたのである。
 ハイデッガーの哲学を自家薬籠中のものとしているギーゲリッヒはヒルマンよりさらに哲学的である。この論文をはじめとして、テクノロジー、核爆弾等々を扱った諸論文において、西洋の世界観、歴史観の本質と深層に迫ろうとしている。

『思想 第759号』(岩波書店、1987年9月号)より

コメント(1)

数年前にギーゲリッヒ氏の講演を聴きました。なかなかセンスのよい方でした。深い内容の話で感動しました。著書「魂と歴史性」にサインしてもらいました。

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