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富樫家コミュの富樫の歴史

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富樫 トガシ トムカシ 和名抄、加賀国石川郡に富樫郷を収め、土無加之と註す。この地より起りし也。
1 利仁流藤原姓 利仁将軍の後裔にして、永延中の家国を祖とす。源平盛衰記巻三十に「真盛所領に付て、近年武蔵に居住なれ共、本は越前国住人にて、北国は旧里也。先祖利仁将軍三人の男を生、嫡男は越前に在り、斎藤と云い、次男は加賀に在り、富樫と云い。三男は越中に在り、井口と云う、彼等の子孫繁昌して、国中互に相親しむ。」とある。
また、尊卑分脈に、利仁−叙用−吉信(加賀介)・忠頼(加賀介、周防介、従五位下、賀州に住す、加賀斎藤の始め也)−吉宗(始住加賀国)−宗助(従五位下)−家国(富樫介)−信家(富樫次郎・白山惣長吏合戦之時被討了)−家通(富樫次郎・出家西佛)−家経(富樫次郎)−家直(富樫介)−泰家(富樫介) (掲載の都合上、省略いたしました。詳しい家系図は以下URL)
http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/fuziwarakeizuindex.htm
以後の系は詳かならず。或は「泰家−泰村−昌家」なりと。その後、教家あり。
文安四年五月卒し、嫡子次郎成春(亀童、教親)・嗣ぎて、叔父小三郎安高(泰高)と争い、一州を二分し、両家に分る。
成春の子、次郎政親の代、安高・本願寺門徒と結びて、政親を攻め殺す。その後、一向門徒・勢力を奮い、安高の後、養子植泰、その子泰俊と伝えしも、勢いなく、泰俊・門徒に攻められて、全く滅ぶ。(又「泰成−教親−政親」ともあり)
2 沿革 富樫記に「加州富樫の元祖、鎮守府将軍兼武蔵守藤原利仁は武勇の人にて、世皆北斗星の化身と言い伝う。其の子斎宮頭叙用、其の子加賀守吉信、其の子加賀守忠頼と相続き、其の末葉・斎藤、林、富樫介とて三家に分かれ、加賀、越前領す。其の庶流・進藤、赤塚、竹田、加藤など、皆北国に武威を振う。然れども今末代に至り、絶たる家多くして、富樫計りは繁昌す。加賀の守護職を司る。忠頼の子息・加賀介吉信と号す。其の子富樫介家助、其の子富樫入道家道・法名佛西、此の人・木曾殿の御時、越前燧城にて戦功あり。其の子家経に、頼朝公より加賀国を賜わり、其の子家直・承久の乱に大忠あり。其の子泰家.弘安の乱に北国の嗣将たり。其の子泰村、其の子昌家、両代ともに、建武の乱より四十余年、武家随一の味方にして、終に一度も宮方に帰服せず、代々公方の御感書を蒙る。明徳年中、山名が乱に、昌家討死せしめ畢んぬ。
室町将軍家御代々、富樫の家・弥々繁昌に相続す。
然して近代に至り、寛正の此の富樫介を泰高と号す。此の人・中年より病身にて、在京叶わず隠居して、中務大輔泰成・家督を継ぎ、文明長禄比、在京して公方の近習に有りけるが、早世有りて、其の子政親若輩なれば、家督相続の政道、如何と申す人多かりける。然る処に、泰高・病気本復して、再任あるべき由、永享四年の此、京都の官領・細川右京大夫勝元朝臣を憑み申され、既に上意も宜しかりしを、富樫家の老臣も、畠山尾張守持国を頼み申し、政親を引立て守護を望に、訴訟申しければ、則ち又政親に仰せ付けられけり。此れにより祖父泰高と、嫡孫政親と、常に不快に過ぎけるなり。
然る処に、洛陽山科本願寺蓮如上人・北国に下向し、宗門を弘む。加賀国の諸侍、諸民、悉く此の法を尊崇し、皆以て檀徒となる。又同門の高田宗も、当国に在りて宗旨を弘む。此の宗門・憤を発して、本願高田の二宗諍論に及ぶ。既に訴論を重ねて国主の決断を請う。政親・聞いて訴訟決断を遂げしめ、高田宗の勝利とす。一向宗門徒等憤を発し、富樫殿は則ち是れ法敵とて一揆を発し、諸民一同に蜂起せしむ。政親則ち是を退治せんと、謀を廻らす処に、公方義尚公・江州へ御出陣あり。佐々木六角四郎高頼御追伐の為め、鈎の里に御陣を召さる。政親多勢を催して、江州へ参陣し戦忠あり。公方の御感・斜めならず。此の次でに、加州一向宗の土民、一揆退治の御教書申し賜り、分国へ下向し、近国の勢いを催さる。越前国堀江を始めて、上意に随い、政親は加賀国高尾の城に籠る。
長享二年六月上旬、一揆等高尾に押寄せ、日夜これを攻め、同九日高尾落城し、政親自害す。同晩景、越前前口より注進の趣あり。堀江勢一千余人、南江五百騎、杉若藤左衛門三千余人、都合五千余、志比の笠松を大将とし、昨八日の朝、国境立花より乱入、近辺の在々所々を放火す。柵を振、要害を構えて、巳に陣取りせんとする処を、押しの大将安藤九郎定治、金森の玄英入道然、其の勢五千を五手に分ちて、先勢一千余人、願正入道・大将にて、大聖寺山をさかい、鯨波を揚げければ、越前勢も堀江二千余人を将い軍立す。駈引不自由の地なれば、馬には乗らず、歩立になりて叫いて懸る。両方互いに矢軍して、相引きに引く処を、二陣の安藤が勢二千余人、入り替えて責めければ、一人も返り合わさず逃げるを、玄英入道が勢・笠取山より落ち掛りて、横合に散々に打ちければ、越前勢数千討たれて、残勢立花まで引退く。若し夜討や入らんずらんと、二重柵を振、用心緊しく構え候とぞ告げたりける。然れども其の後、政親切腹の事聞えければ、越前勢も引き帰しぬ。
偖て富樫泰高は、享禄四年迄存生にてありけるが、加賀半国を治め居けるに、享禄四年、山科本願寺家・下間筑前、同弟民部の二人、加州へ下向し、一揆を起す。合戦数度に及び、泰高、井に黒瀬、福田、松永、隅田、今湯浅等を追い出し、加賀一国を退治す。其の時泰高父子・越前へ牢人して、朝倉を頼み、天文三年人数を催し、又加賀へ責め入ると云えども、散々に打負け、越前へ帰る。同二十二年、泰高死去す。其の子富樫の介は越前金津城主溝江大炊助長逸を頼みて居ける。天正二年二月十九日、長逸・一揆の為に自害、此の時富樫も腹切りて死す。辞世の歌あり『木草にもあらざる竹の、世をさりて、後は石とも誰がなすべき』ある説に曰く、政親の妻は尾州熱田の大宮司友平息女巴女を、或る公家の養子にして、政親に嫁す。長享の乱に、彼の妻・尾州に帰る。大宮司・則ち其の息女を勢州高田宗一身田専修寺に嫁す。是れ故、政親・彼の宗旨信仰の遺志を継ぐ者也。夫より六年して、永正三年八月六日、一身田より、勢州、尾州、三州の諸末寺檀徒を語らい、桑子の妙泉寺を大将にて、越前へ発向す。北国諸檀徒一同して、越州九頭龍河辺に於いて合戦す。此の時、本願寺方大将備後公昭賢討死す。夫より加州へ打入りけるが、又勢州方悉く討負け、本国へ引帰る。夫より二十二年して、天文四年五月十一日、泰高又一揆の為め自害す。泰雲寺と号す。
仰も富樫家、崇徳院天治二年三月八日、加州の守護となり下向の後、長享二年迄繁昌なり」と。
又地誌提要に「国府を能美郡に定む。永延の初め、富樫忠頼・州介に任じ、州事を知り、石川郡野々市に居る。文治元年、源頼朝・忠頼九世の孫泰家を以て守護と為す。建武中興、大納言二篠師基を国司に任じ、河北郡に治す(今御所村と云う)。延元の初め、足利尊氏・京師を犯す。師基兵を率いて入て援く。既にして尊氏・筑紫に奔る。泰家五世の孫高家・従い行き功あり。因りて守護となる。三年、朝廷・瓜生照を州守に任ず云々。闔州・富樫氏に帰し子孫に伝う。
文安四年、高家の後五世教家卒し、其の子成春・叔父泰高と守護を争う。将軍義政・本州を以て両人に分興し、成春を州介に任ず。長禄二年、義政・半州を分って、赤松正則に賜う。富樫の家臣拒んで納れず。長享二年、成春の子政親・
徒って、高尾城に居る(石川郡)。此の時に当たりて、真宗の僧・本願寺、専修寺の両派州内に蔓延し、謀を樹て相争う。政親・専修寺を直とす。本願寺の謀反して高尾を陥れ、政親自殺し、富樫氏亡ぶ(忠頼より二十一世、五百余年)」と見ゆ。
3 氏人 平家物語に富樫入道佛誓、源平盛衰記に「加賀国住人富樫」、また富樫次郎家経等見え、又長門本平家物語に富樫太郎宗親・あり。次いで義経記に「加賀の国富樫と云う所も近くなり、富樫の介と申すは当国の大名なり」と載せ、又承久記巻三に「かがのとがし」を挙ぐ。
その後、南北朝の頃には、延元元年、険白山の衆徒等、新田義貞に帰して、富樫介の那多城を攻め取ると、太平記に見ゆ。暦応元年七月、越後の官軍、加賀へ攻め入るに依りて、「富樫高家・兵を率いて那多城を保む」と、理火鈔に見ゆ。太平記金勝院本には、此の時「高家は在京せらるるを以って、一族斉藤四郎用家・兵を率いて高松浜に戦う」とあり。
次に明徳記に富樫云々、相州藤沢道場清浄光寺文書(現在の時宗総本山 遊行寺)に「応永二十四年、富樫兵部大輔殿」と。次に永享以来御番帳に御相伴衆・富樫介持春、一番衆十一人・富樫次郎教宗、国持外様衆・富樫介、御伴衆・富樫中務大輔」等を載せ、又文安年中御番帳に「外様大名衆・富樫新介」を挙ぐ。
次に応仁記に「富樫介・五百余騎」云々、また富樫又次郎等見え、応仁別記に
富樫鶴童丸等あり、又長享将軍江州動座着到に「外様衆・斉藤富樫介(加賀国守護)」と。また見聞諸家紋に『八曜の星 家紋』と利仁将軍之末富樫介幸高。これより前、本願寺蓮如、行脚の僧となり、北州を回歴し、真宗教を勧布す。時に富樫小三郎泰高・御幸塚に在城し、富樫次郎政親と善からず。蓮如を御幸塚に迎えて留錫せしめ、且つ泰高は、かの吉崎道場建立の施主となりて、本願寺門派に左袒し、政親は所縁あるを以って専修門派に左袒す。
次いで朝倉始末記に「富樫介政親と申すは、利仁将軍の後胤として、北斗七星の化現とかや云々、」その滅亡は富樫記に「爰に、宮永八郎三郎・扇子追取り通いに立ち一拍子を踏み、一肇を揚ぐ。『歓花欲レ盡春三月、命葉易レ零秋一時、』と二三返歌い、一舞まう。見聞く人々・鎧の袖を濕おす。将に畏り申す、緩怠ながら、中有の旅路・露拂い仕るべしと、土器を取り挙げ、三度酌み、腹十文字に掻切り、恐れながら勝見興四郎殿へ持参すべしと、盃に刀を副え、勝見に指す。其の後、那縁、吉田小河、白崎進藤、黒川奥津屋五郎、谷屋入道徳光、西林房金子、上田入道、八屋藤左衛門入道、立入加賀入道、長田三郎左衛門、宮永左京進、沢奈井彦八郎、安江和泉寺、神戸七郎、御園筑前守、同五郎、槻橋豊前守、同三郎左衛門尉、同近江守、同武部丞、同弥六、同弥次郎、同三位坊、山川亦次郎、本郷興春坊、此の如く次第々々に思指に、切腹の面々己上三十人と聞えけり。其の外残る給人、大将政親、本郷駿河守が童・千代松丸計り也。将駿河守・申さるるは、前代未聞の見物哉。早浮世に思い置く事なし、急ぎ御腹召さるべし。某・殿り仕るべしと申さる。政親宣う、老衆・蹤に立つ事謂れなき次第也。若か役に政親・殿りすべしと、互に相論を為す。終に駿河守負け申され、去れば某し先達仕らんと、推融腹十文字に切る、一首の歌計り『陰弱き弓張り月の程もなく、我を誘いて入るや彼の国』と読み、生年五十六にて失せぬ。其の後、政親急ぎ追い付かんと仰せらる。千代松丸・九寸五分の鎧徹し中程・檀紙を以って吉利々々と巻き、甲斐々々敷く介錯申す。将政親・刀を追取り、推融弓手の脇に推立て、素手に吉利吉利と引廻し、取り返す力にて、水走に突立て、臍下へ活と推下し、緋の血を以って一首辞世、角と聴る。『五蘊・本空なりければ、何者か借りて来らん。借りて返さん』遊ばさるる刀の鋒、口に含み、俯辷い給う。鋒柄口まで貫かれ失い給う。将千代松丸御死骸を取認め、屋形々々に火を掛け、猛火の中に飛入り、御供申す。誠に艶き事ども也。一業所感の趣、自業自得の道理也。当来の苦難・思い遺られて哀れなり。将に諸勢乱れ入り、政親の御首を取り、大将泰高の御目に懸く。唯一目御覧じ、兔角物をば仰せられず、一首此れ聞ゆ。『思きや、老木の花は残りつつ、若木の桜先づ散らんとは』と遊ばされ、御涙に咽び給うも理り也、」と。
4 居城 石川郡野々市にありて、富樫城とも称し、鎮守府将軍藤原利仁七世の孫、加賀介家国始めて館を築くと伝えらる。即ち三州志、野野市條に「利仁将軍より、七世の富樫次郎家国・始めて此の野市に開府有りしより、二十三世の政親まで、此所に五百年余り居館也。平家物語、義経記に、富樫城、富樫館と云う者、即ち此の地也。長享二年、政親陲祀の後、富樫小三郎泰高居り、其の子植泰、其の子泰俊、相次いで居たる処、元亀元年五月、賊黨之を火攻し、泰俊其の子二人と、越前の溝江長逸の城に走れり。爾後、兇賊此の館址に據って築きしが、天正八年勝家・賀州の諸堡を攻め屠ふるの時、若林雅楽助、同甚八郎・之に據るを、勝家謀って之を殺し、勝家姑らく居たること、織田軍記に見ゆ。此の後、不破彦三住せりと云う」と載せ、又金城図志に「城南一里牛・野々市村の南、字鬼窪は富樫氏の館址とす」と見ゆ。
次に石川郡倉岳は林郷内知気寺邑領に在りて、鞍獄、又鞍獄に作る。富樫氏・恒は野々市に館し、土冦起れば此の城に堡し、嶮岨を恃んで拒ぐゆえ、国俗に之を富樫の隠居城と呼べり。長享二年六月に至りて、富樫政親、その子千代松以下、釈賊の為亡ぼさる。
次に高尾城は富樫荘高尾邑領に在り。足利尾張守高経・敗軍して、多胡城に走り入しこと、太平記に見ゆ。這の後百五六十年を経て、長享二年、富樫政親・此の城を修造して保みしが、同年遂に賊の為に焦土となれり。
次に押野城は押野庄押野村に在り、富樫刑部左衛門家善・此の地に住し、押野家善と号す。尊氏公の幕下に隷し、武勇の誉あり。又家善・野々市に大乗寺を建立す。又額谷城は富樫庄額谷邑領にありて、富樫次郎家直の弟家忠住す。又長享二年、大窪家長・河原組の賊を率いて、額谷に陣せしことあり。
次に有名なる安宅は、能美郡栗津郷に在り、「寿永二年五月朔、平軍・加賀国に向う時、林光明、富樫家経等・石黒光弘等と合従し、塞を安宅渡に築き、数百弩を設く」と見え、又「平維盛敗軍して、安宅城に保み、橋を引て據主す」とあり。並に盛衰記、平家物語に見ゆ。文治三年二月、源義経が安宅関を佯りて過ぎしことは、盛長私記に見え(この時の富樫氏は泰家と伝えらる)。暦応元年、富樫高家・越後の官将大井田禅正少弼等の大兵に怯えて、阿多賀を退きて、郡多城に保みしことは、太平記に見えたり。富樫小三郎泰高(安高)の據りし御幸塚も此の郡に在り。長享二年、政親滅亡の後、野々市城に移る。栗津郷に在り手、今江城とも称す。
又倶利伽羅は古は砺波群、今は河北郡に属す。寿永二年の役、平軍倶利伽羅、国見、猿馬場、塔小橋辺に屯すと盛衰記に見え、「観応元年十二月、桃井直常・上洛の路を拒まんと、富樫氏・津波多駅に兵を調し、翌日倶利伽羅の獄に陣す」と太平記理盡抄に見ゆ。「長享二年、賊将越智伯耆・賊衆を率いて、倶利伽羅松根に陣す」と、富樫家譜に見ゆ。
また江沼郡篠原城は寿永二年の役に「平兵・僧斎明を先隊の将として賀州に乱入のとき、源軍・篠原に城郭を構う」と盛衰記等に見え、暦応元年越後の官軍・賀州襲入のとき、「富樫高家兵甲五百に将として篠原に陣す」と太平記金勝院本に見ゆ。次に橘山城は橘村領に在り、長享二年、富樫政親の亡ぶるとき、越前の杉若藤左衛門等援兵を率いて橘に至るを、賊将安藤九郎・大聖寺山より却て之を撃つと。その他、那谷城は又那多城とも書す、延元元年、新田義貞・富樫を攻めて当城を奪い、後又富樫氏に属す。又山代城は、長享年間・富樫泰行據る。
5 信仰 富樫家国の孫家近・曽て寛治年中京師に祇役し、城南離宮の造営に興り、稲荷神の教を受く。よりて帰国の後、稲荷廊を造って土地神と称し、神会の日は小豆飯を供すと伝えらる。されど富樫氏に妖狐の霊異あること、家近より始まるに非ず。其の祖先利仁将軍・北国下向の時、妖狐の恠異ありしこと・既に宇治拾遺に見ゆ(三州志)。蓋し泰氏の信仰を受けしものか。
6 出羽の富樫氏 仙北の豪族内城氏は前述氏の裔也と。大曲内城由緒記に「内城刑部が先祖は、賀州富樫一家にて、文和年中、仙乏神宮寺村へ参着す」と。系図に拠れば、富樫左衛門佐誠白に当る。古川を堀に引き入れて居館を築く、よりて則ち内城と称す也。その後学者に富樫重喬等あり。
7 坪内流 寛永系図には「藤左衛門某・加賀国富樫に生る。後美濃国松倉城に住み、坪内と称す」と。又伝え云う、富樫勝左衛門長康(喜太郎)は、出羽の人とも、加賀の人とも云う。尾張に行き、秀吉に仕えて財ヶ獄に功あり。後但馬出石城を賜いて、三万石を領し、但馬守に任ぜらる。されど秀次に属せしを以って文禄四年・座せられて封を没せられ、後に徳川家康に仕え、坪内惣兵衛と称し、六千石を食む、その子利之定也(野史)。寛政呈譜には「富樫介家直十一代後胤藤左衛門頼定・加賀より尾張に移る。その子対馬守定兼−惣兵衛兼光(信長臣)−玄英勝定−但馬守光景(勝右衛門)、弟玄蕃利定」と見えたり。
8 紀伊の富樫氏 続風土記、那賀郡安楽川荘條に「公文職・高野合戦後、富樫介入道拝領す」とあり。
9 安芸の富樫氏 山県郡の名族にして、芸藩通志に「先祖富樫民部、何地の人なるを知らず。家系譜を失い、独り文明十年・富樫中務、永正九年・富樫次郎道春、承襲の文書二通を蔵す」と見ゆ。
10 雑載 その他、秀郷流松田系図に富樫介泰村・見ゆ。  以上。

(旧かなづかい、旧漢字はできる限り現代漢字を使用。出典:写真の氏姓家系大辞典)

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