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核兵器なくそう世界青年のつどいコミュの原爆と秘密結社  

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http://www.thesecretofnagasaki.com/Japan%20A-Bomb%20Dionisi%20Japanese%20Translation.pdf
第二次世界大戦秘史―日本の原爆計画 日本の原爆秘密 デイヴィド・ディオニシ著

・連合国は、日本の核兵器計画についての情報を隠蔽した
・ドイツの同盟国日本へのウラニウム秘密輸送がついに解明された
・70年近くもアメリカの公衆に隠されていた真実
『特に、海軍は、防衛のためだけでなく攻撃のためにも
原爆を開発することを望んでいる』1(伊藤庸二大佐)
日本の原爆開発計画については、一般に知らされていないが、それは「新世界秩序」(以
下「死の血盟団」とする) の工作員らが積極的に証拠隠滅に動いたからある。実際に、第二次
世界大戦中の日本の原爆開発についての情報は、日本では殆んど公開されていない。

2 これが、戦時下でのドイツの日本へのウラニウム輸送や朝鮮での日本の原爆開発施設の存在をこれまで世間に知られないできた理由の一つである。
死の血盟団は、連合国の占領管理当局を使って日本の原爆開発計画の証拠を隠滅した。

その公式理由は、日本が再び 20 世紀の戦場に立ち返ることができないようにすることであった。

しかし、この証拠隠滅作戦は、日本の非武装化をはるかにを超えるものであった。
日本における証拠隠滅作戦は、1945〜1952 年の連合国占領管理下でフリーメーソン要員のダグラス・マッカーサー元帥によって遂行された。1945 年 9 月 22 日、マッカーサーは、日本の全ての研究実験機関にウラニウムとその他の放射性物質の分離作業を禁止する指令を出した。

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マッカーサー パターソン グローヴズ
日本の原爆開発計画の事実を隠蔽した工作要員ら
もし 1945 年に日本の原爆開発計画が広く知られていれば、朝鮮は、多分統一国家として残されていたであろう。日本の原爆開発計画の多くは、今日の北朝鮮になる 38 度線以北にあった。日本の原爆開発の主要施設をソビエト連邦へ運び出す作業は、当時朝鮮半島を 38度線で分断し、更に 1953 年に 38 度線周辺を軍事境界線とすることによって遂行された。

当時米国でソ連に対する懸念が高まる中で、もし日本の原爆開発計画が秘密にされていなかったならば、おそらく朝鮮が分断されることはなかったであろう。

米国市民の大多数がソ連に原爆を持ってほしくないと思っていたのに対して、死の血盟団はソ連の原爆開発を望んでいたのである。その結果として、マッカーサーの一般命令1号が出された時は、ソ連が日本の原爆開発科学者らとその施設に手を出しても公衆の反対の声は上がらなかった。更に、こうした原爆の秘密を守るために、ソ連が独自の原爆を開発した後でさえ朝鮮を分断しておくことが重要であった。

日本の原爆開発計画は、大量分光計、コッククロフト-ワルトン加速器、ヴァンダグラーフ起電機、クルジウス管、ローリッツェン検電器、サイクロトロン4台を含む記録された物理的証拠から確認されている。

5 上掲の写真は、理研で使っていた日本最大の原爆開発用 60
インチ・サイクロトロンである。

1,945 年 11 月 24 日、米国の占領管理当局は、日本における全てのサイクロトロンを接収した。
7これらのサイクロトロンは、爆破器を使って破壊され東京湾に投棄された。

8 下の写真は、わずか5日でこのサイクロトロンの破壊を完了した仁科芳雄と米国第8軍工兵隊員を写したものである。


日本の原爆研究は、京都大学でのサイクロトロン設置に成功したが、あらゆる入手可能なところからウラニウムを入手する必要があった。そこで、先ずウラニウム供給源を北朝鮮に求めたのが、日本の実際の原爆開発施設を日本ではなく北朝鮮に建設した理由の一つである。

又、北朝鮮の長津ダムでの発電施設が大量の電力供給に適うことと、更に核爆発実験による放射線被害から日本本土を守るためにもなるとの理由もあって、北朝鮮が原爆開発拠点に選ばれたのである。
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北朝鮮の興南地域に日本の原爆開発施設があったことが、何故日本がその地域の長津に発電所用ダムを建設したのか、又朝鮮戦争の際の 1950 年 11 月 27 日から 12 月 13 日にかけての「凍結した長津での戦い」で何故アメリカ軍が不名誉な敗北を喫したのかについて手掛りを与えくれる。

25 この「凍結した長津での戦い」でアメリカ軍兵士らは、F号計画のために建設された興南地域の山岳施設を再発見している。
26 この秘密の山岳施設の所在を知るこ
とになった朝鮮戦争での米兵捕虜たちは、1953 年板門店での停戦協定の後も帰されること
はなかった。彼等は頭を撃たれて射殺され、その頭蓋骨は北朝鮮政府によって保存されていたのである。
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デイヴィド・スネルは、日本の原爆開発計画を進める決定は B-29 の出現によっても影響されたと書いている。

28 スネルは、ソウルで本国に送還される日本人将校を尋問して日本の原爆開発計画についての情報を得た。その日本人将校は、戦時中に朝鮮での日本の原爆開発計画の防諜任務に当たっていた。米国政府は、スネルに対して当の防諜担当将校の氏名を含む詳細を公にすること禁止し、スネルは、その日本人将校に若林哲夫の偽名をつけるよう要求された。

スネルは、後日出版物の中で、「日本の原爆開発計画は、当初名古屋で始められたが、B-29 が日本本土の工業諸都市を盛んに爆撃するようになって、やむなく朝鮮へ移動させざるをえなかった」と記している。

29 彼は、若林が「自分が思うに、日本を敗北させたアメリ
カの主要兵器は B-29 で・・・・B-29 が我が方の原爆開発計画を朝鮮に移動させたのであり、
その結果3ヶ月も遅れをとってしまった」と述べたことを引用している。
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日本の陸軍と海軍は、日本、ビルマ、中国でもウラニウムも発見しているが、朝鮮北部が
ウラニウムの最良供給源の一つであることが分かっていた。しかし、原爆製造には更に多く
のウラニウムが必要であった。そこで、ナチス・ドイツが金、生ゴム、阿片、キニーネその他
の戦争継続に必要な物資との交換で日本へウラニウムを提供することになったのである。
ドイツのウラニウム運送
ヴェルナー・ハイゼンベルク(左)は、ナチスの原爆開発計画を指導した。
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ハイゼンベルクは、1941 年にコペンハーゲンに出かけて、この開発計画の進行状態を著名
な物理学者ニールズ・ボーアと論議した。
33 その後、ボーアは、ハイゼンベルクが彼に語っ
たことを英国人たちに警告した。
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ナチスの原爆が完成間近いとのハイゼンベルクの言明、即ち長年歴史の中に埋もれて
しまうであろう事実があったにも拘らず、1934 年には死の血盟団はアドルフ・ヒットラー
5
に対する影響力を失っていた。その結果、血盟団は原爆開発をイギリスからアメリカに
移し直すことになり、結局ニールズ・ボーアが彼等のマンハッタン計画に加わるようになる
のである。
35 死の血盟団に仕えていたと考えられるハイゼンベルクは、ヒットラーの原爆
開発の進行を阻止したが、高濃縮ウランの日本への輸送を阻むことは出来なかった。ドイツ
が隠密裏に日本へウラニウムを輸送しようとした事実は、米国政府によって記録されて
いる。
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かのマンハッタン計画は、多分に原爆リトル・ボーイ[訳注=広島に投下されたウラニウム爆弾
の形状による暗号名]にナチスのウラニウムを使用したであろうことが推測できる。1945 年 8
月 6 日に広島上空で炸裂した原爆リトル・ボーイは、ウラニウムの爆弾用濃縮度アイソトー
プであるウラニウム 235 を使っていた。又、ナチスのウラニウム爆弾開発は、米国が二つの
非常に異なる種類の爆弾、即ち 1945 年 8 月に日本で落されたプルトニウムとウラニウムの
原爆をどのようにして製造するに至ったかを説明するものかも知れない。
ドイツのUボート U-234 号は、下の写真(左)に示されるように、日本へウラニウムを輸送
途中の 1945 年 5 月 14 日に U.S.S.サットン号[訳注=アメリカ海軍の駆逐艦]に降伏した。
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