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カオス 混沌 chaos コミュの真理、般若心経、学問、人生

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オレの現時点での考えを結論から言えば、神も、善悪も、この世の全ては、その姿を本質的に捉えようとしてもこの世に存在しません。「見えない」ではなく「存在しない」です。
なぜそう言えるのか。

説明の前に一言。
般若心経を唱えたブッダや、あまり有名じゃないみたいですがクリシュナムルティという人も、オレの考え方と本質的に同じようです。

般若心経
http://www.st.rim.or.jp/~success/houseki.htm

ジッドゥ・クリシュナムルティ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3

『思考は必要とあれば活動してもよいとはいえ、思考は今まで人の問題を解決しなかったし、これからも解決できないだろうとクリシュナムルティは極言する。思考は部分しか見ないので、思考すればするほど問題は細分化され、複雑になる。理論を探求するのではなく事実を見つめること、部分ではなく全体を見つめることで問題が解決されるという。』
(上記はwikipediaからの引用)


つまり
『「良い」という状態も「悪い」という状態も存在しない』という状態が真理です。

神というものも、絶対的真理も、立ち止まって探している限りは存在しない(消失する)。体験によって変化し続けるその過程が、存在であり真理だとブッダやクリシュナムルティは教えています。

これをもっとわかりやすく言うと、
AというものとBというものがあり、A=Bである、という論理。
これは一見、完全に無矛盾であり、かつこの世に存在している「真実」のように見えるが、本当にそうでしょうか?
A=B、つまりAとBが完全に同じであるなら、これは「A」を「B」に言い換えただけである事がわかると思います。
であるなら、A=Bの意味するところはA=Aであり、
A=Bは結局のところ
A=Aというごく当たり前の事を言っているに過ぎないのです。
Aが単体では存在するのも真実だし、Bが単体で存在するのもまた真実です。
しかしA=Bと言った時、その論理体系の中での絶対的真理は「A=A」であり、Bはそもそも幻である(意味を成していない、存在しない)という事になります。
A=Bの論理体系の中で、誰がどんなにがんばってもAとBが同時にこの世に存在する事は不可能です。

これを、自分をとりまく世界に当てはめて直観的に考えても同じ事が言えます。
例えば何度も出ている善悪の問題。
「人を殺して良いか悪いか」と考えた場合、
「人を殺して良い」という真理も「人を殺すのは悪い」という真理もその論理体系の中には存在しません。
言い換えれば「善も悪も存在しない」です。
それ以前に「善」の存在を証明しようとすると「善は存在しない」に行き当たります。
つまるところ、この世の全ては存在しません。
存在すると思った瞬間に消失します。
考えるだけ時間の無駄です。

誰が、いつ、どんな理由で今「人を殺しても良い」と言ったとしてもオレの「感性」は人を殺す事を望みません。
が、それは「人を殺す事は悪い」という絶対的真理の存在を認めたのでなく「良いも悪いも存在しない」である事に揺るぎはありません。
全てはあるがままです。
オレが人を殺さないのは「人を殺す事は悪い」という真理が存在するからではなく、気持ちのあるがままです。

これは量子力学におけるコペンハーゲン解釈にも通じる考え方です。量子力学の世界では排中律(A or not A)が成立しないのです。それは「有無というもの自体が存在しない」ということを意味します。
このような「全ては存在しない」という解釈を認めるべきという直観主義的な見方は、証明できないが真実だと感じる「感性」の問題であり、また、最先端の学者が排中律を捨てて概ねその方向に人類の進化の方向性を定めているようなので、彼らの「感性」もこれが真実であると感じているようです。
オレもそうです。なぜこれが正しいと感じるのか自分でもわかりませんが、とにかく感性でそう感じます。ブッダもそう確信したからこそ般若心経を後世に残したはずです。

もうしばらくすると人類は「この世の全ては存在しない」を常識として素直に受け入れる日が来るとオレは予想しています。
もちろん、そこがゴールでもないはずです。その先に何があるのかはそのときにならないとわかりません。

まあ先の事は置いておいて、現在の人間にできる事と言えば、人間の現在の論理体系から飛び出すこと。すなわち、感じる事、行動する事、体験する事、学ぶ事です。
その過程で必ず変化があります。その変化が人生であり、存在だと思います。「変化しないもの=存在しないもの」です。
人間は変わるために生きているとも言えると思います。

という事は、逆説的に言うと、ここに書いたことも論理的に「あぁ、そうか」と理解できるものではないという証明なんですけどね。体験から感じて、学んで、体…と言うよりも魂?で理解しなければ理解したことにはなりません。

何が真実かを嗅ぎ分ける「感性」を育てることも現代人には求められていますね。人類が直観主義的進化に変わってきている以上、「感性」の判断が正しくなければ間違った方向に行ってしまいます。間違った方向とは何か、言わずともわかって頂けると思います。

コメント(108)

>エイフェルさん
老荘思想は私の解釈が入っているのでズレていたら申し訳ないです。
私も勉強不足ですから。

この感じでいっても大丈夫みたいなので
お言葉に甘えてもう少し突っ込んでみます。


そうですね。68の表現だと私の方は

「在る」という状態でも「無い」という状態でもどちらでもある。

という表現になりますね。感覚が近づいた感じがします。
しかし、まだ少し引っかかります。
同じことかと思っていましたがやはり同じではないのでしょうかね?難しいです。

おそらくそれは、
>真理とは、それ以上追求する事が不可能なもの、矛盾のないものです。
「この世の全ては存在しない」という事実は、それ以上追求できませんし、矛盾もありません。
「存在しないものを探求するのが真理」ではなく、それ以上の探究が不可能なものが真理です。

の部分にも違いが現れているのかと。


私の現時点での真理は言葉で言うと「矛盾」でした。
探求は不可能は同意ですが。
そしてその(存在するかしないかは置いておいて)存在しないものを“探求する”のが真理でした。

そこが私の認識(感覚?)のズレを生んでいるのかなと。


こうなってくると言葉の定義(公理)を
一個一個決めていかなければならなくそれは不可能ですし、
それこそ詭弁のように言葉の迷宮に入ってしまうので
これ以上は私自身突っこんで行けないのですが。。
しかし、言葉は本当にやっかいですね。
ホントに理想的なツールが欲しい。

>そのための新しい言語の発明の勉強をしたいという人がいれば、できるかどうかは別として、意味はあると思います。

まったくそのとおりです。
ここ数年間はそのことばかりを考えて過ごしています。

私は音楽も、絵も、体を動かして表現することも、
その他五感を使って表現することもあまり得意ではないので
言葉の延長で何かできないかと試行錯誤しています。

このコミュは分析がしっかりしている人ばかりなので勉強になります。。。
ん〜。
『「在る」という状態でも「無い」という状態でもどちらでもある。』と『「在る」という状態でも「無い」という状態でもどちらでもない。』は、言い方の違いはあっても、どちらも要するに「確定しない」という意味で本質的には同じ事を言っていると思うんですが、違いますかね?

「存在しない」と言う言い方をずっとしてきたけど、人間が知覚しうるものが存在する、と言う意味では存在します。でも絶対的存在としてそこに存在するのではなく、あくまで真理は「在るも無いもどちらでもない」です。確定しないんですね。

量子力学から説明するともう少しイメージしやすいかもしれません。専門家じゃないのでもしかしたら解釈が間違ってるかもしれませんが、詳しくは専門の本などを読んでみて下さい。

素粒子は物質の最小単位です。素粒子の正体がわかれば、ある意味真理に到達したとも言えます。
素粒子は、観測して初めて「在るか無いか」というどちらかの状態に確定します。観測していない時の素粒子の状態は在るでも無いでもどちらでもなく、確定しません。
それでは観測とは一体なんなのかという話しになりますが、人間の意識がその結果に作用しているという説もあるし、では意識とはなんなのか…そこまで行くとまだ科学的にも解明されていません。
これを素粒子の立場から考えると実にシュールです。
人間が見ているときは素粒子は「人間が見てるから有るか無いかどっちかの状態に確定しよう」とし、人間が見ていない時は「見てないから在っても無くても別にどっちでもいいよね」という、いい加減な状態です。
ゆるゆるです。人間をバカにしてます。
事実は小説より奇なりどころじゃありませんね。
量子力学は少しかじったのでイメージがしやすいです。
不確定性原理ですね。
そうです。そんな感覚です。

>人間が見ているときは素粒子は「人間が見てるから有るか無いかどっちかの状態に確定しよう」とし、人間が見ていない時は「見てないから在っても無くても別にどっちでもいいよね」という、いい加減な状態です。
ゆるゆるです。人間をバカにしてます。

いい表現ですね。私もそう思います。


なんだか私の「言葉の研究」に付き合ってもらった形になってしまいましたね。
ありがとうございます。
>かとむ〜さん

なるほど。
そのニュアンスで近いと言う事は、もしかしたら老荘思想とは、般若心経に比べてより物質的視点からこの世に言及してるのかもしれないですね。

般若心経は物質よりも観念について語っている部分が多いですからね。

老荘思想のニュアンスに近い
『「在る」という状態でも「無い」という状態でもどちらでもある。』
をAとして

般若心経のニュアンスに近い
『「在る」という状態でも「無い」という状態でもどちらでもない。』
をBとします。

真理はAでもBでもどちらでもない。
こうすると納得できますか?
かなり近づきました。
補足するならば

真理はAでもBでもどちらでもない。
をCとして
真理はAでもBでもどちらでもある。
をDとして

CでもDでもある(ない)。

となっていき、さらにEFGHが出てきて

>「存在しない」も存在しないし、それまた存在しない、しかしそれも存在しないし、さらにそれも…
という文章を永久に続ける事になります。

と同じく永遠になりますね。ここは一緒です。
この永久、永遠って言葉が大事なのかもしれませんね。
こうやって書いてみると
どうやら私はヘーゲルの弁証法も好きみたいです。


老子、荘子は例え話ばっかりです。
般若心経より物質的、現実的な視点ですね。特に荘子は。


言葉の不完全性だけでなくアプローチの違いってのも厄介ですね。
だんだん見えてきました。
老荘思想が「道」という言葉で表現し、般若心経が「空」という言葉で表現している事からもそれはわかりますね。
「道」は実在のイメージで、外に向かうイメージです。
「空」は不在のイメージで、内に向かうイメージです。
その違いでしょうね。

道は、おそらく現代の量子力学と、さらにそれを発展させた超弦理論に通じるものだと思います。
そして空は、人間の生き方というものに焦点を当てているものだと思います。超弦理論は科学者に任せて、ここでの論点は人間の生き方である「空」に当てて話を進めようと思います。
そうですね。
なるほどと思いましたし、
論点もズレてきているので私もここでの話は終わりにします。

別トピの恋愛についてをゆっくり考えるとします。
>かとむ〜さん
わかりました。また疑問が出たら遠慮なく突っ込んでください。


キリスト教について、上で「真のキリスト教信者は云々」と書きましたが、新約聖書をよく調べてみるとどうもキリスト自身が「私は神だ」あるいは「神の子だ」と言ってたみたいですね。そうするとキリスト教信者の中にオレの考え方と同じ人は一人もいないことになりますね。
考え方は変わらず「キリストは神(絶対神)ではない」と思ってます。
美と人間の根源的欲求について。

たびたび物理学上の理論である「超弦理論」という言葉を出していますが、なぜ今、物理学会で超弦理論が支持されているのかというと、面白い事に「美しいから」という、たったそれだけの理由です。
超弦理論が正しい事を実験で証明するためには、直径2000光年の加速装置が必要と言われています。地球から太陽までの距離の6000万倍の大きさです。そんなものを作る事は現実的に不可能なので、もう科学を進める判断基準は「美しいから」という人間の美的感覚に頼るしかなくなっています。
現代の理論物理学者は、ある意味芸術家とも言っていいと思います。
超弦理論(をベースにしたM理論)によると、宇宙は弦(ひも)が平行して構成された二次元の膜のような姿なんだそうです。
これはブッダのイメージした宇宙の姿とそっくり同じなんですよね。ブッダは「織物」と表現しました。

では「美しい」とは何でしょうか。
音楽を聴いて魂が揺り動かされたという経験は誰しもあると思います。「Rock」も揺れるという意味ですし。
Rockが生まれた当時は、伝統を破壊する狂った音楽だと非難されていたみたいですが、純粋な若者はRockに魂を動かされて「そっちに進むべきだ」と感じたから好きになった。
今では当たり前のように文化に浸透してますが。
どうも、人間の魂は、それが一箇所に留まる事を嫌う性質があるみたいですね。魂は、魂が「変わる」とそれを喜ぶ。つまり人間が何かについて美しいと感じるのは、魂の喜びだと思います。
音楽だけでなく、色んな芸術作品を見聞きしたり、数学的に美しい方程式を発見して感動する時の、
「なんとも説明できないけど、この感じはホンモノだ!」っていうあの感覚です。
あれが魂が変化する時の感覚だと思います。

魂の変化とは何かはまた後で書くとして、魂が人間に指示を出す時は「ストレス」を利用していると思います。
ストレスも相対的存在で、生理的ストレスと、精神的ストレスがあります。
生理的ストレスとは、寒暖や空腹時や、敵と出くわした時など生命の危機の時に感じるストレスです。
科学が進歩した現代では生理的ストレスはほとんど無いと言っていいほど減りましたが、その分精神的ストレスは増大しました。

生理的ストレスが存在する理由は生物学的に説明がつきます。
ストレス物質が副交感神経を刺激して末端部分の血流を減らし多少傷ついても痛みは感じないようにし、同時にその血液を物理的運動能力と、脳の状況判断能力を高める事にだけ使って生命の危機から脱け出すためだと言えます。
緊張すると指が冷たくなったり喉が渇いたりしますよね。
あれは末端部分の血流が減るためです。
嫌いな上司と会ったり、初対面の人と会う事も物理的ストレスだと思います。本能的に、上司を敵と見なすんでしょうw

しかし精神的ストレスが存在する理由は科学で説明がつきません。たとえば毎日の仕事が退屈だと言う時や、嫌いな宿題をやらされている時のストレスです。
これに触れる事はオカルトの領域に入るので科学ではタブー視されているのかもしれません。このことに詳しい人がいたら補足お願いします。

「魂の欲求」という観点から見れば精神的ストレスが存在する理由も説明がつきます。
毎日同じ仕事をして同じ日課を平凡にこなしている時は魂に変化が無いので精神的ストレスを人間にもたらしてその状況を打開させようとします。「こんな仕事やってられるか!」というアレです。
魂は、人間がその精神的ストレスさえも押さえ込んでさらに苦しみを我慢していると今度は破壊衝動をもたらして物理的にあたりの物や人を壊してさえも状況を変えようとする。あるいは「この人間の意識はもう魂を変える気が無いから別の人間に乗り換えよう」と鬱病をもたらすのかも。

社会全体で見ても行動原理としては同じ事が言えそうです。
人間が物理的に苦しい状況で停滞していると、魂が変化を求めて考えうる限りのこの世の幸せを手に入れるようにいろいろな欲を人間にもたらします。科学を発達させたり、文化を発展させたり。そして実際に手に入れてしまうと、またそこでそれ以上魂が変化する可能性が途絶えてしまう、そこで魂は今度はその停滞した状況を破壊したいという衝動を人間にもたらそうとする。
それが伝統を破壊したいという欲求などの正体ではないかと思います。今まで培ってきた音楽の伝統を壊してRockを生み出したようにです。
今はまだ人類は発展途上ですが、発展が限界点に近付けば近付くほど破壊衝動が大きくなって、何かのきっかけで物理的に収束に向かうかもしれません。
このように魂は生理的ストレスと精神的ストレスのバランスをコントロールしながら人間の行動原理を生み出していると思います。
生理的ストレスと精神的ストレス、どちらに転んでも、人生においてのストレスによる人間の苦しみの総量は人類の歴史において常に一定であり、人間がどこを目指そうが苦しみが途絶える事が無いのは、その人の魂が常に変わる事を要求しているからだと思います。
ブッダの言う「人生は苦だ」もそういう意味だと思います。

なお、魂という言葉を使っていますが、今まで言ってきたとおり「魂は存在している」とも「いない」とも言えません。
オレの認識での世界を言葉で表現するとこう言うしかないので仕方なく使っています。

その魂の欲求にも個人差があるみたいですね。
自閉症スペクトラムトピにも書きましたが、オレや、自閉傾向のある人はどうも魂が常に大声で叫んでいる気がします。
自分がやりたくない事をやろうとすると頭がおかしくなるくらい精神的ストレスが溜まるし、疑問に思った事は追求しないと寝てもいられません。毎日全力疾走をしてるみたいな感じです。そうではない普通の人は、そこそこの刺激があればその人の魂はそれで満足なんでしょう。「自閉はむしろ自開だ」と言った人がいましたがオレもそう思います。

この考え方にどこか矛盾点があれば突っ込みお願いします。
また思った事や感じた事もどんどん言ってください。
無ければ次は「魂とは何か、魂はなぜ変化を求めるのか」というところを考えてみます。
 生物としての観点から言うなら、固定的なものは行き詰まるから、「変化」を本能的に志向するようになったんじゃないだろうか?
 赤子が、100パー親の知識・能力を受け継がず、まっさらな状況で生まれてくるのは、新たな状況下に適応できるようにわざとコピペしないと読んだ事がある。例として書かれてたのは、生まれながらに泳げる動物は、あらたな泳ぎを覚えないが、「本能が外れている」という特殊な動物=人間のみがいろいろな泳ぎを覚える事が可能、という事でした。

 保守の人間、リベラルな人間 全てがいて生存システムがなりたってる気がしますです。自閉的な人間は、変化の役目を与えらたのかなと妄想出来ないこともない気がします。


 で、魂は、自分のレベルでは「種の保存」プログラムぐらいにしか理解できてません。それだとむなしいのでできればそれだけのものであって欲しくは無いなーと思います。
全然関係ないことなんですけど、
85でスーパーストリング理論についてのお話がありますが、
じつは物理学(量子力学)の領域は、
ここ数年抜本的な発展をしていないんです。

というのも85でエイフェルさんがおっしゃってるように
理論を説明しようとすると人間が作れないような加速器が必要になるからです。
ゆえに最近では量子力学(物理学)方面の進化は技術の進歩と同義になってるような現状です。
ただ、量子についての研究は今も行われていて、
(どちらかというと量子コンピューターとか量子テレポテーションとかのほうが重視されている傾向があるように見受けられますが。)まぁ僕が目の黒いうちに、量子コンピューターが拝めるかな?といったところです。

あと、「適応」ってなんなんでしょうね?
ストレスが魂の叫びなら
適応は魂の諦め?
まぁ魂の存在を否定している
僕にとっては荒唐無稽な議論なんですけどね。
「ある」と仮定しないとできない議論です。
>骨
生物の種によっても魂の欲求レベルの違いはあると思う。
人間という種を単体で見ても欲が強すぎて自制できない人もいれば、欲が全く無い人もいる。
それと同じで、何億年も変わらず、人間から見るとまるで進化を止めたように見える生物もいれば、人間のように全力疾走で進化を進めている生物もいる。
人間は生物界のアスペルガーなのかな?
知的探求をせずにはいられないという意味では、他の生物に比べて人間という種はきっと自閉度が高いんだ。
多様性という点から言えばどの生物も全く同じだね。
人間だけが何か特別な生物のように見えるのは視野が狭いからで、もっと全体を眺めれば何も特別じゃない気がする。
「魂の欲求」とはもしかして遺伝子の指令なのかな。DNAの97%はなんに使われているのかわかっていないらしいけど、3%は肉体形成の情報で、残りは精神的な情報なのかもね。まあ、ここを追求し始めると還元手法の罠に陥るからこの辺でやめておきます。

>じぐそうさん
量子テレポートは興味深いですよね。
テレポートするのは物質じゃなくて情報ですが、それが実証されたという事は「テレパシー」も原理的には可能という事ですからね。オカルトには別に興味ないけどテレパシーが可能なら言葉での説明が不可能だった領域を説明できる「イメージ言語」も可能かもしれません。
最近、物理学が停滞していて脳科学が注目されているのはそれも関係しているのかな。今までどおりの分析的手法・還元手法では無理っぽいという気もしますけどね。

オレはこうやって自分の考えを書くことや、それを読んだ人から意見をもらう事で自分の考え方に刺激をもらってまた新しい閃きを得たり、忘れていた過去に読んだ文献の記憶を思い出したりしています。
そうやって、小さくても何か新しい事を生み出せれば意味はあると思いますよ。
科学でも、学会などの決まった形式どおりの「デイサイエンス」よりも、夜に一杯飲みながら雑談するような「ナイトサイエンス」が実は大きな成果を挙げている事が指摘されています。ではナイトサイエンスだけにすればいいかというと、そうでもない。秩序と混沌のバランスが取れているのが新たな変化を生み出すためには最も理想的な形なのだと思います。
そう考えると現在の人間社会は少し秩序に偏りすぎですね。

「適応」とは例えばどういう状況の事ですか?
>>92
エイフェルさんのおっしゃるとおりで、「学者は酒好きなやつほど優秀だ」なんて豪語している学者もいるくらいですw

そして、「適応」についてですが、
人間は物理的な意味でも精神的な意味でも「環境」に適応している存在です。(これは人間に限らず生物全てがそうですが。)
その土地にあう農作物をそだてたり、平らな平野に優先的に都市をつくったり、高温多湿の環境では風通しのよい木造の家を作ったり。こういった物理的な意味でも適応していますし、自分がほしいお菓子があるが3つしかないときに3人の弟たちのために我慢したり、戦争反対派でも世間で戦争押せ押せモードだったら戦争に賛成したりといった精神的な意味でも適応します。

もし、人間に魂があって、根本的な「アイディンティティ」(自分が自分であるということ。自分の根本的な考え方、価値観)を決めているのであれば、
適応できる場合とできない場合が考えられます。
というのも、魂が「戦争しちゃダメ」といってるのに世間サマが「戦争しちゃおうぜ」という考え方だったばあいなんですが、魂はあきらめて適応するのでしょうか?それとも逆らうのでしょうか?
もし適応するのならそれは、「魂のあきらめ」でしょ?
なら「適応=魂のあきらめ」
になるんじゃないかなと。

そもそもこういった根本から人を決める何かがあるのかないのか定かでないので断言はできませんが。
ぼくは人間はタブラ・ラサかそれに近いものだと思ってますが。
>>94
昔、倫理で
「三位一体」というのがあって
「神」と「精霊」「キリスト」は
同じくらい尊いものだと考えられていると
教えていただいた気がするんですが、
神と同じレベルならエイフェルさんのおっしゃっているのも
分かる気がするんです。
>じぐそうさん
なるほど。それについて考えてみました。
秩序と混沌のバランスが取れている事が種の保存にとって最も理想的だと遺伝子プログラムは判断しているが、でもその遺伝子の指令は人間の表層意識では普段は感じられないもので、二段構造になっていると思います。
ユングの健在意識と潜在意識に近い考え方かな。
どういう事かを具体的に言います。
たとえば、ある集団の中にリーダー的存在がいない時、これは「混沌」の状態にあります。その場合遺伝子プログラムは秩序をもたらそうとし、集団の中の誰かに「支配欲」を持たせる。
その結果、集団は秩序に向かう。「平和のための戦争」です。それを繰り返しながら徐々に安定に向かうはずです。
じぐそうさんのおっしゃった戦争の中での魂の「戦争しちゃダメ」「戦争をやめたい」という欲求が起きるのは、魂はその時点ではあくまで秩序(平和のための戦争)を望んでいるから起きる欲なのではと考えられると思います。
戦争の意味を見出せない戦争、ベトナム戦争なんかがそれですね。アメリカ軍の兵士はその欲(戦争をやめたい)を無理やり押さえ込んで戦って、心を病んだ人がかなり多かったそうです。
でも自分の信じる正義のためと言う名目のある戦争なら臆病者以外は戦う事を心から望むはずです。解放戦争などがそれに当たると思います。
ちなみに「確信犯」とはもともと、自分が正しいと信じて何かを行い、その結果が敵側から見ると犯罪行為にあたる事を指して言った言葉です。例えばテロとか。
最近の「悪いとわかっていて行う犯罪」という意味で使われるのは、言葉の用法の変化ですね。

「秩序と混沌のバランス」がなぜ種の保存に繋がるのかという疑問が出てくると思いますが、長くなるのでまた後述するとしてここで一度区切ります。

そういえば筑波大学の村上教授は、全ての生命を水面下でコントロールしているこういう存在を「サムシンググレート」と呼んでいるみたいですね。
世界の根源が「それ」であるならやはり「それ」単体ではその存在を自ら証明できない…
ひょっとしたらそれは自分が存在するかどうかを知りたくて世界を作ったのかな?
自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきました。

秩序を重んじる西洋文明に行き詰まりを感じ始め、混沌?を重んじる東洋文明に最近注目が集まっているのは、遺伝子レベルではそろそろ秩序から混沌に移行する時期だと考え始めているからかもしれません。
人間の顕在意識はそれに気付かないが、「欲」として現れていると思います。そのシフトは急激に行われるわけではなく、何世代にもわたって徐々に行われるものだと思いますけどね。

余談ですが、「火事場の馬鹿力」は実際人間は持っていますよ。
オレは利用したことがあります。
アスペルガー器質で、働かなきゃいけないとわかっていてもストレスが溜まるばかりで就職活動に身が入らなかったとき、一度わざと貯金を使い果たして食べるものに困って生きるか死ぬかという状況に身を置いてみました。するとやる気が出たんですw
直感も自分でびっくりするくらい鋭くなって、速攻で就職できましたよ。
人間が魂のレベルで真剣に応えを望んだ時、魂は応えてくれるのは確かなようです。それはオレの実体験として言えます。
「生命は自ら道を見つけ出す」ですね。

>Terra Rossaさん
「オレの考え方と違う」とは言いましたがどちらが正しいとは言いません。なのでキリスト教批判が目的ではないですが、そのように取られてしまったのはオレの言葉足らずでしたね。
あまり深くは触れませんでしたが、発言は自分なりに調べた上で言っています。例えばイエスは弟子に「私に従いなさい」と言ったとされていて、オレはこれをキリストが「私が絶対だ」と考えていたのだと解釈しましたが、これについてはどう思いますか?
また、復活前までは人間だったとおっしゃいましたが、復活後はどうなんでしょう?これが神扱いならやはりオレの考え方とは違うという事になります(どちらが正しいとは言いません)。
また、ダヴィンチが言葉でなくわざわざ絵画の中に隠した事からもわかるように、キリスト教を否定する事は重犯罪とされていた歴史があった事は事実だと思います。
その歴史が捏造なのか、それとも現代のキリスト教は昔と違うのか、それともやはりキリスト教信者の中にももともと絶対神としてのキリストを信じる人と信じない人の両方がいたのか、どうなんでしょう?

いずれにしろ、クリスチャンの中にもオレの考え方と同じ人がいる可能性がまた出てきた事はうれしいです。宗教には今後あまり触れないようにしたほうがよさそうですが、話はこのまま続けても問題ないですよね。
現代人は頭で判断してるから、本心に対して鈍くなってるって言うね。社会適応と本心との綱引きにあるんだろうね。
>>エイフェルさん
つまり…
「遺伝子は意思を持っている」ということなんですかね?
>じぐそうさん
意思なんでしょうかねぇ…。
ウイルスは「物質なのか生命体なのか区別ができない」と言われるくらいシンプルな構造体だけど、まるで意思を持っているかのように動きますよね。
それと同じようなものだと思います。
「重力はなぜ存在するか」「なぜエントロピーは増大するのか」と同じく「どこからが生命(意思)なのか」は人類にとって永遠の謎なのかもしれません。

>Terra Rossaさん
複雑ですね。権力争いが何らかの形で関係していそうな気はしますね。とりあえずもうキリスト教に触れるのはやめておきます。
>>エイフェル
実は僕も最近「生命とは複雑さである」つまり「複雑なものを“生きている”と人は呼ぶ」と思ってたりします。
あと有機物(C骨格のポリマー、つまり炭素を中心とした巨大な分子が寄せ集まってできてる)でできてるってことですかね。

>>mamanmaさん
こうしてみると、ブッタは結構柔軟な発想ができる人だったんですね。
そう考えると物質と生命のボーダーラインもやはり「ない」と考えるのが自然ですね。
種の保存プログラムと言うとえらく無粋な言い方に聞こえるかもしれないけど、その意思のようなものに肌で触れるとなんとも言えない畏怖の念を抱きます。

自閉傾向というものも、人間の文明がまだそれほど発達していない頃の名残で、種の保存という意味での役割の一つだと思います。秩序を保ち集団に貢献する役割の人間ばかりだといつかその付近の食料などを摂り尽くして全滅してしまうので、死をも厭わず新たな土地を開拓したり、毒があるかどうかわからない食べ物を食べたりするような自分の好奇心を抑えられないタイプが必要だったんだと思う。

人間はみな平等っていうのはただの奇麗事で、それぞれ役割があり、種の保存プログラムから「お前は鉄砲玉をやってくれ」みたいなノリで軽く決められているように思う。種の保存のためなら犠牲もやむなしという、個人には決してやさしくない仕組みですね。
でも潜在意識にアクセスして自ら遺伝子を書き換える事もできると思います。実際に、遺伝子の権威の村上教授は、遺伝子は生まれた時のまま一生不変なのではなく、オン・オフを切り替える場合がある事を明らかにしました。修験者などが修行をする意味も今ならなんとなくわかります。
人間は、運命を自ら変えられるんですね。
潜在意識にアクセスしてきた人間は、種の保存プログラムが「お、こいつは使えるかも」と判断して別の役割を与えてくれるんでしょうか?w
>24のアルテミスさんのレス、まだでしょうか。
スルーするならスルーでいいですが、レスすると言われたので待っています。



全然別の話ですが、
>55で「空の概念と理論物理学的見解が一致している」
と書きましたが、これについて調べたところ、最近の物理学者は東洋思想の中に物理学の答えを探しているようです。
特にボーアやハイゼンベルクら量子論を育てた学者は空の概念の存在を認知していたみたいですね。
ブッダという感覚的天才とボーアら理論的天才が2500年の時を隔てて協力して答えを見つけたんだ思うとなんだか感動してしまいます。
 
“0歳児にも思いやりの心 性善説を示唆? 京大グループ研究”

生後10カ月の赤ちゃんでも、困っている人に同情する気持ちがあるかも−。
京都大や豊橋技術科学大(愛知県)のチームがこんな実験結果をまとめ、米オンライン科学誌プロスワンに13日発表した。

〈しゃべられない乳児…イジメ敏感、被害者に反応〉

1歳半以上の子供では同様の結果が報告されていた。
今回、まだ言葉を話さない、より幼い乳児にも思いやりの心が見られることを示しており、京大の鹿子木康弘特定助教は
「人間の本質は『善』だと示唆している可能性がある」としている。

チームは、青い球体と黄色の立方体を「攻撃者」と「攻撃される者」に見立て、両者が動き回りながら、一方が攻撃者として、もう一方にぶつかる動画を用意。

生後10カ月の日本人の赤ちゃん20人に、どちらかの図形が攻撃者、攻撃される者になる動画を見せた後、両方の図形の模型を置き、どちらを手に取るかを観察した。
すると、20人中16人が攻撃された方の模型をつかんだ。
両者がぶつからない動画を見せた別の20人の赤ちゃんでは、手に取る模型に偏りはなかった。

チームによると、チンパンジーの群れで、けがをした仲間に近寄る行動が見られることなどから、物をつかむなどの接近行為は、動物行動学的に同情している態度と考えられている。

2013/06/13-10:11 MSN産経west
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130613/wlf13061310120002-n1.htm (CP:http://zhp.jp/BBHW )↑
 

(性善か性悪かという善悪の概念を、性質の普遍的な前提にしてしまおうとするこの実験者はおかしい、と僕は思いました。

猿や犬には悪意も悪事もなく、ただ種の保存欲求か仲間意識かが少なくなる経験を辿った個体は排除され・弱い個体は守られる、ということだと思います。
種が他の種との生存競争に勝つための一環は、いわゆる善と呼ばれる本質と違うものかと。

赤ちゃんの場合は、さらに単純で、まだ仲間意識みたいな概念は当たらないと思います。
ただ、能動と受動だけを認識して、受動を目標物のように認識して、それで興味を示し、示さなかった赤ちゃんはたまたまそうした発想を時間内にしなかった、ということかと思えました。

ちなみに大人の関心がバラつくのは、知性により様々な解釈をさせるためで、個体差も大きいからかと。

善悪は人間社会に作られた人工的な想像物だと僕は思っているわけです。
人間でない生物・社会性を知らない人間(乳児や狼少年)・に善悪はない、または混在していると思うのです。
なので、この実験結果は拡大解釈されていると。 )
 
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東京都三鷹市在住です。

男。46歳。

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