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カナダの歴史と政治コミュのウィニペグにNHL戻る

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 カナダの企業トゥルー・ノース・スポーツ&エンターテイメントは5月31日、NHL(ナショナル・ホッケーリーグ)のアトランタ・スラッシャーズを1億7000万ドルで買収することに合意したと発表した。同社は、フランチャイズをマニトバ州ウィニペグに移転する意向を明らかにした。
 かつてこの地にあったウィニペグ・ジェッツが、1996年にフェニックスに移転してから15年、ウィニペグ市民はNHLチームを取り戻す努力を続けて来た。フェニックス・カイオーツと名を改めたチームが経営破綻したのを機に、カナダのいくつかの企業が買収交渉に乗り出したが、ウィニペグへのNHL誘致は、思わぬ形で実現した。チーム名は未定だが、「ジェッツ」の名称復活も噂されている。
 両社はすでに買収に合意したが、6月21日に開催されるNHL理事会の承認を得て正式に決定する。フランチャイズ移転には過半数の合意があるだけでよいが、買収には75%の承認が必要となる。なお来年にもリーグ再編成が行われるが、新しいチームは1年間、アトランタ・スラッシャーズの所属するイースタン・カンファレンスの南東地区に所属することになりそうだ。

 政治家になっていなければホッケー選手になっていたというハーパー首相は、カナダに7番目のフランチャイズ設置について、喜びの声明を発表した。
「全てのカナダ人を代表して、NHLがウィニペグに戻るという今日の知らせに、とても喜んでいる。ボビー・ハル、デイル・ハワチャック、ティーム・セラニのような伝説のウィニペグ・ジェッツ選手たちの思い出は、カナダ人の記憶にいまだ鮮烈に残っている。」
 ウィニペグ市長サム・カッツは、こう語った。
「それはかけがえのない、お金では計れないものだった。15年前を思い出してほしい。まるで誰かに胸を拳で突かれ、肋骨を突き破られ心臓をえぐり出されたような心境を。ジェッツがこの町を去った理由は、新しいアリーナを建設できなかったからだ。」
 ウィニペグの作家スティーブ・ランディンは小説“When She's Gone”のなかで、ジェッツを失ったマニトバのホッケーファンの精神的ダメージを描いている。

 ウィニペグには現在、バンクーバー・カナックスのファームチームでAHL(アメリカン・ホッケーリーグ)に属するマニトバ・ムースがあるが、オーナーであるトゥルー・ノース社は、これをニューファンドランド&ラブラドル州セントジョンズに移転する意向である。
 マニトバのホッケーファンはNHL誘致に歓喜しているが、懸案は多い。マニトバ・ムースのために2004年に建設されたMTSセンターは、座席数およそ1万5000で、NHLで最も小さい会場である。またウィニペグは人口76万2600人で、NHLのある30都市では最も小さい。現在は記録的なカナダドル高だからよいものの、カナダドルが安くなれば、チームは再び年俸の支払いに困ることになる。ジェッツが移転した理由は、ウィニペグにいては選手の給料を払えなかったからである。またウィニペグはカナダの都市の中で最も寒く、かつ退屈な町でもある。選手は契約上義務づけられていない限り、ウィニペグでプレーする義務はなく、高額の年俸を提示されればいつでもアメリカのチームに移籍するだろう。

コメント(2)

 トゥルー・ノース・スポーツ&エンターテイメント社は6月24日、ウィニペグの新しいチーム名を「ジェッツ」にすると発表した。
 ウィニペグには1996までジェッツが存在したが、フェニックスに移転しチーム名を「フェニックス・カイオーツ」と改めた。「ジェッツ」の商標は今も、フェニックス・カイオーツが保有したままである。
 商標権の問題から、新しいチーム名は「ムース」「ファルコンズ」「ポーラー・ベアーズ」などが有力視されていた。だがデリク・クープランド氏は、新チームが「ジェッツ」以外の名を名乗ることは非常なリスクを伴うと説明した。
「正式なチーム名が何であれ、開幕戦ではジェッツのジャージを着た大勢の群集が『ゴー、ジェッツ、ゴー』と叫ぶだろう。」

 ミネソタ・ノーススターズは1993年ダラスに移転し、2000年にミネソタ・ワイルドが創設された。ワイルドでプレーしたトム・リード選手は、行く先々のアリーナで、ノーススターズのジャージや帽子をかぶった大勢のファンを見たという。
 CFLのボルチモア・スタリオンズも、1996年にモントリオールへ移転したとき、1986年に消滅したモントリオール・アルエッツのチーム名を継承している。その土地に定着したブランドは根強く、新しいブランドを導入するより、旧ブランドを買収した方が販売戦略上うまくいくようだ。
 NHL が1990年にエキスパンションを発表したとき、オタワ市はフランチャイズに名乗りを挙げ「セネターズを返せ」運動を開始した。かつて栄光のチームとして存在したオタワ・セネターズは、1934年にセントルイス・イーグルスに変わり、翌年消滅していたのだ。オタワ市は、オタワ在住で旧セネターズ最後の生き残りでもあるフランク・フィニガン元選手を前面に押し立てて、精力的な招致運動を展開した。
 1992年、新しく創設されたオタワ・セネターズの最初の試合で、フィニガンはフェイス・オフのパックを落とすことになっていたが、残念なことに彼はその日を見ることなく亡くなった。セネターズは最初の試合開始前に、彼のかつての背番号8を永久欠番とするセレモニーを行った。フィニガンは、所属しなかったチームで永久欠番となる3人目の選手となった。

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