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五井先生コミュの真理はどう見えてますか?

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真理を言葉で表現した場合、それは、真理のある一面だけしか表現されていません。
必ず、その他の面があり、場合によっては全く正反対の意味にとれることもあります。

例えば、ある図形を見て、これは三角形ですよ、と言っている人と、いや、それは四角形ですよと言う人がいたとします。

このまま行くと、この両者の意見は平行したまま、対立することとなります。

では、視点を二次元から三次元に変えてみます。

実は、ピラミッド形でした。

確かに、横から見ると三角形、上から見ると四角形でした。

この両者は、同じものを別の角度から見て、違うと思っていたのです。
言葉の意味だけを断片的に捉えてしまうと、真理のある一面だけの理解となってしまいます。

例えば「自分の力で何でも出来る」という言葉と「自分一人の力では何も出来ない」という言葉、全く正反対のよう
ですが、どちらも間違いではありません。

「自分の力で何でも出来る」の自分は神の自分、「自分一人の力では何も出来ない」の自分は、肉体の自分です。

次元を変えて見ることで、両方の接点が認識出来ます。

それと、真理は「気づく」ものであり「知る」ものではないんです。
「気づく」前に、答えだけを先に「知る」から、言葉だけが入れ替わると、もう分からなくなってしまいます。
「気づき」が訪れた時に、聞いた言葉が一番「腑に落ちる」体験は誰しもありますよね?

とりあえず、先生の言われる言葉は「知識」として誰しも知っています。でもそれは、あくまで説明書を読んだという段階です。実行して「気づき」と「体験」を伴わなければ、本当の理解には至らないんですね。

逆に何も知らずに、多くの苦労と困難を乗り越えて辿りついた時に聞いた、たった一言の言葉が、大きな気づきになったとしたら、それは幾千の書物の知識よりはるかに勝る、ということにもなるわけです。

これは、真理を知識として知っておくことが悪いということではなく、知ることと、理解することは、全く違うということなんです。

知るだけで満足することは、取説を見ているうちに、もう使ってしまったような錯覚に陥ることです。

例えば、ゲームソフトを買って、まだプレイしてないのに、ひたすら取説を見て、攻略ばかり考えているようなものです。実際にプレイをして、感覚やコツを掴んだ時に、体得したと言えるのではないでしょうか。

先生方が「答え」(情報)を提示されても、「答え」(理解)として機能しない現象が起こります。

「情報」は流通出来ても「理解」を流通させることは出来ません。

外側から伝えようとしても、それは「情報」という形に置き換わってしまいます。

「理解」は外からでなく、自分の中から「起きる」ものです。

突然の目覚めや悟りというのは、やはり中から「起きる」ものなんです。
決して、理解するものでも、させるものではない、いうなればハプニング的に起こるものです。その時に、まわりにある何かが変わったわけではありません。自分を取り巻く環境は同じです。
変わったことと言えば、自分が何かを得たとか、理解したとかではなく、自分の中の「何か」が無くなったことで、今までに気づかなかった「何か」に気づくようになります。

その無くなった「何か」とは、思考(自分独自の認識回路)です。これを自我ともいいます。

この自我思考が無くなることで、今まで見えなかったものが見えるようにようになります。

言葉とは、真理そのものではなく、真理を差している「指」にあたるものです。

月という言葉は月ではなく、月と聞いて、自分の中にある「記憶を検索」しますよね?
その記憶の中で、実際に目で見た、夜空に浮かぶ月を想像して、月だと認識するわけです。

大事なことは、その言葉(指)そのものではなく、その言葉(指)が差している「先にあるもの」です。ところが人は、その先にあるもの、実態を見るよりは、なぜか「指」ばかり見ようとする習慣があります。

先生がこう話されました、誰々さんが、こう言いました等々。
指の色や形にこだわったり、好き好みを分けたりするのが大好きです。

「人を見るのではなく真理を見る」ことが大事です。

言葉で、真理を表現する場合、たった一つの言葉にいくつもの意味が含まれています。

ですので、言葉の意味を、「これ」は「これ」、「それ」は「それ」と決めつけるより、「これ」は「それ」かも知れない。「それ」は「あれ」かも知れない。と、柔軟に置き換えてみた方が、見える世界は確実に広がってゆきます。

そして、そのことは、人と人との対立や、考えの違い、やり方の違い、表現の違いを受け入れていく「柔軟さ」「大きさ」「やさしさ」「寛容さ」となります。

人は、この柔軟さ、どちらでも受け入れる余裕を持っていれば、人と対立することはないでしょう。

「違いによる和」と「違いによる対立」あなたはどちらを選びますか?

平和を語りながら対立を選ぶ人は、平和を言葉だけで知っているというだけの人です。
平和を理解している人に、対立の選択はありません。

人の心の中に、無意識に決めつけるものが多ければ多い程、自由はなくなり、不自由になっていきます。決めつけるものが無くなれば無くなる程、自由は拡大し、世界は広がっていくのです。

真理の解釈や、言葉、人(教祖)の違いが、宗教対立や民族紛争の元になっていることを考えると、一日も早く、このことに気づいて欲しい、そんな気持ちで書かせていただきました。

コメント(1)

お言葉の通りですね。

それぞれの人がその方の「神我」によりプログラムされたプロセスを、
プログラム通りに生きている。ただそれだけのことなんです。

ですから、プログラムされた( 自分の神我が創った )プロセス通りに体験を楽しみましょう。

他人ごとに惑わされる事無く、他人をジャッジメントする事に忙しくしてないで。

私は、
自分は何者、何の為にここにある、 ・・・・?と  探して五井先生につながりました。


色々体験して

  今は

 寝ても、覚めても 「 世界人類が平和でありますように。 」  です。

世間の観えかたが  変わってきますね、  

簡単に言えば 私は、 変なオジサン です。( 世間の大勢の人から見れば )

 この変なオジサンが・・・・・  一応  神人  一応  講師  ・・・・?なんです。

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