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ことばのくすり-心に効く名言集-コミュのTebder Loving Care 〜やさしく、愛し、ケアしあうこと〜

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長文になりますが、是非共有したい
強制は出来ないけど、読んでもらいたい byゆか



「私たちの社会には優しさが欠けている」
「優しさ」とは、文字どおり人の憂いがわかり、分かち合う事。人の憂いに疎くなってしまった私たちの社会のあちこちで、心に痛みを覚え、悲しみや怒りなどの負の感情が渦を巻いているように思う。
 人の憂いがわからず、優しさを人に示すことができない人が、なぜ、私たちの社会に今増えているのでしょうか。人に対してやさしさを示せない人は、結局は自分に対するやさしさに飢えてる人、そして、自分にやさしくなる術を知らない人かもしれません。要するに、そういう人が今の世の中にふえているのだと思います。
 こういった、自分にも、人にもやさしくできない人は、自分をとりまく環境に対してもやさしさを示せません。「いのち」の全体に対するやさしさを欠く人は、環境への配慮に乏しく、自然を平気で痛めつけてしまうのです。自分さえ楽になり、たのしければよいと考える自己中心主義な生き方が、周囲に、人に、環境にどういう影響を与えているかということに無頓着になってしまう。
 このような現代社会の風潮を生み出した大きな原因に、日本の近年の政治や文化が人間からやさしさを奪い取ってしまって事があると思う。もちろん、そういう政治を許容してしまった国民一人ひとりの責任でもあるでしょう。
 かつては、「日本人はやさしい国民」だと思われていた。現にそうだったと思う。日本人だけでなく、日本と同じように社会からやさしさを奪い取られてしまった他の国の人たちも、つまり、人間はみな基本的にはやさしいのだと思う。すべての人間にやさしさが宿っている。それが人間性の特徴だと思う。
 人間は群生して生きる生き物です。この人間の群生性から、二つの基本的な生きるスタンスが生まれた。競争しあい、あるいは戦って生き延びるか、もしくは協力し合って共存するかという相反する二つのスタンス。
 人間の歴史は、この生存本能に基づいた二つの相反するスタンスの片方だけでは、人類は決して存在できない事を示していると思う。
 異なった考えや特質を持った民族や人々が、お互いに個性を生かし、人類の繁栄、社会の進歩と幸せのために、競い合う事はあっても、戦い傷つけ合うことなく、互いにやさしさを示しあって共存することによってのみ人類が生存しつづけることができる。これが、今の私たちが人類の歴史から学ばねばならないことだと思う。
 すべての人間にやさしさが宿っている。でも現実は、日本人を含め「かつてはやさしかった」「そういう時代があった」と、過去形で表現せざるを得ないほど、私たちの社会や世界の現実は、やさしさから縁遠いものになってしまっている。
 このように、いつの間にか、物や金、権力や社会的地位、名誉などといったものに絶対的価値があるという錯覚にとらわれて生きるようになってしまった私たち。そんな私たちは、不慮の不幸な出来事に遭遇し、そういったものを失うという運命に出会った時に、人間にとってほんとうに大切なものは何かとか、人の心のやさしさのありがたさに気づかされるのだと思う。


阪神淡路大震災
被災者達は救援のために駆けつけてくれた人たちが用意したおにぎりや味噌汁をもらうために整然と並んで順番を待っている様子に、驚いたと。
「もし、自分がこんなにひどい体験をしたら、きっと心がすさみ、自分の食べ物を得る事だけを考えて、おとなしく待つ事なんかできないんじゃないか。もしかしたらものを盗むようなことも平気でしてしまうかもしれない」
 外国の都市で災害にあった人々が商店を襲い、食料や衣類などを略奪している映像を、いくたびもテレビでみたことを思い出す。
 生きるか死ぬかの状態に直面した時に、人は平気で盗みなどもしてしまうかもしれない。そんな時は、きっと倫理的な感覚が麻痺してしまうのかもしれない。
 そう思う一方で、必ずしもそうではない。そんな時にこそ、人にやさしくなれるのではないかとも思います。
 日本人だからそうなのか、それとも、これが人間の本来の姿ではないのかとも思った。
 大震災は大きな被害をもたらすが、同時に、そこにつねに隠された宝があることを、教えられる。それは、、日本人は、人間は基本的にやさしい。そう信じていいという確信です。
 人のやさしさが、やさしさを忘れた人びとに、やさしい心をよみがえらせてくれるのではないかと思う。     私たち日本人が持っていた「やさしさ」が、いつの間にか心の片隅に追いやられ、代わりに「強さ」が幅をきかせる時代になってしまったのではないかと思う。物や金や権力、社会的地位などが「強さ」の象徴となり、それを追い求める事を当然とするなかで、弱者に対する思いやりを示すことは、なにか特別なことと思うようになってしまったのではないか。そして、人はいつの間にか「人は強くなければ生きていけない」という信念を抱くようになってしまったのかもしれない。
 ほんとうに「人は強くないと生きていけない」のだろうか。そして、「強く生きる」とは何を意味するのだろう。この問いに対する答えを考えるために、ひとつのエピソードを紹介。
 岩国哲人氏の話   「人は強くなければ生きていけない。しかし、やさしくなければ生きている価値がない」という言葉が好きだと言う。岩国氏は、出雲市の市長時代、「つよくやさしい出雲市」づくりを目指して、市民の立場に立ったさまざまな行政改革を進められた。
「小さな市役所・大きなサービス」をモットーにした、土日曜日にも市役所での市民サービスを開始。スーパーマーケットでのサービス窓口を開設した。
 そのほか、市民の個人的データが記録されている市民カードや、現代の「お守りカード」といわれる65歳以上の老人の「福祉カード」を発行するなどサービスの拡大に努めた。2月11日に出雲市が主催する「国引きマラソン」に、当時、はじめて全盲者からの参加申し込みがあった。「必要な伴走者がいないので断ろうと思いますが・・・。」という連絡を市の教育委員会からうけた岩国氏は、待ったをかけた。市役所に伴走者がいないのかを問いかけると5人の職員が伴走を申し出た。
 仕事が終わってからの伴走練習をし、当日全盲者は完走できた。
「一人だからできない、あるいは一人でやらなければならない、と思うのは間違い。皆がやさしい心で協力したら、できることはたくさんある。」と岩国氏は述べられた。
ほんとうのやさしさを示せる人とは
 世の中に完全無欠のスーパーマンはいません。「無理なこと」「できないこと」があって当たり前です。人間なのですから。だから、「これは自分にできないことだ」とあきらめなくていいのです。「できる」の人助けを借りればいい。また、いつも助けられるのがいやなら、次は自分の「できること」でお返しをすればいい。
 伴走をかってでた人たちは、きっと自分の「できること」で役に立ったことがなによりうれしかったのではないでしょうか。全盲のランナーは伴走者に、そういう大きなプレゼントをしたのです。
 みんなが無理をせず、「できること」をしていけばいいのです。そう、結局は人生は一人では走れないのです。そして、一人で走らなくてもいいのです。
 岩国氏は「人は強くなければ生きていけない」というのは、「強くなければ、世の中の不正や悪に対抗できないからだ」と言います。そして、その強さが、「弱い人たちへのやさしさにならなければならない」とも言うのです。
 「周りの恵まれない人,体の弱い人、お年寄り、そして、人生の途上で幸せを見失ってしまった人たちに対するやさしさがなければ、生きている価値がない」
 つまり、「強い行政力」があってこそ、「やさしい行政」が期待できると言うのです。
 
 ところで、この「人は強くなければ生きていけない」という言葉はなにかと誤解を招きやすい言葉であるように思います。それは、「弱ければ生きていけない」という意味にもとられかねません。
 松岡正剛氏は、著書の「ブラジャイル」の中で、<弱さ>というものは<強さ>に対する相対的なものではないと説いています。
 <弱さ>という言葉は、「微細・微妙」「壊れやすさ」「境界性」「幼児性」「感じやすさ」「複雑さ」などを意味し、そして、この<弱さ>が文化を生み出してきた創造の源であったのだと指摘しています。だから、<弱さ>は創造への入り口なのだとも説いています。
 松岡氏の主張に従って言えば、<弱さ>を<強さ>の対立概念としてとらえてしまうと、「強い事が正しい」という強者の論理を生むことになってしまいます。これは、<弱さ>を悪や負と考え、「弱いことは悪いこと」という論理を生むことになってしまうのです。とすると、「強くなること」が人生の目標になってしまうと思うのです。
 <弱いこと>が悪いとは思いません。弱い人が生きていけないをも思いません。弱さを抱えていても、胸を張って人生の大道を歩いていいのです。
 人間は、皆、弱さを抱えています。そして、弱さがあるから、やさしさを人に示すことが可能なのだと思います。自分の<弱さ>と対面し、それを受容できる人こそ、偽りのない、見せかけのものでもない、ほんとうのやさしさを人に示せるのではないでしょうか。
 そして、そういう人こそ、人にも自分にもやさしく、<いのち>のすべてに対して、<いのち>を支えている環境に対してもやさしくなれるのではないでしょうか。
 このように自分にやさしくなれる人は、自分の心にやさしくなるのだと思います。自分の弱さと対面し、あるがままを受容できることを英語でヴォルネラビリティ(vulnerability)と言います。日本語には訳しにくい言葉です。「あの人はヴォルネラブルだ」という時、それは「弱い人」というより、「弱さを受容している人」という意味で、「弱い人」というニュアンスより、むしろ、「弱さを受容できる強い人」といったニュアンスがあるのです。

ある時、「自分が嫌いだ」という女性から、こんな手紙をもらいました。
「突然ですが、先生は自分が好きですか?私は自分を好きになれません。・・・自分の本当の気持ちを知ろうとしない、話そうとしない自分が嫌いです。自分を好きになれないかぎり、人のことを好きになれませんよね・・・」
どんな返事を書いたのか
「自分の弱さがあっていい。強がりを言って、自分を偽らなくてもいい。完全を求めなくてもいい。なぜなら、自分の弱さがわかる人はやさしい人になれるから。自分が人とちがうことを受け入れられる人は、人が自分とちがっていても受け入れられる人になれるから。そして、自分にないものを持っているだれかが、人生のマラソンをきっと一緒に走ってくれるから・・・」

相田みつをさんの詩
うばい合えば  足らぬ
わけ合えば  あまる
うばい合えば  憎しみ
わけ合えば  安らぎ

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