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ED VAN DER ELSKENコミュの老ヒッピーの逆襲

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この題で今日の日記に記したものです。 直接にはこの写真家には関係しないけれどもこの写真家とスタートが重なるオランダの詩人についてのものなので当時の様子と写真家が生きていれば電話をかけて当時の様子をこの詩人と重ね合わせて聞いてみたいと湯船で感慨をもったことからここに載せることにしました。




夕方、ホッケーのトレーニングに行くからと息子が自分で当番の夕食を早めにパスタで簡単に仕上げて同じく学校が1週間春休みの娘がそれではイチゴのババロアをデザートに作ろうといっていたものを冷蔵庫からだしてきて皆で食卓につき家人とワインで夕食を済ませたら夕方6時をちょっと廻ったところだった。

曇り空なのだがさすがに日がそろそろと長くなってきたのかもう暗くはない。 地軸の動きが徐々に感じられてそういえば公園や道端のあちこちでクロッカスの黄色や青い花が見られることを思い起こした。 

自室に入りインターネットで日本の新聞や映像付の日本のニュースなどを見ていたら家人が風呂をたてて自分が先に入ったので、私にはいらないか、と誘ってきた。 彼女はこの何日か心身ともに調子が悪い義父、その世話のために疲れた義母まで風邪をひいて寝込んだから姉妹連中と繰り合わせて交代で親の世話をしに出かけていたので多分その肩こりをほぐすための風呂でもあったのだろう。

昼前に仕事に行く前にシャワーは浴びていたので今夜の風呂はゆっくり横になって何もすることもなくただラジオの音楽か7時からの1時間ほどある文化トークショーでも聴こうと湯に横たわってスイッチを入れたら元気な老ヒッピー詩人の声が流れてきたのだった。

Simon Vinkenoog(シモン・フィンケンオーフ)
http://nl.wikipedia.org/wiki/ (オランダ ウィキペディア) 

私の父より一つだけ若い1928年生まれである。 母親に育てられ早熟で賢い子供であったのだが反抗心が強かったらしい。 落ち着きもなくいじめにもあったらしいが活力がありすぎるぐらいあったらしい。 生活の中に戦争も体験している。 大戦後は49年から56年までパリに住みユネスコで働くかたわらオランダ語で散文を執筆していてそのとき以来オランダに戻ってからも小説、詩、文を製造し続けているのだがパリ時代からオランダ、ベルギーの文学畑の重量級、ノーベル賞ノミネートかといわれる作家数人も含める芸術家と交流を続け60年代のドラッグエージの洗礼を受けるがすでにパリ時代には十分の予行演習があったものとみなされる。 特にLSDの効果を創作に持ち込み68年から数年前までヒッピー系の雑誌の編集にも携わっていた。

興味を引いたのは、この人のことはあちこちで引っかかっていたもののまだ60代の中ごろかと踏んでいたから若くしてヒッピーの中を泳いできた者と思っていたのだが今そろそろ80に手が届こうかという年齢をこの番組の紹介で知ったからだった。 すると60年代のヒッピー旋風ともいうころには30代の半ばから40代の初めだったことになる。 これでは筋金入りのヒッピーだ。 すでに物事をわきまえ、世界の動きを身に沁みて体験してきた彼の60年代でありパリの50年代も大人の仲間入りとして経験している。 私が個人的に知り合った写真家エド・ヴァンエルスケンのパリ時代の写真の中にもそういえば今はノーベル賞を欲しがっていそうな作家の若い頃と並んで彼の若き姿を見たような記憶がある。

60年代に少年時代を経験した団塊世代の尻尾の自分にはその時代の影響は物事が終わりつつあるものを見てきたという感慨があり、学校、大学の中でも騒乱はあったものの手探りのようでそのうちすべて目の前から消えて卒業後はみなちりじりばらばらに社会の中に溶け込んでしまい挙句が今の状況である。 今、回顧的に報じられるヒッピー文化は消費されるべきの空疎なものに成り果ててその実質、生き残りをみることはほとんどない。

耐えることなく言葉を口からつむぐ老ヒッピー詩人は若いインタビューワーに答えてその当時の状況、製造した作品について語るのだがフリーセックス、ドラッグ、実験芸術などの質問の言葉に対して当時の状況に絡めて精緻な記憶と分析力で現在では神話と成り果てたそれぞれの言葉の意味を子供に説明するように胡椒混じりのつぶての言葉を投げつける。 そのいちいちに湯の中で笑いがひろがり湯が自然に熱くなるのを感じるのだった。 私はもともと詩はわからないと自覚しているのでそれに外国語で語られるものは、ほとんどわかってもキーワードにかけられている重力が感じられなければその世界が剥落することもあり気を入れて聞かない。 

けれど彼の息せき切ってつむぐ言葉のコラージュともいうべき朗読を聴いていてそのメッセージを理解したと感じた。 まさに戦後すぐの実験絵画、ポラックやコブラ派の抽象絵画の世界だったようにも思う。 それは音楽の世界とも共通して抽象音楽に熱を持たせたフリージャズのものでもあるから、50年代からそういうような試みを行っており、現にネットで拾ったフリー・ジャズの紹介サイトにも多分80年代だったのだろうがオランダの代表的フリージャズメンたちと朗読したものが出ていることから現在でも健在だ。

「Bo Vande Graaf(Sax)を中心に、Michiel Braam(ピアノ)、Fred Van Duijnhoven(ドラム)とSimon Vinkennoog(語り)によるバンドです。BBBやI Compani的なとぼけたサウンドはめちゃくちゃオランダ的!! 」 日本版グーグルで検索したらフリー・ジャズ関連で出てきた。 ここでは語りとなっているがこれは彼のオランダ語での詩の朗読である。

彼の詩の朗読はさまざまに行われており、当時のアメリカヒッピー文化席捲の折にはアラン・ギンズバーグのような詩人には彼はそれに多くの影響を受けたものとして眺めるのではなく見事に自分の活動の延長上にあるものとして同調している。 つまり当時の影響された学生、若者ではなくもうすでに大人としてその真っ只中で生きていたということである。 

この日、若いジャーナリストがスカンク(マリファナ)でスタジオを充満しようかというような相変わらずのこのヒッピー爺さんの様子を紹介するのを聞いて、アメリカではほとんどアカデミックに成りはてた人種がここに変わることのない生活態度で生息しているのを寿いだ。

そしてこの日もラジオ出演は収入に貢献するものと定義して、老作家の予定表に書かれている数字を覗きその意味をインタビューワーから尋ねられてあっけらかんと出演料だとつぎつぎにその額を並べていくのにはヒッピーの面目躍如たるものを見てまた風呂の湯を笑いで波立たせたのだった。

絶えず社会に言葉のつぶてを投げかける老詩人がプロモーションにわざわざスタジオに入ったのは去年オランダのロック、ポップで賞を受けたSpinvisというバンドが実験的に演奏するところで詩の朗読をしたものが出たことのためだった。 このグループのCDは家人の誕生日プレゼントの希望リストにもはいっていたものだ。

日本のネットではこのCDについて内容はほとんど書かれていない。

http://www.lastfm.jp/music/Spinvis+%2526+Simon+Vinkenoog

80に近づいた詩人に、今では自分の葬儀に希望の音楽を流したりメッセージを用意したりすることが多いがと問われてその用意は一切ないし、自分の日常、作品がそれであること、死に対しては一切恐れはないしその準備はLSD体験でできていると答え最後まで言葉と世界を同一化しようとする態度にほとんど湯あたりしそうになりながら50分も浸かっていた浴槽から冷たいビールを求めて出たのだった。

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