ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

観世流コミュの碧雲荘

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 昔、僕はあるスポーツクラブに入っていた。その時の話であるが、ある年の初夏の頃、このクラブの主催で京都の野村別邸と西本願寺飛雲閣へのツアーがあり、参加者募集という案内をもらった。このスポーツクラブは東京生命の系列で毎年野村別邸の維持費を出しているので、東京生命関係に枠があるためにこのようなツアーが可能であり、これから毎年行なうという。僕は野村別邸の中に入るチャンスなんて滅多にあるものではないと思ったので、早速参加申込みをした。ついでに母の名前も追加しておいた。係の人は「ツアー参加者が多ければ会員でないお母様にはご遠慮いただくこともありますので、ご了承下さい」と言っていたが、その時はその時と思い当日を待った。ところが、運の悪いことにその日にシンガポールの出張が入り、僕自身が行けなくなった。僕の代りに母の友人に行って貰うことにした。運良く、二人とも行くことができ、二人とも感激したということであった。これも親孝行と思えばよいかと自らを慰めた次第。

 この野村別邸は碧雲荘と云い、これを造った人は二代目野村徳七(得庵)で、一代で野村證券を中心とする野村グループを作り上げた人である。この徳七は神戸に自宅を持っていた以外に京都市左京区岡崎(当時は岡崎村)の天王町でも広大な家を有していてそこに祇園のひろ子さんという人をその人の名義で住まわせていた(そのひろ子さんの実家は祇園の末吉町にあり、昨年までその家が無人のままあったが、人に譲られたようで、家の造りはそのままであるが、レストランに変わってしまった。当時、徳七の祇園での評判はすごかったようで、渡会恵介氏の「花街誌」でそれを今でも伺い知ることができる)。時々、徳七は岡崎の家を訪れ、家の人と乗馬を楽しんだりした。岡崎村の人々の間では乗馬を楽しむ人はすぐ話題になったことは言うまでもない。また、ある日、この家に飼われていた鶴が逃げ出したので、岡崎村が大騒ぎになったという。これは僕の母が祖母(岡崎村で育った)から聞いた話の又聞きであるが。

 この徳七が賓客の接待のために相応しい豪勢な庭園を作ろうとして、土地を物色していた。運良く、京都南禅寺の側の土地(元、南禅寺の塔頭五院の跡地。明治の廃仏棄釈のあおりで、このような空閑地が東山山麓に出現したという)を大正六年に入手する事が出来た。土地の大きさは東西220m余、南北110m余の七千坪程度であった。

 明治37年、徳七は父の野村徳七商店を継ぎ、第一次世界大戦がもたらした好況の波に乗って、巨額の資産を築き上げ、金融マンとして旧来の財閥に次ぐ地位をも手にするようになった。しかし、彼はより上を目指し、即ち益田鈍翁や原三渓のレベルを目標として、当時財界で流行していたお茶を藪内流の宗匠から学び、茶名、得庵を得て多くの茶会をこの碧雲荘で催した:

      大正12年 「南遊記念茶会」
      昭和4年  「御大典奉祝茶会」
      昭和7年  「令嗣結婚披露茶会」
      昭和13年 「還暦自祝茶会」
      昭和14年  「先考追善茶会」

 また同時に、観世流宗家の観世左近から能楽を学び、碧雲荘の中に能舞台を造って自らも能を演じた。いまでも得庵の「安宅」の弁慶の木彫がこの能舞台に飾られている。こうした得庵の努力の甲斐あって、次第にこの碧雲荘も名士の注目を引くようになり、昭和3年秋の御大典奉祝の折、久邇宮邦彦殿下、同妃、若宮朝融殿下、同妃が11月4日〜11月23日まで碧雲荘に滞在され、得庵は得意の絶頂であったという。この御大典の記念誌、「京都市大禮奉祝誌」で碧雲荘の玄関に国旗を掲げ、久邇宮夫妻を迎える準備をした時の写真を今でも見ることが出来る。

 戦後は得庵なき跡の野村證券を引張った社長の奥村綱雄がこの野村別邸をビジネスのために大いに利用した。日本の政財界の要人で名のある人は京都に立ち寄ればいつでも奥村がこの別邸で一夕歓待してくれることを知って、よく奥村に会いにきた。池田勇人と野村證券の関係は有名であり、池田も祇園の舞妓を呼んでここでよく豪遊したという。また、梅原猛氏の「私の履歴書」に、梅原氏らが国立の大学共同利用機関としての国際的、総合的な日本文化研究所の創設を打ち上げたものの、話が遅々として進まないで数年の年月が経過したある日、中曽根康弘首相(当時、彼のブレーンにも野村證券の出身者がいたらしい)が野村別邸で京都の学者と話がしたいという。この時がチャンスと梅原氏や桑原武夫らはこの日本文化研究所の件を首相に懇願し、中曽根首相のゴーサインが出たという話が載っていた。どれも今は昔の話ではあるが。

 その後しばらくしたある年の暮れ、そのスポーツクラブは東京生命が破綻した後、存続の道が断たれ、店を閉じてしまった。かくして次回の碧雲荘ツアーは夢幻と消えうせ。僕はチャンスを逃してしまった。野村グループの最上級の顧客にでもなれば出来るのだろうが、それも不可能であり、噂では野村別邸が京都市の管理下になるかもしれないということであるから、一般参観もあるのではないかと楽しみにはしているが。シンガポール出張で気付いたのだが、日程を少々ずらすことも可能であった。誠にもって残念であった。行ける時に行っておく、そのチャンスが希少であればある程そうすべきである。チャンスというのは失うリグレット(後悔)が大きいことも意味する。慰みは碧雲荘の写真集が野村美術館で販売されていることであった。僕はそれを購入して写真で別邸の中を見、その豪華さにただ呆れるばかりであった。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

観世流 更新情報

観世流のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング