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観世流コミュの乱能 − 狂言役者のコンプレックス

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 大河内俊輝の本で「雪の能」というのがある。これは独立した10篇のフィクションとノンフィクションからなる本である。この中に「茂山弥五郎」というノンフィクションがあって、これは戦前・戦後に活躍した狂言役者「茂山弥五郎」を論じているものである。この中に興味ある一文があった。

 「万蔵は『能は狂言を見下し、なにかというと虐げてきたが、狂言はそんなものではありませんよ』と抗議した。
 東次郎は東次郎で『能役者はヘナチョコで見ていられない』と嘲笑した。
 そりゃそうだろう。乱能で、万蔵の『橋弁慶』を見たことがあるが、シテ方でこれ位に出来るのは何人いるか、と思えるほどのうまさだった。東次郎に至っては、腰から下の充実感をみれば、能役者になるべきを、間違って狂言役者になったかと、思う位のもの。能役者の狂言は一寸こうはいかないようである。
 弥五郎は何回でも繰り返した。『能は狂言に較べましたら、遥かにやさしいんでございます。あれは面をかぶるんですもの。型通りをやっていればよろしい。そこへいきますと狂言はこのツラで、喜怒哀楽を表現せにゃなりません。比べものになりませんです。ハァ』
 これの当否は別だ。能には能の難しさがある。弥五郎の言葉は必ずしもあたっていない、偏見がある。」

 僕は昔、京都の觀世会館で乱能をみたことがあった。そこで一つだけ今でも憶えているのは、先代の故茂山千作の「熊野」の能だ。実に見事なシテであった。これには能役者の芸以上の迫力があった。僕はその時、ワキ正に座っており、小柄な千作師がイロエで橋掛かりに舞い進んできたのを見たことを印象深く思いだすことができる。その時は、狂言役者は能にも通暁していなければならないのかと思った程度で、むしろポジティブに考えていた。
 しかし、この大河内の文章を今日、読んで、狂言役者にはこうしたコンプレックスがないとはいえないのではないかと思うようになった。昔、京都觀世会館の能舞台に行くと、能が一番終わり、狂言の出し物があると、見所に居た多くの客は急に見えなくなった。殆どは舞台外の茶席などでの束の間のおしゃべり・会話に夢中になった。舞台では現茂山千作(当時の千五郎)や千之丞はガランとした見所を相手に狂言をしていた。想像するにこれは悔しいことであったに違いない。どのようにして能役者を見下せるのか、当時は乱能のような場でしかなかったのかもしれない。
 現在は、狂言は能よりも人気があるようだ。野村萬斎のようなタレントがテレビに進出してからだろう。能役者にはそうした意味では遅れを取った。ある意味では万蔵、東次郎、弥五郎の悔しさが晴らされたのだろう。逆に、狂言役者の能からの遠ざかりが出来たのではないか。萬斎は能一番のシテでも勤められるのか僕は知らないが、そうした狂言の能離れがあるように思えてならない。悔しさというバネがなくなったことは能・狂言の世界にはフェアでよいことかも知れないが、ある意味ではマイナスでもあるのだろう。

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