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観世流コミュの能面

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「能面打ち」



 僕の実家の隣家がずっと売りに出ていた。なかなか買い手が決まらなかったようであるが、やっと決まった。誰が引越しくるのか非常に気になった。怪しげな人や、その筋の人が越してくるのでは困る。しかしこれは杞憂であった。越してきたのは女性で、その方の仕事が能面打ちということであった。お能の面(おもて)を作る人である。

 能面は彫るとは言わない。打つという。これは能面師が魂を打ち込むからである。その魂の入り具合で出来が随分と違う。素晴らしい能面を見ると、その能面師の魂の気迫が感じられる。能面の代表例は若い女性の「小面」(コオモテ)という。この「小」は「可愛い」という意味である。この小面を打つのは簡単のようで非常に難しい。小面で下を見ると悲しげな風情を生じる。これを「曇る」という。逆に、上を向くと明るい風情になる。これを「照る」という。こうした表情を能面に持たせるには、それなりに修行が必要である。昔もそうであったようで、細川幽斎の息子の三斎が細工人新兵衛に面の仕様を修得させる手紙が今に伝えられる:

「…かたの取様うちやうハ能見覚候由申候間、彩色之仕様惣一大事に候間、にかハの合様以下能見習候へと、念を入申付候、得其意由申候、新兵衛頓而面うちニ可成と存候、後迄之可為重宝候、無差儀候へ共(便宜之)次而に令申候、恐々謹言  三斎」

勿論、昔のものならなんでも良いというのでもないが、それでも江戸時代以前に打たれたものは素晴らしいものが多い。実際にみたものではないが、井伊家、徳川家、細川家と出光美術館所蔵の能面・能装束のそれぞれの図録でみると、小面の素晴らしいのを見る事が出来る。三井の家にもよい能面が伝えられているという。井伊家と出光美術館所蔵の小面に「万媚」(まんぴ)という名前がついている。これは「百万の媚びに通じる」という意味でつけられたとか。これらは生きている女性のように思える程の名品である。井伊の家には多くの能面が伝えられていたそうであるが、大震災で多くをなくしたそうである。残念なことだ。

 昔、能面の虫干しを見物に行ったことがある。京都の金剛流の家元が所有する能面を虫干しといって金剛能楽堂で公開していた。僕が行った日には先代のお家元の金剛巌が説明をされ、興味深い一日であったことを覚えている。そこで巌師から面白い話を伺ったように思う。ある面(「深井」というものだろうか、それとも般若のような別なものかもしれない)の目の部分の内側に金地を塗る。この金地を外の人は見えない。ところが舞台でこの面をつけると凄みが出るというのだ。話としては非常に興味があり、能面の深さを示しているもののように思えた。能役者は舞台に出る前、楽屋でその日につける面と文字通り対面する。そしてその面を自分の顔に念写する。その役になりきるのだ。面をつけると視界がかなり落ちる。舞台の位置を把握しているから、視界が落ちることで問題が生じないが、そもそもその面が自分の顔であるから、視界自身問題ではないのだ。先代の梅若万三郎の芸談を読むと、「蝉丸」という能を演じる時の話があった。蝉丸の面は盲目なのだが、目の部分は良く切れていて、その上、目の裏の下側を黒く・u椏hっているから、よく舞台が見えるという。しかし、よく見えるからといって蝉丸は盲目であるから目を閉じて舞うのがよろしいという。蝉丸になりきれというのであろう。この芸談は芸の深さ、厳しさをよく示している。

面をつけると観客の目に自分が曝されていない感じがする。すると、我が出て芸が落ちるのではないだろうか。無心に演じることはその面の人になりきることであり、邪念の捕らわれると、その面が面でなくなる。こう考えて思いだすのが、狂言師の先代野村万蔵の逸話である。この人は能面師としても有名で、ある日、観世某の能を見、その面の「増女」(ぞうおんな)に感動し、観世さんにその面の写しを取らしてくれと楽屋に万蔵は駆け込んだ。すると観世さんは、それはあなたが打った面ですといったという。演じる人により同じ「面」なのに、それは変わるのである。喜多実はその芸談で面は芸の位で変化するといっていたが、「面」は不思議なものだ。

 考えてみると、僕が幼かった頃、面をつけてチャンバラをした時には、嵐勘十郎の鞍馬天狗や大川橋蔵の笛吹童子になったつもりで友達と斬り合っていた。無心に「面」の人間になっていた。無心になると面の人になれるものだ。何故、能では無心になってその面の人になれないのだろう。それだけ、能の主人公は神々しかったり、性が違っていたり、煩悶していたり、成仏できなかったり、強いだけのチャンバラの主人公とは違って単純でないから、能楽師も魂をこの面に打ち込む必要があるのである。

 この面の効用は演者の自我を殺す効果をもつ。昔、フランスのバレー団が団員の自我が出て、バレーにまとまりがなくなるというので面を付けさしたことがあるという。フランスのバレー団が目指すものは能楽のそれとは異なるであろうが、能楽ではこの面付けの段階では不十分のであるとする。自己を否定して面と一体にならなければならないのである。こうした境地の向上がないと、面が支配し、面でなくなるのではなかろうか。面の裏に金地を塗ったという金剛巌師の話も、面と直面(ひためん)が一体になるのであれば理解できるように思えた。

時々、隣家から面を打つ音が聞こえてくる。「カン..カン..」と響く。魂の打ち込み作業なのだ。その女性も引越しの挨拶に来て、実家に住む親も漸く落ち着いたという。

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