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大蔵朝臣原田一族コミュの月見館[雑談・はじめましてはこちらへどうぞ]

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コメント(150)

鎌倉「扇が谷」にある「薬王寺」という寺に原田氏寄進の像があります。この像は下関赤間ケ渕の海中から出現したという像です。

説明によると
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鎌倉市扇が谷3−5−1にある「薬王寺」
創建は1293(永仁元年) 、開山 日像上人(中興開山・日達上人)。

 宗祖真筆本尊、日朗聖人真筆本尊、日像聖人真筆本尊、池上十五世日友上人本尊、本国寺了義院日達上人本尊。他に什宝として閻浮檀金釋迦如来像がある。

 下関赤間ケ渕の海中から出現したと伝えられる金像で、日達上人を崇拝した【領主原田氏】から寄進された。646年、唐で作られた高さ18センチの金銅製。

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中興開山の日達上人とは江戸時代初期の人のようです。
古い像は下関赤間ケ渕の海中から出現したという話ですので、筑前原田氏でしょうか。

しかし、「領主原田氏から寄進」といっても、その時代は九州原田家といってもね・・。どこの原田氏が寄進したのでしょうね。

薬王寺の文化財
http://www.kamakura-yakuouji.com/index.php?data=./data/cl7/
>テルさま
>菊千代さま

たいへんご無沙汰しております。
ヒロコさんの書き込みに補足させていただきます。

ヒロコさんの高祖(おそらく祖父の祖父だと思われますが)である原田種成は、佐賀鍋島系原田の原田小四郎(上杉鷹山とともに原田一族の代表的“顔”)の二男です。
明治5〜6年頃、司法卿(≒法務大臣)だった江藤新平のもとで、
大審院(≒最高裁)の部長の職にあった関係で大隈重信ら元勲達との
交流があったということだと思います。
書き忘れました。
小四郎には通字である「種」が付いていない理由ですが、
小四郎は、佐賀鍋島藩の藩校である弘道館の大教授だった
原田復初(鍋島原田の当主というべき)の養子だった為です。
伊達氏の家臣原田甲斐っていますよね。伊達騒動で有名な。

伊達家というか原田家は一説に大蔵姓という話があるのですが、
伊達氏関係の書物をみると

http://books.google.co.jp/books?id=DIRMDjQrTv0C&dq=%E5%8E%9F%E7%94%B0%E4%BB%A381&pg=RA1-PR25#v=onepage&q&f=false

鎌倉時代、伊達宗村(1173-1250)の時代に東国に下向し、原田興次郎種長(よじろうたねなが)が宗村の家臣となり、17代後の原田甲斐直則が事件を起こしたとか。

ここにも九州原田の末孫という文字が見えます

http://books.google.co.jp/books?id=DIRMDjQrTv0C&dq=%E5%8E%9F%E7%94%B0%E4%BB%A381&pg=RA1-PR27#v=onepage&q&f=false
ヒロコさん こんにちは

ご立派なお姿ですね。

ナオジローさんの話では原田小次郎氏の二男ということで、ナオジローさんとヒロコさんはとても近いですね。


私も同じ時代の写真で、戊辰戦争に加わった祖母方(高祖父?)の写真を見たことがありますが、はかま姿で椅子に座って刀を前に手を添えた、いかにも幕末の武士という感じでした。写真ってすごいですね。
こんなコミュがあったとはw
私、ほぼ間違いなく縁者です。
画像は盆に福岡に帰省した際、倉庫から出てきたと見せられた過去帖(?)と、免許の一部。
TNJ(AMK) さん こんにちは

種○さんですか。

慶長2年1597年の藤右衛門種吉さんから後は吉を通字としていたんですね。

大蔵一門の「種」の広がりも相当(最近減少してるような・・)ですが、

天皇家の「仁」、伊勢平氏の「盛」、河内源氏の「義」及び「頼」、北条氏の「時」、後北条氏の「氏」、秋田氏の「季」、千葉氏・相馬氏の「胤」、毛利氏の「元」、足利氏、大内氏、佐竹氏の「義」、赤松氏の「則」、長尾氏(越後上杉氏)の「景」、武田氏、織田氏の「信」、明智氏の「光」、浅井氏の「政」、島津氏の「忠」及び「久」、細川氏の「護」、黒田氏、浅野氏の「長」、他にも河野氏の「通」、菊池氏の「武」などなど名前に歴史ありですね。

時々そういう人を見ます。ただ、最近は家の意識も薄れたためか、まったく悪気なく、遠慮することもなく、たまたま苗字が同じなので歴史上の人物にあやかって通字をつけてしまったという場合も多いようですね。

子々孫々までお伝えくださいませ〜
>テル様

戸籍上の苗字の「原」が一画少ない原田姓が本来の一族だと聞いております。
これ、身分証明のときなどに免許と学生証や通帳のフォントが違うせいで、色々と面倒な手間を踏まされることが少なからずあるんですよね・・
1画無いというのは厂の下の点(1画)が無いということですね。

原田さんや原さんなどに多いようですね。

原は本来「みなもと」という意味があるそうで

「原」=「厂(がんだれ)」+「泉」で、崖(厂)の下から湧き出るいずみ、水の湧き出るみなもとという意味があったのだとか。

それがはらっぱとかに使われるようになって、水のみなもとに使うのは、水だからさんずいを付けて源にしたのだとか。

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筆で行書、草書体で書くときに抜くことがある点が戸籍を活字にするときにそのまま写されたという感じなのでしょうか。

昔はちょいちょい点が無い原を使っていた人も多かったと聞きます。
お墓を見ると、点の有無がまちまちのようです。
http://gos.but.jp/oharadai.htm

こちらに 岡山県の原田家 小田郡大島村 西大島の墓と系図が載っていますが、その家の人が1970年に書いた文献を手に入れました。

勘解由直継から始まりますが、これは4代目。

この家は、原田隆種より直文が分家、直春(初代:この代に土着)、直之(2代)、直尹(3代)、直継(4代)・・(14代)と続きます。

分家の際に種直の「直」を代々継いでいるそうです。

毛利方に加わり、撤兵の際にこの地方に土着し、その後徳川の世になると天下泰平帰農したとありました。





隆種の時代、お家騒動で息子の種門と繁種を失ったりめちゃめちゃで、別の家を継いでいた者の子まで原田家に呼び戻して当主に据えていますので、隆種より分かれていながら、原田家を継がず、種を継いでいないのは正室じゃなかったのかな。歴史ありですね。

ほど近い同じ岡山の原田一道家は種を継いでいますが、この地方の原田家通し親戚関係になっているようですね。
[ 原田備家系図] / 土佐藩
[ 原田八十八家系図] / 土佐藩
[ 原田八十八家系図] / 土佐藩
[ 原田八平先祖由緒并一類符帳 ], 明治 3 [1870 ]
[ 原田吉太郎先祖由緒并一類符帳 ], 明治 3 [1870 ]
[ 原田吉平先祖由緒并一類符帳 ], 明治 3 [1870 ]
[ 原田家先祖并御奉公之品書上 ] / 原田正衛
[ 原田家御奉公之品書上 ]
[ 原田恭平先祖由緒并一類符帳 ], 文久 3 [1863 ]
[ 原田玄順先祖由緒并一類符帳 ], 明治 3 [1870 ]
[ 原田高吉、原田佐賀江系図] / 土佐藩
[ 原田高吉家系図] / 土佐藩
[ 萩藩 供徒士 原田傳右衛門忠直家譜録 ]
[ 萩藩 大組 原田小右衛門恒正家譜録 ]
[ 萩藩 大組 原田甚右衛門勝俊家譜録 ]
[ 萩藩 寺社組(外療医) 原田友庵種賀家譜録 ]
[ 萩藩 小船頭 原田市郎右衛門親盈家譜録 ]
[ 萩藩 無給通 原田太郎左衛門直賢家譜録 ]
[ 萩藩 無給通 原田彌吉勝旨家譜録 ]
[ 萩藩 無給通 原田長右衛門種起家譜録 ]
[ 除帳 原田家 ] / 原田六左衛門
[ 除帳 原田家 ] / 原田理左衛門
原田勝作跡目僉議書 / 岡山藩
原田喜兵衛跡目僉議書 / 岡山藩
原田家譜
原田弁之介跡目僉議書 / 岡山藩
原田戸田家系図
原田荘兵衛跡目僉議書 / 岡山藩
今の社長は原田さんではないようですが、産業機器を取り扱う「エイチアールディー株式会社」という会社がありまして、元は大連原田商事という会社でした。

社史の中で原田家再興の念願をもって会社を興してきた創設者の思いが語られています。糸島郡一貴山村出身で、原田代官屋敷と称される中津藩の代官の家系だったようですね。

(たしか原田種夫氏も祖父の代まで中津藩の代官をしていたとありましたね。)

原田商事四十年史(その部分にリンク)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276460/193


>>[129]
唐津か会津の方でしょうか。嘉種は会津入り後は種次を名乗っています。
会津原田家初代・原田伊豫(嘉種・種次)についてまとめてみました。

最後の糸島原田氏当主・原田信種は、加藤清正軍の武将として朝鮮に渡海。
慶長三年(1598)、蔚山城での過酷な籠城戦のすえ戦病死。
原田家の家督は14歳の嘉種が継ぐことになりました。
弟に種房(種連)と種保がいます。
しかし、清正の娘の婚礼時に嘉種の母(信種の妻・龍造寺隆信の養女)の処遇について諍いを起こし、領地没収のうえ追放処分を受けてしまいます。
その後の慶長十二年(1607)、嘉種と種房の兄弟は肥前唐津藩主・寺沢広高に1,000石をもって仕官しました。
寛永十四年(1637)、島原の乱が勃発。嘉種は二人の息子・種長、種清と共に参陣。
天草は寺沢家の領地であり、押し寄せる一揆勢から冨岡城本丸を死守しました。
この時の軍功を賞し、寛永十七年(1640)に500石を加増されています。
ところが、寺沢広高の子・堅高は島原の乱の責任を取らされ、天草領4万石は没収されます。
正保四年(1647)、堅高は江戸の蟄居先である海禅寺にて自害。
無継嗣断絶のため寺沢家は改易となり、嘉種父子は再び浪人となってしまいました。
そして慶安四年(1651)、天海僧正の仲介により、江戸で会津藩主保科正之に2,000石で召し抱えられます。
名を嘉種から種次に変えたのはこの頃でしょうか。
承応三年(1654)、会津表留守役を命じられ会津若松に下ります。
万治三年(1660)、会津原田氏初代当主・嘉種(種次)は76年の生涯を閉じました。
墓は会津若松城下の興徳寺にあり、その子孫は幕末まで続いています。
五郎という名前も代々使うようです。
秋月家も遠祖である平安時代末期の武将・原田種直の子孫になります。
原田家の嫡男以外でも秋月を名乗る人がいます。
旧家臣です。実家も福岡県糸島市の原田城こと高祖城下にあります。
初めまして。原田家の子孫です。豪族であった先祖の話を母から聞き、調べているうちにこのコミュニティーを見つけました。いろいろ教えていただきたいです。
はじめまして!糸島在住の者です。

ひょんなことから実家の父から家系図を見せられ、原田家や大蔵氏など名前が載っていたこと(近所の墓石らしい石の文字と同じなのでびっくりしました)から興味を持ちました。

みなさんの貴重な情報を読ませていただこうと思います!
どうぞ、よろしくお願いいたします。
はじめまして。
原田種○と申します。
父、祖父、曾祖父、高祖父も「種○」です。
まだ一歳の息子にも、悩んだ末「種○」と名付けました。
父によれば、高祖父より上も代々「種○」だったそうで、原田種直の子孫との事です。
私は東京生まれですが、父は福岡県出身で親戚もみな福岡県におります。
以前はあまり興味がなかったのですが、父の他界や子の誕生に接し、今更ながらルーツを知りたくなりました。
しかしながら父も亡くなり、父方の親戚も年長者はほとんど他界しており、聞く事がかないません。
私が子供のころには家系図があったはずなのですが、母によると、親戚に貸したとか引っ越しのゴタゴタだかで、いつの間にか紛失したようです。
先祖へ宛てた某戦国武将からの手紙や、数本の日本刀が残っています。
父から聞いていた話とネット検索で、曾祖父が大正から昭和初期にかけて福岡県某自治体の長をやっていたことがわかりましたが、原田種直からどう繋がってきたのかはわかりませんでした。
会津へ行った子孫がいらっしゃるようですが、九州北部に残った子孫のその後についてお詳しい方がいらっしゃったら、是非お話をお聞かせ願いたいと思っております。
よろしくお願いいたします。
>>[145]
mixiが過疎化してしまったのでFacebookの方で情報交換しています。
宜しければそちらへどうぞ。
>>[146]
ありがとうございます!
参加リクエストさせていただきました!
はじめまして。峻徳(たかのり)の玄孫の津田です。写真は原田小四郎種弼の四男の總之助様、夫人の貞子(ていこ)様です。

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