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大蔵朝臣原田一族コミュの安徳天皇潜幸遺蹟 明31.10

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国会図書館デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/img/

の「安徳天皇潜幸遺蹟」には原田氏がらみのことが沢山出てきます。明治期の原田ゆかりの人や会津の原田種龍という名前も。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40017671&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0


追考
原田種直の書翰
種直無二の平家方なりし所以
種直と櫛田ノ官との関係
山崎平次の事等
種直の居城岩門の城跡
御陵所在地の古墳

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40017671&VOL_NUM=00000&KOMA=52&ITYPE=0

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40017671&VOL_NUM=00000&KOMA=30&ITYPE=0

ほか

コメント(7)

安徳台
福岡県筑紫郡那珂川町大字安徳284他

「日本書紀」によると、武内宿禰がここで天に祈り雷を降らせ、無事、裂田の溝を開通させたと記されており、昔は雷鳴が轟いた岡であることから迩驚岡(とどろきのおか)と呼ぱれていたようです。その後、平安時代、原田氏が居館を築き住みました。原田氏は元来、大蔵という姓で、藤原純友の乱の平定に功績をあげ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬を受領し、現在の筑紫野市の原田に移り住み、大蔵姓を原田へと改名したということです。後に安徳台に移り住んだ原田氏は、朝廷の許可を得て城山に岩門城を造り始めますが、築城に着手したのが999年で完成が1,073年ということですから、実に74年もの歳月を費やしたことになります。九州へやって来てから9代目を原田種直といいますが、種直は当時の内大臣平重盛の養女を妻に迎え、平家方の有力な武将となりました。そして、自らを「岩門の少卿」と称し、その名は広く知れ渡るようになりました。種直は、平家没落と共に都落ちした安徳天皇を迎え仮の御所を造りもてなしたと「平家物語」にあり、この頃から安徳台は「御所の原」と呼ぱれるようになったようです。古文書に見る安徳台は以上ですが、台地の上にはそれ以前から人々が綿々と生活をした跡が各所に残り、時に、最近の発掘調査により、弥生時代中期ごろの巨大住居跡が多数見つかり、「奴国」の拠点集落として重要な遺跡であることが解明されつつあります。

http://www.fmw.or.jp/city/025/contents/025s_011.html
より
やはり原田種龍は糸島原田氏の流れでしたか。

安徳天皇生存説は沢山あるのですね。
でも対馬宗氏の権威付けに使われているような気もします。
安徳帝がらみの書として他にも下記のものに
原田氏の事が載っています。

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タイトル : 安徳天皇御事蹟論
タイトルよみ : アントク テンノウ ゴジセキロン
責任表示 : 阿部茂八著
出版事項 : 東京:松野秀葉,明37.9
形態 : 192p;23cm
NDC分類 : 288.4
著者標目 : 阿部,茂八
著者標目よみ : アベ,シゲハチ
全国書誌番号 : 40017670
請求記号 : YDM6063
西暦年 : 1904

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40017670&VOL_NUM=00000&KOMA=46&ITYPE=0

タイトル : 安徳天皇御事蹟考
タイトルよみ : アントク テンノウ ゴジセキコウ
責任表示 : 国分六之助編
出版事項 : 東京:史談会,明25.6
形態 : 96p 図版;26cm
NDC分類 : 210.3
著者標目 : 国分,六之助
著者標目よみ : コクブ,ロクノスケ
全国書誌番号 : 40013127
請求記号 : YDM1482
西暦年 : 1892
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013127&VOL_NUM=00000&KOMA=8&ITYPE=0

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013127&VOL_NUM=00000&KOMA=19&ITYPE=0
大阪府豊能郡

原田種長の名前がありました。

安徳天皇といえば悲運にくれた幼帝であり、本町には、この安徳天皇が壇の浦の合戦後、能勢の「野間の郷」(出野)に御潜幸になり、明くる文治二年(1186)五月十七日崩御されたという伝承がある。その詳細は、建保五年(1218)の天皇供奉者、「経房遺書」に書かれている。その内容の一部に供奉者の原田種長・因幡の景家らは天皇一行の朝夕の食物を供するために、原(大原か)というところで土を返し作物を植えたとある。さらに天皇崩御後は、天皇のお作りになった歌をはらに持って行き「くるみ権現」としてお祭りしたという。

http://www.town.nose.osaka.jp/download/14_423.pdf?PHPSESSID=7d4e8a0d888b2889fa8b6b3ea8ec5f10


『東郷村誌』  「來見権現社(略)本村野間大原の鎮守神なりしも明治四十年五月野間神社へ合祀せられたり、祭神安徳天皇の英霊にして原田種長の創祀なりと伝ふ。」

『能勢東郷志』「原田氏(略)大原村、原田太夫種長という平家侍の子孫なりと云ふ、安徳天皇長門壇浦軍破て後出野村へ潜幸の時、供奉し來りて後当村に住すと云へり云々。」

http://www.town.nose.osaka.jp/download/12_460.pdf?PHPSESSID=8e6f15b9f32529ab959929ad43146431
大阪とは思いも寄らない場所ですね。
種長も初めて見る名前だし、ちょっと調べてみたくなります。
三河などもそうですが、平安後期に原田氏の領地があったのでしょうか?
ちょっとびっくりでした。種直の時代の種長の名前ははじめてみたようにおもいます。系図には出ませんが、いくつかながれがあったのかなぁ。

>供奉者の原田種長・因幡の景家らは〜
とあるので、鳥取あたりに古くからいたとする原田さんのほうかなぁ?
http://www.yurihama.jp/town_history/2hen/2syo/02020200.htm

ちょっと興味を持ちますね。
出野の原田種長の名前は「改正原田記 二巻」にも出ていました。

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