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エンジョイ文サ本部コミュの自己紹介とぴっく。

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コメント(2)

はじめまして皆さん。
私は第24期副議長
第26期議長をやらせていただきました谷合洋と申します
まあ、古い資料でも探せば私の名前が出てくると思います。

みなさんも文サのちょっとした歴史をしらないでしょうから
自己紹介もふくめてそのあたり話したいと思います。

私が大学に入ったとき第23期は実は4人しかいませんでした。
で、24期に勧誘されて入ったはいいけど、はじめの3ヶ月ぐらいは僕と議長二人だけでした。
だから、一年生なのに副議長という職につけたのです。
その後なんとかして、二人を集めましたが
結局4人でした。そんな時代、もちろんのこと
文サをまとめるどころの話ではありませんでした。
正直24期にいろいろやろうとしましたが、
議長団自体がばらばらでどうにもならない状況でした。

で、迎えた25期、そんなぼろぼろの議長団のせいもあって
人集めに大変苦労。
議長団のイメージもよくないし
人とのつながりもすくなく
結局また4人体制でした。
で、25期は私は所属してませんでしたが、
残念ながら、いろいろと不評が多かった代でした。
そのときまで議長は2年生がなって、
3年生になって退任するというのが形でした。
だから、どうしても体育会や応援団とも対等に話せてない状況でした。

23期24期の議長の方は年齢的には上の人たちでしたが
やはりそれはやりづかったと思います。

25期のいろいろな不評や、文サの深刻な状況を
みていて、私は耐えられませんでした。

だって、文サを本当に好きだったから

で、ついに25期が退任するというとき
次の第がまたまったく決まってない状況で、
私は自分から議長に名乗り上げました。
その時点で3年生だった俺が文サの議長になるのは
異例なことでした。
でも、そんなことは関係ない!
これ以上文サをなめられてたまるか!
それが気持ちでした。

そして、始まった26期。
私が議長でした。
でも、僕を含めてまた4人しかいませんでした。
そんな頼りない状況で始まりました
そして、始まった4者コンパで
体育会の代幹の鎌田くん(彼は強い人間だった)に
はじめからなめられる言葉をもらったの今でも忘れてません。
文サは「初めからやるって意識が甘いんだよ。
それだからいつまでもだめなんだよ!」
歳としては同い年、それでも、文サというだけで
見下されるあの状況。そのときは
今年はやりますよ!と意気込んだものの
彼はまったく期待してなかったのを覚えています。

そして、その後、私は早速動き出しました。
誰もが議長団などというものをやりたくないことを
知ってまたが、いい人材を見つけなければならない!
4人ではだめだ!10人は必要だ!
そこから、人材集めのための行動に移りました
まず、議長自らすべてのサークルの部会に
顔を出すようにしました。
もちろん、各サークルの視察のためですが
それと同時にいい人材を見つけるためでした。
部会でいい発言をするものややる気のあるものに
目をつけるようにしてました。
それを通して、目をつけた人材は
柏木君(28期議長)、藤前君、小林君(27期議長)
その後の文サに大きな力を残してくれたことを
ここに先に述べておきます。
それと同時に私には副議長時代につくった
大きなコネクションがありました。
それで、当時文サ委員を経験したものや
やる気のあるものをあたりにいって、
必死に説得しました。
もちろん、拒否もたくさんされましたが、
もうだますような勢いで、臨時総会を行い
一気に9人体制までもっていきました。
また、役職名も変えて、増やして、
その承認もとりました。
その後、男女のバランスも考え、
一人加わり、ついに念願の10人体制に入りました。

しかし、この時点で誰も議長団が何をする団体か
みんなわかってない状況でした。
まわりからは、ワンマンだと非難されながらも
なんとか、みんなに協力してもらいながら
リーキャン、フレキャンをこなしていきました。

とにかく、文サの変革を目指しさまざまなことに
着手し始めました。
この当時は幹事長会議というものが
まったく存在してませんでした。
だから、文サ会議だけがサークルとのつながりでした。
でも、各サークルの状況を報告させるために
幹事長会議をつくったのです。
しかし、これは作られたばかりのもので
しかも、無意味に2,3時間かかってしまい。
多くのサークルからの不評をかいました。
この幹事長会議を終えた次の日の夜
ふがいない会議になって、泣いたことを自分で
よく覚えています。
でも、不評でもなんとか時間を短縮するようにして
やり続けました。

また、総大会の出席も必死に声をかけました。
そのお陰今までに無いぐらいの数が出席してくれました。
私はその場でこう壇上で言いました。
「別に今すぐ部を変化させなくいいんです。
少しずつでいいから、より良くしていくようにしてください」
それが、その後もぼくのキーワードでした。
「より良く」
変革というよりは、少しでいいから
前へ進んで欲しいという気持ちでした。

多くの人は秩序で縛ろうとしました。
でも、それは体育会の世界であって、
文サじゃない。
もちろん秩序は必要だ。
でも、それが強制するものではなく
自然に沸き起こっていくものにしなくてはならない。
文サ、みんなが楽しいから所属をしてるんだ。
それが私には大切だった。
いることで「楽しい」サークル、
そして、最低限の秩序のもとに。

そういう意味で、厳しい措置ももちろん
行わざる得なかった。
この時期恐ろしいほどの幽霊部員だけのサークルが多かった。
要らないサークルは消す!
どんな会議にもこないすでに死んでるサークル。
それは私が24期のときひとつ経営研究会をつぶした。
そのとき、部員がほとんどいなく、まったく活動してなかったからだ。
そして、天文研究会、アマチュア無線部、聖書研究会も
何度の勧告に対して返答も無く、拡幹、総体にかけて、
つぶすようにした。
でも、聖書研究会は必死に会議でみんなの前で
懇願して、このとき部の抹消を回避した。
しかし、残念ながら、天文とアマ無はまったく返答無く。
そして、総体で無事決議がとられ、二つのサークルは
抹消された。
一方、こんな状況だったため、
自ら旅行研究会がこの時期、
文サからの抹消を議長団に頼みに来た。
活動してないと彼は自分たちから認め
文サを去ったまれなケースである。
その後、天文の部室に私の実家に○月○日
みんなで殴りこみに行くという脅しの伝言が
残してあって、来るなら来い!
とその日、家で待機してたが、
彼らは現れなかった。
こういう形で恨まれもしたが、それは仕方の無いことだった。

だめサークルは消える。
でも、もちろんそれだけでは文サはよくならない
そこでサークルを立ち上げる志があるものには寛大だった。
やる気があるなら、立ち上げるのを手伝う!
で、その時できたのがIPEだった。
そのときの代表者はほんとやる気ある者で
出来る限り力をかすようにした。
総体では、多くの質問がされ、
なんとかぎりぎり承認された。

他に内部的にしたことは、
各サークルの部会の視察
定期的な文サ棟の掃除
新たな掲示板の作成
とにかく、一番大事だったのは
議長個人が各サークルの部長と文サ委員と
密な友人になることであった。
そして、俺はひとりひとりに
精神論を話していた。
「ただ、より良く」

また、会計も今までより
はっきりと厳しくした。
今までなんとなくでもらってたサークルが
活動がはっきりしないというだけで
ほとんどゼロになったり
活動してるサークルにはぐんとあげた。
でも、ちょっと厳しくしすぎて
議長団に結構残ってしまったような。。。

で、対外的にももちろんやることは必死だった。
俺は体育会とかになめられてためるかとい気持ちが
とにかく強かった。
だから、写真を撮る際も、
体育会や応援団のトップが足を大きく広げて
座るのに対抗して、俺も脚をぶつけて
同じぐらい広げて座るように意識したのを
今も覚えてる。
4者の予算折衝も昨年の実績が無い状況で
けんか腰で必死に戦った。
また、この当時、新聞会という組織があり、
それは文サにもどこにも属してない
特別な存在であって、
学内新聞を作っていた。
その活動もしっかりしてたので、
俺はつぶれたサークルの部屋をあげるようにしたのだが、
そこで、学生部長と衝突した。
当時、石井満先生が学生部長で
彼は、昔の学生闘争の火種の存在だった新聞部の再来に
なると懸念して、それを無視し続けた。
俺は何度も彼に尋ねたが、それに関しては検討中。
と、一言いうだけ、何もしようとしなかった。
それで、ある日6者会議の場でハッキリ言った。
「検討中、検討中といつもおっしゃいますが、
では、いつ対処してくれるのですか!」
「検討中は検討中です」
「いつです!」
「その言い方は、私に向かって失礼じゃないか!」
「失礼を承知で聞いてるんです!」
「なんだと!」
さすがにその状況で団長と代幹があわてて
やばい状況を抑えて、なにか話を終わらせたのを覚えてる。
その後、この話は何故か知らないうちに広がっていて、
文サ議長が、学生部長と六者会議で
取っ組み合いのけんかをしたらしい。。。。
取っ組み合いなんてしてないのだが、
話がでっかくなって、一時伝説なってしまった。
しかし、その数年後、新聞会はなくなったらしいね。
あの時、もう少し俺が頑張ってればと思うと、
悔しくてしょうがない。

小さなことだが、体育会と応援団に負けてないことを
主張するためにも、自転車野郎だった俺は
赤城榛名妙義を自転車で越えるレースにも参加
無事完走して、体育会のある幹事長からは賞賛を
もらったのをいまでも覚えてる。

いろいろなことを書いたがもちろんだめだったことも
たくさんある。いろいろなことが実験だったし
俺は結構無理やりでおっちょこちょいなところもあった。
予算の分配が、私の責任で大幅に遅れたり、
最後の総大会は私の願った。より良くを達することが出来ず、
出席率も低下してしまった。
また、4年という身で2週間教育実習にいって
議長職を2週間も副議長に任せてしまった。
ほんと、みんなに迷惑かけて
まわり議長団員9人達に助けられたことに
この場をかりてもう一度感謝を言いたい。

で、終わりを迎えるとき
総大会の出席率の悪さを見て、
私は思った。
「俺は結局何もできなかったんじゃないか。」
でも、その後二つの言葉が
自分がやったことは間違ってなかったんだと思わせてくれた。
ある日、一人の幹事長と飲む機会があった。
そこに体育会の子がいた。
俺は「この一年間いろいろ変革したんだけどね」
「で、何が変わったの?」
「えっ、何だろう。」俺は答えることが出来なかった。
でも、その時そのある文サのサークルの幹事長が
そこに口を挟んでくれた。
「目に見えることは確かに変わらなかったかもしれない。
でも、谷合さんは文サの精神を変えた!」
俺はそれを言われたとき、目頭があつくなって
心の底から感謝して、泣きたかったのをおぼえてる。
そして、もう一つは、最後に代をゆだねた後の
4者コンパで代表幹事の鎌田君とまた
あの一年前のときと同じように話した。
彼はこう俺にいってくれた。
「谷合がもし10人いたら、体育会は負けていた。」
それはライバルとして最高の賛辞だった。
その言葉も私は忘れることはできない。
また、団長とも最後まで仲のよき親友であって
お互いの歩んだ道を認め合ったものだった。
その会の最後に俺は壇上でこう言った
「今後の文サをなめないでください!」

そして、次世代の議長団探し。
これもまた大事なことだった。
各サークルで認めたもの
今期をつとめたもの
議長団を頼む。
結局、そのときの遺伝子が
27期28期29期議長とつとめ
その後も萩野君がたまに議長団の現状を
教えてくれた。
私がアメリカ発つ直前は
その3人の議長と昔の仲間が集まって祝ってくれた。
そして、私は今もアメリカで
映画製作の勉強を進めている

23期24期議長とも依然として
連絡はとりあってる。
彼らがやはり私のいろいろな意味での師であった。

私が議長団でしたことは意味があったのか。。。
そう、いつもふと疑問に思う。
いかに俺がしたことが受け継がれてるのか
いつもそう感じてきた。
谷合さんは伝説ですよ!なんて言われたりもしたが
果たしてそれだけのことをしただろうか。
ただ、答えがある場所だけは確かだ
それは君達だ。
君達の今の志。
それだけで、俺にとって十分な答えになる。
議長団も増えたようだ。
あの時、二人しかいなかった議長団。
よかった。

あとは頼んだ。
文サを頼む。
過去にもがいていたものたちがいたことを
少し心に留めておいてくれるだけでいい。
もちろん俺の前にもいたのだろう。
それを文サは超えてきた。

あとは頼んだ
いつか日本に帰ったとき、集まって飲もうじゃないか。
会ったことはないが、
志は同じなのだから。

また!
言葉しか送れないけど
文サを盛り上げるためならいくらでも力になる

第26期議長 谷合洋(たにあいよう)
昔の文サに対する視線を思うと…たにあいさんの時代は大変だった(議長団が叩かれ所=入りたくない→メンバーが5人以下)んですね。
現在は対外的活動が多くなり、平和になっていますが…

いつか日本に帰っていらした時には是非お立ち寄りください。
…議長団のメンバーは酒と改革が好き
これはいつの代も不変ですから。

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