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ライアル・ワトソン ファンCLUBコミュのスーパーネイチャー?

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スーパーネイチャー? Super Nature? 1986年(訳: 内田美枝+中野恵津子 1983年)日本教文社
を語りましょう!


まだ読んでない人も下記を読めば、仲間入り!
エッセンス:http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/mixiwatson/Super-Nature2.htm

科学の周辺にある淡い縁に心を奪われることが多い。現在解明されているレベルのすぐ下に浮かんでは消える、不可思議の影に魅入られてしまうのだ。

第1章パターン

 

 ダーウィンの進化論に消されたがもう一つの進化論がある。ダーウィンの進化論を整理すると以下の通りだ

 一・生物における変化は、遺伝子の無作為な突然変異によって生じる。

 二・こうした変化は自然選択の圧力を受ける物であり、有害な変化は排除される

 三・有益な変化の継承については、遺伝の法則にのみ従うこと

のちにメンデルによって補強され今ではネオ・ダーウィニズムとされている。一言でいえば「全ては偶然である」との立場だ。

 これと戦って敗れたのがラマルクの獲得形質の遺伝理論だ。これは進化を偶然とはせずに、遺伝元の個体が環境に不便を感じたときに、次世代への遺伝子は、鋭く適応するべく反応するというものだ。つまり進化に目的性を認め、意志によってコントロールされるとした。

 学界で激しく争った結果ダーウィン派が勝利し、ラマルクの理論は真面目に生物学を志す者には禁断の領域とされ、その後今日までの一九〇年間「無知でいかがわしいい迷信」と烙印を押され続けられてた。

 ところがここ最近ネオ・ラマルキズムとして復活の兆しを見せ始めている。その象徴的な事例として引き合いに出されるのがラクダの膝のタコだ。成長したラクダの膝には、熱い砂漠でも休めるようにタコができてる。しかしやっかいなのは、ラクダは生まれた瞬間の時からこのタコがあることだ。人間の赤ん坊もまだ一度も地面を踏みしめたことがないのに、足の真の皮膚は厚い。アリクイにいたっては、アリ塚の縞模様に自分の縞模様が一致しているばかりか、子どもがおぶさった時には、奇跡とも思えるほど縞模様がつながってどこからが子どもなのか、見分けがつかない。更に不思議なのは、子どもが成長につれて大きくなるにしたがってこの縞がずれても良さそうなものだが、おぶさる場所を移動して、常に保護模様が一致してしまう。

 こうなるとダーウィンの進化論以外にももっとなにか創造的な力が、有意義な方向へ物事を進め、発展させていると考えたくもなる。

想像力

外世界で起こっていることの大半は、変動しない普遍定数と言われるものによって決定されている。ところがそのうちの多くに、ほとんどあり得ないような偶然の一致があるのが認識されだしたのは、ごく最近のことである。

 例えば、あらゆる自然現象は、たった四つの基礎的な力によってなりたっているが、(重力、電磁力、二つの核力)重力と電磁力とが絶妙なバランスを保っているという事実も、決してとるに足らぬ偶然ではない。仮に力のバランスが、重力に傾いていたら、全ての恒星は巨星になっていたはずだ。逆に、電磁力の方に傾いていたら、今頃宇宙はクズ崖だらけになっていただろう。どちらも生命の生まれる可能性はない。

 私達の地球も一見なんでもない星のように見える。にたように回転する多様な惑星の中で、ごく典型的な存在といえなくもない。けれども事実は宇宙のほとんどの星が気体状で不安定な状態にあるにも関わらず、私達のこの惑星は固体の状態にあり、太陽との距離も絶妙にたもっている。この不可能ともいえる偶然が実現したとき、地球はさながら、生命の種子を引き寄せる磁石となったのだ。

 

 自然界にはたった一〇七個の元素しか存在しない。理論的にはこの元素で、何でもつくれることになっている。しかし現実には一〇七個のうち大半はめったに使われることがない無機質な稀少品であり、生命世界の総体は、炭素、水素、窒素、酸素の四元素で構成されている。たった四つの組み合わせで、どれほどのことができようかと思うのだが、事実は無限ともいえる生命の種を創りだしている∧その中でも炭素の役割は広く、蛋白質、アミノ酸、ビタミン、脂肪、炭酸化合物等、私たちの体を作り上げている物は、炭素を骨組みとして作られた分子だ。

 圧倒的な混沌の中から抽出された秩序の産物、積極的な気まぐれに肩入れしがちな宇宙が選び出した偶然の申し子、それが生命である。仮に、私達に知性が認められるとすれば、それは、私達が創造力豊かな過程の一部であるからに他ならない。つかの間の思いつきに終わるかもしれないにせよ、私達は知的な宇宿の心に宿った、一つの観念なのだ。

 

第2章 パーソン

細胞

 おもしろい実験をした人がいる。

 海綿を絹ごしにしてドロドロの液状にしてしばらくほおっておくと、元の個体に不死鳥のように戻ってしまうが、これを青い海綿と、黄色い海綿をまぜあわせてしまったのだ。どうなると思うだろうか?緑の海綿になる?実は、青い海綿と黄色い海綿にきちんと分かれて再生するのである。このことは生命はかなり基本的なレベルで、他との違いを見い出し、自己を区別する能力を持っていることとを意味する。

 ウニをスープ状にした物好きな人もいる。ウニの殻をつくるのに必要なカルシウムを制限してやるとバラバラに崩壊して細胞のスープになってしまう。これをまぜこぜにしても、カルシウムを補給するとたちまち、もとのあの刺を持ったりウニにもどってしまう。つながりのないバラバラの細胞のスープのなかで、なぜか過去の形態を記憶しているのである。

 生命は驚くほど広範囲に及ぶ安定した「パーソナリティー」を持っている。そして自分の進む道を知っており、ほとんど助けを必要としないようだ。

 秩序を生み出すという能力は、生物のもっとも特異な特徴である。無生物の世界では、原子が集まって分子になる。しかし水晶をのぞけば、それ自身が逐次発展を続けて、より複雑な構造になるという明確な特徴はない。(※そういう意味では水晶はもっとも生物に近い石になる)これに対して生物は、ほとんど脅迫観念的にそうせざるを得ないという衝動を示す。

恒星やブラックホールがあるのも、物質の性質がそれを必然的に生み出すからに他ならない。これはひとつには環境的制約の結果、すなわち物理的法則の自然な成り行きであるが、もう一つには、事物がある一定の方法で成長する組み込まれた必然性のためでもある。

 

ショーペンハウアーの印象的な一節を紹介しよう。

 「寒い冬の日、ヤマアラシが群を作り、暖めあって凍死から身を守ろうとしていた。しかし間もなく、互いの針に触れるようになると離れていった。そして再び暖かさを必要として身を寄せあうのだが、また針にふれて離れていく。それぞれの不快感の命ずるままに行ったり来たりを繰り返すうちにやがてヤマアラシは最大限に暖かさを保ち、痛みを最小限にする距離を見い出していた」

 人間の社会の場合も孤独に耐えられなくて社会を形成するが、社会の持ついろいろな短所がまた人間を引き離し、その距離の一部は、習慣やしさたりという複雑な決まりとして儀式化されている。われわれもやがてそれぞれにとって最善の距離を見つけることができるのだろうか?

生命体

 伝統的な生物学では、複雑な機域として多細胞の植物や動物を調べる。そこでは「生命体」として植物や動物が説明され、血管組織や神経組織が説明される。同時に、それぞれ独自の個性的機能があるはずにも拘わらず、その機能の度合いを著しく限定して考える。これまでは「より高度な機能」はより発達した生命形態、すなわち人間や少数の高等動物にしかないと考える傾向が顕著だった。しかし最近になって大きな脳を持つ温血動物のエリート性に疑問が投げかけられ、下等な種の生物にも精巧な感受性らしきものがあることが実証されている。

ターニングポイントとなったのは植物をウソ発見器にかけて尋問したり、拷問したりするといった一見ばかばかしい実験だった。よくサボテンは主人を敏感に見分けるというが、実際しばらく特定の人物に育てさせたあと、電極をとりつけると、その人間がそばを通っただけで、まるでペットのように自分の主人の時だけ反応する。さらに拷問をしようと人が思っただけでも、植物はその気配を感じ恐怖におののき針をふるわせることもわかっている。

 

自己同一性

大きな木は遺伝子的モザイクをなし、一つ一つの芽に新しい世代を生み出す可能性を潜ませている。その新しい世代は、幹からの制約から全く切り放されたといっていいほど別の進化をたどる。

大地の穴の中に突っ立て、動きのあるもののなすがままにされているように見えても、実は極めて臨機応変に生きているのである。これが樹齢何百年という長生きの秘訣なのだろう。

 タンポポはクローン繁殖し、周囲何十キロにもわたり生成物をばらまくが、おびただしい数ではあっても遺伝的には同一の個体である。すなわちたまたま広い地域にまばらに散らばるという一定の遺伝的構成を持った生命体なのだ。

 

 

 

 こうした観点でみると木は新しい意味を帯びてくる。木は単に大きな植物というよりサンゴのような集団としての生命体と考えた方がいいのだろう。

意識の生物的起源はどこにあるのだろうか?コンタクトとコミュニケーションの違いを認識でさることは、自己と他者を見分けられることであり、それはそこに意志が介在することを意味する。この能力は植物や群居性のバクテリアにすら存在する。つまり極めて原始的なレベルで行われている。

 ハチやアリなどの群居性生命体のコミュニケーション能力は人間のそれを遥かに超越している。逆をいえば、私達のような複雑な生物になると、そうしたコミュニケーションをはかるには障害があるようだ。私達人間や類人猿、クジラ、大部分のネコ、そしておそらく一部の鳥や魚も、独自の「パーソナリティー」を獲得してきたが、それとともにある種の不利が生じたのだ。私達は多くのものを手に入れたが、その過程でコミュニケーションの方法が失われてしまったり、隠されたりしてしまったようだ。壁はすでに高く築かれており、緊急の時にしか突破されない。それは個々相互の問題によって「パーソナリティー」が抑圧されたときであり、そうした自体になると私達は再び根本的なレベルで別の個体と関係を持ち始める。

第3章 プロセス

 進化の奇跡を実感的につかもうとするときにはルービックキューブを考えてみればいい。盲人が偶然の一致で完成させられる可能性は五〇の一八乗分の一である。一秒に一こま動かすとしても地球の年齢の三百倍の時間がかかる。あの九コマ*六面を組み合わせるだけで偶然の一致に頼っていては天文学的時間がかかる。

 この誕生の確率を考えるとき、生命はただ螺旋を描いて流される流体から組み上げられたのではなく、何かのガイドシステムに優しく導かれたように思えてならない。



第4章 自己(セルフ)

心の場

心は突き詰めて言えば電気反応である。

 私達の周辺の電気がここのところ大きく変化している。地球の最初の四〇億年間、この惑星は、電気的環境はかなり単純であった。太陽からの電磁波は常に一定しており、それを乱すものは落雷ぐらいのものだった。ところがここ四〇年でテクノロジーの発達により、私達の周辺に電磁波が乱れ飛ぶようになった。

 テレビの電波、蛍光灯、デジタル時計、数万キロも空を駆け抜ける高圧線、電車のレールすら、低周波を発信している。警察や、タクシーの無線、コードレス電話、電子レンジ。今や私達をとりまく電波の密度は、太陽から届く密度の二億倍にも達している。太陽の磁気嵐が引き起こす地球磁場の乱れが、人間にどのような変化を調査した記録があるが、磁気嵐の起こる日は、精神病患者の行動に変化を起こす確率が、通常よりはるかに高いということだ。

 その太陽の二億倍も高い電磁波を毎日受け続けている私達に、いまどんな変化が起こっているだろうか? 高圧線の下の家では、自殺者がでる可能性は二二%高く、アルミニウム工場では白血病患者がでやすく、CRTの前では異常な妊娠をする可能性がはるかに高い。明らかに肉体的にも精神的にも私達は電磁波の影響を受けている。しかもそれは危険なレベルに達している。

 私達はクモの巣のように張り巡らされた電磁波にからめ取られながら、磁気に反応する繊細な心を持って生きている動物らしい。たまにはこの電磁場をのがれ、森の中などで、こうした刺激から遮断されたいものだ。

 

 

 

その昔、私達の祖先には意識がなかった。立派な脳はあったが、心は空白だった。彼らは様々な、情報を受け取り、鳥や魚と同じように、組み込まれたプログラム通りに行動することはできた。そうした行動では具合が悪いというのではない。鳥や魚は相対的に見れば知性は少ないが、生きていく上での大きなハンディがあるようには思われない。餌をとり、眠り、ちょうどいい時期に移動し、季節になれば交尾し新しいヒナを育てる。

 しかし人間の場合は、進化のどこかでこのパターンが変化した。私達は自覚を持つようになり、やっかいな自問を抱き始め、古いプログラムの一部を捨てたのである。変化は私達の祖先がジプシーのような生活を捨て、狩猟と採集による新しい生活に蹄み出したときに、アフリカのサバンナのどこかで起こったようだ。その中で彼らは同じ種類の他者とのまじわりを通じてそれを追求した。そしてめんどうな自体へとまっしぐらに突き進んだのである。共同生活は、物質や知識の交流という利点をもたらしたが、同時に、人間社会の憎しみ、悪意、慈悲といったものも生み出してきた。

 人間が自分と他人とを、私達白身の運命をある程度は、支配できる合理的かつ意識的で自由な主体として認識できるようになったのは、こうした初期の様々なトラブルの修練の場においてである。そしてこの頭でっかちな自由が、ひいては月の表面に着陸するというめざましい結果にまでつながっていくのである。そして、そればかりではなく、私達はそれらの修練の場を卒業することによって、考えるゆとりができ、自分が享受している自由が条件付きであるという自覚を新たにしてきた。

第5章 社会

人間の体は一兆個の細胞からできており、これらの細胞は全て共通の目的、すなわち健康で幸福な個人の維持という目的を保つために働いている。そして皮膚、脳、血液にいたるまで、どこの細胞も全て同じ受精卵から育ち、セットになった遺伝子を持っている。

 体のどの部分をとっても外部からの侵入者には極めて敏感に排除しようとし、もって生まれた遺伝子以外とは決して融合しない。たとえ外部からの攻撃がなくても、ひとたび調和が崩れると、自分自身で免疫病に陥るくらい敏感だ。

 ところが人間に異質な遺伝子が大量に進入しても、それほど強い抵抗なしで耐えられる状態が一つだけある。妊娠という状態だ。胎盤は、普通の細胞と同じように、侵入者を排除する能力を備えており一方胎児は母体から独立した存在ではない。拒否反応を起こしても不思議はない。

 事実妊娠期間中母親は免疫力が低下する。妊娠ということが本来あり得ないことともいえる。にもかかわらずそれが起こっているという事実は、生命のもう一つの神秘と言えるのだろう。

結びつき

遺伝子は、無意識のうちに可能な限り結びつこうとする。

 例えば目が見えないラットの胎児は羊水に含まれる手がかりで兄弟を見分ける。また、帝王切開でとりあげて別々に隔離しても、はっきりと見分け、一緒になろうとする。こうした傾向は先天的な物だけではなく、子宮の中での学習によっても得られる。羊水にリンゴ果汁を注入し、リンゴ果汁を好んで飲むラットを作るのは簡単だ。

 人ともなると結びつきの方法はもう一つある。精神的な結びつきつまり、ミーム的結びつきだ。ミームは言語や理想など人為的観念的なものがほとんどだが、「愛」のように自然に近い物もある。

 174 木は一本だけでも立っていることができる。木として存在するのに森の一部である必要はない。森は単に木の集合にすぎない。しかし、人間の場合は違う。一人では生きられない。人間社会は単なる人間の集合ではなく、自然のプランの一環であり、独自の自然史を持つ独立した生命体である。いかなる生活、心、考え、思いつきもそれ自体では存在し得ない。人間は、今までずっとそうだったように、環境に依存している。心は孤立すると栄養が欠乏するのもそのせいだろう。しかし、自然に根ざしていれば、心と物質、脳と体の結びつきが得られないということは、まずないと思われる。しかしそれでも、少しでもチャンスが与えられれば、制約された通常の意識を超えて、超過激な空闇へと踏み出すように運命づけられているようだ。

 

 

 

 

群集

199統制

204

進化史上例を見ない爆発的な成長があった。百万年ほど前に膨張しはじめた人間の脳は、他のどの動物のどのに器官にも見られないほどの速度で、大きく複雑になっていった。成長は欲望を呼び、頼みもしないのに与えられた贈り物のパラドックスにより、未だに私たちは欲望という悪魔に振り回されている。この脳の進化のもう一つの特徴としてほぼヒトの全種族同時に起こったことがあげられる。種全体に同時に何かの危機でもおとずれたのであろうか?

第6章 分離


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第3部 惑星


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地球にはなにか奇妙なところがある。いや、奇妙なところがやたらとある、というのが本当だろうそれらを総合すると宇宙の変わり者、宇宙のあらゆる法則の例外的惑星という像がうかびあがってくる。

 熱力学の法則にしたがえば、地球はとっくに平衡状態に達しているべきであり、地球ほど古ければ表面は高温度の塩水におおわれ、二酸化炭素が大部分を占め、沸騰点に近い温度の世界になっていて当然。とっくに生命は絶滅していてもおかしくない。酸素と窒素の爆発性のふたつの気体も結合もせず、バランスをたもっているのも奇跡的だ。

 矛盾は前から見えてはいた。しかし、あまりに大きく立ちはだかりあまりに明々白々としていたため、目に入り難いものがあるが、これもそういう類のことであったらしい。一九六九年までそれには名前さえ与えられてなかった。まったくものを見る能力は空気が澄んでいるかどうかより、心が澄んでいるかどうかにかかっていると思い知らされる。

 その年J・E・ラブロックがこんな指摘をした。この地球の大気や海の塩分の安定は、偶然ではなく生命が自らのために創造し維持してるというのである。この地球上の微生物から植物、高等生命体にいたるまで、ありとあらゆる生命が、いちがんとなって、地球環境の保つために働いているというのだ。

 彼は、地球を一つの生きた生命体としてとらえそれを「GAIA」と名付けた。操縦士も目的もなく永遠に太陽の内軌道を巡り続ける、狂った宇宙船という気の滅入る地球像に代わる、生物的なイメージとして地球をとらえたのだ。

 GAIAは私達が意識して始めて誕生した最も巨大な生命体といえる。





 彗星は雪合戦のときの雪玉みたいなものだ。いずれ全部溶けてしまいあとにはなにも残さない。この彗星もどうやら、GAIAの誕生に手を貸したらしい。ここから地球に到達した物質もいくらかあるようなのだ。

 彗星と地球が直接接触したことはないが、彗星には尻尾がある。一九一〇年にはこの有毒の尻尾の中を地球が通過すると発表され、誰もが窒息してしまうほどのパニックになった。実際には予測ははずれ地球にはなんの影響もなかったが、これほど地球と彗星は接近する。

 彗星からやってきたものの候補の一つが、空気と水だ。昔地球と彗星が接近したとき引力の強い地球が彗星からもぎ取ったようなのだ。



 水にはほかの物質にない特性がある。

 まず液体より固体の方が軽いことだけで通常の物質の状態を覆している。もし氷が通常の物質と同じに、水の底に沈んだらどうなるだろう? 年々水の底から氷がたまって、すべての海すら氷の塊になってしまっただろう。当然そんな所に生物は生まれなかった。氷はそれどころか、潮や、池の表面に浮かんでは保温の役割すら果たしているのだ。

 沸点についても通常の分子量にあてはめれば、零下百度で凍り、零下九〇度で沸騰するはずだ。そうなると水は私達の体温で沸騰してしまい、地上は何処も彼処も水煙がただ立ちこめる世界となる

 分子結合も比類なく強い、あまりに多くの水素結合をしているため、コップ一杯の水は一つの巨大な分子のようなものである。この結合の強さは、水同士では表面張力になってあらわれるが、他の物質とも強力に結合しようとする。例えばコップに水が半分のときにはそのガラスの縁を少しはい上がるのも、ガラスと結合しようとしているからである。

 実はこの何とでも結合しようという作用があってこそ、私達の血は体中に染みわたることができるのだ。水のもっともリラックスした温度が、哺乳類の体温とぴったり符合する三五度から四〇度の間であることも、水の特徴が生命を育んだことをうかがわせる。

また水は並々ならぬエネルギーの塊でもある。はかのどんな物質よりも多量の熱量を吸収し発散する。たった一リットルの水にも、六〇ワットの電球を百時間も点灯させておくだけのエネルギーを蓄電でき、いまでも宇宙船の長期発電機の燃料として使われている。水のエネルギーは液体から固体に変化するときその一部が放出される。寒い夜に温室の中に、水を満たした桶をおいておくと、水から練るときに発散するエネルギーで、温室の中は外よりも暖かくたもたれるのはこのせいだ。同じように、気体から液体になる時、水蒸気から水になる時もエネルギーを放出する。水蒸気の塊である雲が雨を降らすとき吹く風や雷は、時には原子爆弾にも匹敵するエネルギーを放出することからも、水のエネルギーの強さを感じる。

水は時間さえかければ最も強固な金属さえも溶かすほど苛烈であるが、同時にあまねく生命を支える寛大さを持っている。この霊妙なるものをもっと深く理解したいものだ。





 錆や火の例でも分かるように、酸素は反応性の高いガスである。

 すばやく他の分子と結合し、全てを容赦なく一方的に酸化させていく。もともと酸素は毒なのだ、私達は毒ガスの中で生まれたといってもいい。ところが、この毒がないと生きて行けないが、実際には何十ものフィルターにより酸素は分解されて、直接接触はされてない。酸素を利用しているにすぎない「純好気性生物」が私たちだ。

 では「純嫌気性生物」はどう進化したのか? 未だに原始的な虫(ウジや回虫)以上に進化してない。

 もともと毒であったものすら、進化の為に取り入れ、飛躍の鍵とし、ついには、毒に依存すらしてしまうところに進化の不思議な底なしの力を感じる。



 水と酸素がくまなく満たされてもまだ陸は「死の世界」だった。当時は生命にとって殺人光線的な紫外線がなんの障壁もなく降り注いでいたのだ。さらにこの有害な紫外線が有害な酸素にあたり、極めて有害な物質オゾンが地上を満たしていた。

 オゾンも昔は地表近くに充満し生けとし生けるもの全てを根絶やしにしていた猛毒だった。陸が生命の棲息範囲となったのは四五億年前にオゾンが酸素と喧嘩して空に昇ってからだ。

 いまではこのオゾン層により我々は有害な宇宙線から守られている訳だが、まさに、毒をもって毒を征しているといった、微妙なバランスの構図の中で、我々は暮らしている。

オゾン層の他にも、大気中の様々なガス層がスポンジのように、放射線を吸い取っている。しかも、このスポンジは無限に有害光線を吸い取る。大気中の元素の融合で次々と新しいスポンジがつくられているからだ。このプロセスの驚異には、まるで大気は偶然にできたのではなく、意図的につくられたもの、生物の利益になるように創造され、維持されているように思わさせられる。





 風が存在しなければ、地球の大部分は誰も住めない場所になってしまう。熱帯は灼熱の地獄と化し残りの地球は凍りついてしまい、湿気は海だけに閉じ込められ、陸地には砂漠だけが延々と続くと世界となってしまう。ところが風の攪拌のおかげで、地球は真に生きた存在たりえている。

 海もまた循環に大きく寄与している。地球を三〇Cmの球体とすると海の深さはこの紙の厚み程度しかないが、海流はあまねく海を流れ、水温は常に攪拌されている。いってみればエアコンと水冷冷却装置付きの惑星、それが地球だ。

 風と海は地球という惑星の血液循環と神経であり、エネルギーと情報の分配を司って無から有をなしている。

この循環が絶えることなく、うねることを誰しも望むのであろうが、今地球は徐々に自転を遅めつつあり停止する日がすでに計算でだされている。この時、我々の叡智になにかできるのだろうか?

第7章 観察

261水を発見したのは誰だろうか?少なくとも魚ではないようだ。あまり近くに有りすぎて、その中にひたってしまうとかえって発見できなくなる。その対象の外にいて初めて感じたり、見たりすることができる。

 しかし、人間の脳には特殊な能力があり、その中にひたっていてもそれを発見することができる。主観と客観を区別して、他人の立場に立って「自分にむけた行動」がとれ、自己を認識する。その鍵となるのは意識だ。

308アメリカの防衛網をコントロールしている化け物のような巨大コンピューターは、公式に「精神病」の診断が下っていて、いささか人間めいてきた報道もある。

第8章 描写

 

345超常物理学

新しい物理学のおもしろいところは、禁止されていることの全てが起こりうるというところだ。

349

全ての物は静止してなく、目の前で餌を食べているネコですら生きている確率は五〇%だとされている。

 科学にはもはや絶対的な真理はない。ますます混沌の中をさまよい、最近では科学の頼るところは、哲学的精神になってしまっている。

第9章 統合

 古い物理学は、世界をその構成要素に還元して考えた。

新しい物理学が、世界を過程としてとらえる。流動状態にあると見るのだ。

量子力学がマクロレベルの物質のふるまいについて直接的に説明できることはあまりないが、ひとつだけ、重要で一般性のある洞察をもたらした。つまり、世界をどうとらえるにせよ、そおれが断片的に見えるのは錯覚であり、ものごとは意外なほど密接につなかっていて、リアリティを時間とともに変化する全体としてとらえると理解しやすい、ということである。

 この洞察の盈虚は甚大だ。

もしリアリティーが川の流れるようなものなら、そのゆなリアリティに関する「知識」も流動的なものになり、固定的な真理の集合ではなく、ひとつの過程となる。

 とすれば、あらゆる知識は、思考のなかで生まれ、表示され、伝達sれ、適用されるので、思考もまた、同じ永遠の流れの一部とみなさねばならない。

記憶が思考するのではない。思考とは記憶に対する反応である。

知性もこの流れの一部なのであり、それは特定の細胞や分子に固定されるものではなく、リアリティと同様、同じ流れ続ける川から引き出されている。

言い換えれば、究極的には、心と物は切り離せないものなのだ。

リアリティは物体ではなく、むしろひとつの想念に近い。

地球精神 アースマインド

 

熱力学の三大法則を言い換えるとこうなる。

勝ち目は無い。どうやっても負けるだけ。しかも勝負は投げられない。

生命は、しかし、両賭けをしてのけるから、負けをしらない。まんまとルールを曲げておきながら、ゲームを成立させるのである。そしてこれこそが最良の生態学の本質だ。 

 地球生命圏(ガイア・GAIA)は生きて、意志があるのだろと私は思い始めている。

 我々は以前の人智より有利な点がある。1966年、ほんの20年前のことだ。宇宙から青い地球の写真が一万枚も送られてきた。その時、あたかも鏡をつきつけられたサルのように、おのれのすがたを見たのだ。その時、何かが、われわれの神経伝達にかかわる何かが、起こったのである。人類はガイアの神経系の、意識をもった一部となった。地球が自省する心を得たのは、まさにその日だった。

 

 

結論

 科学で説明できないことがある。そのような状況にあうと科学は、その時点で自身が分かっていることだけをスケールに、まだ分かってないことを、切り捨てる。(その後何度ひっくり返ったことか・・λ項しかり)

 求めらているのは、もう少し幅の広いリアリティの定義だ。特に人間が関与するとにある種のことが起こりうる可能性を含む定義である。

ウイリアム・ジェームス:「我々が目覚めているときの正常な意識は、意識の一特定のタイプにすぎない。それとまったく異なる意識の潜在的形態が、あるかなしかの薄いスクリーンを隔ててとりまいている。これらの意識形態を度外視しては、総体としての宇宙に関するいかなる説明も決定的とはなりえない。リアリティに性急な決着をつけうことを許さないものが、これらにはある。」

 私はもともと「悟り」や生まれ変わったと称する人たちの安易な答えには、懐疑的な方である。

とはいえ、生物学者としいうならば、時間と超え、空間にもアイデティティにもとらわれない、ある種の意識がときとして存在するのは、私も知っている。

 そういう意識状態にあるとき、人ははるかに大いなるもの、グローバルな心の生態系といえるものの一員であることから直接もたらされる知識を、自分に見出すことがある。

この状態は神秘的で言葉ではとらえきれないところがあるが、そのものは少しも現実ばなれしてない。大地に深く根ざしたこの状態は、何らかの自然のサイクルに浸りきったときにこそ訪れるものだ。

その体験は、文字通り、驚異に満ちている。そこで味わうのは、自然を超越するというよりは、むしろそれと強い一体感であり、自然のふところに暖かく迎え入れられる感覚だ。

私が「超自然(スーパー・ネイチャー)」と呼ぶあの類い稀なる体験の総体い私たちは帰り着くのである。


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