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創価学会とアンチ創価の架け橋コミュの御書のほとんどは、偽書である

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偽書と知りつつも、大勢の人を騙した人は極悪人です。

偽書なくして語ることのできない、日蓮正宗。しかし破門されてまで、その教義をほぼ踏襲する創価学会、偽書を知りつつ御書根本などといい、笑われてる


創価学会が、日蓮遺文の教条主義的解釈から「日蓮原理主義」と揶揄される程の独善的・排他的教義を構築していることは周知の事実ですが、創価学会が「御書根本主義」を掲げる以上は、その「文証」たる日蓮遺文の真贋如何が論議されることは必然の道理と言えます。

日蓮遺文集の中で最も権威有る書と言われる『昭和定本遺文』に収録されている日蓮遺文の総数は434編に及びますが、その内日蓮真撰とされるものは222編・真偽未決が157編・偽撰が55編であると一般では見做されています。

しかし、日蓮真撰とされているものの中にも偽撰の疑いが濃厚なものもあり、文献学上は真偽未決の殆ど全てが偽撰と見做されていますので、実に現存する日蓮遺文の粗半数が「偽書」だと言う事です。

文献学の分野に於ける真贋判定の技術は日々進歩していますので、これから益々、日蓮や彼の高弟(六老僧)の遺文に対する学術調査は進展することでしょう。


「偽書は、どういう理由で作られたのか?」


日蓮遺文に関して日蓮遷化後の「六老僧」の弟子達が、自流派の正統性を主張せんが為に、宗祖や派祖を騙って遺文を捏造或いは改竄したと見たほうが自然だと思います。

中には、信者の信仰心の鼓舞を目的とした悪意の無いものもあれば、自宗にのみ「宗祖日蓮の佛法」が相伝されたかの如く偽装する悪質なものまで様々です。

創価学会が自宗にのみ「宗祖日蓮大聖人」の佛法が相伝されたという「唯授一人血脈相承」の「文証」となる「血脈書」すなわち『百六箇抄』・『本因妙抄』は明らかな偽書です。

これらは日蓮真筆が無く、『本因妙抄』には大石寺日寺の写本が伝わっていますが、写本の経緯が詳らかならず、加えて筆跡が他の日時筆のものと相違が見らるので時代写本とは認められません。

また、文体に於いても後世の多くの加筆の形跡が認められ、資料としての信憑性はありません。

その他、『二箇相承』(『身延相承書』・『池上相承書』の総称)も、同時代の他の資料からは全く痕跡が認められず、写本と伝わるものも、その経緯が曖昧なため、多分に京都での布教の便宜上、興門流が捏造した可能性が指摘されています。

したがって、「日蓮=久遠元初自受用報身如来」とする「日蓮本物論」も「唯授一人血脈相承」なる大石寺歴代住職のみが「正嫡」とする根拠は「文証」上は皆無と言ってよいでしょう。

現在、創価学会教学部は、この問題についての外部からの問い合わせについては一切応じていません。

創価学会が唱えていた教義は日蓮の教えそのものではなく、後世に捏造されたもののようです。

その兆しは派祖日興の遷化直後からあり、やがて5代日時或いは9代日有の時代には、少なくとも「日蓮本佛論」の原型は形成されていたと見てよく、殊に9代日有の時に他門流(要法寺系)の僧であった左京日教あたりが、中古天台流の相承観を大石寺に移入して「唯授一人血脈相承」なる神秘的な相承観の基礎を築き、やがては江戸時代中期の26代堅樹院日寛が完成させたと見られています。

殊に日寛は日蓮が弘安二年十月十二に図顕したとされる「楠板彫刻本門戒壇大本尊」を日蓮一期の究極の曼荼羅であると評していますが、その学術的な根拠は無く、元日蓮正宗信徒らによって「贋作とされる問題提起」まで出される始末ですから、事によると日蓮正宗自体の宗教的な立場そのものを危うくしかねない情況のようです。

この際、日興遺文について簡単に触れておきます。

富士門流の「奥義書」と評される『就註法華経口伝』(『御義口伝』)は、富士門流の書物ではなく、日蓮遺文や日興遺文としては学術上は扱われていません。

最古の写本と伝わるものは日隆門流の日経が写本したとされるものであり、引用文献に関しては一致派日像門流の円明日澄の『法華経啓運抄』が最古のもので、いずれも日蓮遷化200年以降のものであり、富士門流には日興真筆はおろか時代写本すらありません。

所謂『御義口伝』なるものは、日蓮の『法華経』講義を弟子の日興が筆録したものであるかのように伝承されていますが、その痕跡は皆無なのです。

また、多くの信者が日興の著書と信じている『五人所破抄』・『富士一跡門徒存知事』などは、日興の筆ではなく、その弟子の三位日順・寂仙房日澄が書いたものとされていますが、日代写本と伝えられているものでも、その允可書に不審な点があり、後世に写本した京都要法寺の広蔵院日辰ですら日代の筆跡であることに疑義を呈しています。

http://chie.mobile.yahoo.co.jp/p/chie/qa/view?qid=1160574306

「百六箇抄」は偽書と実質的に認めていた日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨

http://anti-nichirenshoshu.m.doorblog.jp/article/35483650

法華初心成仏抄


1277年に日蓮が身延にいたとき駿河国の妙法尼に贈った書ということになっています。

内容として法華経が華厳・真言・禅・浄土などよりも優れており、大難を治す力があり、広宣流布できると予言しています。
また、折伏は粘り強くやることを指導しており、いわゆる下種仏法も解いています。

しかし、この御書は真筆がなく、古写本もありません。


出処不明の偽書・ニセモノということになります。

ニセモノということは、法華初心成仏抄に書かれていることが、必ずしも日蓮大聖人の思想や指導とは言えないということを意味します。


法華講員や創価学会員がよくこの御書の内容を持ち出してきますが、それは日蓮正宗および創価学会が都合のいいように信徒・会員を操るためのテキストに過ぎません。

日蓮の思想と言えないものを、さもホンモノのようにニセモノを信じさせる点から、これこそマインド・コントロールされている証拠です。

教団に教えられていることが100%正しいと錯覚したケースです。

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法華初心成仏抄
(御書 1307頁)
(別名『初心抄』『初心成仏抄』)
一、御述作の由来
 本抄は、大聖人様が弘安元(一二七八)年、五十七歳の御時に身延においてお認(したた)めになられ、駿河国岡宮(静岡県沼津市)に住む妙法尼に与えられた書です。
 御真筆が現存していないことや、御述作の年月日が欠けていることなどから、系年には異説もあります。

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法華初心成仏抄 (平成新編御書一三〇九頁)
弘安元年  五七歳
法華初心成仏抄(御書一三〇九頁)

問うて云はく、釈迦一期の説法は皆衆生のためなり。衆生の根性万差なれば説法も種々なり。何れも皆得道なるを本意とす。然れば我が有縁の経は人の為には無縁なり。人の有縁の経は我が為には無縁なり。故に余経の念仏によりて得道なるべき者の為には、観経等はめでたし、法華経等は無用なり。法華によりて成仏得道なるべき者の為には、余経は無用なり、法華経はめでたし。「四十余年未顕真実」と説くも「雖示種々道、其実為仏乗」と云ふも「正直捨方便、但説無上道」と云ふも、法華得道の機の前の事なりと云ふ事、世こぞってあはれ然るべき道理かななんど思へり。如何心うべきや。若し爾らば大乗小乗の差別もなく、権教実教の不同もなきなり。何れをか仏の本意と説き、何れをか成仏の法と説き給へるや。甚だいぶかし、いぶかし。
 答へて云はく、凡そ仏の出世は始めより妙法を説かんと思し食ししかども、衆生の機縁万差にしてとゝのをらざりしかば、三七日の間思惟し、四十余年の程こしらへおゝせて、最後に此の妙法を説き給ふ。故に「若し但仏乗を讃せば衆生苦に没在し、是の法を信ずること能はず。法を破して信ぜざるが故に三悪道に堕ちん」と説き、「世尊の法は久しくして後に要ず当に真実を説きたまふべし」とも云へり。此の文の意は始めより此の仏乗を説かんと思し食ししかども、仏法の気分もなき衆生は、信ぜずして定んで謗りを致さん。故に機をひとしなに誘へ給ふほどに、初めに華厳・阿含・方等・般若等の経を四十余年の間とき、最後に法華経をとき給ふ時、四十余年の座席にありし身子・目蓮等の万二千の声聞、文殊・弥勒等の八万の菩薩、万億の輪王等、梵王・帝釈等の無量の天人、各爾前に聞きし処の法をば「如来の無量の知見を失へり」云云。法華経を聞いては「無量の宝聚求めざるに自づから得たり」と悦び給ふ


《現代語訳》

質問いたします。釈尊が一生の間に法を説かれたのは全て人々を仏に導かれるためでした。人々の根性には違いがありますので説く法もそれに合わせて様々です。説かれる法に違いはあっても仏に導くことを目的としたものです。したがって、私のために縁のある教えであっても、他の人には縁のない教えであり、反対のこともいえます。そこで、法華経以外の念仏の教えによって仏に成ることが出来る者にとっては、観無量寿経等は尊い教えであり法華経は無用のものとなります。法華経を修行することによって仏に成ることが叶うものは法華経以外の教えは無用のものとなり、法華経のみが尊い教えとなります。「四十余年には未だ真実を顕さず」と説かれていることも、「種々の道を示すといえども、それ実には仏乗のためなり」と説かれるのも、「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」と説かれるのも、法華経において仏に成ることが出来る機根の人々のためにそのように説かれた、と世間一般では考え、もっともな道理であると思っております。これをどのように考えればよいでしょう
か。仮りにそのようであれば、大乗・小乗の違いもなく権教と実教の相違もないことになります。何れの経文に仏の本意を説かれたのか、何れの経文が成仏の法であると説かれたのか不審がますばかりであるが、如何でしょうか。
答えます。仏は現世に出世されたとき、直ちに法華経を説こうと思われておりましたが、人々の機根に多くの違いがあることから、二十一日の間深くお考えになり、四十余年の間に種々の方法を以て機根を次第に調え、最後の八年間で法華経を説かれたのです。故に、法華経の方便品には、「もし一仏乗の教えを説けば、人々は疑いを生じ、かえって法を謗り三悪道に堕ちる」と説かれ、また同じく方便品に、「仏は長い間方便の教えを説きその後に真実の教えを説く」とある通りです。この経文の意味は、最初から法華経を説こうと思われたが、仏道を求める心のない人々は、信じないばかりか反対に謗ることは明らかでありました。そこで、機根を等しく調える上から、最初に華厳経、二番目に阿含経、三番目に方等経、四番目に般若経と四十余年の間に順次教えを説き、最後に法華経を説かれたのです。この四十余年の法座で聴聞をしていた舍利弗や目連等の万二千の声聞や、文殊や弥勒等の八万の菩薩、さらには万億の転輪聖王や大梵天王、帝釈天王等の無量の天人も、爾前の時に聞いただけ
では、「如来の真実の教えを失うところでした」云い、さらに、法華経を聴聞して後には、「最高の宝を求めることなく自然に我が身に得ることが叶った」と悦ばれたのです。



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