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靖國神社(靖国神社)コミュの誰がために散る もう一つの「特攻」(3)

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【価値ある死】現代の命軽視 理解できぬ

産経新聞朝刊大阪版07年6月7日付社会面

 沖縄が玉砕し、いよいよ敗戦が色濃くなった昭和20年7月14日。大津島の回天基地では午前8時から「多聞隊」の決別式が行われた。搭乗員は錦織りの袋に収められた短刀を受け取ると、6基の回天が搭載された伊号第53潜水艦(大場佐一艦長)に乗り込んだ。

 海軍兵学校73期の勝山淳、兵科1期予備生徒出身の関豊興、甲飛13期の荒川正弘、川尻勉、坂本雅刀の5人に交じって竹林(旧姓・高橋)博(82)の姿があった。

 瀬戸内海はキラキラと輝いていた。伊53潜は沖縄とフィリピンの中間海域を目指して出航し、6日後にバシー海峡の東方海域に到着した。

 艦内で回天搭乗員は同室で待機する。読書や囲碁に興じながら、敵艦隊に遭遇するたびに交通筒を駆け上がり回天に乗り込む。そんな日が何日も続く。

 「まな板のコイどころではなかった。早く出撃させてくれ。毎日がそんな気持ちだった」と竹林は振り返る。

 遺書や日記をつけることも忘れなかった。関は人生記録の中で次のようにつづっている。

 <死は遂に免れるべからず。されば余は、永遠の生を求めん。(略)されど、死を決意し、それに着手する人間の心理過程は、決して簡単なるものでも、容易なるものでもない。それを苦しみながら、終に結論に到達する。それは人間という一事である>

■  ■

 大津島を出航して10日後の7月24日、戦車揚陸艦など17隻の大輸送船団を発見した。

 「回天戦用意」。艦長の大場の号令に、6人は交通筒を駆け上がって回天に乗艇した。午後2時25分、大場の指示で回天を艦に固定する固縛バンドが音を立ててはずれる。「発進」。勝山艇が出撃。約40分後、大場は潜望鏡で黒煙が立ち上る敵艦を確認した。

 引き続きバシー海峡東方海域で索敵を継続した伊53潜は29日、十数隻の大輸送船団のど真ん中にいた。川尻が出撃。約1時間後、大音響が響いた。17歳11カ月。最年少の川尻は遺書にこう書き残している。

 <身は大東亜の防波堤の一個の石として南海に消えゆるとも、魂は永久に留まりて故郷の山河を同胞を守らん>

 8月4日、頭上を駆逐艦が通過した瞬間、爆雷が至近距離で爆発した。伊53潜は回天の許容深度(40メートル)を超える80メートルまで急速潜航し、回避を続けた。爆雷が至近距離で爆発するたびに艦体は激しく振動し、艦内の器具は散乱。主蓄電池が破損し、一切の動力が停止、艦内の電灯は消えた。

 「われわれは回天で突入することを本望としております。このままでは死に切れません」。関の一言で大場の腹は決まった。

 残る4人の搭乗員は懐中電灯のほのかな明かりを頼りにそれぞれの回天に乗艇。訓練しなかった深度40メートルからの発進だ。午前2時半、関艇が出撃し、20分後に荒川艇が続いた。

 竹林の番がきた。大場と電話で話すうちに「少し頭が痛みます」と言った後、音信が途絶えた。竹林は操縦席で意識を失っていた。激しい爆雷攻撃で四塩化炭素の容器が破損してガスが艇内に充満、竹林は中毒で意識を失ったのだ。

 坂本の6号艇も機雷の爆発で酸素パイプに亀裂が入り、圧力計が下降。艇内の空気が上昇し坂本も意識を失っていた。

 伊53潜は12日、大津島に帰還。3日後の15日に終戦を迎えた。

■  ■

 金剛隊として出撃した都所静世=当時(21)=は出撃前、艦内で義姉に遺書を遺している。

 <それにつけても、いたいけな子供達を護らねばなりません。自分は国のためというより、むしろこの可憐な子供たちのために死のう>

 竹林は現在、JR岩見沢駅から車で10分余りの老人養護ホームで妻と暮らす。

 「命令されたからといって死ねるものではない。国や家族を守ろうという気持ちがあるからこそできるのだ」

 「今の子供たちの考えが信じられない。価値ある死を選んだ者を見てきた立場では、それは命を軽んじることで理解できない」

 竹林は出撃前に受け取った錦織りの袋から短刀を取り出しながら、何度も表情をゆがめた。

 =敬称略
(宮本雅史)

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