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梁祝伝説-リャンチュウ物語コミュの宮崎滔天先生の紹介

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宮崎滔天 みやざきとうてん 1871〜1922 明治〜大正期の中国革命運動家。本名は虎蔵、白浪庵(しらなみあん)滔天と号した。熊本の郷士宮崎長蔵の8男として生まれる。兄に、西南戦争で戦死した熊本民権党の宮崎八郎、土地復権同志会の宮崎民蔵らがいた。1885年(明治18)に徳富蘇峰の大江義塾にまなんだのち、翌86年に上京し、東京専門学校(現、早稲田大学)英学部に入学した。

1887年にキリスト教に入信し、同年秋に帰郷して熊本、長崎などのミッションスクールでまなんだが、兄民蔵や無政府主義思想などの影響で89年に棄教した。もう1人の兄、宮崎弥蔵(やぞう)の中国革命主義に共鳴し、92年に中国に渡航。帰国後、日本に亡命していた孫文と親交をむすび、以後孫文の革命運動の支持者として活躍した。

1900年の孫文らの恵州蜂起の際、宮崎は武器調達につとめたが不発におわった。その後は一時、桃中軒牛右衛門と名のり、浪曲師となって窮民革命をうったえたりした。02年、波乱万丈の半生をえがいた自叙伝「三十三年之夢」を刊行。同書を最初に中国語訳した黄中黄の勘違いで「孫逸仙」(1903。孫逸仙は孫文の号)として刊行されたため、宮崎滔天の伝記が孫文の伝記になったというエピソードが知られている。05年の中国同盟会設立にも尽力し、その運動への援助をうったえる雑誌「革命評論」も発刊、また、中国人留学生の援助にも力をいれた。

辛亥革命をへて、1912年(大正元)に南京でおこなわれた孫文の中華民国臨時大総統就任式に参加。晩年は「上海日日新聞」を中心に文筆活動に従事したが、堀才吉の開いた新宗教、大宇宙教に帰依(きえ)していた。なお、東大新人会創立者のひとりである宮崎竜介は長男である。著作は、宮崎竜介他編「宮崎滔天全集」5巻(1971〜76)がある。

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                             宮崎滔天【みやざきとうてん】
1870‐1922(明治3.12.3‐大正11.12.6) 中国革命の協力者。名は虎蔵(通称寅蔵)。熊本県生れ。熊本民権党の八郎,#土地復権同志会の民蔵,中国革命主義者の弥蔵は兄。大江義塾から東京専門学校に学び,キリスト教に入信。棄教後,シャム植民を経て中国革命運動援助へ。亡命中の#孫文と邂逅,終生親交し,活動を援助した。1900年10月の恵州事件失敗で,同志間の内訌から浪曲師となり,桃中軒牛右衛門を名乗り,「落花の歌」を演じ,02年半生の自叙伝「三十三年之夢」を刊行,中国にも多数の愛読者を得た。05年の中国同盟会設立にも尽力。雑誌「革命評論」で世論喚起に努め,中国人留学生援助などを訴えた。晩年は不遇。社会運動家の竜介(1892‐1971)は長男。〔全集・5巻・1971‐76〕

[株式会社岩波書店 岩波日本史辞典]

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