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Kulturtriebコミュの〔試験貼り付け〕毛の生える皮を纏ったヴィーナス

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毛の生える皮を纏ったヴィーナス

 あれは高校一年の頃。確か、新しい環境におかれた生徒たちが円滑な人間関係を築けるようにと配慮された遠足に行く際のバス内での出来事だったと思う。当時、私はまだ15歳のペーペーであった。だからこそ、今のように社会に対して疑問や批判を投げかけることもなかったし、世間でいうところの「ジェンダー」――社会的に定義された性役割――を口実として、世間の様々な出来事や、常識とされていたものに懐疑を抱くこともなかった。              

 つまるところ、社会が<現実の生々しさ>を隠蔽し続けることによって作り出されてきたもの。我々男性が見出してきた女の表象を純粋にも信じていたのだ。今現在の、私の思想体系や人となりを知る人ほど、この話を読んでしまうと、こみ上げる失笑を押し殺すことが苦痛になるだろうが、私にもこんな<純>な時代があったという点に思いを馳せながら、連々と続く一文を読んで頂きたい。

 当時の出来事に話を戻すのだが、遠足の目的地にはバスで向かっていた。高校という新しい環境の、新しいクラスにおける初めての行事である。当時、まだ純であった私もまた、新しい環境の新しい仲間たちとの交流を円滑に進めるために、今では信じられないことだが当世のポピュラーミュージックのヒットチャートを丹念にチェックし、ヒットチャートの上位を占める楽曲をテープに録音したものを用意していたのだ(!)。これは、現代の若者たちにとって、ポピュラー音楽を通したコミュニケイションが如何に重要なウェイト占め、また一方で同輩間のコミュニケイションをとるための容易な手段であったかを示す一例であるのだが、そういった点については、またいずれの機会に論じていきたい。

 まず認識して頂きたいのは、当時の私がこれまたえらく商業的なコミュニケイション手段に参与している位に純だったという点なのだ。そして私は見てしまった。ある女子の肢体を。半袖のポロシャツから見えたワキの状況を……私は見てしまったのだ。毛皮を着たヴィーナスという高尚なシロモノではない。腋毛の生えたヴィーナスを見てしまったのだ! そして、何かこう…(男性社会)における禁忌[タヴー]を垣間見てしまったことによる劣情感を強く喚起されてしまったのだ。

 禁忌に関する部分は、これから述べていく点でもある。また、別稿――「老化変身、または老人と性」――にて、老人女性が性欲を表明することはグロテスクであり、忌避される行いである。そういった表明は、絶対的な社会や集団の側から絶対的な否定を突きつけられる。つまり、性から切り離された聖母としての老マリアは、絶対的な承認を持って社会や集団の中に迎え入れられる。しかしながら、老いてもなお淫蕩に浸ろうとするマグダラの老マリアという人物像は誰にも期待されていないし、絶対的な否定の下に、化外の者(例えば山姥)として扱われる。といった趣旨の文を書いた。

 強調しておきたい点は、これから述べる禁忌性や、別稿で指摘したマグダラの老マリアの不必要性は前述したように、男性社会によって、ないしは男性の理想に即した形で性対象(Sexual object)と化した女性の身体の規範に基づくものであるという点であるというものだ。前述のことを捕捉する形になるが、ここで一つ、女性の皆様に対する弁明を行うことをお許し頂こう。<我々>、ヘテロセクシュアルな男性たちの世界は、陰毛以外の毛が生やした女性の身体というイメージが常々支配的な傾向を示している。陰毛以外の毛を生やした女性は様々な文化テクストの中、例えばグラビア写真やテレビ番組、ピンナップにアイドルのイメージビデオ、ポルノグラフィといった領域内に群雄闊歩することは許されないのだ。もし、それが許されるとするならば、それは見世物ないしはフェティシズムの領域に留まるものであろう。

 一例を挙げるならば、脛毛や腕の毛・・・そして臍毛[ギャランドゥ]といった、女性たちにとってはムダ毛として認識される体毛が顕在的に生えている女体。つまりは自然的な女性の身体を目の当たりにしてしまうことは、陰毛以外の体毛が<事実上>見えないものとされている性的対象としての女性の身体に慣れ親しみ、もしくは、そういった女体の表象ばかりを享受してきた男たちにとっては、ムダ毛を生やした<自然的>で<生々しい>女体というものは実にトラウマティックに映ることだろう。

 聖・マゾッホ氏は、代表作である『毛皮を着たヴィーナス』の中で、豪著なる動物の毛皮を身にまとうミストレスを描いてきた。よくいわれることだが、動物の皮――毛皮だけでなく、レザー製品は酷くサディスティックな要素を持っている。レザーの魅力というか、我々の眼に映り、我々が感じる特徴的なイメージ常々サディスティックなものである。

 「素肌にレザーをフィットさせた時の快楽は、おそらく想像以上だろう。その質感は煽状的であり、内部に眠っていた欲望を強烈に呼びさます。それはおそらく、レザーが動物の屍体の一部であるからだろう。コットン、シルクといった素材は植物繊維であり、有機的な生死とは無関係だ。しかもそこには”殺した”というサディズムの影がつきまとう。ほぼ同じ生態系をもつ獣を殺したという行為、獣の視が一枚のレザーには刻印されている」――北原童夢『フェティシズムの修辞学』,35:頁。

 話を毛、いわゆる<ムダ毛>の方に戻したい。男性によって性的対象とされた女性の身体が有する体毛を制限すること。つまり、陰毛以外の毛を男たちの目に映さないようにするという慣習は、先にも述べてきたように男社会によって形成されたものであり、理想的というよりは、男性社会に則した形で形成された、常識的な女性の身体イメージよって形成されたものである。女性の体毛に限った話ではないのだが、我々が常識的なものだと思っている多くの事柄、例えば恋愛・男女関係の理想像や、男らしさ/女らしさのイメージ、諸外国の特徴に関わるイメージ、世論の状況、その他多くの事柄は、多かれ少なかれ我々を取り巻くメディアのコンテンツに影響されていることが多い。

 ポピュラー音楽、特に甘いラブ・ロマンスを主題にしたポップソングが、トレンディドラマと同様に当世の若者たちが思考して実践するような恋愛観に対して、多大な影響やマニュアルを与えているという点はよく言われるものである。身近なところに存在するポップソングの歌詞やプロモーションビデオがマニュアルの役割を果たすケースは多いと思われる。特に、カラオケではプロモーションビデオと歌詞を同時に見ることができる場合があるため、前述した影響の効果を熟考することは、決して無駄ではないだろう。話が毛から離れ始めているので、再度、ムダ毛の話に軌道修正を行いたい。

 例えば見世物小屋の「熊女」などは、毛を生やした女性が如何に奇異であるか、もしくは禁忌性を有しているかを説明するための好例である。熊女は一般的には多毛症の女であると考えられている。多毛症とは、女性の体毛が男性と同様に、ないしは男性以上に成長するという症例であり原因の一つとであり、その原因としては男性ホルモンの過剰分泌が考えられている。そして、熊女は、小人やダルマ、ふたなり半陰陽などと同様に奇形を売りにした見世物であった。

 性同一性障害は、いわゆるGID〔Gender Identity Disorder〕――心の性別と身体的な性別にズレや違和を持っている人たちの総称である。GIDは「障害」と称されるように、便宜上は精神病を検査する際に用いるDSMに照らし合わせて診断される疾患である。GIDを巡る問題は複雑かつ、非常に入り組んだ問題でもあるので、またいづれ誌面を割いて論じていく予定であるが、次に例として提示するのは、トランス・セクシュアル〔Trance Sexual〕――性を越境する者/性転換者――である。TSはトランス・ジェンダー(Trance Gender)包括的なカテゴリーに含まれるひとつの括りでもあるため、一般的にはTGという言葉の方が広く流通しているように思える。捕捉的に付け加えるならば、TGはTSだけでなく異性装者を指すクロスドレッサー(Cloth Dresser)や、同意味を持つトランス・ヴェスタイト(Trance Vestite)、そして半陰陽(Inter Sex)といった性的少数者(セクシャルマイノリティ)を含んだ言葉になることもある。

 本筋を大きく外れていくと思うので、各セクシャルマイノリティの説明は省略させて頂く。各種セクシャルマイノリティに興味を持った読者諸氏は、MTFのGIDである宮崎留美子さんの『私はトランスジェンダー』や、新書版なので読みやすく入手も容易な伏見憲明さんの『性のミステリー』、そして自らを「女装家」と称し和服の着用を推進する三橋順子さんが共著者として名を連ねる『トランス・ジェンダリズム宣言』などを参照のこと。私は後述するが、大学3年〜4年頃、一時的にではあるがセクシャルマイノリティに関わる研究を行ってきた。現在にいても、問題関心こそ残っているものの、関わりは随分と薄いものになってしまい、TGやセクシャルマイノリティを巡る議論や文献については当時の記憶や資料を頼りにしているため、現在的状況とのギャップがある可能性があるので、そういった点には気をつけていただきたいと思う。

 さて、トランス・セクシュアル(Trance Sexual)についても細かい説明は省くが、簡略化して説明を行うならば、心の性(性自認)と身体的性の不一致に対して、非常に強い違和感を持ち外科手術によって性の転換を望む人たちである。男性へのトランスを望む女性(Female to Male)であれば乳房の切除、男性ホルモンの投与、擬似的男根の装着などの外科手術や、心理面をも含めたアフターケアを長期間続け、緩やかな性の越境を行っていく。ホルモンの投与や外科手術などは様々なリスクを伴うのだが、ここでは詳細について触れないので、GID/TSの当事者たちによる著作を参照して頂きたい。代表的なものとしては、ドラマ『3年B組 金八先生』でGIDの生徒をテーマにした回があったのだが、生徒のモチーフとなった「虎井まさ衛」さんの著作などがある。

 話は再び毛に戻る。大学時代にTGやセクシャルマイノリティに関わっていたことは前述した。その流れの中で、TG当事者で、FからMへのトランスを行っている過程にある男性(元女性)にインタビューをする機会があった。インタビューの中で最も印象に残っているエピソードに毛の話がある。ムダ毛ではなくヒゲなのだ。インタビューを行った当事者の方は、トランスする中で顕在化したヒゲに対する関心――顎の周りに<男らしい>無精ヒゲ、鼻下のヒゲが濃く、しっかりと生えてきたということについて、憧れてきたものに手が届いたというような喜びを語ってくれた。

 この話も余り深入りしないが、TGは全般的に「男/女らしさ」を強く意識していると指摘されることが多い。元は彼女という呼称が充てられていた現在の<彼>も同様に、ヒゲという男にのみ許され、生やすことを承認された毛。つまりは男らしさを構成するためのモチーフのひとつに憧れを持っていたというわけだ。

 男たちは恥部以外に毛の生えたヴィーナスを欲しておらず、自らのアゴや鼻下に生えるヒゲに対しては厄介もの、ないしは清潔な身だしなみを維持するために駆除しなければならない<侵略者>という認識がある。私事であるために、多くの男性がそういった経験を持ったことがあるとは言い切れないが、思春期前後の少年たちもムダ毛に対する嫌悪を持つことがある。私も経験があることだが、生え始めた脛毛や腕毛、腋毛に腋毛などを忌避して抜いたり剃ったりといった<処理>を行うのだが、御周知の通り、体毛はヒゲ剃りなどで剃ってしまうと、さらに多量の体毛が生えてしまう。そのため、体毛の再生産に気づかずに体毛を剃り続けると…ふさふさと生い茂った体毛が体を征服し、男らしさ――体毛が隠蔽され、全体的に丸みを帯びた女性の身体に<キレイ>という形容詞使った際、<キレイ>に対比させるところの<キタナイ>というイメージを錯覚的に感じ、悲観にくれると共に、自らの男としての身体を嫌が応にも承認する必要に迫られる。

 その一方で、女らしい身体を忌避して、男に憧れる女性はTGでなくともヒゲや体毛に対する憧れを示す。顔に生えるヒゲなどは男性ホルモンなどを投与しない限りはうぶ毛よりも立派なものを生やすことは難しいだろう。しかし、体毛程度ならば手入れを怠り続ければ男と同様とまではいかないが、それなりのものを生やすことは可能だ。だが、これまでに繰り返してきたように、性的対象として女性の身体を眺め、それを欲望し、所有し、触り、舐め上げ、吸い付きたいと欲求する男たちは体毛を生やしたヴィーナスや腋毛を生やしたヴィーナスなどを望んではいない。ヴィーナスが生やすことを許される体毛は唯一、陰毛のみである。

 体毛を生やすヴィーナスを望まないという嗜好は、何も男たちに限った話ではない。体毛を生やしたヴィーナスという表象に限らず、性的対象となった女性の身体を巡る問題はエロティックな要素〔the erotic〕に突き動かされた男たちの視線だけでなく、男たちの視線と共謀関係を持ち続ける女たちによって維持されていく。しかし、全ての女が総じて共謀的というわけではない。ある女にとっては狡猾で戦略的なものであり、ある女にとっては懐疑することのない常識であり、またある女にとっては違和感を持ちながらも社会との折り合いをつけるために受け入れ、自分を馴致させる必要のある関係なのだ。

コメント(3)

人体に関する美的感覚は本当に社会的なものに左右されますね。
体形と毛はその最たるものでしょうか……。
中性的なルックスで踊りまくっていたとあるバンドの人が、再結成後に腋ツルッツルにしてた際は時の流れを強く感じさせられましたよ……(笑)

以前、ハリー・クラークが描いた『アッシャー家の崩壊』の挿絵で、少女に腋毛がかかれていたことにえらく驚いた覚えがあります。
あと、こっちはうろ覚えなのですが、肉付きのいい体や髭(と称される産毛)が『成熟した女性(熟年女性?)』のイメジと結びついているような記述も何処かで読んで驚いたような。
自らも毛の生える皮を纏ったメスでありながら、矢張り「無駄毛」は受け付けませんよって、最終パラグラフに深く頷く次第です。
というかそも私の場合性的なものは大概アウトなのですが(笑)


余談ですが、今、しりあがり寿の『ヒゲのOK薮内笹子』が脳裏をよぎりました。……彼、体臭がすっごい王女様が主人公の短編漫画も書いてました……。
体毛と体型は、その最もたるものでありましょうな。美という曖昧な髄年は、社会や我々を取り巻く様々な事象によって刷り込まれたイメージから、我々が見出す表象であるといえましょう。

なんか、信憑性の無い話によると、仏蘭西人女性は腋毛を剃らないとかどうとか……まぁ、男性主導によって作られた女性の身体というものは、男性だけではなく、女性にも。加えて性転換を求める人たちにとっても等しく作用してしまうわけなんですね、いやはや。

たまには性的なものをセーフにしてみると、サド侯や性マゾッホ氏の哲学体系に対する見識が広がると思われます。いたずらに性的なものに対してではなく、哲学体系を有した性的要素に触れるべきですヨ。
仏蘭西もエピラシヨン(脱毛)コースあるから、やっぱ、剃ってると思いますが。まあ、かなり立派な髭が生えてる女史も多々見かけるわけで、脇くらいモジャモジャかもですなぁ。

私は、オリンピックなんかで、つるっつるの水泳選手♂をみると、発情します・・・。

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