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クトゥルー神話創作小説同盟コミュの神話症候群(後編)

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 制限速度を無視して寺岡久遠の家へ急行した。
 玄関は無視して裏へ廻った。
 庭に面したリビングの窓が割られ、ガラスが床に飛び散っていた。
 私は靴のまま部屋の中に入った。
 リビングにも無数の偶像が置かれていて、侵入者へ無言の視線を向けていた。
 壁に取り付けられた小さなスピーカーからは「防犯装置ガ作動シマシタ、せきゅりてぃせんたーヘ通報シマス」という自動音声が流れつづけていた。
 隣室に通じるドアが開いていた。何かが動き回っている気配があった。
 ドアの影から様子をうかがうと、見えたのはプロレスラーのような大男の背中だった。黒いレインコートを着て、頭までフードに被われていた。
 そこは書斎らしく大きな本棚に囲われた部屋だった。棚の中には書物も多かったがそれ以上にたくさんの偶像が並べられていた。
 大男が手を振り上げた。波型の刃のついたナイフが握られていた。
 机の上には寺岡の太った身体が横たえられていた。その胸へナイフが振り下ろされようとしていた。
「やめろ!」私は腕をつかんで止めようとした。
 だが、大男の怪力は留めようもなく、その腕は振り下ろされた。
 寺岡はすでに絶命していた。何度も刺された後で胸は血まみれだった。
 大男は造作なく腕をひと振りしただけで、私を跳ね飛ばした。
 私の背中は壁に激しく打ちけられた。息が詰まってその場に座り込んだ。
 さらに大男は何度かナイフを振り下ろすと、死体の傷口に手を突っ込んで何かを取り出そうとしていた。それは奇妙な手だった。手の甲には緑色の鱗のようなものが見えた。指の間には水かきのような鰭がついていた。そんな手袋があるのだろうか?
 奇怪な手はついに寺岡の体から心臓を取り出ていた。動脈から滴る血を口で受けようと大男は上を向いた。レインコートのフードがずり落ちて頭部があらわになった。
 それは半魚人の顔だった。はじめはパーティー用のマスクかと思った。だがそれにしては鱗が首まで密着している。映画のための特殊メイクだろうか?
 半魚人は牙をつきたてて心臓を食いちぎりはじめた。それはどう見ても本物のモンスターだった。
 心臓を食い終えると巨体の半魚人は、足元にあったポリタンクを取り上げ、中の液体を机の周囲に撒き散らした。灯油の匂いがした。
 床にはもとは机の上にあったらしい書類やファイルなどが散らばっていた。あの邪神像もそこに転がっているのが見えた。
 半魚人は書類を一枚手に取るとライターで火をつけ、床に放った。そして邪神像を拾い上げると素早く部屋を出て行った。
 あっという間に火は燃え広がった。
 立ち上がろうとすると背中がひどく痛んだ。それでも何とか這うようにして私は部屋を出た。寺岡の言っていた資料を探す余裕はとてもなかった。もう書斎全体に火が回っていた。
 私はやっとの思いで車に乗り込んだ。そこへ警備会社のマークをつけたピックアップ・トラックがやってきた。トヨタのツンドラとかいう妙にバカでかい車種だ。SWAT隊員のような制服のガードマンが四つのドアからそれぞれ飛び出して寺岡邸の敷地へ駆け込んでいった。
 警察や消防への通報は彼らに任せることにしよう。私には警官相手に自分の見たものを上手く説明できる自信がなかった。私は静かに車を出し、その場を離れた。

 仕事場であり寝所でもある雑居ビルの一室にたどり着いてから、依頼人の安全を確かめる必要があることに気づいた。深夜だったが電話をかけると奥津深一はすぐに出た。
「一条寺さんですか、こちらからもかけようと思っていたところでした」
「何かあったのですか?」
「あの像が、戻ってきました」
「戻ってきたって、どういうことです?」
「私は眠っていたのですが、ガラスの割れる音で目が醒めました。見ると寝室の窓が割られ、そこにあの像が投げ込まれていたのです」
「あの邪神像がですか?」
「ええ」
「いったい誰が?」
「姿は見えませんでした。ベッドから出るのに時間がかかったものですから」
「奥津さんは無事なんですね?」
「ええ、無事は無事ですよ。病気は相変わらずですが」
 私は寺岡が殺されたことだけを伝え、一応気をつけるようにと言って電話を切った。
 あの邪神像は、寺岡の家から半魚人が持ち出すのを私は目撃した。その像が奥津のもとへ投げ込まれたということは、それを運んだのは半魚人ということだろうか。あるいは共犯者がいるかもしれないが。奥津も殺す気ならばその時点で襲っていたはずで、とりあえず今夜は危険はないと推測はできる。だが像を投げ込んだ理由は何なのか。呪いのため? だとすれば寺岡は刺殺しておきながら奥津には呪いをかける理由は何だろう。わからない……。いつの間にか私は眠りについていた。

 翌朝、寺岡の殺害を伝えるニュースを見て驚いたらしく添田仁郎が電話をかけてきた。事情を知りたいと言うので、あとで店を訪ねる約束をした。
 簡単な朝食を腹に詰め込み、ガレージからスカイラインを出した。
 まだ立ち上がると背筋が痛んだ。だが昨夜と比べればだいぶ良くなっていた。骨までは異常はなかったのだろう。今日もいい天気だ。暑いのか寒いのか気温がよくわからない。
 私は成城へ向けて車を走らせた。
 奥津深一の顔には、目と鼻の間を区切るように包帯が巻かれていた。両手も包帯で包み込まれていた。
「やはり、この像に呪われているのは確かなようだ。昨日、あなたに像を持っていってもらってから、じょじょにではあるが快方に向かっているという気がしたのだ。だが、昨夜、この像が戻ってからというもの、ぐんと体が重くなった感じがするのです。いっそ捨ててしまえばいいのかもしれないが、それではかえってひどいことになりそうな気もする。医者は頼りにならないし、霊能者のたぐいも私は信じていない。だから一条寺さん、この呪いを解くためには像を返すべき相手をあなたにつきとめてもらう以外にないのです」
 私は邪神像を受け取ってその家を出た。
 箱はなくなってしまったので、バスタオルでぐるぐるまきにしてトランクに入れた。
 昨日と同じルートで自由が丘へ向かった。

 千夜堂の店主、添田仁郎は店の奥で新聞を片手にテレビを見ていた。ちょうどワイドショーで寺岡久遠殺害事件について解説しているところだった。死体から心臓が抉り取られていたという猟奇性によって扱いが大きくなっているようだ。
 話題が変わると、添田はリモコンを手にして他のチャンネルをチェックしたが、事件について情報を流している局はなかった。
「新聞には載ってねえんだよな」新聞を畳みながら添田は言った。
「事件は深夜でしたからね、朝刊には間に合わなかったのでしょう」 
「まさかあの人が殺されてしまうなんてなあ……。やっぱり、あの邪神像のせいなのかねえ?」
「ええ、どうやらそのようですよ」
「あんた、何か知ってるのかい?」
「じつは昨夜、事件の直前に寺岡さんから電話があって、すぐに駆けつけたんですが、着いた時にはもう殺された後でした」
「じゃあ、犯人は……?」
「見ましたよ」
「警察には知らせたんだろうね」
「いや、それがねえ、警察が扱える相手じゃないんだ」
「何言ってるんだ。殺人事件なんだよ」
「そりゃわかってるが……、ところでねえ、添田さん。寺岡さんから何か聞いてませんか。その……半魚人のようなものについて」
「はぁ、半魚人。そんな話、聞いたことはないが。まさかそいつが犯人だって言う気じゃあなかろうね?」
 私は黙って添田の目を見、こくりとうなずいた。
「ばか言っちゃ困るよ。変装だったんだろう?」
「いや、確かに本物でした。心臓をむしゃむしゃやるところを間近で見たんだから」
「そんな、いくらなんでも……」
 私は自分の見たものを一通り添田に話した。「まあ、信じられないのも無理はないですが……。昨日、添田さんはあの邪神像は、宗教団体と関係があると言ってましたね」
「ああ言ったよ」
「その団体の名前は?」
「何だったかな。それも寺岡さんから聞いたんだが……。忘れてしまったな。確か『旧約聖書』と関係があるとか……」
「東京ダゴン教会では?」
「そうそれだ、思い出した。ダゴンっていうのはペリシテ人の魚の神なんだとか」
「魚の神……ですか」
「だからって、半魚人が出てきたって言うのかい」
「さあ、その関連はわかりませんが。教会の名は昨夜の電話で寺岡さんが口走っていたのです。教会の所在地などについて何か聞いてませんか?」
「いやあ、具体的なことは何も……」
「ここにパソコンはありますか?」
「ああ、あるよ」
「宗教団体ならウェブに情報があるかもしれない」
「じゃあ、ググってみるかね」
「ええ」
 添田はノートパソコンを待ち出して、検索サイトを開いた。
「まず〈東京ダゴン教会〉で」
 キーワードを打ち込んで検索ボタンをクリックした。
 結果の一覧には、東京にあるキリスト教系の教会の情報と、映画や小説に登場したダゴンという怪物の解説ばかりが並んでいた。
「東京ダゴン教会ていうのは無いみたいだな」
「じゃあ〈ダゴン教〉だけにしてやってみましょう」
 今度は〈ダゴン教団〉や〈ダゴン秘密教団〉について書かれたサイトが数多くあった。だが、それらはすべて小説に登場する団体を扱ったものだった。
「ううん、何か他に手掛りは……、そうだ、じゃあ〈半魚人〉と〈目撃〉で。あんな化け物がうろついてるなら、どこか他でも目撃されてる筈ですよ」
 検索結果には世界のUMA目撃情報や怪奇映画についての記事が並んでいた。それらを順に見ていくと、あるブログの文章が目を引いた。
 そのページを開いてみた。それは千葉県在住の人物が地元で撮った風景写真を紹介しているブログだった。
 レンガ造りの建物の写真が貼られていて、下につぎのような文章が付いていた。

〈この建物は、以前は私設の水族館で入場料を払えば見学することができましたが、三年ほど前オーナーが代ってからは閉鎖されてしまいました。
 レンガ造りで窓ガラスが全部、丸い形をしているところが洒落た感じです。
 あと、この建物には半魚人のような怪物が出入りしているのが目撃されたという噂があります。じつはダゴン秘密教団の千葉支部なのかも……。〉

 地図情報のリンクもついていて正確な場所がわかるようになっていた。
「これかねえ、千葉だって書いてあるが」
「手掛りには違いない。少し遠いですが行って調べてみようと思います」
 他の検索結果には手掛りになるような記載はなかった。
「しかし、大丈夫かね。半魚人か何かは知らんが、人殺しでもやる奴らだろう。深入りしないほうがいいんじゃないかね」
「こっちは仕事なんでね。危険だからといってやめるわけにもいかない」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待ってな」
 添田は背後の戸棚の下のほうから何かを取り出した。
 それは三角形をした油紙の包みだった。ガラスのショーケースの上に置くと、ゴトリと重そうな音がした。
「開けてみな」
 私は手に取って包みを開いた。入っていたのは拳銃だった。
「へへっ、骨董屋にはこういうボーナスがあるんだよ」
 それは旧陸軍の制式拳銃、南部十四年式だった。
「なるほど、確かに骨董品だな」
「弾丸は四発入ってるが、発砲できるって保証は無い。まあ、いざという時、脅しに使うぐらいにしてくれよ」
 私は礼を言ってその銃をジャケットの内ポケットに収めた。

 水族館のある住所は千葉県井波市といった。聞いたことのない地名だ。イハと読むらしい。房総半島の外房側にある小さな漁港の町だった。
 問題の建物は曲がりくねった県道沿いの防砂林が途切れてそこだけ空き地になった所にあった。
 車を降りると潮の香りがした。耳をすませば潮騒まで聞こえてきそうだった。
 レンガ造りのその建物は写真で見たとおり、丸いガラス窓がいくつもついていた。配置が不規則なので2階建てか3階建てかよくわからなかった。
 正面に小さく頑丈そうな黒い木のドアがあった。近づいてみるとそこには金属製のプレートが掲げられていた。見慣れない読みづらい字体のアルファベットが並んでいた。何とか解読してみるとそれは“Tokyo Dagon Church”と書かれていた。つまりここが東京ダゴン教会だったのだ。
 ドアには呼び鈴の類は見当たらなかった。ノックをしてみる。しばらく待っても返事はなかった。ノブを捻ってみたが、鍵がかけられているようだった。
 裏へと回ってみると、そこには水の循環用らしい水槽やポンプなどがあり、その奥はスクラップ置場のようになっていた。
 敷地を区切るようにタイヤのないライトバンやボンネットのない乗用車が周囲に配置され、その中はテレビや洗濯機、プラスチックの看板や道路標識まで、ありとあらゆる廃材が山を成していた。割れた鏡が地面に散らばり、緑色の廃液が水溜りに流れ込んでいた。
 中央には一艘の船が台座に載せられていた。全長が10メートルほどもあるクルーザーだった。機関部のハッチが開けられエンジンが分解されていた。その様子はまるで廃品の再利用で船を別の何かに作り変えようとしているようだった。
 船に近づいていったところ、船体の影から人の姿が見えた。黒いレインコートを着た巨体、それはまぎれもなくあの半魚人だった。
 半魚人はこちらに気づくと、シューと威嚇するように息を吐き出しながら、のっそりと近づいてきた。
 私はジャケットの下から十四年式を取り出し銃口を向けた。「それ以上近づかないでもらおうか」
 だが、怪物は動きを止めなかった。私は足元を狙って引き金を引いた。
 銃声が響き、弾丸が土を跳ね飛ばした。
 半魚人はかえって怒り狂ったように突進してきた。
 右手の一振りで拳銃ははじき飛ばされた。南部十四年式はスクラップの山にまぎれ込んでしまった。
 左手が顔を狙ってきた。私は体を屈めて何とかかわした。
 すると背中をつかまれ、膝蹴りを胸に食らった。
 私は地面に倒れた。半魚人は腹を蹴ってきた。腕でガードすると、今度は足で私の顔を踏みつけた。
「うっ、ぐぐ」
 逃れようがなかった。すごい力だ。頭が割れそうだった。
 その時「シンゴ、シンゴ」と女の叫ぶ声が聞こえた。
 すると私を押さえつけていた足からすっと力が抜けた。
「シンゴ、部屋に戻っていなさい」
 女の声がそう言うと、半魚人は足早に建物の方へ去っていった。
 私は立ち上がった。声は上の方から聞こえた。そちらを見ると水族館の2階あたりの物干し台のようになったベランダから、女が手すりに手をついてこちらを見下ろしていた。長い髪と白いスカートが風に揺れていた。逆光になっていて顔はよく見えなかった。
「あなたは?」
「一条寺蓮、私立探偵です」
「そう、お入りになって」そう言って女は建物の中へ姿を消した。

 女が立っていた所の真下あたりに大きな鉄製のドアがあった。だが私は中へは入らず、いったん車を止めたところへ戻った。車体に寄りかかって息をついた。
 腹と頭が痛んだがひどい怪我はないようだった。
 トランクから邪神像を取り出し、水族館へ向かった。
 裏口の鉄のドアをくぐると、そこは倉庫のようになっていて正面にまたドアがあった。そのドアを開けると薄暗い通路があった。通路を進むと円形の広間へ出た。
 そこは二つの出入り口以外はすべてガラス張りの水槽になっていた。鮮やかな色をした熱帯魚や大きなクラゲなどが泳いでいるのが見えた。照明は水槽越しに淡く照らされていて、魚が通るたびに影が揺らめいた。中央に円形のテ−ブルと貝殻の形をした金属製の椅子が置かれていた。椅子の一つに女が腰掛けて待っていた。
 肩までかかる長い黒髪は光の加減のためか緑がかっていた。皮膚は青白く見えた。
正統的な美人とは言えないが不思議な魅力のある顔立ちだった。目は左右に離れすぎていて、鼻は小さく口は大きかった。首が異様に長く見えるのは、髪型と襟元の開いた服のデザインのせいだろうか。
「どうぞ、おかけになって」
 私は彫像をテーブルの上に置き、女の向かい側に座った。
「それで?」と女は尋ねた。
「東京ダゴン教会というものを探して来たんだが」
「それならここですわ」
「東京と名のついた教会が千葉にあるとはね。おかげで見つけるのに苦労した」
「成田空港もディズニーランドも東京とつくでしょう。だからここも東京なの」
「なるほど、そんな理屈か」
「それ」女は彫像に目を向けて言った。「わざわざ届けてくださったの?」
 私は像をテーブルの中央へ押しやった。
「あんたらの物だって言うなら返してもいい。その代わりいくつか質問に答えてもらいたい」
「ええ、なんなりとどうぞ」
「そうだな、まずあんたの名前だ、それからここの責任者は誰なのか」
「私の名は工藤瑠璃香です。責任者はそう、私と言っていいでしょう。ここで暮らしているのは私と、あのシンゴだけですけど」
「シンゴね、あの化け物はいったい何なんだ?」
「《深きもの》と呼ばれる存在です。私の体にも半分以上はその血が流れています。私たちは太古からつづく海神ダゴンに仕える一族なのです」
「太古からって……、あんたらは日本人じゃないってことか?」
「私たちの一族は地上の人間たちと混血し、ふだんは普通の人間として生活しています。日本でも他の外国でも。でも時に、あのシンゴのようにある年齢になると《深きもの》本来の特徴が体にあらわれる者もあって、そういう人は海へと帰り海底で暮らすことになります」
「シンゴってやつは、地上を出歩いてるじゃないか。人殺しまでやってる」
「ええ、私たちには守らねばならない秘密があるためです。寺岡久遠という人を殺さねばならなかったのも、彼が《大いなる秘密》に近づきすぎたためです」
「大いなる秘密……だと。何だそれは?」
「秘密を教えることはできません。それを知ればあなたも殺さなければならなくなります」
「殺人が許されると思っているのか?」
「私たちは一族を守らねばなりません。人間たちは私たちのような存在が地上にいることを知れば民族浄化の名のもとに虐殺をはじめるでしょう」
「虐殺だって、そんなこと……」
「現実にその様なことは起きています。アメリカのインスマスという町での事件を調べてもらえばわかるでしょう。それにあなただって、ピストルなど振り回していたではありませんか。ああいうものはこの国では違法ではなかったかしら」
「専守防衛。自衛する権利はある」
「それは私たちも同じことです」
「ふむ……、他にも聞きたいことがある」
「どうぞ」
「この像のことだ。昨夜、奥津さんのところへこの像を投げ込んだのはあんたらの仕業か?」
「そうです」
「なぜそんなことをするんだ。呪いが目的なのか?」
「呪いなどかけるつもりはありません」
「奥津さんはこの像を手に入れてから、原因不明の病気にかかっているんだぞ」
「ある意味では、病気を治すのがこの彫像の役割でした。奥津深一さんも今ごろはすっかり元気になられてるはずです」
「病気が治ってる?」
「ええ、ですからこの像も役目が終わって回収に行く予定でしたけど、あなたが届けてくださって助かりました」
「何なんだ、この像は?」
「これはクトゥルーの像です」
「クトゥルー……?」
「ええ、それ以上は言えません。《秘密》に関わることなので……」
 私は邪神像を残して水族館を出た。
 車に乗り込もうとした時、不意にザーッという空電雑音のような響きが耳を覆っていることに気づいた。やはり潮騒が聞こえるのだ。

 東京に戻った頃には、もう夜になっていた。
 彫像を本来の持ち主に返すという奥津深一からの依頼はこれで完了した。
 あの工藤瑠璃香という女は、奥津の病気はもう完治していると言ったが本当だろうか?
 電話で確かめれば済むことだが、なかなかかける気になれなかった。事件についてどう報告すべきか、自分の中で整理がつかないためだった。
 迷っていると奥津の方から電話がかかってきた。
「い、一条寺さん、頼みます……」聞き取りづらいくぐもった声だった。「来て、うちへ……来て、下さい」
「どうしたんですか?」
「話は、後で……はやく」
「すぐに行きます」
 私は電話を切って、車を出した。

 成城の家の前にスカイラインを止めると、ドアが開いて包帯だらけ体の上にコートを着た奥津が出てきた。また包帯の量が増えていた。額から首までと両手両足も覆われている。まるでミイラ男のようだ。
 奥津はよたよたと危なっかしい足取りで助手席へ乗り込んできた。顔は見えなかったが包帯の隙間の目の輝きは特徴ある奥津深一のものだった。
「ど、どうしたんです、いったい?」
「海へ……」
「えっ?」
「海へ行ってください」
「海と言ったって……」
「どこでもいいんです。海なら、お願いします」
「じゃあ、ここからだと品川あたりですかね……」
「ええ、どこでも、はやく」
 私は世田谷通りを渋谷方面へ向かった。
 運転しながら私は言った。
「あの彫像は東京ダゴン教会の工藤瑠璃香という女に渡しましたよ」
「ああ、そのことはもう……いいのです」
「体の具合はどうなんです。その女は病気はもう治っているはずだと」
「そう、体は、たしかに治ったといってもいいでしょう。皮膚の方はまだ完全ではないですが」
「治ったんですか、それはよかった。しかし、なぜ海へ?」
「それは……、着いたらお話します……」
 渋谷近くで山手通りへ右折した。
 奥津は治ったと言うが呼吸は荒く、苦しそうだった。
 しばらくして奥津は話し出した。
「私の体を蝕んでいたもの……、それは、呪いでも病気でもなかったのです」
「じゃあ、いったい……?」
「血です。体の中で眠っていた血が目覚めたのです」
「血……」
「そう、今ではあの彫像の役割もわかります。あれは触媒でした。私の血を呼び覚まし、反応を早めるための……夢の中で語りかける声を聞いて、すべてが理解できました」
「夢で?」
「あ、もう海ではないですか?」
 車は天王洲のあたりまで来ていた。
「この辺は海というか、運河ですね」
「止めてください。あとは泳げますから」
「えっ、泳ぐって!?」私は車を止めた。
 奥津は車を降りると、私の方へ回ってきた。
「一条寺さん、今までお世話になりました」
「ちょっと、何をする気ですか?」
「私の本当の姿を見てください」そう言うと、奥津は顔を隠していたものを取りはじめた。衣服を脱ぎ捨て全身の包帯が外されると、そこにあらわれたのは、あの半魚人《深きもの》の姿だった。
「お、奥津さん……あなたは……」
「そうそう、探偵の料金は会社の経理の方に請求してください、手配はしてありますから。では、これで」
 もと奥津深一であった《深きもの》は手すりを乗り越えると、暗い運河へと飛び込んでしまった。
 しばらく沈み込んでいたと思うと、遠くの方に鰭のある背中が浮かんできた。その背は一度も振り返ることなく海へと泳いでいった。黒い水尾を曳いて。

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