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クトゥルー神話創作小説同盟コミュの陽神里奇譚?太陽神の堕ちた里(第四回)

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 シュブ・ニグラス・・・初めて耳にする名前だった。「天之日降神の姉に当たる女神の名よ」と晶子さんは事も無げに言う。想わず「待って、それじゃ黒羊観音は神道を取り込んだものなの?」と問うと、あっさり否定された。「そもそも天之日降神は日本起源じゃないわ」と。
 では、彼らは一体、何なのか・・・
 わたしは周囲を見回した。五つの壁に配置された他の仏像たちは、右手前の准胝観音と居るのは牛頭の神だ。シヴァの化身か何かか?左手前の不空羂索観音が一緒に居るのは馬の顔をして背に蝙蝠のような翼を生やした神だ。右奥の如意輪観音は魚の頭をした神と対になっており、黒羊観音の真後ろに位置する葉衣観音は山羊のような角に顎鬚を生やした老人のような顔の神と、左奥の白衣観音は猫の頭の神と対になっていた。観世音菩薩は、みな、見慣れた姿をしている。けれども対になっている彼等は何者なのか?
 わたしたちは本堂を出る事にした。スニーカーなので脱ぐより履く方に手間がかかるが気にならぬのは、慣れてしまっているせいだろう。確かに高校生くらいの時には、もどかしく感じる事もあったのだ。
 敷地の奥へ向かって進み、そして、又、驚いた。そこには、周囲からの照明の中、本堂の三倍以上はあろうかと言う巨大なお堂が浮かび上がっていたのだ。「大黒堂です」と、たけさんが教えてくれる。大黒堂と言う事は大黒様を祭っているのか?こちらは真上から見ると真円を描いて見えるのだと言う。開け放たれた入り口から入ると、又、“こちらで履物を脱いでお上がり下さい”だった。つい今しがた、苦労して履いたスニーカーを一挙動で脱ぎ捨てて上がると、顔の無い男女の神が迎えてくれた。男性神は真っ黒で筋肉の付き方や胸の部分からそうと判る。一方、女性神の方は真っ白で胸には大きな乳房が二つあり、頭部には鹿のような美事な枝っぷりの角があった。そして両者共、顔はのっぺらぼうだったのだ。そして、その向こうに大黒様は居た。だが、その姿は・・・
 最初は渦巻きでも模したものかと想った。抽象芸術の一種のようにも見えるその物体は、しかし良く見ると顔のようにも見えるのだった。横に立っている幟には“陽神里大黒”とだけ書かれていた。振り向くと、晶子さんは熱心に手を合わせている。わたしも手を合わせた。
その時だった。「そんな事はしない方が良い」と不意に耳元で男性の声がし、想わずわたしは身を引き、横でまだ拝んでいた晶子さんにぶつかってしまった。その男性は、天陽神社の本殿で見かけた神降荘に宿泊している人だった。良く見ると、かなり整った顔立ちをしている。美形と言っても良いだろう。「失礼、驚かせてしまったね。僕は東(アズマ)十郎。吾妻渓谷の方ではなく東(ヒガシ)と書く方のアズマだ。貴女と同じ観光客だ。それより黒羊観音の父神によく知りもせずに手を合わせるのは感心しないな」と、彼は言った。顔は綺麗だが、妙に失礼な人物だと想った。すると、多分、顔に出てしまっていたのだろう。「おっと、これは失礼をした」と彼は言い、次いで「この神は芸術の才能とか霊感と言ったものに深く結び付いた神だが、下手をすれば世界を破壊しかねない神なんだ」と言う。何だか聞いたような話だ。いや、少し前、晶子さんに説明された天之産日神と同じではないか。天之日降神姉妹の親神の・・・そこ迄考えて気付いた。黒羊観音は天之日降神の姉だと晶子さんは言った。それって、天之産日神の娘と言う事?それでは黒羊観音の親と言うのは・・・
不意に晶子さんがわたしを庇うように、或いは彼の前に立ち塞がるように、割って入った。「わたしは夜辺晶子と申します。この神様に対して何か含むところがお有りなのですか」彼女の声には若干の怒りのようなものが感じられた。すぐに東十郎と名乗った彼は、「ああ、貴女はよろしいんですよ。何せ、本土のヤベの分家の方ですし、それに何と言っても絵描きさんですからね。でも、この神様は下手すると地球を壊してしまう。それでなくても迂闊に拝めば発狂してしまう。その辺りを判っていて注意されている貴女方は問題無いのですが、彼女を巻き込むのはどうなのでしょうねえ」饒舌な男だと、わたしは想った。気に障る饒舌さだった。だから、わたしは晶子さんが何か言おうとする前に、彼女の横に立って言った。「わたしの行動と、行動する選択について、他人に指図して貰う必要はありません」この時、わたしは彼を睨み付けていたのだと想う。後ろにやや引くそぶりを見せた東十郎は、「兎に角、危険なのですよ。僕は警告しましたからね」そう言ってわたしたちに背を向けて出て行き、靴を履くのに少し手間取ってから・・・不器用なのか靴紐を結ぶのに少々時間をかけて、それから外へ出て行った。
折角の新年を楽しむ気分を台無しにされた気持ちで、わたしたちはお堂を後にした。いや、たけさんはどう感じていたのか判らなかったが、少なくともわたしは良い気分では無かったし、晶子さんも傷ついたような顔をしていた。東十郎。全ては彼の言葉のせいだった。一体、何の積もりなのか。
わたしたちは、神降神社へ行った。たけさんが、そろそろ忙しくなるだろうから帰ると言うのを聞いて、それなら役場で貰った行事の一覧に、神降講に依る雅楽の演奏と舞と言うのがこれからになっているから見てみたいとわたしが言うと、一緒に行こうと言う話になったのだ。
神降神社に行ってみると、相変わらず参道は縁日の露店で賑わっていた。夜通しやっているのだろうか?境内の中も結構な人だった。わたしたちは社務所へ向かった。中にはたけさんと同じ顔の女性が二人、わたしを見て異口同音に「あ、先程の・・・」と言いかけて互いに顔を見合す。わたしは想わず吹き出してしまった。
十数分後、わたしたちは社務所の中でコートや上着を脱ぎ、畳の上に胡坐をかき出されたお茶を飲んでいた。「ご免なさいね。何も無くて」と、わたしの正面で全然申し訳無さそうに言っているのが、長女で禰宜をしているまつさん。その隣で顔を赤くしてお客さんを上げる事など無かったので座布団を用意しておく事など想いつかなくて・・・と謝っているのが、末の妹さんで宮司のうめさん。本当に自分を飾らぬ人たちらしい。最初はこの神社の事などをわたしが聞いていたのだが、いつしか、わたしが今迄に各地で見て来た神社の話になった。何しろ元旦の度にあちこちに行っているのだから、訪れた神社の数も相当になる。それで、みなで茶を飲み菓子をつまんで談笑していると、不意に鼻孔を突く微かな臭気があった。食べていた菓子のかけらを畳にこぼしたフリをして顔を下に向けたが、わたしの足の臭いでは無いらしい。いや、足の近くに顔を近付けると多少の臭いはしたが、予想していた程ではない。それに、臭いが全然違う。嗅ぎ覚えのある臭いだったので、つい、自分の足の臭いかと想ったのだが、もっと何と言うか、全身が泡立つような、本能的な怯えを刺激するような、そんな異臭だった。だが、嗅ぎ覚えはある。ならば、何処で嗅いだのだろう?そこで想い出した。朝と夕方だ。いずれも何か生き物の気配があった。わたしは手近な窓を見た。すると、何かがサッ、と動くのが見えた。たった今迄、窓の外に何かが居たのだ。だが、晶子さんも、三姉妹も気付いた様子は無かった。すると、そこへ水干姿の、つまり巫女の格好をした少女があたふたと駆け込んで来る。慌てていて何を言いたいのかよく判らぬが、どうやら誰かが来ているらしい。途端に三姉妹の顔が曇った。何事だろう、わたしと晶子さんは席を外した方が良いのではないだろうか、と想う間も無く足音荒く闖入者が姿を現した。その姿に想わずわたしは、あら?と声を上げてしまった。東十郎だった。彼も同じ想いだったらしく、「何で、居るんだ・・・」などと呟いた。が、彼はすぐ勢いを取り戻すと、「おい、何をやっているんだ!結界が役に立っていないじゃないか!」と叫ぶように言う。途端に、うめさんが立ち上がって口を開く。だが、彼女が何を言おうとしたのかは聞く事が出来無かった。
「君は何だ、此処で何をしている?」不意にそう言う声と共に入って来たのは、天陽神社の宮司の谷部一郎さんだった。「そう言う貴男こそ、御自分の神社の方はよろしいんですか?姉神の封印は大丈夫なんですか?」東十郎が険のある表情で言う。「君には関係の無い事だ。まるで問題無いのだから、心配して貰う必要はまるっきり無いね」谷部一郎さんは、温厚そうな風貌に似合わぬ勢いで舌鋒鋭く言い返す。もしかしたら怒っていたのかも知れぬが、一方、東十郎の方は完全に怒っている様子だった。「全く何をやっていたんだ。その窓の外にザアアティスの落とし仔が居たんだぞ!」途端に三姉妹の顔が蒼ざめる。谷部一郎さんも、眼に見えて様子がおかしくなった。「どう言う事です?」と、まつさんが立ち上って谷部一郎さんに詰め寄る。何故、谷部一郎さんに?「すまん。失敗だった。ヤツ等、今年は役場の近くにも現れている」失敗?何の事だ?
うめさんが東十郎に向き直り「貴男は、何をご存知なのです?」と訊ねると、彼はポケツトから石のような物を取り出した。その表面に描かれた模様が眼に入り、気付いた時には、わたしは叫んでいた。「それ、天之日降神の封印!」天陽神社の本殿奥の床に描かれていたものとまるで同じ意匠だった。想わず口にしたが、その時迄、わたしはその模様が封印の模様だと確信していた訳では無かった。だが、東十郎が取り出して見せた途端、そうだ!と言う想いが、わたしの内部に噴き出していたのだ。「矢張りそうか!エルダー・サインを知っているのだな!」東十郎はわたしに向かって石を、石の表面に刻まれた真ん中に眼のあるヒトデのような印を見せる。だが、わたしは、知らぬと突っ撥ねた。本当なのだから仕方が無い。彼が信じようと信じまいと構わなかった。案の定、東十郎は追及して来た。「ならば、何故、天之日降神の封印だ、などと言った?」そこで、わたしは、貴男も天陽神社の本殿に居たのではないかと言ってやった。それから谷部一郎さんの方を振り向いて「宮司さんが奥へ入って行った時、床が見えたわ。その印の何倍もの大きさで床に描かれていた」さあて、これで丁と出るか半と出るか、いや、吉と出るか凶と出るか、かな?東十郎は一瞬押し黙ったが、「それならば深入りはよすのだな。今ならまだ間に合う」と静かな口調で諭すように言った。一方、谷部一郎さんと三姉妹は呆気に取られた顔をしていたが、まつさんが、みなを代表するように「エルダー・サインとは何なの?」と東十郎に問うた。「遙かな太古の時代に、エルダー・ゴッズと呼ばれる神々がもたらしたもので、実はこれには天之日降神を封印する力は無い」途端に、みなが怪訝そうな顔になる。「無論、天之産日神も封印出来はしない。だが、天之日降神の妹神が此の地で産んだ落とし仔たちくらいなら、跳ね除ける力を持っている。今、窓の外に居たヤツだ」その言葉に、わたしは、つい窓の方に視線を向けた。わたしだけではない。晶子さんと、水干姿の少女もつい視線をずらす。横では、谷部一郎さんと東十郎が何事か叫び合いながら、もみ合っている。「そのエルダー・サインとやらを、よく見せ給え」「君如き手を触れるものではない」どうやら、東十郎の手から谷部一郎さんが、あの石を取り上げようとしているらしい。不意に、わたしの足に何かが飛んで来て当たった。見下ろすと、あの石だった。途端に男二人が畳に這いつくばるようにして、石に向かって腕を伸ばす。二人の顔がわたしの足元に来ていてスカート姿だったら真っ赤になって逃げ出すところだ。もっとも、二人共、石に気を取られていてわたしにすら気付かぬ様子だった。石に向かって手を伸ばしたのは、二人、ほぼ同時だったが、不意に東十郎の方は顔をしかめると、石に向かって伸ばしていた手で自分の鼻を覆い、わたしを見上げた。その瞬間、谷部一郎さんの手が石に・・・いや、数センチ足りず、届いていなかった。東十郎の恨めしげな怒声が足元からする。「お前、女だろ。風呂ぐらい入れ!」わたしは真っ赤になると下に向かって怒鳴り返した。「失礼ね!先一昨日、いえ、その一日前に入ったわよ!」三十日の晩に東京発の夜行バスで来たのだが、年末は日帰り温泉などが早々に閉まっていて入浴出来無かったのだ。考えてみれば着替えもしていないか。下着や靴下も二十九日の晩に東京の友人の所に泊まり込んだままだ。わたしは頭に来て、下から見上げる東十郎の顔を踏みつけにしてやった。多少は手加減、いや足加減してやったのだが、彼は、うぎゃあ!と情けない声を上げて悶絶していた。そんなに痛かったのか、臭かったのか、いずれにしても、それ以上、彼には構っていられなかった。視界の隅で晶子さんが、ハッ、とした表情を浮かべるのが見え、わたしが振り向くのと窓が割れるのと同時だった。何かが飛び込んで来たのだ。子供くらいの大きさだった。それとも大型の犬くらいの大きさ?
「ザアアティス?」と、晶子さんが眼を見張る。飛び込んで来たものの正体は、晶子さんが“怒りの妹”と題する絵の中に描いた奇妙な生き物にそっくりだった。「違う!そいつはザアアティスじゃない。ヤツの落とし仔だ。エルダー・サインで追い払える」わたしの足元に転がった姿で、東十郎が叫ぶ。発音がやや不明瞭に聞こえたのは、鼻を押さえているからだ。本当に失礼なヤツだ。
ザアアティスなのかザアアティスの落とし仔なのか、兎に角、その変な生き物は飛び込んで来たものの、じっとしていた。だが、野生の生き物は、どう動き出すか判らぬもので、わたしは下手に動くと危ないと想い、こちらもじっと動かずにそいつの事を凝視していた。そいつの顔は、本当に向日葵そっくりに見えた。そいつは首を少しだけ動かすと見回すように向日葵状の顔を少しずつ横に向けて行く。その向日葵状の顔がわたしに向けられた時、わたしは何とも言えず、背筋がゾッ、とするのを感じた。まるで視線の嵐に当てられたような気分だった。途端にわたしは気付いた。ほぼ直感と言っても良いだろう。これは顔じゃない。複眼だ!眼なのだ。それでは、これは首ではなく蝸牛や巻貝の軟体動物などが備える触角なのだ。
だが、その眼で、何故、わたしを凝視する?わたしは、まるで自分が獲物として狙われているような居心地の悪さを感じていた。わたしは少しずつ横に移動した。まだせ転がっているらしい東十郎の何処かを踏み直してしまったようで、「何をする?漸くエルダー・サインに手が届くところだったのだぞ」と不明瞭な発音ながら恨めしげな声が足元でしているが、気にしている余裕は無かった。これも直感でしかないが、そいつに狙われている気がしていた。次にそいつが動く時は、わたしを襲う時だと想っていた。
その時だった。水干姿の少女が耐えられなくなったのか、いきなり外へ向かって走り出した。いけない!急に動いては!そう言おうとして間に合わなかった。全ては一瞬だった。そいつの顔、いや複眼の一つ眼が少女の方に向けられたと想うや光が炸裂した。少女の絶叫が響き渡る。生き物の複眼から放たれた強力な光と熱が少女の全身を直撃したのだ。少女の身体が、くたりと力を失って前のめりに倒れる。生き物の複眼は、その時、既にわたしの方へ向き直っていた。その複眼の根本に東十郎が飛びついた。その右手には漸く摑んだらしく、星型の印の石があった。石を、表面に刻まれた星型の模様を眼の裏に押し付けられた生き物は硬直し全身を痙攣させた。どうやら、あの石に刻み付けられた模様は本当に有効らしい。わたしは倒れている少女を介抱しようと跪いたが、既に少女は息絶えていた。背中に黒く丸い焼け焦げが出来ていたものの、少女の身体は焼けてはいなかった。どうやら此の生き物の熱戦で撃たれた衝撃に心臓か神経が耐えられなかったのだろう。可哀想に。わたしの身代わりになったようなものだ。彼女が恐怖に堪えかねて逃げようとしなければ、ヤツの最初の一撃は、わたしに向けられていた筈だった。
向日葵状の複眼を持った生き物は、完全に動きを止めていた。だが、戦いはまだ続いていた。東十郎は、その生き物にしがみつくようにして石の印を、彼の言うエルダー・サインを身体に押し付けている。そうしながら、彼は叫んだ。「今だ!殺せ!」その言葉に即座に反応したのは三姉妹だった。三人は一斉に東十郎に飛びかかったのだ。「何をする!」と騒ぎながら、彼の身体は畳の上に転がった。途端に向日葵状の一つ眼の生き物が動きを取り戻した。生き物の後ろの方で何かが唸りを上げて動いた。立ち上がりかけていた東十郎が、さっ、と伏せる。晶子さんが、谷部一郎さんを引き倒すようにして畳に転がる。三姉妹もわたしも咄嗟に伏せていた。唸りと共に空気を薙いで行ったのは生き物の尾だった。或いは尻から延びる触手だったのかも知れぬ。紐のような細長いもので、鞭のようにも見えた。わたしたちが伏せていなければ、お腹の辺りに直撃を受けていた事だろう。直撃された場合どうなるのか判らぬが、自分の身体で試してみたいとは想わなかった。もっとも、すぐに見当はついた。水平に薙いで行った後、今度は縦に薙いで来たのだ。東十郎を狙っていた。彼に酷い眼に遭わされて恨みがあるのか、彼を危険な敵とみなしたのか、殺す積り充分の攻撃だった。机が二つに切断される。畳も裂けた。上にあった座布団とコートも・・・あれは、わたしのコートだ。コート無しで宿迄帰るのは一寸きつい。第一、二年前に買ったばかりで、値段もそれなりにしたものだ。無職の身としては、かなり堪える。いや、それどころではない。わたしは咄嗟に横へ転がった。東十郎から離れるように。他の皆も東十郎が狙われている事に気付いたらしく。揃って、彼から離れようとしている。東十郎は素早かった。向日葵の眼の生き物の攻撃を転がって再びかわす。その時だった。谷部一郎さんが何やら祝詞らしきものを唱え始めたのだ。だが、生き物は気にする様子をまるで見せず、ひたすら東十郎を狙い続けている。
不意に空間に一人の女性の姿が浮かび上がった。少なくとも、わたしにはそう見えた。後になって考えてみると、他の人たちには、又、違ったものが見えていたのかも知れぬのだが、わたしには一人の美しく年若い黒髪の女性が見えていたのだ。うっすらと身体が透けて見え、下半身などは宙にかき消えてしまっているが、それでも強い生気の様なものが感じられるのだった。その女性は気のせいか東十郎を見ている様に想えた。そして、首を左右に振ったかと想うと宙に溶け込む様に居なくなってしまった。
「天之日降神の姉神様の神託が降った!」谷部一郎さんの宣言が飛んだ。「妹神様の御皇子(おんみこ)の御意志を邪魔してはならぬ!」途端に、東十郎は、ひ!と奇妙な声を上げて、外へ飛び出した。向日葵の瞳の生き物も彼を追って外へ飛び出す。わたしが、恐る恐る外へ顔を出した時には、東十郎の姿もあの生き物の姿も無かった。外には大勢の人々が居た。不意にその人たちの一人、腰の曲がったお爺さんが、谷部一郎さんを指差して言った。「あんた、今、姉神様を動かせなかったな!」谷部一郎さんは苦しそうな表情で、「姉神様はヤツの動きに干渉するお積りは・・・」「そこを言う事を聞かせるのが、あんたの役目だろうが、この役立たずがっ!」谷部一郎さんは、そこで黙ってしまった。
気付くと、大勢の人々がやって来て後始末をしていた。あの生き物に殺されてしまった少女の遺体も、数人で戸板に乗せて運び出されて行った。わたしは、それらを何処か違和感を感じながら見ていた。あの生き物が居なくなってみると、まるで夢を見ていた様な気持ちだが、これは現実の事なのだ。現実にあの生き物は存在していて、それで一人の少女が命を落としてしまったのだ。それでも、あれは何かのトリックで、此処の人たちに担がれているのではなかろうかと言う疑いがどうしても拭えず、それでもわたしの理性は本当の事だと告げていた。
その時になって、わたしは違和感の正体に気付いた。人々の手際が良過ぎるのだ。もっと言ってしまえば慣れ過ぎているのだ。少女の死を悼みながらも、彼等の表情は雪崩などの自然災害に遭遇した人々と同じ顔つき、同じ態度だったのだ。冬山登山をやっていると、災害や事故に出会った事も幾度かあった。だから判る。此処の人たちは幾度も経験しているのだ。わたしは天陽神社の役割が判って来たような気がした。天之日降神の姉神を封印するばかりでは無いのだ。その姉神を操り妹神、或いは妹神の子を抑えるのが役割なのだ。
谷部一郎さんは蒼白になっていた。じっと、うなだれたまま一言も発しようとしない。反対にまつさんたち三人は、表情一つ変える事無く、やって来た人々に礼を言ったり後片付けの指示を出したりしている。
「お前、落ち込んでる場合じゃねえぞ。一度や二度のしくじりなんぞ気にするな」
谷部一郎さんにそう言っているのは、村長だった。村長は、どうやら谷部一郎さんを元気付けようとしているようだった。
まつさんか、たけさんか、うめさんが村長に近付くと彼は顔を向けて、「おお、禰宜さんか。死亡の書類は俺が作成しとくぜ。親御さんと話し合って、何か事故があった事にしとくさ」と言う。どうやら彼に近付いたのは、まつさんだったらしい。どうやって見分けたのだろう?そんな事を想っていると、彼もわたしに気付いた様子だった。わたしを憶えていたらしく、近付いて来て「やあ、折角のお客様に大変な想いをさせちまいましたね」と言う。わたしは「いえ、大丈夫です」と答え、それから、どうやってまつさんが区別が付いたのか訊いてみた。
「ああ、匂いだよ」と村長は答えた。「匂い?体臭でも嗅ぎ分けられるんですか?」そんな凄い嗅覚があれば、わたしの匂いも良く判る・・・待ってよ!ここ数日お風呂に入っていない!あの東十郎には、足が臭いと言われたばかりだ。わたしは、頬が、かあっと熱くなって行くのを感じた。おそらく真っ赤になっていたのだろう。「ああ、違う違う。そんなモノ嗅ぎ分けられやしないぜ。狼男じゃあるまいし。俺が言っているのは、何て言うか魂の匂い・・・みたいなモンさ。あの三人の中で、まつの匂いだけは判るんだ」つまるところ、一種の勘の様なものなのだろう。もしかして、村長はまつさんに好意を寄せているのだろうか?
「それで、あんたに一つ頼みがあるんだが・・・」
村長の頼みとは、わたしが此処に居なかった事にしたいので、別な所に居た事にしてくれとの事だったが、生憎、わたしは此処でコートを駄目にしていた。その事を告げると、どんな事故があったかはこれから考えるので、兎に角、わたしは事故そのものを見ていなかった事にしてくれとの事だった。わたしは了承した。報告書にもわたしの名前は入れぬようにするとの事だった。「何せ、報告書を書くのは俺の仕事だからな」と彼は言った。「此処の地区の安全衛生担当は俺だから、事故報告は全部俺が書いてるんだ」
わたしは、ふと、何で村長が?と想ってしまった。すると顔に出ていたのだろう。「ああ、あんたも俺が本当に村長だと想っていたクチか?ありゃあ、渾名だ。代々村長だったもんでな。と言ったって俺の祖父さんの代迄だけどな。俺も親父も村長だった事は無いんだが・・・」
明治の頃迄は、此処は村だったらしい。明治に郡となり、村役場が郡の役場に変わったのだそうだ。後、郡の自治体としての役割は終了し役場は閉鎖されたものの、県の出張所が置かれる事になった為、閉鎖されていた役場を使用する事になったのだと言う。つまり、みんなが役場と呼んでいるのは過去に役場だったからなのだ。今でこそ県の出張所だが、その前は郡の役場であり、更に前は村の役場だったのだ。
あれ?それでは出張所長は?訊ねてみると、出張所長は町の人間で、町から通勤しているのだと言う。つまりは余所者と言う事だ。もしかしたら、その人物は・・・
「所長は何も知らん。少なくともヤツ等を見た事は無い」わたしの心を読んだ様に村長が言う。いや、村長と言うのは渾名で、神塚総一郎と言う名前だと後で知った。

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