ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

クトゥルー神話創作小説同盟コミュの闇島奇譚?暗雲・第一回

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
                ?

 鉄次郎は後悔していた。海を甘く見過ぎていたのかも知れなかった。いや、それよりも梓の色香に迷った愚かさこそ問題なのかも知れなかった。
 梓は巫女だった。小さな島に交互に一週間は泊り込んで毎朝、夜明けと共に天空神への奉納の舞を捧げる巫女の一人だった。だが、彼女に会いに行くのは並大抵の事では無かったのだ。鉄次郎の住む松山から一旦船で本土に渡り、そこから海沿いに省線で移動し船を乗り継いで昼島と言う所まで行かねばならぬのだ。温泉でも知られるその島から吊橋を二つ渡って漸く梓に会う事が出来るのだ。鉄次郎にとって行き往きだけで優に一日以上かかる旅だった。だが、鉄次郎にはそのような時間は無かった。
 鉄次郎が梓と出会ったのは叔父夫婦に連れられて弟や叔父の子供たちと共に昼島へ行った時だった。鉄次郎はうまく梓と二人っきりの時を過ごす事に成功し、松山に戻った早々、文をしたためたところ、好意的な返事を貰い、その後、文通が続くようになった。
鉄次郎は両親や生まれたばかりの弟と共に本土から松山へ渡った。営んでいた米屋が崖崩れに飲み込まれてしまい、鉄次郎の父は心機一転、弟が雑貨屋を開いている松山へ行こうとしたのだ。だが、子供たちを残し所用を片付けるべく再び本土へ戻ろうとした両親は海難事故に遭い、還らぬ人となってしまった。以来、鉄次郎と弟は叔父夫婦によって育てられた。叔父夫婦は実に善良な人物たちで兄夫婦の忘れ形見二人を実の子供たちと分け隔てなく育て、それで自然、鉄次郎も叔父夫婦の子供たちと一緒に叔父夫婦の雑貨屋で働くようになった。叔父夫婦の子供たちも鉄次郎と弟には実の兄弟のように接してくれるのだが、それでも自分たちを育ててくれた恩を忘れまいと鉄次郎は懸命に働いた。その甲斐あってか、今では店は繁盛していて早朝から深夜まで忙しい日々の繰り返しで、とても悠長に幾日も休めるものではなかった。いや、善良な叔父夫婦の事だから鉄次郎が頼めば許してくれるに違いないのだが、それが判っていればこそ、却って言い出せぬのだった。かくして休みの日の前日に鉄次郎は自ら船を漕ぎ、梓に会いに行く事を決行したのだった。
鉄次郎はいきなり昼島を目指すのではなく闇島へ上がる積りだった。闇島には小さな海岸があるのだ。だが、鉄次郎は海で迷った。冥島を確認した迄は良かった。だが、冥島を迂回した直後、潮の流れが変わったらしく、鉄次郎の気が付かぬうちに船の方向が変わってしまっていて、鉄次郎の船はいつしか海図に記載の無い小さな島、もしくは岩礁のような所を目指していた。海中から屹立したその島に乗り上げてしまう事は避けられたものの、島を周回してみて、鉄次郎はその島を中心とするように三方向に島があるのを昇り行く陽の光の中に認めた。そして、鉄次郎にはどれがどの島なのか、まるで判らなくなってしまっていた。ただ、良く見ると島々はそれぞれ長い吊橋で繋がっているようだった。ならば、と鉄次郎はその時、一番手近にあった島を目指した。
この時、鉄次郎がもう少し冷静に見ていれば、どれが闇島か判った事だろう。だが、夜明け迄に着く積りでいたのが、既に明けてしまい、焦燥に駆られた鉄次郎は冷静な判断を失っていた。結果、鉄次郎は夜島の小さな入り江で身動きが取れなくなってしまったのだ。船一隻がやっと入り込める程度のその入り江は、波が盛んに打ち寄せるせいでひとたび入り込めば脱出不可能な、海の蟻地獄とでも言うべき所で、それでいて入り江の正面に何者をも拒絶するかの如くそびえる断崖絶壁が、船を捨てた所でそれから先の方策が何も無い事を雄弁に物語っていると言う正に絶望的な場所だった。
鉄次郎は船の操作もそれほど慣れていると言う訳では無く、彼の拙い技量では船を守る事が出来無かった。気付いた時には、小船は岩に当たって損壊していた。やむなく岩場に上がってどうしたものかと鉄次郎は思案にくれた。崖はどうにも上る隙をまるで見せぬ絶壁で、仕方無しに通りかかる船を彼は捜し求めた。通りかかる漁船くらいあるだろうと鉄次郎は想ったのだが、見当たらなかった。闇島の漁場が近くにある筈なので船の一隻や二隻、眼にする事も出来るだろうと想っていた鉄次郎は、当てが外れてしまった。
何も出来る事無くぼんやりと岩の上に腰を下ろしていた鉄次郎は、結局、陽が沈む迄、そこにそうしていた。季節が寒くもなく暑くも無い頃だったのは幸いだったが、それでも水一滴、米一粒、口にしておらず鉄次郎はすっかり弱り果てていた。体力も気力も尽き、陽の沈む頃には鉄次郎は朦朧とした意識の中で夢とも現実ともつかぬ場所に居た。
鉄次郎は辺りを見回した。鬱蒼とした森の中で、それでいて足元には色とりどりの花々が咲き乱れていた。周囲を覆う樹々はみな背が高く、てっぺんを視界に納められぬ程だった。
鉄次郎は全裸だった。そのせいか妙な解放感のようなものが心中に感じられていた。兎に角、鉄次郎は歩いていた。どれくらい歩いただろうか、不意に森が開け広い所に出た。足元に生い茂っていた花々もそこには無く、赤茶けた荒涼とした大地が一面に拡がっているだけだった。正面には上の方に雪が被さった、高く尖った山があった。
何故か晴れ晴れとした心持ちで、鉄次郎は歩いていた。それにしてもここは何処なのだろう?それに、何故、自分はこのように晴れやかな気分でいるのだろう?と、鉄次郎は想った。すると、
「ここは夢の郷(さと)です。貴男は現世(うつしよ)での悩みやしがらみを全て捨ててここへ入って来ました。ここに居るのは全てが無垢な貴男なのです。それで晴れやかな心でいられるのです」と何処からか澄んだ女の声が聞こえた。
誰なのだ?と想って見廻すと森の中から出て来る人影があった。女だった。身に纏った白く透けた衣越しに美しい肢体が見えている。裸足だった。長く黒い髪は膝迄の長さがあった。
「あたくしの事はゆめと呼んで下さいな」と、その女は言った。顔はよく見えなかった。何者なのだろう?
「あたくしは・・・様の巫女です」
女は何かの名前を口にした。鉄次郎には、どうも“こす”と言ったように聞こえたが、それが何の名前なのかは見当もつかなかった。
「あたくしがお仕えしている神様のお名前です。コス様とおっしゃる神様ですわ」
聞いた事の無い神だった。第一どう言う字を書くのだ、と想った瞬間、全ての風景が消え失せ鉄次郎は眼を覚ました。冷たかった。気付くと周囲は真っ暗で、鉄次郎の居る岩は、今、正に海中に没しようとしていた。
しまった!鉄次郎は慌てて岩の上に立ったが、その拍子に足を滑らせて海に転落し海水をしたたか飲んでしまった。
誰かの哂い声がするなと想って見廻すと、最前ゆめと名乗ったあの女が近くに居た。陰になっていて顔はよく見えぬものの、顔の輪郭は綺麗な瓜実顔をしていた。女の肩が小刻みに震えて見えているのは、女が哂っているせいだった。鉄次郎は再び夢の郷に居た。
「丁度良いですわ。ご案内致しましょう」と、ゆめは先に立ってさっさと歩き出す。山の方角に向かって。一体、何処へ案内しようと言うのか、と想う間も無く答が返って来る。「コス様の所です」と。
コスと言うのは、どうやらこの夢の郷の神らしく、そうすると自分は神様と対面する事になるのだろうかと想っていると、不意に空が翳り、振り仰いだ鉄次郎の眼に変な物が映った。背中に翼のある灰色の、顔の無い鬼のような化け物の姿だった。その化け物は鉄次郎に掴みかかって来た。捕獲する積りなのだろうか。鉄次郎は反射的にその場に身を沈めてかわしていた。だが、その化け物は諦めようとはしない。なおも襲いかかって来たが、ゆめがそいつの前に何かを突き出すと、そいつは慌てたように後ろへ飛び退いた。「はぐれ”夜のゴウント”ですわ」と、ゆめが言う。
はぐれ・・・何だって?
「彼等の頭領とその直属の者共はイブ・ツトゥル神に仕え、主だった者共も様々な神々に仕えているのですが、一部のはぐれた者たちは敵であるノーデンスに仕えています」
ゆめは、丸い小さな円盤のようなものを手にしていた。「グレート・サインと呼ばれています。ノーデンス等エルダー・ゴッドたちの息のかかった者共には有効ですが、エルダー・ゴッドには効果がありません」
ノーデンス?エルダー・ゴッド?鉄次郎には何の事やらまるで判っていなかった。
鉄次郎は、ゆめに向かって訴えた。己の事情を。願いを。
「コス様が何とおっしゃるか・・・あのお方は、あなたの世界の人間たちにあまり良い想いをお持ちではありませんから」
「怨みでもあるのか?」
「はい。かつてコス様は偉大なるクトゥルー様とそのお父上であらせられるヨグ・ソトース様と共同で、赤く脈動する力の石を作り出しました。それはあなたの世界に棲まう信者たちの為に作られたのですが、それを狙う者共が後を絶たず、遂にかの者たちは滅ぼされてしまいました。そして炎の如き赤き力の石は“アッシャルバニパルの炎”の名で呼ばれ、今日に至っています。もっとも、信者たちを滅ぼされてお怒りになられたコス様が月に、この世界の月に棲まう者共の一体を石の番人として派遣されたので、いまだ誰も石を奪う事が出来ずにおりますが」
ゆめの説明に対して鉄次郎が何事か言おうとした時だった。不意に、背後から声がした。「お主の望み、わしが叶えてしんぜようか」と。振り向くと色の黒い怪しげな男が立っている。絵でよく見るアラビヤ人のように頭にターバンを巻き眼はぎろりと大きく、鼻と口も大きく、何処か信じられぬような薄ら笑いを浮かべていた。
あなたは?と鉄次郎が尋ねると、ナイアーラトテップと言う者だ、と男は答えた。男は手にゆめが持っているのと同じ円盤を幾つか持っていた。
「お前さんに使命を授ける。使命を遂行するのなら、お前さんを現世に還してやろう。ただ、還すだけではない。天明神社の真ん前に還してやる。流石に神社の中は守られていて、わしにも手出し出来んが鳥居の外側なら大丈夫じゃ」
否が応も無かった。鉄次郎は、梓に会えるのならば何でもする気になっていた。了承した途端、鉄次郎は辺りの情景がぼやけて行くのを感じた。だが、何かがうまく行っていないのだろうか。ぼやける景色の中でナイアーラトテップと名乗った怪しげな男が、うろたえたように辺りを見回し何事か喚いている。最後に鉄次郎の耳に聞こえた言葉は「おのれノーデンス!邪魔立てするか!」だった。
鉄次郎は不意に眼覚めた。ハッ、と身を起こすとそこは十二畳程の広さの部屋だった。その中央に夜具が敷かれ、その上に彼は寝かせられていた。改めておのれを見ると白い衣に着替えさせられている。
「お気がつかれましたか?」と聞き覚えのある女の声がし、そちらを向くと何処か見覚えのある女が居た。髪の長さ、声、顔の輪郭、その身に纏う雰囲気など、全て夢の中で出会ったゆめと言う女にそっくりだった。だが、こちらの現実の女は顔もはっきりと見えていた。なかなか整った顔立ちで、眼が細く、それでいて黒眼がはっきりとした年増の美人だった。人妻だろうか?
「倒れておいででしたので、お助け申しました。あたくしは、かめと申します」と女は言う。鉄次郎は礼を言ってから、ここが何処なのか問うてみた。すると「夢島です」と答が返って来る。鉄次郎には聞き慣れぬ名前の島だった。すると、明島から本土と逆方向に向かって少し行った海上にあるのだと言う。だが、それではどう考えても鉄次郎が遭難した場所から大きく離れている。その時になって、鉄次郎はおのれが右手に何かを握りしめている事に気が付いた。手を開くと三枚の円盤があった。夢の中でグレート・サインと呼ばれていたものだった。円盤は黒く縁取られ、その中に五つの角を持つ星印が刻まれている。その星印の中央には眼のような模様まであり、少々薄気味悪かった。まるで星印を円型の内部に封印しているかのようだった。するとあれは夢では無かったのだ!では、ゆめとナイアーラトテップに会ったのは本当の事だったのか?だが、それならばナイアーラトテップはおのれを天明神社の前迄送ってくれる筈だったのでは?そこ迄想って鉄次郎は想い出した。ナイアーラトテップの最後の様子を。ノーデンスが邪魔・・・とか言っていた。すると、何者かに帰還を邪魔された結果、この島に来てしまったのだろうか。そう想うと、鉄次郎はノーデンスとか言う何者かを恨まずにはおれなかった。
鉄次郎は、ここから昼島迄はどう行けば良いのかと尋ねると、来月になれば船が立ち寄るから、それに乗れば松山迄行く事が出来、そこから本土へ渡ればそこから船を乗り継いで昼島へ行けると教えてくれた。船は一ヶ月に一度しか寄らぬのだと言う。それでは来月と言うのは何時の事になるのかと問うと、かめは正確な日ははっきりと決まっておらぬのだと言い、それでもおおよそ予想出来る日を教えてくれた。早くて三週間後だった。鉄次郎は絶望的な気分になった。それでも諦めきれず彼は更に問いを重ねた。この島に船は無いのかと。
「反対側の岬に爺やが遺していったものがありますが、使えるかどうか判りません」と言う。それでも構わぬから見せてくれと言う鉄次郎に対し、かめは、先ず粥を食する事を勧めた。実際、鉄次郎は弱っていた。立ち上がろうとすると脚に地からが入らずふらふらとし、眩暈迄感じる始末だった。それで大人しく鉄次郎は勧められるまま粥を啜った。余程、空腹だったのだろう。米が少なかった事もあって、アッ、と言う間に鉄次郎は出された茶碗を空にしてしまった。「お代わりをなさいますか?」言われて何も考えず鉄次郎はお代わりをした。結局、鉄次郎は四杯も食べてしまった。本当はまだ腹に入りそうだったのだが、鍋が空になっているのを見て、それ以上はお代わりが欲しいとは言えなかったのだ。その時になって、漸く鉄次郎は、もしかしておのれはあの女人の分迄食べてしまったのではないかと想い当り、しまった、と想った。それで鉄次郎がその事についておそるおそる切り出すと、かめは笑って答えた。自分は既に食を済ませたと。本当の事かどうか鉄次郎には判らなかった。それよりも、その時のかめの笑顔が何処か心の篭らぬ笑顔であるような、何かしら非人間的なものであるような気がして、鉄次郎はその方が気になっていた。
その後、ふたたび鉄次郎は眠った。眠りの中で彼は再びあの地に居た。背後に森が見え正面には白い山が見えている。
「戻ったか」との声に振り向くと、あのナイアーラトテップと名乗る男が居り、その横にはゆめが居た。鉄次郎が予想した通り、ノーデンスなる者の妨害で目標とは異なる場所へ彼は出現してしまったのだと言う。もう一度行えないのかととの問いにナイアーラトテップは渋ってみせた。説明によれば、あの時、鉄次郎は完全に魂と肉体が切り離されていたのだと言う。謂わば魂の緒が切断された状態にあり、その意味では肉体は一時死んでいたのだと言う。実際、あともう少し現世での時が経っていれば、鉄次郎は戻れなくなるところだったらしいのだ。
「わしは、お主の肉体を飛ばし、そこへお主の魂を落下させたのだが、ノーデンスの奴めが、お主の肉体の出現位置をずらしてしもうた」その後、ナイアーラトテップは時空間移動における次元の位置がどうのこうのと話していたが、鉄次郎には何が何やら判らなかった。ただ、判った事は、魂が抜けた後の肉体の移動は完全に生命が停止していない限り、危険だと言う事だった。今度こそ完全に死んでしまう可能性があるのだと言う。
「まあ、お主がここに未来永劫留まると言うのであれば別段問題ではないが」とナイアーラトテップは言った。だが、鉄次郎は御免だった。「では戻るが良い。現世で、お主は自ら道を切り拓くのだ」
不意に鉄次郎は眼を覚ました。辺りは真っ暗だったが、向こうにぼんやりと灯りが見える。起き上がると、鉄次郎はふらふらと柱に近寄った。近付いてみると蝋燭の灯りだった。鉄の燭台立てが柱に釘で打ち付けられている。障子を開けると土間だった。入り口は開け放たれていて月の明かりが差し込んで来ている。残暑の季節とは言え流石に夜はひんやりとしている。素肌に衣一枚では、やや肌寒かった。
人の気配に振り向くと、かめが立っていた。「お寒かったですか?」と訊かれて鉄次郎は、ええ、少し、とだけ答えた。この女は、戸を閉めるために出て来たと想っているのだろうか?などと鉄次郎が想っていると、かめは、土間に出て戸を閉めようと両手で揺すっていたが、やがて諦めたように「前から立てつけが悪かったのですが、ここ暫く閉めていなかったもので、とうとう動かなくなってしまったようです」と半ば投げやりな感じで言う。その様子には何処か退廃的な色気のようなものがあり、かめに対して女を感じてしまった鉄次郎が慌てて視線をあちこちさまよわせながら、いつから閉めていないのかと訊くと、八月からだと言う。「夫の遺骨が東京から届いてからですわ」とかめは言う。遺骨?「昨日が丁度四十九日でした」つまり、喪が明けた直後に鉄次郎が転がり込んだのだと言う事になる。
結局、鉄次郎は夜が明ける迄、かめから詳しい話を聞き続けた。要約すると、夫はもともと松山の人だったのだが、東京で学び政治に関わるようになったのだと言う。一方、かめの実家は松山で少しは知られたとある素封家の分家に当たり、この近くの島に広い土地を持っているのだと言う。かめは娘時代、分家の娘としてしばしば本家を訪れており、そこで見初められて縁談が持ち上がり結ばれたのだった。夫の実家は松山で畑を持ち農業を営んでいたが、そちらは夫の兄が継ぐ事になっていた。それで夫はかめの家に来る事になった。とは言え、夫は政治活動のため生活の殆どを東京で送り、盆と正月くらいしか戻って来ず、かめの生活は嫁ぐ前と殆ど変わらぬものであったらしい。加えて、問題が二つあった。一つはかめに子が産まれなかった事、もう一つは夫が大隈重信の秘書官の直属になった事だった。かめの実家の本家は元は長州の出だった。かつての敵であった松山が恭順した際、長州から乗り込んで来たのだった。そして佐賀の大隈は、かつては薩摩長州の者たちと蜜月関係にありながら、今や敵対関係にあったのだ。悪い事にかめの両親は、かめが嫁いだ後に亡くなっていた。そして本家としては分家の娘に一々構っていられなかったのだ。面倒になった本家は、既に他家へ嫁いだ身だからとかめをこの夢島へ追い出し、亀が両親と暮らした土地と館には別な者を住まわせたのだと言う。
「結婚前との違いって言えば、あたくしが乙女(おぼこ)で無くなった事くらいですかね。元々料理なんてのは爺やがやってくれてましたからね。昨年、逝っちまいましたがね。それでも男だったので重宝してたんですがね」
「男手が無くてお困りだったのですか?この島に他に男の方は?」と訊ねると、ここは元々無人の島だったのだと言う。本家の所有であり、かつては畑を作ったり魚を獲ったりするために幾人かの人々が暮らしていた事もあったらしいが、すぐに止めてしまったらしい。いずれも収穫が少なかったらしいのだ。「それでも、ここで暮らして行くだけなら、充分な量なんですけどね」と、かめは言う。つまり、かめと夫は見捨てられたのだ。そして、邪魔にならぬこの島へ流されてしまったのだ。もっとも、その夫の生活基盤は東京にあった。
話はかめの夫の事になった。かめの夫は殺されたのだった。大隈首相を狙った者の仕業だった。身を呈して首相を庇った秘書官を更に庇い、秘書官は少しの傷で済んだものの、かめの夫は致命傷を負い還らぬ人となってしまったのだ。それが七月一日の事だったのだと言う。襲撃したのは戦争反対論者だった。しかし、何故、そのような者が首相を襲うのか鉄次郎には判らなかった。
「大陸の、何でもさらえぼとか言う所で起きた事件をご存知ではありませんか」そう、かめに問われても何の事やら鉄次郎には判りかねた。かめの説明によると欧州のとある国の皇太子夫妻が別な国を訪問中に暗殺され、それが元で欧州全土に戦火が拡がったのだと言う。だが、日本にとっても他人事では無かった。何故なら、日本と同盟を結ぶ英国の敵獨逸が中国に土地を持っており、英国から見て日本はあまりに中国に近かった。大隈首相は、当初こそ日本には戦争に参加するだけの余裕は無いとしていたものの、英国等に加担した際に日本が得られるものに徐々に想いを馳せるようになって行ったのだと言う。だが、日本が参戦した場合、日本が受ける傷もまた計り知れぬものがあった。かくして大隈首相の判断を危ぶんだ者が首相の暗殺を企てたのだった。ちなみに、この時機、日本は獨逸に対して僅か一週間の猶予をもって最後通牒を突きつけており、その返事待ちだった。
「あたくしは、遺骨が届いて初めて夫の死を知りました。秘書官の代理の方が、わざわざ来て下すったのです。夫が信頼され重用されていた証だと、あたくしは想っています」鉄次郎は悔やみの言葉を述べ、かめを力付ける言葉を捜した。だが、かめは首を振って鉄次郎の言葉を固辞した。「あたくしにとって、夫は一年に二度、あたくしを抱きに来る男でしかありませんでした。寧ろ、夫の死を嘆き悲しんでいる者が居るとすれば、夫の愛人でしょう」「そんな方が居られたのですか?」「居た筈です。夫は夜が激しい人でした。あたくしの身体に夜の悦びをきっちり教え込むのに三日しかかからなかったんですから。女を買うと言う事もあったと想いますけど、夫は誰かが身の回りの世話をしないと駄目な人でした。あたくしが嫁ぐ前にも自分の世話をしてくれている侍女と深い仲になっていたようです」そう言うかめは、ぞっとするような色気を前進から漂わせていた。
気付くと既に空が明るくなり始めていた。「ところで船を見せて頂けないでしょうか」と鉄次郎は頼んだ。途端にかめの身体から匂わんばかりに溢れ出ていた妖しい雰囲気がはたと止み、「ご案内しましょう」と、かめは先に立って歩き出した。
そこはかなり小さな島だった。家は岬の根元にあり、家の少し先に畑が広がっており、その向こうに掘っ立て小屋が見えている。そこがもう反対側の岬なのだった。歩いて数分の距離だった。小屋の中に古びた小船と櫂があったが、どうやら使えそうだった。必ず返しに来るから貸して欲しいと頼んだ鉄次郎は、かめに「どうぞ好きにお使い下さい。あたくしには必要の無いものですから」と言われて慌て、それなら出来る事があれば何でも言って欲しいと口にした。せめて礼をせねばこの船に乗って島を離れられぬと想ったのだ。「だったら爺やの代わりにして頂きたい事があります」と言われ、力仕事なら自信があると答えると「力は要りません。要るのは身体だけです」と、かめは言った。そして、不意に顔を鉄次郎の胸元に近付け、鼻をひくひくさせると、かめは「ああっ」と感極まったように声を漏らした。「爺やとは違って夫みたいな匂いがします」うっとりと、かめは呟いた。うっとりと眼を閉じ、反対に形の良い口元はだらしなく開かれている。「この匂いと、これさえあれば」かめの手が鉄次郎の着物の裾を割って入る。鉄次郎は呆然とされるがままだった。「どうしてもお礼がしたいとおっしゃるなら、あたくしを満足させて下さい。それで、この船は差し上げます」酔ったような口調で、かめは言った。鉄次郎の頭も又、酔ったように痺れていた。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

クトゥルー神話創作小説同盟 更新情報

クトゥルー神話創作小説同盟のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。