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クトゥルー神話創作小説同盟コミュの水妖イベント投稿作品「Mutation」1

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「Mutation」

 ジリッジリジリッジリリ・・・
 くぐもったベルの音が壁のスピーカーから鳴り響いき、ネダはいつものように湿気っぽく澱んだ空気にむせながら目を覚ました。
 しかし目を覚まし、天井に据付けられた格子付きの電球が放つオレンジ色の弱弱しい光がおぼろに照らし出す薄暗い部屋の様子が目に入ると、それが自分に与えられたいつもの部屋である事にがっかりしていた。
 その部屋は3メートル四方の大きさで、天井も床も壁も黒々とした石を積み上げて作られており、床は四六時中塩辛い水でぬらぬらと湿っている。床が水で濡れているにもかかわらず室温は生暖かく、よどんだ湿気を帯びており、ネダはいつもこのいやらしい湿気で咽こんでしまう。彼女が横になっている古いマットレスも湿った床に直接敷かれているので湿気を吸い込んでどす黒く変色し、ところどころに気味の悪いカビが生えている。このマットレスは壁際に敷かれているのだが、その反対側には壁の代わりにステンレス製の格子がはめ込まれている。ネダは、年の頃は15、6。精悍な顔つきの持ち主で、女伊達らに髪を短く刈り込み、どこか栄養失調気味に見えるほっそりとした腕は筋金入りの筋肉で出来ており、外見とは裏腹に腕っ節も中々のものである。無駄な肉のない彼女のしなやかな肉体は動物の豹を思わせるものだった。
 このところネダは自分が置かれているこの最悪の状況が、あるいは長いまどろみの中に見る夢ではないかと思うことがある。しかしそんな甘えた感情は朝毎に脆くも崩れ去り、目の前のここ数年来全く変わっていない最悪の現実だけが突きつけられる。ネダはゆっくりと起き上がると裸足で濡れた床に立ち、薄汚れたシャツの袖を巻き上げ、膝小僧が切れたズボンのベルトを締め直し、短く刈り込んだ頭をぼりぼりとかきながら薄汚れた格子の中央に開いた出口を抜けて廊下に出た。
 ネダの部屋の左右には同じように格子付きの部屋が数部屋並んでいる。廊下もやはりネダの寝室と同じように黒い石を積み上げて作られており、ぼんやりと澱んだオレンジの光を灯す格子付きの電球が点々とついているが、どこもかしこも薄暗い。そして床は室内同様に四六時中塩水で濡れている。
 ネダがふと溜息をついた時、隣の部屋から少年が現れた。彼の名はテツ。年齢はネダより少し年下という感じなので、多分12、3歳だと思う。テツもネダと同じように薄汚れたシャツにぼろぼろのジーパン、そして裸足という格好で、眠そうに目をこすりながら「おはよう」と言った。テツもまたほっそりとした体つきだが、こちらはむしろ栄養不足で貧血気味らしい。
 ネダはその気だるげな朝の挨拶を聞きながら、しかし自分はしゃんと背筋を伸ばして声を上げた。
「おはよう!さあ、みんな、すぐに起きるんだ!先生が食事を作ってくれている」
 その声が暗い廊下に響くと、さらにいくつもある格子付きの部屋のうちの二部屋から2人の子供がのろのろと起き出して来た。
 ここにいる子供はネダを含めて現在4人。先ほど出てきたテツは鼻がつんと上を向いていてアゴがちょっと出っ張っている。ネダを「姉さん」と慕っていつも一緒についてまわる。
 テツの隣の部屋から出てきたのはマガ。テツと違い、でっぷりと太っており、薄汚れた丸首シャツにぼろぼろのズボンを履いており、常に薄汚れた小さな袋を持っている。袋の中にはお気に入りのクッキーが入っていて、それを四六時中食べているが、以前テツがこっそり盗んで食べてみたらとてもまずくて食べられなかったと、ネダにもらした事がある。
 次に出てきたのはケイ。一番年下の女の子で、なぜか言葉がうまく喋れない。黄色いブラウスは薄す汚れて変色し、ブロンドの長い髪は荒れ放題で、まるで壊れたお人形のようだ。それにどうやら心も少し病んでいるらしく、いつもネダとテツがこまごまと面倒を見ている。 全員揃ったのを確認するとネダは先頭に立ち、努めて元気に歩き出した。
 薄暗い廊下を進み、いくつかの角を抜け、ステンレス製の扉を一つ開けた先に大きなホール状の部屋がある。部屋は直径およそ十メートルほどの広さの円形で、ドーム状の丸い天井の中央に照明がついている。ここの照明がこの洞窟とも建物ともつかぬ建造物の中で最も明るいが、やはり床は不潔に湿っており、単にその広さゆえに澱んだ空気が若干緩和されているに過ぎなかった。
 部屋の中央には木製の長テーブルとイスが置かれ、すでにいくつかの食器に盛られた朝食が用意されていた。その部屋にはネダたちが入ってきた入り口とは反対側にもう一つ入り口が開いており、そこから男の鼻歌が響いている。
 ネダたちがテーブルに置かれたボールの中から朝食という名のどろりとした茶色い粘着質の液体を各自の皿に取り分けていると、奥の部屋から男がが入ってきた。男は、着古したワイシャツに紺のズボンを履き、その上から薄汚れた白衣をだらしなく着ていたが、男の異様な風体は服の上からも見て取れる。でっぷりと膨れた腹、筋肉質な腕は妙に長く、そのくせ足は短くてガニマタ。頭が大きいせいか太っているせいか首のくびれが無く、えらばった顎とつぶれた鼻、そしてどんよりと曇った目をしていた。一言で言えば直立歩行する蛙のような姿だった。
 男は、ややくぐもった声で「みんな、おはよう」と言い、ネダ、テツ、マガ、ケイの四人も続いて「おはようございます、先生」と挨拶をした。男は子供たちから先生と呼ばれている。
 先生は続いて「さあ、食事にしようか」と言い、子供たちはすぐに自分の決められた席について両手を頭の上で手の平を合わせる様にして差し上げ目をつむった。それを確認すると先生は朗々と神への祈りを唱え始める。
「みなぞこにましますわれらの主よ、われらにきょうのかてをあたえたまい、われらのきょうをまもりたまい、われらいちどう主のみなをほめまつります。われらひとしく主のやかたにつどいしときを」
 先生の祈りが終わると食事が始まる。食事は毎食決まって先生の手作りのパテだ。この粘着質の茶色い液体は旨くも不味くも無く、子供たちはほとんど機械的にこの食事をこなす。食事が終わると子供たちは食器を片付け、その間に先生は部屋の隅から教卓を引っ張り出してきて授業の準備に取り掛かる。朝食の後は昼食までの数時間、先生が授業を行う。
 子供たちは食事の時と同じように長テーブルにつき、授業を受ける。授業の内容は数学、理科といったごく一般的な基礎教養の時もあれば、ネダたちが元来知っていた歴史をはるかに凌駕した太古の記憶を紐解くときもあった。
 しかし先生の授業における最も中心となるもの、それは「みなぞこにまします主」にまつわる物だ。五年前、ネダはここに来て初めて「みなぞこにまします主」の教えを受けた。先生の教えによれば、主は、人間がこの地上に生み出される遥か前、超古代において地上を遍く支配しておられた。しかし、星々の配列が移り変わるに従って主は長いまどろみへと沈まれたが、そのまどろみの中にあってなお主は地上にて主の帰りを待ちわびる信徒たちに心の声を投げかける。そして星の配列が整った時、主は地上へと再び現れるのだという。
 授業は、最年長のネダから最年少のケイまでいつも一緒に受けている。それ故に理解のスピードに差があるのだが、実際のところはネダがここにきた五年前と授業の中身はほとんど変わっていないので、毎日復習の連続といったところだろうか。この知識の反芻の意味をネダは考えたことは無い。ただおとなしく授業を受けていれば大過なく午前中をやり過ごせるのだから、それ以上何を望むだろうか。
 昼食も例によって先生の手作り料理で食事を取る。午後は基本的に自由時間なので、皆心なしか元気に食べるようだ。
 食事のさなか、先生はネダに「今日は君の番だ。食事の後に診察室に来なさい」と言った。ネダはすぐに「はい、わかりました」と答える。午後は毎日一人の子供が先生の診察室に呼ばれ、そこで診察をはじめとするいくつかの医療的な事を行うことになっていた。
 診察室は今食事をしている大部屋からキッチンを通り抜けた先の廊下にあるステンレス製の丈夫なドアの向こう側にある。診察室に入るといつもの事だがネダはその異様な雰囲気に圧倒されてしまう。部屋の広さは5メートル四方ほどだが、入り口のドアの反対側には壁一面に巨大な機械が設置されている。機械にはいくつもの小窓がついており、中では忙しそうに針が右へ左へ揺れているのが曇ったガラス越しに見える。もちろんネダにはその機械が何を調べる機械で、それら計器の一つ一つが何を表しているのか見当もつかなかった。左右の壁には戸棚が据えつけれられており、上半分はガラス戸になっていて下半分は引き出しになっている。ガラス戸の中にはいくつもの小型の機械や訳の分からない物が詰まった瓶詰めが入っていたが、やはりネダには良く分からないものばかりだった。
 部屋の中央には診察台として使われている簡単なベッドが置かれ、その上には手術用の大きな照明が吊ってある。ベッドには柔らかな毛布が一枚乗っている。先生は子供たちとは別に、普段この部屋で寝起きしているので、このベッドは言わば診察台兼寝台ということになる。ネダは何とはなしに自分の斜め後ろをちらりと見やった。そこには一本の棒が壁に立てかけられている。その棒は1メートルほどの長さで先端がY字形に分かれており、握りとなる部分には丁寧に滑り止めのテープが巻かれている。これは先生が、言いつけに背いたり喧嘩をした子供に対して体罰、先生言うところの「裁き」を与える時に使うものだ。一度こっそり触ってみたことがあるが、とても重くてネダには持ち上げることすら困難に思えたものだ。この棒こそは子供たちにとって恐怖そのものであり、先生のもっとも厳しい一面を顕著に表すものであった。ネダが今これを無意識に見たのも、そうした恐怖からに違いない。
 先生は機械に向かって何か作業をしていたが、ネダが入ってきたことに気がつくとベッドに座るように促した。
「先生」
 ネダは何か言おうとした。
「いつものように、まずは脳波測定、それから輸血をするよ」ネダの言葉に気付かなかったのか、先生は部屋の隅からいろいろとダイヤルやらメーターやら無数のコードがついた箱型の機械の乗ったワゴンを押してきた。ネダは黙ってベッドに横になる。先生は慣れた手つきで機械から伸びた無数のコードの先端を、そこについた吸盤でネダの頭部に貼り付けていく。次にネダの右腕を少し持ち上げて消毒液の染みた脱脂綿で拭いた後、部屋の隅から引っ張り出してきた輸血用の点滴の針を刺し、テープで止めた。
 ネダは、自分のすぐそばに吊ってある輸血用の点滴がぽたりぽたりと落ちるのをぼんやりと眺めていた。
 先生は脳波測定用の機械からかたかたと流れ出す記録用紙に目を通していたが、やがて壁に設えられた大型の機械のほうを向いて何か作業を始めたようだった。
 しばらくしてから、再び「先生」と声をかけてみた。
 先生はすぐに「どうかしたのかい?」とやさしく答える。
「先生。私たちはどうしてここにいるのですか?」
「ネダ、それはいつも教えているじゃないか。お前たちは選ばれた人間なんだ。だからみなぞこにまします我等の主の元へと行くために、こうして日々たゆまぬ努力をしているのだよ」
「どうして私たちだけなのですか?他の人たちは主の元へは行けないのですか?」
「選ばれたものがそのような事を言っていてはいけないな。君の父上も母上も、君が立派に勤めを果たし、主の元へ向かうことを願っているのだよ。だからこそ、君を私に預けてくれたんだ」
 ネダは目を閉じ、ふうと一息つき、すこし微笑んだ。
「先生、私時々不安になるんです。でも、私、先生を信じています。きっと・・・」
 そこまで言うと、ネダは緩やかな眠りに落ちていった。先生は輸血の終わった点滴の針を抜き、ネダに柔らかな毛布をかけてやり、自分は再び機械に向かって何事か作業を始めた。
 ネダがまどろみに落ちていた間、どれほどの時間がたっただろうか。ネダが目を覚ました時、部屋には先生の姿はなかった。ネダは診察台から降りると部屋の中をゆっくりと見回していたが、ちょうどその時廊下からくぐもった声が聞こえてきた。ネダはそっと分厚い扉を押し開けてみると声はよりはっきりと耳に飛び込んできた。
「てめえ!」
 そしてそれに続く怒号と意味不明なわめき声。ネダは全身から血の気が引く思いで廊下を走り出した。
 ネダが大部屋に飛び込んだ時、テツとマガがお互いの襟首を掴んで今にも殴り合いを始めんばかりの勢いでわめきあっていたが、ネダが部屋に入ってきたことに気付くと二人とも急にわめくのをやめて押し黙ったまま互いの手を離した。ネダは部屋の隅で縮こまっているケイをちらっと見た後、物も言わずにテツとマガの横っ面を殴り飛ばした。テツはよろけて濡れた床に倒れ、マガはびくともしなかったが、二人ともすっかりおとなしくなった。ネダにはそれもまた苛立ちの要因になっているのかもしれない。
「もし先生に知れたら、またひどい目に遭うの判ってるでしょう。いい加減にして」
 ネダは部屋の外に声がもれない様に極力抑えた声で言ったが逆にそれがテツたちには凄みを帯びて聞こえたようで、二人とも直立したままうつむいている。ネダは部屋の隅で縮こまり震えているケイの元へ行き、やさしく髪を撫でた後両腕で抱きしめ「先生はどうしたの?」と問いかけた。
 ケイは「センセイ、オデカケシテル」と消え去りそうな声で言った。それを聞いてやっと安堵のため息をついたネダは、ケイの手を取って一緒に立ち上がり「さあ、すぐに片付けるんだ。それから夕食の支度をしておいたほうがいい」とテツとマガに指図し、自分も机の位置を正したり、椅子を戻したりして帰ってくる先生に今の騒動を悟られないように努めるのだった。
 子供たちが夕食の支度を終えるころ、先生が戻ってきた。先生はいつも診察室の前の廊下を更に進み、その突き当たりにある分厚いステンレス製のドアを開けて外へと出かけていく。このドアはとても頑丈で、しかも中からも外からも施錠できるようになっているので子供たちはここを通ることが出来ない。
 ネダはいつものようにどろどろした粘着質の夕食を口に運びながら、ふと自分がここに来た時の事を思い出そうとした。確か、五年前に始めてここに来た時は、もっとたくさんの子供がいたような気がする。少なくとも30人ほどは。皆での共同生活はまるで学校の合宿みたいでとても楽しかったような思い出もある。しかし子供たちは一人減り、二人減り、一年目だけで半分以下に、三年目には確か10人くらいまで減っていたはずだ。子供が減った理由はさまざまで、ある日突然先生がどこかへ連れて行くこともあれば、何かで大怪我をしてしまうこともあった。でも一番の原因は病気。皆、朝が来るといつの間にか死んでいた。こうした記憶も、実のところかなりぼやけてしまっており、本当はそんなにたくさんの子供は居なかったのではないか、そう思うこともあるのだ。こうした記憶の曖昧さ、余計にネダを不安にさせた。少なくとも今ここに居るネダ、テツ、マガ、ケイの四人は、五年にわたりこの建造物の中に篭りきりだった。
 さっきの喧嘩にしても、こんな状態でずっと置かれているのだから致し方ないとネダも思うのだが、先生は規律に大変厳しい人なので、もし喧嘩がばれたら厳しい裁きが加えられるに違いない。実際先月も喧嘩が元でマガとテツは酷い裁きを受けたばかりだ。
 子供たちは食事が終わると各自の部屋に戻り、薄暗くじめじめしいて胸の悪くなりそうな生暖かい湿度を保った寝室でどす黒く変色したマットレスで眠りにつく。これが彼ら四人の「選ばれた子供」の生活の全てである。

 テツとマガの喧嘩が起こった日から四日がたった日。この日は朝から不穏な空気が漂っていた。朝食の時、テツとマガがどうでもいいような事でいがみ合っているのが見て取れたが、それでもその場に先生がいたので二人ともにらみ合うだけでそれ以上のことは何もなかった。その時先生は表情も無く、静かに様子を伺っているようだったがネダにはむしろこの沈黙の方が恐ろしく感じられた。
 午前の授業は大過なく終わり、昼食。そしてその後の「個人診察」はケイの番だったのでネダ、マガ、テツは大部屋で自由時間を過ごすことになった。ネダは、普段からいがみ合うこの二人を仲裁する良い機会だと思い、二人をゲームに誘ってみた。ゲームは丸い板に取り付けられた五本の棒に穴の開いたチップを通していくもので、掛け算と割り算の応用が含まれるものだ。勝つためには協調と逆転の発想が要求される、テツのお気に入りのゲームだった。
 二人は渋々という感じで机に着くとゲームを開始したが、マガは自分の手番を終えるといつも持ち歩いている薄汚い小袋を引っ張り出した。中には例のクッキーが入っている。クッキーは先生から診察のたびに貰ってきているのだが、マガだけがクッキーを貰えることがネダには少し気に入らなかった。そんなネダの感情を知ってから知らずか、いつものように袋からからお気に入りのクッキーをつまみ出してニチャニチャと食べながらマガはいやらしい笑みを浮かべて言った。
「なあ、ケイのやつ、今日も先生とアレかなあ」
 ネダはこの一言にいつもの事だが強い不快感を覚えた。即座にマガを殴り倒したい気持ちに捕らわれたが、それではわざわざゲームに誘った意味が無い。ネダはわざと聞こえないフリをしてやり過ごそうとしたが、どうやらテツはネダよりも遥かに強い憎悪をマガに向けていたらしい。
「おい、もういっぺん言ってみろよ」テツの言葉には怒気が含まれていた。
「へっへ。あいつは先生のお気に入りだからな」マガの言葉が終わるよりも早くテツの素拳がマガの醜く肥えた横っ面にめり込んだ。マガは口に入れていたクッキーと血をテーブルに飛び散らせながら後ろに倒れ、そこへ机を跳ね飛ばしたテツが馬乗りになって殴り始める。マガが人間とは思えない奇声を発し、ネダはテツを後ろから羽交い絞めにして引き剥がしにかかるが、その時怒号が部屋中に響き渡った。
「お前たち!やめんか!」
 大部屋の入り口には先生が怒りに震えながら立っていた。
 ネダがすぐさまテツを引き離し、マガは口の辺りをふきながら半身を起こした。先生はまずマガを引き起こし、その顔の傷を見せるように促した。マガは低く唸るように「先生、テツが最初に殴ってきたんだ」と言い出したのでテツも負けじと「先生!こいつは」と食って掛かったが、先生は物も言わずにテツを殴り飛ばすと「出来損ないが」とはき捨てるように言った。その言葉はネダにもはっきりと聞こえた。
 ネダは2人を弁護することが出来なかった。マガの言動は明らかに間違っていたが、それに暴力で応酬したテツの行為も到底容認出来るものではなかったからだ。それでもネダはなんとかその場を取り繕うとしたが、結局テツとマガは先生による裁きを受けることになった。裁きは、壁に向かって二人を立たせ、後ろから例の棒で殴るというものだ。裁きが行われている間、ネダはキッチンのすみでテツのうめき声を聞きながらじっと縮こまるしか手が無かった。
 二人への裁きが終わると先生は診察室へと引き上げていった。ネダがそっと大部屋を覗くとテツが右腕を押さえながら足を引きずり、自室へと戻ろうとしているところだった。マガはすでにそこにはおらず、明らかにテツにだけ長時間の裁きが加えられていたことが分かる。
 ネダはテツに手を貸そうと近づいたが、テツはその手を振り払らい、一人で自室へと戻っていった。
 その日の夕食は寂しいものだった。テツは裁きのせいで起き上がることが出来ず、自室で謹慎ということになっていたし、昼過ぎから診察室に行っていたはずのケイはこの時間になっても戻ってこない。そして先生はそれらのことに関して一切何も言わず、裁きを受けたはずのマガはけろっとして食事をしている。
 先生はただ黙々と食事を済ませると診察室へ戻っていった。ネダはその場に流れる重い空気が嫌でたまらなかったので、先生が食事の後何も言わずその場を去ったことに少なからぬ安堵を覚えていた。
 三人分の食器を片付けて自室へと戻り、いつものようにどす黒く汚れたマットレスに横になった後も、ネダは眠ることが出来ずにいた。先ほど先生がもらした「出来損ないが」という辛辣な言葉だけが頭の中をぐるぐるとまわる。それがテツに向けられた物なのは分かっていたが、それは確実にネダの心に暗い影を落としていた。ネダの回りを取り囲む暗がりはいつもにも増して濃く感じられ、自室にいるはずのテツもマガも物音一つ立てることは無く、天井に立ち上った湿気が作り出した水滴が床に落ちる小さな音だけが時折響く。
 その沈黙の時間がどれほど続いただろうか。
 ネダはいつの間にか浅い眠りに落ちていたようだが、かすかな泣き声で目を覚ました。泣き声は大部屋のほうからこちらに向かって近づいてくる。ネダは半身を起こしてそれが自室の前に通りかかるのを待った。廊下は弱いオレンジ色の光だけがぼんやりと照らし、鬱々と立ち込める薄暗がりに包まれている。その暗がりの中を小さく泣き声を上げながら歩いてきたのはケイだった。彼女の服は無残にも引き裂かれていた。ネダはすぐさま起き上がると、部屋の前を通り過ぎようとするケイを引き止めた。ケイが顔を上げると頬にまだ新しいあざがあるのが見え、その小さな口からは赤い色がわずかに染み出していた。ネダはどうしようもなく辛くなり、ネダを抱きしめ、その痛みきったブロンドの髪を撫でてやったが、手を触れたところから髪の毛がぞっくりと抜け落ち、ネダの手に張り付いた。ネダはケイをきつく抱きしめ、自分の寝床に連れて行くと一緒に横になった。
 しばらくして、ケイはようやく落ち着いたのか身を強張らせながらも眠りに落ちた。
 ネダはケイの寝顔を見ながら静かにその頭を撫でていた。その時、ネダの部屋の入り口に人影が現れた。ネダははっとして起き上がったが、弱弱しいオレンジ色の光に照らされて部屋に入ってきたのはテツだった。テツはネダとケイが横になっているマットレスの前まで来ると座り込み、真っ直ぐネダを見据えると低く抑えた声で言った。
「姉さん。俺はもうここを抜け出すよ」
「テツ・・・」
「姉さんとケイと俺の三人でここから逃げよう。このままじゃみんなあの男に殺されちまう」
「先生は・・・」
 言いかけてネダはすやすやと眠るケイの顔を見た。目尻から一筋の涙が零れ落ちていた。もうネダにはテツを止める言葉が浮かばなかった。
 テツは続ける。
「まず、あの出口を開けるための鍵が必要だ。鍵がどこにしまってあるのかまだ分からない。だからこれから俺たちは診察の時に眠ったふりをしてあいつが出かける時にどこから鍵を持ち出すのか調べるんだ」
「鍵を、手に入れた後は?」
「すぐにここを抜け出す。あいつをどうやって足止めするかはまだ考えてないけど、多分これくらいの時間ならあいつも眠っているはずだからうまく行くさ」
「失敗すれば、本当に殺されるかもしれないよ」
「ここにいても、どうせ殺されるさ」

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