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藤富保男コミュの藤富保男さん『詩の窓』第26回―詩の王宮はどこにあるかー殿岡秀秋筆

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藤富保男さん『詩の窓』第26回――3−14「ドアを開けてみたが」より

藤富保男著『詩の窓』(思潮社2011年12月25日発行)より。引用は特にことわりのないかぎり本書からです。

★詩の王宮はどこにあるか

「ぼく(藤富)の詩はあらかじめ箱の中に入っていない。あとで箱の中に入るものでもない。箱の形か桶の形か傘の形になって行くのである。ポエジィは説明しない。ただ言語と言語が取引をする関係を感性がとらえるまでである。だから、立上がったまま、とんでもない顔をしているが動かない、なんていう詩がぼくにある。
 指的冗談こそが詩を描く王宮である。」(214頁)

 藤富さんは「言語と言語が取引をする関係を感性がとらえる」のが詩だと書いています。ぼくは「沈黙や叫びの言語化」が詩だと考えています。
 言語をして言語を語らしめよという藤富さんの発想は、明確に意識化されていない、つまり沈黙の言語化と言えないこともありません。だからそれほど異なっているわけでもないという気がします。
 しかし、沈黙を言語以前の言語と考えると少し違ってきます。言語になる前の混沌の海から言語を釣り上げる、あるいはすくい上げるのがぼくの詩です。その海は当然、無意識とか潜在意識になります。
 ところが藤富さんにはその前提がありません。したがって言語と言語のスパーク、イメージとイメージの衝突と展開が詩になっていきます。はじめに形をなした言語ありきなのです。
 ぼくははじめに言語になるまえの形のない言語である沈黙ありきです。そこのところがちがっています。
 したがってできあがってくる世界は異なってきます。しかし、どちらも詩です。
どちらが詩の王宮であるかは読者が決めることだとぼくは想います。
詩的冗談の世界は特別なものではありません。詩では西脇順三郎が象徴的な存在です。対極にいるのが高村光太郎です。この二人が近代詩の大きないただきをなしていて、どちらを好むかで詩の傾向がだいたいわかります。しかし、現在は混沌としていて、そうわかりやすくはなっていません。
この西脇順三郎の系譜を継ぐのが藤富保男さんです。そして、ぼくが目指す「思考する詩」は、高村光太郎の系譜になるわけです。
 独りの表現者がこの双方を表現することもめずらしくありません。
 小説では夏目漱石が、高等遊民という一見のん気そうな主人公によって『我輩は猫である』から創作をスタートさせました。しかし、次第に実人生の深刻なテーマを掘り下げてゆくようになり、行人、こころ、道草などの傑作を生み出すようになりました。
 小説的冗談から本格文学まで夏目漱石はひた走ったのです。『我輩は猫である』と『道草』と比較して、どちらが文学であってどちらかが文学でないなどということはありません。どちらが高等であってどちらが下級かということもありません。
 詩の王宮も、小説の至宝も、読者が個人個人で判断するものだと、ぼくはおもいます。


(この項つづく)

(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年11月1日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)

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