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栗城史多(クリキ ノブカズ)コミュの「黒木安馬さんと栗城くん!」時間あるときにじっくりそうぞ!感動します!

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栗城くんとの出会いが克明に書かれてます
素晴らしいです。
長いのでじっくり読んでください

黒木 安馬さん が栗城くんを真剣に応援してることが
素晴らしいと思います。
それだけ栗城くんの挑戦も素晴らしいということです。

そしておそらく黒木さんも
尋常ならぬ苦労をされてきた方なんだと思います!
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黒木安馬 著作 「 成幸学・正面教師 」(講談社)より抜粋

人類史上初の大冒険 夢は叶えるためにある!

夢というのは叶うとか叶わないには関係なく、
挑戦するだけで意味がある。

頂上に立った時に、ピッケルを握り締めて、つくづくそう実感した。

 2007年12月29日。
クリスマスも過ぎて大晦日も近いその日、
真夜中でも真昼のように明るい白夜の南極で、
南極大陸最高峰ビンソンマシフの頂上を極めた青年がいる。


標高4897メートル、
日本の最高峰である3776メートルの富士山より1121メートルも高い。

 日本とは季節が逆、南極は真夏だとはいえ温度はマイナス50℃。
風が吹くと秒速一メートルで体感温度は一度下がり、
マイナス70℃近くになる。

極限状態では感覚が麻痺してむしろ寒さを感じない。
普通でも五日以上も続く悪天候の悪魔の風 
ブリザードで登れない状態が多く、
極寒と強風で凍傷になり手足の指を失う者が多くいる。

地面から吹き上がってくる雪と強風で視界はまったく無くなり、
自分の靴の先も見えない。

遭難する可能性がもっとも高くなる瞬間である。

彼が山頂を極めた時は、天国から見守る母親が奇跡を起こしてくれた。
風はなく快晴、太陽の温かさを感じたほどだった。
過去に一度断念せざるを得なかったビンソンマシフ。
入山すら厳しく、吹き飛ばされそうな風速40メートル以上の風に
見舞われてベースキャンプのテントも飛ばされ、
ついに時間切れ撤退となって涙を呑む帰国――。



だが今回、ついにリベンジで征服したのである。

「みなさん、応援をありがとうございました! 
 ほんとうにありがとう!」 

見渡す限り広がる白銀の南極大陸を眼下にしながら、心の底からそう大声で叫び、氷の頂上に座り込んで、ひとり大泣きした。

 栗城史多(くりき のぶかず)
1982年6月9日生まれ。
函館市近くの今金(いまかね)町出身。
身長162センチ、体重61キロ。
 
小学校の遠足以来、山に登ったことのない小柄な若者が、
四年前の21歳の時、憧れの彼女に誘われて
山岳部におそるおそる入部。

ところが、しばらくしてその彼女にふられる。
彼はナニクソと思い立つ。
そのわずか二年後には、経験の少ないアマチュア同然の者には無謀すぎて自殺行為だという専門家たちの反対を押し切って、
アラスカにあるあの北米大陸最高峰マッキンリー(6194メートル)に挑み、《単独 無酸素》登頂に成功した。

ここは、あの植村直己さんが遭難死したところである。

 勢いに乗った彼は、なんとその半年後には
南米大陸最高峰 アコンカグア(6962メートル)、
その半年後に欧州最高峰 エルブルース(5642メートル)、
その四ヵ月後にアフリカ大陸最高峰 
キリマンジャロ(5895メートル)、
オセアニア州最高峰 カルステンツ ピラミッド(4884メートル)を次々と登頂に成功、神がかり的な快進撃を続ける。


友人に三浦雄一郎氏、野口健氏など日本でも著名な登山家は世界に多くいるが、
シェルパを複数同行して酸素ボンベを背負って登るのが通常である。
無酸素で、しかも単独での登山。

その条件での七大陸制覇は人類史上で前例がない

最後に残されたエベレストを除き、
これで六大陸を制覇したことになった瞬間である。

2008年春、最後の究極、七大陸目であるエベレスト、現地名チョモランマ、サガルマータ、
その《偉大なる神聖な山》、世界最高峰に挑戦する。
 
若者には過去が無い。

なぜデキナイかではなく、どうすればデキルカの未来と前進があるのみである。

が、今までの7〇〇〇メートル以下の六大陸と比べても、エベレストの単独無酸素は比較にならないぐらい厳しい。 
          
旅客機は一万メートル上空付近を飛行する。
対流圏と成層圏の境界だから最も気流が安定して燃費効率が良いからである。
気温は夏でもマイナス60℃近く、空気もほとんどない。
窓が割れたりすると気圧の差で外に吸い出されるように吹き飛ばされて、
深海魚が海面に上がってきたときのように目玉や内臓が飛び出すことになる。
 7〇〇〇〜8〇〇〇メートル以上は、人間が酸素なしでは危険にさらされる限界の“死の地帯(デスゾーン)”と呼ばれる。

飛行機の実験でも、3〜5分で死亡する高度である。
世界最高峰のエベレストは8848メートル、
東京タワーの約27倍だから、そこへの登頂の困難さは想像を絶する。

2007年にも日本人が単独無酸素で挑んだが、
結局7〇〇〇メートル地点で亡くなってしまった。

栗城青年が26歳の誕生日までに七大陸登頂が成功すれば、
これもまた史上初、最年少記録となる。

「やるべきこと」を好きになれ!

 栗城青年との出会いは、2〇〇7年9月18日であった。

私の講演会を銀座で開いてもらったことのある、
HISやスカイマーク航空創業者の澤田秀雄さんの講演が
目黒雅叙園で行われ、
私も彼に誘われて参加した。

その後の懇親会会場に栗城という未知の青年が札幌からわざわざ駆けつけて来ていた。


 目的は登山費用のスポンサー探し。澤田さんとざわめく会場で、酒を片手に立ち話で初対面の彼の話を聞いた。

すると、
2〇〇〇万円が早急に必要だから、
なんとか、カンパをお願いしたいと言う。

何を考えているんだ、アホか!このお兄ちゃん? が最初の印象である。

自分の単なる趣味である遊びみたいな山登りに、いきなり2〇〇〇万円くれないかとは! 

が、話を聞くうちに驚いた。

目の前の小柄な青年が、
まだ発見されていない植村さんの屍を乗り越えて、
いとも簡単に最初に登った山がマッキンリーなのだと聞いて耳を疑った。
それも、単独で、無酸素で。

私は植村直己さんとは遭難直前にアラスカで会っているし、
その様々のいきさつで彼の出身地である兵庫県日高町で成人式記念講演や植村記念館創設運動講演で何度も行っているから、
その軽さに、にわかには信じられなかった。

 聞けば、最初にその山を選んだ理由が、旅行客も含めてハイカーなど誰でも入山できるし、女に振られた腹いせ!からだと。

悲壮感漂う孤高のたくましい冒険家イメージ、そんなタイプの登山家には絶対に見えない、

気さくで明るい童顔の青年が目の前に立っていた。

 澤田さんは言った。「HISのロゴマークを山頂で振ってもらっても、世界的にはあまり知られていないしねえ
。そりゃあ、ANAのロゴも同じようなものかも知れない。
でもJALだったら歴史的にも認知度は世界的だから、黒木さんこそ、JALとして協力できるでしょ、あなた力になりなさいよ!」

 JALは株価も頭打ちで不振から抜け出すのにあえいでいる。
大金を出す余裕などあるはずもないし、いの一番に断られるのは誰よりもこの私が一番知っている。

 でもなぜ今になって2〇〇〇万円もの大金が必要なのか聞いてみた。

「今までの五大陸は、誰でも観光客みたいに入山できる国々でしたが、南極へは船も飛行機も定期便はいっさいありません。
唯一の手段は、南極大陸に一番近いマゼラン海峡近くのチリ最南端にあるプンタアレナスの町から、軍用機をチャーターするしかないんです。
その費用だけでも、最小限の友人の登山支援隊員三人と荷物運搬で一人当たり四〇〇万円もする。
だから、今回は誰かにカンパしてもらわないと、南極は難局になるんですよ」

 栗城青年は、白い歯を見せてハハハッと軽く笑い飛ばす。

なんとも陽気な、能天気といったほうがぴったりの不思議な青年であった。
私も酔った勢いで言ってしまった。
「よっしゃあ、まかしたれ! 金は出ないだろうが、
 南米までの航空運賃は空席利用で何とかJALに交渉してみよう」と。

 その夜、彼からもらったDVDを観ていて不思議に思った。

困難を極める登頂の様子が克明に録画されているのだ。
よくもまあ、こんなところまで登って生きて帰ってこられるものだと思う場面が、これでもかと出てくる。

ところが、単独登山であるはずなのに、後ろからや下から誰かが撮影しているのだ。
 すぐに電話で聞いてみる。
「ああ、あれは三脚を立てて自分で撮ったものです。」
そのカメラは?
「ええ、死ぬ思いで登った数十メートルであっても、その度に引き返して回収しますよ、ハッハハ!」

なんとも、あっけらかんとした答え。

それだけではない。
パソコン持参で世界に向けて登山の経過をブログ配信までしていると言うのだ。
過去のしがらみや古い思考イメージにこだわらない、このワクを超えたネアカな行動、その既成概念を持たない彼だからこそ出来る神業なのか!

 こだわらない、かかわらない、こまかいことは気にしない。


その夜は、心地よい夢を見ているようで、なかなか寝付かれなかった。

 翌日から、目一杯つまっている日程を調整して、行動に出た。

JAL同期や後輩で取締役になっている伝を頼って、担当役員と栗城青年を引き合わせることにした。

金が出せないのは重々承知、世界的にJALのPRになるまたとない機会だからブラジルまでの飛行機代だけでも協力してくれと懇願する。
 さらに伝を頼って冬柴鐵三国土交通大臣に面会した。

ひょうたんから駒だったのは、ちょうど北京オリンピックの年でもあるし、
最後の中国側からのエベレスト登頂時には日本国と中国政府の協力も可能になり、
うまくいくと国賓待遇で国際的イベントにすることもできるかもしれないとなった。


 それからは栗城青年を同行して、
SONY創業者である盛田昭夫氏の次男であり役員でもある盛田昌夫さんに会わせるために

品川の本社に出かけたり、栗城さんと函館の同郷である北島三郎さんが、七大陸制覇のあかつきには
北海道凱旋時に同行するようにと引き合わせたり、サッポロビール本社などの大企業役員で旧知の方々を訪ね回る日々となった。

 その結果、チョビっとだけだよ、とウィンクしていた澤田さんが、とんでもない大金を出してくれることになり、
栗城さんのチャレンジの大きな助けとなった。

もちろん、その間も、栗城さんは小さな講演活動や北海道の地元の企業などからの応援募金をやりくりして準備していた。
二人で行動していても、栗城青年はごく普通の純朴な青年で、大人しくて礼儀正しい気遣いの達人、誰からも一瞬で好かれる人柄である。

食事をしていても、彼は肉を口にしない。
魚は問題ないけど、肉でできた筋肉は酸素消費量が激しいから、
無酸素登山には良くないという。

誰かから聞いたわけではなく、自分の体験からの結論だとさりげなく言う。

 なぜそこまで命の危険を冒してまで山に登るのかと聞く。

それは「そこに山があるから」だと言う。

聞いてみた自分が恥ずかしくなる。
人はなぜ生きているのかを問うに等しい愚問。

 あるパーティで三浦雄一郎さんが私と立ち話をしながら何度も爪先で立って上下していた。
背を高く見せるため?実はそんな虚栄ではなかった。
ひと時も休まず目標に向かって筋力を鍛えていたのだ。

両足それぞれに四キログラム、リュックには二五キログラムの重しを背負っていた。
すでに七五歳、不整脈手術をしながらも、その数ヵ月後には再度エベレストへ、最高齢登頂の世界記録に挑戦すると言う。

 この生きるとは何か? という問いに
勇気ある回答を与えてくれる栗城青年の偉業を、
いつの間にか全面的に応援しようと尽力する気になってしまっている自分がいた。


実に天使みたいな青年との出会いである。 


山男には惚れるな、遭難したら、それっきり。
悲しむのは残された者たちだけ。
そこで、私は栗城青年にこんな話をした。

遭難しない方法が一つだけある、
次のことを常に念頭に置いておけ、と。

 オリンピックでゴール メダリストになった人が機内にいると、
私は必ず自分で出ていって直接インタビューした。
すると彼らには共通点があることに気づいた。

それは、彼らが一位になることを考えていたのではなく、
表彰台に上ったときに、
どんなガッツ ポーズを取るかをイメージしていた人たちだったということだ。

同じように、栗城さんが7大陸制覇することだけを最終目標に設定していれば、
最後のエベレスト登頂成功後の下山時にこそ慢心して事故に遭う可能性が大きい。

だから、ヒーローになった後には、下界でどのような素敵で有意義な人生を送るかのみを具体的に想像しながら進めと。

それは考えるだけではだめ。具体的に書くこと、いやそのイメージを絵に描いてみること。

それが出来れば最高のお守り札になる。

人間、常に次にやらなければならないことが待っていれば、現在の困難なことは意外と簡単にクリアできる。
自転車乗りと同じで、初心者のように足元だけを見ているとコケるが、遠くを見ているとスイスイと進む。
明日やることがある、次の夢があるってことは人間の命にはとても大事なことなのだ、と。

 それに対して、
「遭難した人は、間違いなく幸せな状態で死んでいくのだと思います」と
栗城さんがボソッと言った。

極限の状態で登っている最中に疲労と凍える寒さで強烈な睡魔が襲ってくる。
いつの間にか、家族団らんの中で楽しい笑い声が聞こえ、
自分は暖かい布団の中にいて、ああ気持ちいいなあと安心する。
ハッと気がつくと奈落のどん底に落ちる寸前の危険に遭遇している自分がいる。

天国からの誘いに乗らないで、正気に戻す自分との戦いだとも。


「不可能を可能にするのが栗城の冒険です。
 低い可能性を努力で高めるのが冒険。
 
ニートと言われようが、
無謀だといわれようが世界一のアホを止めることはできません。
眼鏡屋を営む父に言われました、
おまえは山に養子に出したと思っている、
人を大事にしろ、感謝しろ、と」


こう語る栗城青年は、南極遠征の費用工面で苦しんでいる時のブログでも、こう書いている。

「とにかくプッツンしました。今日から甘いものは禁止です。
夜の十時に寝るのも禁止です。もう戦闘態勢です。
でもお昼にソフトクリームを二つも食べました。
おいちかった。もし南極に行けなかったら
アメリカまで行ってビッタンしてやります」 

ある日、栗城さんにこう尋ねたことがある。

「登山の最中に悪天候や高山病など、危機を迎えた時には、どんな事を考えるの?」

この質問に対する栗城青年の言葉が印象に残る。
「すべてをありのままに受け入れるようにします。
ああ自分は今、ピンチかもしれないな。
でも仕方ないや、と軽く考えるのです。
ここで大変だ、なんとかこの危機を乗り越えよう、と焦ると
周囲が見えなくなりますからね。

ピンチはピンチとして受け入れて冷静に、
そして自分が置かれた状況を楽しむぐらいの余裕が必要です。
執着が一番危険なのです」
 
この表現でも垣間見えるように、
カンオケのへりをよじ登っている最中でも、
“ドラえもん”を唄いながら前進する底抜けの明るさ、
楽天的な陽転思考が彼を支える成功の神様の正体でもある。

 幸福の秘訣は、自分がやりたいことをするのではなく、
 自分がやるべきことを好きになることである。

********************************

どうですか?みなさん。
素晴らしいですね!

やすまさんの著書からの紹介でした。

黒木 安馬さん
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=3352066
素晴らしい方です!

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