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ユング心理学研究会コミュの【講義録】宮崎アニメ作品にみるユング的世界

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 【講義録】「ユング心理学を知る?」<宮崎アニメ作品にみるユング的世界>
   講師:大橋幹夫さん                 2009/ 9/ 17 


講師は当研究会会長の大橋幹夫さんです。宮崎アニメ作品をユング的に解釈した講義をして下さいました。宮崎監督はアニメを作る時にキャラクターに神話的なもの(ユングでいう元型)、つまり人類共通の心の働きのパターンを入れるそうです。キャラクターに人類共通の無意識のパターンが込められていることにより、たとえモチーフが日本独自のものであったとしても、作品は日本だけでなく海外でも理解され、結果として高い評価につながるのだそうです。
今回、2002年国際映画祭ゴールデンベア受賞の「千と千尋の神隠し」と、宮崎駿さんの息子である吾郎さんの作品「ゲド戦記」、昨年のヴェニス国際映画祭グランプリ候補になった「崖の上のポニョ」(次回に持ち越し)の3作品についてお話していただきました。


 <この3作品を選んだ理由>
◆「千と千尋の神隠し」・・・ユング心理学の第一人者である林先生と高橋留美子さんと大橋さんで、宮崎監督のキャラクター論について話題になった作品。
◆「ゲド戦記」・・・原作『ル=グウィン』と吾郎監督のアニメとの違いが興味深い作品。
           ユング世界そのものであり、ユングを知るのに分かりやすい作品。
◆「崖の上のポニョ」・・・グリム童話と関連のある作品。


1 「千と千尋の神隠し」

?アニメからのユング的解釈

【家族とドライブ中で休憩中に千尋は迷子になり、異界に迷い込む。】
☆ 両親からみたら、ほんの一時の出来事だが、千尋がいた異界では数ヶ月にもなる。無意識の世界(元型)は時間と空間の連続性がない。
☆ 現実の世界(意識の世界)から両親とはぐれ、千尋は無意識(元型=集合的無意識)の世界へ行く。
☆ 千尋は神秘的体験(元型体験)をしている。

【10才の女の子(千尋)が異界である湯屋での出来事を通じて大人になる。】
☆ 自己から個性化のプロセス。
☆ 湯屋は元型である。
☆ 結界のシンボルが門である。
   * 行きも帰りも門をくぐっている。

【キャラクターについて】
☆ 湯婆と銭婆=太母元型(グレートマザー)
   * 太母元型は怖い母と優しい母の2つの本質がある。
湯婆=怖い母、銭婆=優しい母 
☆ ハク=アニムスの元型
   * 理想的な男性像
☆ 釜爺=老賢者の元型
☆ 千尋の名前=自我
   * 名前を忘れたら戻れなくなるということ。
   千尋は名前(自我)を忘れなかったから日常の世界に戻れた。
☆ かおなし=コンプレックス(個人的無意識)
   * かおなしは千尋にしか見えなかった。物語の中盤でかおなしはだんだん大きくなり、最後汽車に乗った場面では小さくなっていた。(千尋は影=コンプレックスを克服し大人になった過程を描いているのではないか)


? 『心をどう理解したらいいか?』・・・ユングの弟子ノイマン「大海の中に浮き沈みをする小島」

 大海は無意識で、その中で浮き沈みを繰り返す小島が意識である。大海(集合的無意識)には何万年もの人類の記憶が詰まっているが、小島(自我意識)は数十年の記憶にすぎない。また、海は魚など宝の宝庫であるのと同時に、危険な火薬庫でもある。大海へ冒険に出ると危険であるが、富を得て豊かになる事もできる。
 つまり、無意識の体験は危険を伴うが、それを意識にもってくれば自分にとって大きな宝となる。
(自己実現=個性化)
       

2 ゲド戦記

? 原作のル=グウィンの父は人類学者でユングの世界をよく知っている人である。
  個人と人類のユング的世界を感じられるとのこと。  

? 「アレンの父親殺し」について
アニメには原作にはないアレンの父親殺しがある。フロイトのいうエディプス・コンプレックス (子供が両親に対して抱く愛および憎悪の欲望)、つまり、息子は父を憎み、娘は母を憎むというコンプレックスを、物語のなかでリアルな父親殺しにしてしまった。ユングの集合的無意識の自立のシンボルであるものを、フロイト的なコンプレックスに作者(宮崎吾郎氏)は混合していたのだろうとのこと。
オイディップス(ギリシャ神話)にも父を殺し、母を犯すという話がある。これもエディプス・コンプレップスである。

? アニメからのユング的解釈

【太古は人間と竜はひとつであった】
☆ 竜は無意識のシンボル

【人間は富を求めて東の多島海に、竜は自由を求めて西の空に棲み分け均衡ができた】
☆ 多島海は意識のシンボル、竜は無意識のシンボル。

【竜が境界を越えて暴れだし均衡が崩れだした】
☆ 竜(集合的無意識)が東(自我意識)に侵入してきた。

? 自我の危機 3つ

a 集合的無意識に飲み込まれる・・・小さい頃から囚われていたテナー
b 影の自立・・・ゲドとアレン
c 自我意識が占める(自己肥大)

? ストーリーの中に2つの要素
 この話はゲドやテナーをはじめ、キャラクター自身の個性化による影からの回復と世界の均衡の回復の2つの要素が同時進行している壮大なファンタジーになっている。

? 大宇宙と小宇宙
 大宇宙と小宇宙(人間)の境を操れるスキルをもっているのが、大賢人の魔法使いであるゲド。現代の芸術家は感性でその境を見付ける人であり、そこから通路を作る技術がある。その通路がアートになるのではないか?ということ。

以上です。

コメント(67)

>ひろひこ
へ〜そうなんですか。
なんか通じるとこがあるんでしょうね。
> ‐糺Rayru瀏‐さん


 いわゆる、社会的政治的活動のフェミニズムって、一種の階級闘争(マルフェミ)で、つまりは疎外されたマイノリティーの権利を獲得する運動の一環であり、父権的な余裕のもとの騎士道精神の美学でか弱きたおやかなるレディーを大切にするのとは似て非なるもの、…。

 それは、男女の役割分担をネグレクトし、拒否する、ユニセクシャルな平均化を目指すため、家庭破壊に至る害悪を垂れ流すとか、…。

 たしか、かいがいしくアルツハイマーの夫を介護していたが、ついに疲れ果て夫を射殺し自らも自殺した生前のジェームズ・ティプトリー・Jr.(本名アリス・シェルドン)を、ル=グインは、フェミニズム陣営に勧誘しようとしていたが、失敗していた…。

 アーシュラは、アリスより、女性としての個性化には失敗していたかも?
> アンナ=アリエルさん


 またまたボケーっとした顔、裸足で踊るとことか、上半身裸とか←あ、まだそこまで行ってない冷や汗?。
けろりんさま

 ル=グインがフェミニストだというお話は有名らしいのですが、4冊目以降の「アースシーの物語(邦題はなぜか「ゲド戦記」)を単にフェミニズムを表現しただけとは、私には思えないのです。
 
 博識のけろりんさまは別のお考えをお持ちかもしれませんね。お考えを教えていただけますと、うれしいです。

 
 
交流会(2次会)で、白田さんがユング派を2分する論争について教えてくださいました。

Aの立場
 物語の最後にヒーローとヒロインが結ばれる話 -> 成功
 物語の最後にヒーローとヒロインが結ばれない話 -> 失敗

Bの立場
 そうじゃないよという考え方。


個人的にはBの考え方の方が納得がいきます。根拠は、今までの人生経験。
>29けろりんさん
フェミニズムがホントはどっちを向いてても構いはしないんですが。
どちらにせよ。(ホモ・バイ・ヘテロにしても)偏愛が行き過ぎると、固定観念になり。
社会のリムーバブルな動きを弱めるともいえます。あと人類学的に多様性も否定されます。
しかし、否定する多くの論客は「自我が未形成か退行状態」に在る為。(先>27の内因的シャドウの葛藤)

ネガティヴアプローチにしか聴こえず、先鋭的価値観をも退行させようと目論んでいます。
超えるべきは、「自身が抱える偏見の壁」であり。宗教戦争や市場競争などで、他人の価値観を破壊しても。それは永遠に乗り越えられないコンプレックスとして蠢くに違いないのです。

まるで「自我意識への内省的アプローチ」が欠損してるであろう観念形態は。狂気的で危険かもしれないですね。それが巨大であるほど滅びは近い。まるで、太古の恐竜のように。
清志朗さん

1日アクセスしなかっただけで、色々なコメントがあり、びっくりしました。

補足ありがとうございます!まだまだ至らない点が沢山あると思いますので、清志朗さんが皆様にシェアしていただけると凄く助かります。
けろりんさん

今回の研究会でお会いできなくて残念でした。
けろりんさんの知識ならば、沢山のご意見を伺えると楽しみにしていました。

宮崎アニメは本当に奥が深いですね。
まり庵さん

お久しぶりです。なかなかお会いできなくて寂しいです。

今回話を聞いていて、宮崎アニメをユング的に解釈するというよりも、ストーリーからキャラクターの動きまで全てがユング世界そのものであるけとに感動しました。

また、お会いできたら嬉しいです♪
ひろひこさん

実は私、ゲド戦記の原作をまだ読んでいないんです。両方知っていると、理解度が深まりますね。

6巻あると聞いて怖じけづいています。
アンナ=アリエルさん

アンナ先生、金曜は相変わらず仕事なんです。清志朗さんの講義絶対逃したくないんですけどね・・・残念。

清志朗さん!スタバでトラパの時に聞かせて下さい。
> マリィさん

 そう、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』を元型的なヤマもオチもない退屈な作品とみなしたユングが、今も生きていたなら、もちろん、元型的イメージ盛り沢山の宮崎アニメを絶賛することは間違いなしですね指でOKウインク

 ただし、意外と宮崎アニメは、まだまだわかり易過ぎ、芸術的にはアバンギャルドとは言えないため、その点、凡庸とは言えるかも知れない冷や汗

 ある意味、ユング心理学的なエレガントな“解”が出せない(?)「エヴァンゲリヲン」などのほうが、“奥深さ”という“転移”をするにはうってつけかも知れない(←例えば大瀧啓祐氏の『エヴァンゲリヲンの夢』?)。しかし、「エヴァンゲリヲン」は、単なるその場凌ぎのイデオット・プロットに過ぎない可能性はある。

 ちなみに、ユング的に深いというと、私には、筆のすさびに身を任せ(←?)、意図的にイデオット・プロットを量産したF・K・ディックも無視出来ない。←しかし、それがユング的だと言うのは、やっぱり私の“投影による誤解”の可能性も高い冷や汗????。
「凡庸さこそ、全てを統べる」みたいなことを。

中国の「水滸伝における反政府軍のリーダー」に例えて言っていたような。

汎用性が高いジブリ作品の方が、屈折無く童心に伝わるんだろうなぁ。

読み手の洞察力にも寄るでしょうね、イディオット・プロットって。
> ‐糺Rayru瀏‐さん

 そういえば、ユングは『ファウスト』二部、『ツァラトゥストラ』二部など、“ごたごたした冗長な展開”を、無意識世界を表現するものとして、評価してもいたんですよね。つまり、ディオニュソス的なもの、…。

 宮崎アニメは、意外と、アポロ的かも知れない。久石壌の音楽も、アポロ的かな、…。
>けろりんさん

ワンダーイノセンスを感じさせるものばかりでは、青年期の葛藤や、中年期の倦怠は表現し得ないのも。

これまた事実です。イディオットプロットは「過程」として外せない場合に威力を発揮するのかも知れない。
けろりんさん

以前、エヴァンゲリヲンの哲学的ともいえる深い解釈を聞いたことがあります。
ですが、私はそのアニメを見たことがなくて、全く理解できませんでした・・・。

それに比べたら、宮崎アニメは確かに分かりやすいのでしょうね。
マリィさんへ

 6巻だと苦しいようでしたら、
 第1巻、第3巻、第5巻をお読みください。
 それも困難なようでしたら、第1巻。

 単に面白いだけではなく、突き刺さってくるものもあります。



 ところで、宮崎作品の結末がever after(めでたし、めでたし)となるかどうか

           映画           原作
 ナウシカ   結ばれる暗示          結ばれない
 トトロ    そもそもそういう話じゃない。  読んでいない
 魔女の宅急便 そもそもそういう話じゃない。  読んでいない
 ラピュタ   一応結ばれるのかな
 もののけ姫  別れる
 ゲド戦記   別れる             結ばれる人たちも
                        結ばれない人たちも
 ポニョ    一応結ばれるのかな
 千と千尋   別れる             読んでいない
 


関係ない話ですが、以前友人が参加していたアマチュア劇団で、After "ever after"のいう演目がありまして、「シンデレラ、人魚姫、白雪姫、いばら姫、ベル(美女と野獣)が結ばれた王子様は、同じ一人の男だった?!」という奇想天外な冒頭からストーリーが展開しました。

面白かったです。
> マリィさん

 そういえば、『エヴァ』の原作者の庵野秀明氏自身のコメントによれば、いろんなヲタク的ガジェットをぶち込むだけぶち込んで、その場凌ぎで、ただ次回をどうしても見たくなるように製作しただけ、…ってな印象は受けました。

 しかし、それは案外、作品が自発的に作者の意図を超えて勝手に“象徴”としてヒエロファニーしていくのを促すことだったり、…。しかして、それこそが、新しい“神話”となる、…。
> ひろひこ@(^-^)ノさん

 それは、やっぱ、究極のアニムス、“アモール”ですかねぇ(←いわゆるエーリッヒ・ノイマン;アプレイウスの!)。林先生によれば、単数のアニムスもアリらしい冷や汗
>けろりんさん
「エヴァンゲリオン」は原作者の意図として、様々な内因的ガジェットを取り込んで行き。

肥大化するも、洗練化するも、どちらにせよクラスタ化し間伸びたイディオットプロットとして。

「ガンダム」に継ぐものを創りたい意図も垣間見えるような…。
> ひろひこ@(^-^)ノさん


 『フランダースの犬』『火垂るの墓』に至っては、もう、結ばれる結ばれないよりも、唖然とするほど、救いようのない結末げっそり人差し指

 私は『フランダースの犬』は、アニメでなく、原作を幼少時に読んで心的外傷を受けたとすら言える冷や汗。…あれは酷い。あの絶望は発禁に価するかも。子供ながらに健気なネロには、ヨブなみの過酷な試練が襲い掛かり、“良いシンクロニシティー”は決して起らず、幸運の女神にはネグレクトされっぱなし、…。しかも、その運命には妙なリアリティがあった。

 しかし、たぶん、実は、その“リアリティ(と感じさせられたもの)”こそ、まやかしの幻想なのかも知れない。ユングの示唆するように、生きる上での善悪のバランスを考えるなら、現実にはコネも裏口もあり、ずるい人間の道がある。抜け道は必ずあるのが現実かも知れない。
> ‐糺Rayru瀏‐さん

 『機動戦士ガンダム』の富野由悠季氏によれば、アムロは採用試験では絶対に採用しないダメ人間としてキャラクター設定したらしいのですが、碇シンジもそれに輪をかけたダメ人間で、植物状態のアスカの胸をはだけそれを触れてマスターベーションに耽り、なぜか譫言でアスカに「キモチ悪い」と言われ「僕ってサイテー」と自己嫌悪に陥るくらいのダメっぷりです冷や汗。そりゃ、ダメでんがなげっそり人差し指
>けろりんさん
そんな描写が…「据え膳食えないわ、男の隅にも置けないわ…orz」的な…。
通常はそういう状態が起こることは稀なはずで。現実には軽犯罪に近い行為…。orz
思春期の病的な衝動ともまた違うような。偉く萎える感じのダメっぷり…。orz
未形成の自我の退行と形成のせめぎ合い…にしても温室育ち。

客観論でいえば、「俺は、せめて碇ゲンドウでいたい」と誰もが思うに違いない。
「諸君、おやつの時間だ」と、ネルフのスナックが発売される、この絶妙な痛々しさと自虐。

「シンジ君を生暖かく見守ろう会」が、綾波レイファン中心に企画されてそう…。

フォースチルドレンがやもすると熱血青年だったら実はアスカは惚れていたかも?
という(着想を含む幻想・空想の類)のが付随しやすいからイディオット・プロットなんだろうなぁ。
何で、好敵手(アムロ⇔シャア)みたいな構想が無かったかな…渚カヲルがデキスギ君と被る。

既に、かなり弄りやすいストーリーに…。(?)

本当に「シンジの超自我形成」のために超える必要があるのは、綾波の母性愛だったりして。
設定的には、どうだっけ…?碇シンジに母親像は不在だったような…。

それには、成長するアニマ像に、碇シンジが気付いていくほか無いわけで…。
「超自我形成」に成功すれば、少なくとも「暴走」は無くなり。使徒も減るかも…。
なんか憶測の話に…すみません。
> ‐糺Rayru瀏‐さん

 綾波レイは増殖するのでアニマスムス?!しかも彼女は、お袋の碇ユイのクローンでレプリカントのような消耗品、それに少女の頃の母と双子のように瓜二つなわけで、…にもかかわらず、シンジが綾波レイに恋したとしたらかなり不健全な気も。だから、オナニーのネタにアスカを使ってしまったのは、まぁ、いくらかマシかも。それに一度は「シンジ、キスしようか?」と(オトナの加持リョウジに相手にされないアンチ・ロリータ・コンプレックスとも言うべき)アスカに(代用品として)誘惑されたことを思いだし、植物状態のアスカに呆然となり、泣きながらオナニーに耽ったのかも、…。←まぁ、壊れてはいる。

 いかん、宮崎アニメから逸脱しているげっそり

 しかし、『新世紀エヴァンゲリヲン』は、ユング心理学の影響下にあるマルコム・ゴドウィンの『天使の世界』をネタに使っているので、ユング思想と無縁じゃないのも確かではある。
>けろりんさん
まぁでも、人類補完計画と称し。進化を駆逐せんとする父・碇ゲンドウの手の内で踊らされているうちは。

まったくもってキャラクターとしては、宮崎吾郎アニメ映画『ゲド戦記』の主人公アレンとは対照的…。

エディプス・コンプレックスを物ともしないアレンに対し、シンジはアニマ幻想に踊らされっぱなし…。

イディオット・プロットはまだまだ間延びしそう。そう、ロストジェネレーションのモラトリアムの如く…。
> ‐糺Rayru瀏‐さん

 うむ、碇ゲンドウは悪い男で、赤木リツコと内縁関係になったばかりか、すでに、その母赤木ナオコにまで手を出していて、赤木ナオコは幼い綾波レイに「お・ば・さ・ん」と馬鹿にされ、ついに自殺してしまいます。マギシステムを構築するような、IQが高いすぐれたSEも色恋に溺れ、滅びる冷や汗。…というのも、碇ゲンドウは、はじめ赤木ナオコと付き合っていたにもかかわらず、財産目当てに碇ユイに乗り換えたからです。もちろん、碇ユイも綾波レイくらいカワイコちゃんなので、一粒で二度おいしいグリコではあります。…しかし、碇ゲンドウはちょっとユングに似てるかも。ユングは、ユングにほのかに思いを寄せる従姉妹の(お針子さんをして生活してたところは、むしろ、ハウルのソフィーはヘリーの方かな→)ヘリー・プライスベルグを研究材料にしたあげく、かなりそっけなく、ブルジョアの娘エンマ・ラウシェンバッハに秋波を送りはじめ、やがて彼女と結婚してしまいます。ヘリーは傷心を抱え早死にしたみたいです。結婚した後のユングは、聖婚の名のもと、ザビーナ・シュピールラインや、トニー・ヴォルフと関係を持ったみたいです。ユングにアイディアをもってかれたと噂される『ヴィジョン・セミナー』のクリスティアナ・モーガンは、ユングに心酔し、ユングの聖婚にならった男女関係を実践したようですが、最後は謎だらけの溺死を遂げたようではある。

 まぁ、超人は、己の欲することをなし、世俗の倫理など超越しているものかも、…。
シルバーウィークが開け、「9月のユング心理学研究会のセミナーのご講義録があがってる!!」とやってきたら、何とすでにたくさんのコメントが・・・冷や汗

ちょっと出遅れた感じのする秋の私です・・・

さて、
マリィさん、わかりやすく面白いご講義録を本当にありがとうございましたわーい(嬉しい顔)


ユング心理学をベースに、もう一度、ジブリ作品を見直してみると、興奮してきてついつい心臓がドキドキしてきますあせあせ


さて、私は、「ゲド戦記」の中の“テナー”はとても象徴的で魅力的な人物だと思いました。
“巫女”という役割が、“無意識へと参入する人”を連想させますし、
テナーが住みかとしている洞窟は、明かりがなくいつも手探りで進まないといけないような暗い所なのですが、彼女は、(視覚以外の)身体感覚を使って、長い年月の間に、その洞窟内を知り尽くし、迷うことなくどこにでも行ける・・・というのがとてもミステリアスで面白い設定だと思っていました。
(後々、その洞窟の中にゲドが入ってきて、ついに明かりで照らされた時、その洞窟内が、宝石でできていたことを知った時は、とても感動しました揺れるハート

そのテナーが、洞窟から出たあと、普通の農家のおかみさんになった…というストーリーも、ゲドが英雄的な冒険を終えたあとに魔法を失い、ごく普通の男になったのと同じくらい、魅力あるストーリーだと私は思いました。

ところで、テナーは、シークレットネームを持たない“白き人”でしたよね(もう一人、竜女のアイリアン(だったかな?)も自分が住んでいる土地の名前とシークレットネームが同じで、一般の人がやたらと自分のシークレットネームを連呼するので困惑していましたよね・・・(ところで“竜女”というと、私は『華厳経』(だったかな? “仏教では、女は悟れないと言われているが、そんなことはない”ということを示すために言われた逸話だったように記憶しています)をいつも連想してしまうのですよ。だから、ル・グィンのいうフェミニズムは、“悉有仏性”のことなんじゃないか…と、私は想像しています)

この“一般の名前”と“真実の名前(シークレット・ネーム)”が同じ・・・という設定も面白いな・・・、と私は思うんですよ。

もしかしたら、自我と無意識の境界を自由に行き来できる…ということを、そんな形で象徴したかったのかしらん…? なんて、一人勝手に想像してしまうんですよわーい(嬉しい顔)
>ミネルヴァの戦士さん

一般の名前とシークレットネームの関係ですが。これは「一般の名前とハンドルネームとの相関」と、置き換えられると考えます。なぜなら、ハンドルネーム(芸名・源氏名)ばかり誇張されると、自我と超自我の区別が曖昧に成り、フロー化するからです。それでどんどん肥大化していく無個性の匿名人格は、速見畝彦氏によると、「仮想的有能感」としてまるで金融バブルの仮想取り引きのように膨らみ。実態とはかけ離れた形状となり。遂には弾け、高度の人格崩壊あるいは欠損を招きます。

本当は仮の姿も、事実の姿も、真実に変わり無いということです。
物事を一元的に観るだけの価値観は古いので、?多元的?解釈とでも言いましょうか。
勘違いが横行する前に?神仏に頼らないこと?を模索すべきかと。

悟れない女神がいるなら普賢菩薩様は何でしょうか…。
悟っているけど、教えや行いを仏陀の手足になり広めて。
選択的に成仏しないのが菩薩様と呼ばれるんだったと思う。
ミネルヴァの戦士さま

> この“一般の名前”と“真実の名前(シークレット・ネーム)”が同じ・・・
> という設定も面白いな・・・、と私は思うんですよ。

> もしかしたら、自我と無意識の境界を自由に行き来できる…ということを、そんな> 形で象徴したかったのかしらん…? 

 私の疑問に対する答えをくださり、ありがとうございます。
 レバンネンが王位に就いた時、“真実の名前(シークレット・ネーム)”を明らかにしたのも、もしかしたらそういう意味なのかもと思いました。
 彼はゲドとともに死に世界まで行きましたものね(ジブリ版ではなくて、原作版)。




 第5巻でアイリアンもテハヌーも龍の姿で去っていき、死の世界の周囲の塀が壊れて、死者たちは”死ねるようになった”。それも光に包まれて。

 そしてアイリアンもテハヌーも去った後(私は4巻を読んだ後、テハヌーが大賢人になるのかなと思っていました)、一段低く置かれていた”まじない師”が、もしかしたら魔法使いの賢人たちをリードする役目に就くことが書かれていましたね。

 
‐糺Rayru瀏‐ さん

貴重なご指摘、ありがとうございます。

>ハンドルネーム(芸名・源氏名)ばかり誇張されると、自我と超自我の区別が曖昧に成り、フロー化するからです。それでどんどん肥大化していく無個性の匿名人格は、速見畝彦氏によると、「仮想的有能感」としてまるで金融バブルの仮想取り引きのように膨らみ。実態とはかけ離れた形状となり。遂には弾け、高度の人格崩壊あるいは欠損を招きます。

“竜”や“シークレット・ネームで表されるもの”を“無意識の象徴”と考えるなら、その“飛翔”は、確かに、ご講義録にもかいてあるように「危険」か「富の獲得」のどちらかを、その人格にもたらす可能性がありますね。

私は、先のコメントで、
“一般の名前”と“真実の名前(シークレット・ネーム)”が同じということは、自我と無意識の境界を自由に行き来できる…ということを象徴しているのだろうか・・・
と書きましたが、確かに“無意識のいたずらな開放”は、自我インフレーションや精神の錯乱を招く危険があると思いました。

しかし一方で、“無意識の意識化”という形で、“竜”を“飛翔”(開放)させることができたなら、これはとても健全であるし、仏教で言う“悟り”にも通じるニュアンスを生むのではないか・・・と、‐糺Rayru瀏‐ さんのコメントを読みながら考えておりました・・・。



ひろひこ@(^-^)ノ さん

上記のようなことを考えていましたら、成熟した普通人として生きたテナーに関しては、“一般の名前と真実の名前(シークレット・ネーム)が同じ”という状況は、テナーが“無意識を意識化”したことの象徴と見た方が妥当なのかもしれないな・・・と考えました。

ところで、テナーは、巫女であった頃、お付きの女性神官に行動を厳しく規制されていましたよね。
また、テハヌーはたいへんな虐待にあっていた・・・。
テナーの洞窟のような迷宮や竜を“無意識”の象徴としてとらえるなら、この“規制”や“虐待”は、「意識による無意識の抑圧(無視を含む虐待)」と捉えてみるのも一興ではないでしょうか・・・。
テナーとテハヌーの物語を、“抑圧された無意識の解放”の物語として読んでみても面白いのではないかと思うのですわーい(嬉しい顔)

また、アレンが、健全な無意識の開放(無意識の意識化=真実の名前を一般に明らかにする)に成功したのは、自我確立のステップでもある冒険(英雄神話)を生きたからかもしれないと考えてみるのも面白いですよね。

確固とした自我を築いたあとなら、無意識からの介入を受けたとしても(自我と無意識の境界を行き来するような事態となっても)、自我崩壊や人格崩壊にいたる危険性は低くなりますものね。





ミネルヴァの戦士さん

ご無沙汰してます。
やはり宮崎アニメの中でもゲド戦記のユング的解釈というのは奥が深いのですね。
皆様のコメントで更に勉強になります。

ミネルヴァさん、また研究会でお会いできたら嬉しいです♪
佐助さん

先日の研究会、お疲れ様でした。
二次会では、私のほうこそ色々お話させていただいて楽しかったです。

カオナシの話は興味深いですよね。さすが大橋さんだと思いました。
ひろひこさん

原作6巻はきついと思いましたが、おすすめ頂いた巻から読んでみようと思います。

ありがとうございます!
 カオナシの食欲と千尋の両親の食欲の共通性が気になり、そこから何かシャドウとコンプレックスのアスペクトみたいなものを拡充出来そうな気がしてしまいます冷や汗。ゲゲゲの鬼太郎の“妖怪大戦争”だかに(←うろ覚え)四次元に胃袋を持つという最終兵器みたいな妖怪が登場しましたが(←甲田さんならすぐに名前が出てくるだろうなぁ〜)あれも関連する気がする。ネバーエンディングストーリーの“虚無”も世界を蚕食し食いつくすもの、…。

 喰うことはシャドウ元型の一つの特徴かも知れない。ハンニバル・レクターの恐ろしさは人喰いであることだし、ユングの地下の大王も巨大な一つ目の人喰い、…。

 喰うことは殺しなどの悪を正当化する作用もある。日本人が鯨を殺して良いのは鯨を喰うためだからであるという、無意識的開き直りがある気がする。

 喰うためなら悪も許される、…これは、何か、シャドウを解き放つトリガーとなってる気も、…。

 ポルコ・ロッソが豚なのにも、“喰う-悪-コラテラル”の連関の、元型的な暗喩に満ちている気もする。
ケロリンさん

むさぼり食うというイメージは、確かに気になりますね。
何かに囚われているイメージがします。

過食症や拒食症も同じような元型に囚われているのかな。
外因的シャドウ(植え付けられた資本主義的虚栄心や虚飾)が拒食症を引き起こし、それに伴なう反動(それに抗おうと過剰に自己防衛する自我、或いは反転)で内因的シャドウが反応し過食症を引き起こす。
両方の病気は、密接な関係があったはずですよ。
自意識の強い人や神経質タイプ、ヒステリーを引き起こすタイプもなりやすいかも。
まるで、強制し刷り込まされた美意識という超自我が内にある自我を押し潰すような。
モラリズムと生存本能の強力な葛藤であり、非情に残忍で皮肉な心理戦略です。

> ‐糺Rayru瀏‐さん


 拒食症の人々は、頭だけで考える狂った人間によるグローバリズムが貪り支配する過食症の世界の片隅で、世界のバランスを回復するために、ひっそりと激しく内面の元型的な戦いを闘っているのかも知れない。太陽が毎日東から昇り西へ沈むのを、見守ることにより、太陽を応援し助ける、あの世界の屋根に棲むプエブロの人々のように、…。なあんちゃって。
 そういえば、私は、漠然と、『太陽の王子ホルスの大冒険』『未来少年コナン』『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』も宮崎アニメだと思いこんでいたのですが、あれらは違うんですよね。

 …しかし、コナンとパズーとペジテのアスベルはそっくりな気がします。

 パズーはちょっと銀河鉄道のジョバンニ風でもありますが、…。

 ラナはシータに似ているし、レプカはカリオストロ伯爵とロムスカ・ウル・ラピュタのテンプレートといった印象を受ける。

 クシャナ姫と烏帽子御前は同一人物のようにすら感じる。

 ナウシカのプリミティブな形態がもののけ姫の“さん”である気はする。

 テルーは、ちょっとヒルダっぽい。

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