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霊界:死後の生コミュの霊媒

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 <<<あの世はあった>>>
<文豪たちは見た! 震えた!  三浦正雄,矢原秀人著 より



 まれに見る霊能力を現わした小林寿子

 晩翠はこの浅野和三郎を通じて、すぐれた霊媒、小林寿子と出会うのです。著者は心
霊研究家ではありませんので、日本に本当の霊媒といえる人がどれだけいたのか知りま
せん。けれども、さまざまな文献を比較する限り、小林寿子という霊媒は日本に生まれ
た貴重な霊能者の一人というほかありません。つまり、まれに見る霊的現象を現わした
人といえるでしょう。
 その彼女と大詩人土井晩翠の出会いがあったがゆえに、周囲の人々の証言も残され、
幾多の文献が後世にのこり私たちの目に触れることになったのです。これは私たちにとっ
て真に幸運なことと言わざるを得ません。本章ではそのことを読者にお伝えできる喜び
を感じます。
 まれにみる霊能力者、小林寿子は盛岡に住む平凡な主婦でした。ご主人は東京獣医学
校を出てその方面の仕事をしている人でした。その妻である寿子は、読書も余り好まな
い、子育てに専念する内気で気のやさしい普通の主婦でした。
 彼女に霊媒の現象が初めて現れたのは、三人の子どものうちたった一人の男の子、和
彦を10歳で亡くした時からでした(昭和5年)。仏壇の前で毎日祈っていると、突然愛
息子の霊が現れたのです。それから和彦の霊が寿子に死後の世界についてを教えてくれ
たり、亡くなった人々との橋渡しをしてくれるようになりました。
 とはいえ、土井晩翠夫婦も、会ったことのない小林寿子という霊媒を初めから信じて
いたわけではありません。
 晩翠が寿子という霊媒に会ってみようという気になったのは、当時、自分が教授とし
て勤めていた第二高等学校ボート部の大惨事と関連した話からです。

 昭和9年12月28日、二高ボー卜部に大事件が起こり、日本中の話題となりました。冬
の松島湾内で練習をしていたボートが転覆し、十人のすぐれた選手が全員溺死したので
した。風や波もない松島湾内でたくましい若者たちが、なぜ全員溺れて亡くなってしまっ
たのかはわかりませんでした。一人の生存者もおらず、誰一人見た人もいなかったため、
その時の状況を知ることは困難とされていました。
 すると二高の教授の中に小林寿子を良く知っている人がいて、この教授の提案で小林
夫人を招いて、亡くなったボート部の若者たちを呼び出し当時の状況について聞いてみ
ようということになりました。浅野和三郎も加わって、場所は仙台の土井晩翠宅と決まっ
たのでした。

 こうして昭和10年1月26日、浅野和三郎と小林寿子とを仙台に迎え、晩翠の家の二階
を会場として、大学教授、二高教授、遭難関係者ら約三十五、六名が集まりました。

 さて実験に入る前に浅野和三郎により小林寿子が紹介されました。椅子から立ち上が
ると一礼した女性は、おだやかでおとなしそうな婦人でした。浅野が会の開始を告げ、
寿子に声をかけました。彼女はうなずいて合掌してそっと目を閉じました。うつらうつ
らしているようでしたが、たたんだハンカチを膝に置いてうつむきかげんに背筋を伸ば
しているところを見ると、眠っているのでもないようです。やがて寿子は顔を起すと目
を閉じたままつぶやきました。最初に和彦という子供の霊が出てきて遭難の時の様子を
語った後、一同は度肝を抜かれました。若い男の声で語り始めたからです。

 「僕五郎です」───寿子の身体を使って苦しそうに語る若者の声は、選手を指導し
ていた二高出身の大学生石井五郎の霊でした。この会合に参加するまで、クリスチャン
である八枝夫人(晩翠の奥さん)は、「亡くなった人の霊がしゃべるなんてことはある
はずはない、インチキを暴露してやろう。」と考えていました。
その描写を文献から引用します。


事故で死んだボート部の若者を呼び出す

 人々の質問に答えた五郎さんの霊は、野蒜(のびる)を出発した時からの顛末を詳し
く語り出したので、並居る人々はすっかり驚き入ってしまった。

 話がー段落つくと「ここはどこか」という霊の質問があり、列席の人々に握手を求め、
互いに言集を交したが、その中の一人の先生にしがみつき「先生すみません、すみませ
ん」としきりに 詫びていた。土井夫人はその先生がどんな方であるかとそっと聞いて
みると、二高 短艇(たんてい=ボート)部長ときかされていよいよ驚いてしまった。
 キリスト教信者である夫人は、死者の霊が出て話をするなんてそんな馬鹿なことがあ
るものか、出来たらその化けの皮を見破ってやり度い位に思っていたところ、あに計ら
んやこの情景に全く驚き入り、自分の狭い見聞のため迷信と思っていた誤りを悟り、そ
れからは謙遜な心になってどこまでもこれを研究してみようと堅く心に誓ったのであっ
た。

 このようにして、晩翠夫妻は霊媒小林寿子と衝撃の出会いをします
死者の霊を呼び出す霊媒の存在を知った土井晩翠夫妻は、当然のことながら亡くなった
子ども達に会えることを期待しました。その翌日、同様に小林寿子を霊媒として、照子
と英一の霊を呼び出すことになりました。晩翠夫婦は感激のあまりに、一晩眠られない
くらい興奮を覚えました。
 そして翌日、再び小林寿子の身体に、長男英一と長女照子を呼び出したのです。あれ
ほど霊媒の招霊を疑問視していた土井夫人はこのように語っています。

 「小林夫人の御身体を拝借して出て来た霊は、私共の愛する娘と息子に毛頭も(少し
 も=著者註)相違ありませんでした。この時の思いは千万無量(感慨無量=註)、
 到底筆舌にはつくすことが出来ません。今はこの世にない最愛の二児が霊界に生きて
 いて、小林夫人の御身体を拝借すれば、何時でも話が出来るという事実を知った時の
 驚喜は無上無限、全く自分達夫婦の魂の復活でした」と夫人は当時を回想して語られ
 たのである。

 この文献の著者、中山栄子は旧制二高の関係者で東北大学司書、専門は日本女性史で
す。土井夫婦よりずっと年下で土井夫人とは親交があったようです。
一方、この招霊会を仲介し、立ち会った浅野和三郎も次のように証言しています。

 尚お、今回の仙台行で書き漏らしてならないのは晩翠夫婦の掌中の珠(最も大切にし
ているもの=著者註)であった二愛児、照子嬢並に英一青年の招霊の件でありました。
(略)今回私達はこの二人を小林霊媒の体に招び出したのであります。招霊は二十六日
と二十七日と二回行われましたが、私の観るところでは二人ともなかなかよく現われ、
充分に御両親を満足せしむるものがあったように思われました。
              浅野和三郎「仙台行」(『心霊と人生』昭和10年3月)

 土井夫妻はこれをきっかけに何度も小林寿子を招き、亡くなった子ども達に会ってい
ます。特に八枝夫人は、自分の偏見を反省し、謙虚な気持になって研究しようと強く決
意しました。

 晩翠の弟子で著述家の成田正毅は、この頃の晩翠の様子を、次のように記しています。

 先生は心霊科学を信じておられた。しかし私はこのことについては余り関心を持たな
かった。昭和十一年の三月であった。小林ひさ子夫人を招き心霊現象の実験するから出
席するようにとのことで私は誘われるままに出席した。その時は霊媒を通して英一君の
霊と対談した。
 その時、英一君の霊は「お父さん! 父さんはこの間『文化』に行ったでしょう。」
というと、先生はいかにも生きている英一君に向って話すように「行ったよ。お前それ
を見てたのか?」「ええ」その時お父さんは『大学よいとこ』見て泣いていましたね。」
「お父さんらしくもなかったですよ。」といった。すると先生は「お前にはその気持わ
からんだろうー」「お前が大学に行ってた時のことが思出されて泣かざるを得なかった
よ。」といわれた。
 英一君はまた、「お父さん、この世(あちら)には悲みというものがありませんよ。」
と答えた。すると先生は安心されたように「そうか、そうか。」といって頭をさげてお
られた。
 
        成田正毅『思い出の土井晩翠先生』(晩翠先生を讃える会、昭和30年)
                                              

        
 昭和11年12月19日付の『報知新聞』では、明治30年代の言論をりードしながら早逝
(そうせい)し、惜しまれた文学者・思想家高山樗牛の霊を呼び出したとあります。こ
の記事の紹介文では小林寿子(記事では孝子=著者註)について「四十二,三のしとや
かなマダム」と表現されています。そして、降霊時の描写では、記事は次のように書か
れています。

 寿子の十歳で亡くなった一人息子に人格が変わると、「突然、顔をきっとあげ(眼は
つむったまま)手を子供らしく構え『僕和彦です』と十五六歳の男児の調子になり、ま
た、高山樗牛に人格が変わると「数分後、再びきっとなって『私、高山です』と膝を正
して一礼した、正しく男の声帯」になったとあります。

 この描写を見る限りにおいては、トリックや技術でとてもこのようなことができると
は思えません。


主婦の友編集者が感嘆した寿子の霊現象

 また、『主婦の友』に掲載された「九条武子夫人(この時すでに故人=著者註)と語
る霊界の座談会」に、浅野和三郎、和三郎の兄浅野正恭、土井晩翠らと共に、小林寿子
が出席しました。九条武子夫人は有名な歌人で西本願寺教団の顔であり、奉仕に一生を
ささげた人です。柳原白蓮(大正天皇生母)らと共に大正3美人と称されています。こ
の時の記事にはこのようにあります。編集部の記者が書いた文章です。

 霊媒というものが、昔から、日本にも、外国にもあるということは聞いておりました
が、死んだ人の霊と話ができるなどとは、あまり物語めいて現実のこととは考えられま
せんでした,
 ところが、ある日偶然にお目にかかつたキリスト教青年会同盟の斎藤惣一氏から、仙
台の土井晩翠氏のお宅で、小林さんという、ある夫人の霊媒を通じて、土井氏の亡られ
た令息英一さんや、その他の方々の霊に会われて驚かれたという珍しいお話を伺ったの
です。

 日頃そういう神秘なことに対し、あまり興味を懐いておられるとも考えられない斎藤
氏が、本気で驚いておられるので、記者も大いに好奇心を動かされ、折よく御上京中の
土井氏と小林夫人にお目にかかり、いろいろの不思議な現象を見せて頂きました。
 小林夫人の全く御存じない、記者の近親の霊を呼んで、いくつかの実験をしましたが、
故人の臨終の有様を如実(実際の通り=著者註)に表し、生前そのままの癖のある動作
をし、記者の質問に一々明確に答えられたときには、不思議を通り越して、驚かずには
いられませんでした。
 この霊媒は、イギリスなどでは、学者の間で心霊科学としていろいろと研究されてい
るそうですが、小林夫人を通しての霊界というものが、ダンテの神曲やミルトンの失楽
園などによって、おぼろげながら想像していたものと、殆んど同一であったのも、不思
議な気がされました。
 小林夫人の御主人は、農業大学の農芸学科を卒業され、更に東京獣医学校にも学ばれ
て、その方面のお仕事をなすっておられ、夫人は読書もあまり好まれぬ、極く内気な方
で、ひたすらお子さん方の養育に専心されていた、世の常の優しいお母様でした。
 霊媒の現象が初めて表れたのは、三人姉弟のたった一人の男の子であった、和彦さん
という十歳のお子さんを、昭和五年の一月に亡われたときからで、わが子の仏前に端座
して、親としての不注意を涙ながらに詫び、その冥福を祈念していられるとき、突如と
して愛児の霊が現れ、周囲の人々を驚かしたのだそうで、その詳細は次の座談会の和彦
さんのお話をお読みくだされば、お判りになります。
        「九条武子夫人と語る霊界の座談会」(『主婦の友』昭和11年5月号)

 この記述は、日頃神秘にはあまり興味がないというキリスト教徒の斎藤惣一が驚いた
ということで、説得力のある書き出しになってます。また、小林寿子の素姓や気質が、
決して怪しげなものではないということもよくわかります。


寿子の息子、和彦の霊のけなげ

 しかし、それでも読者の方々は寿子は、霊媒としてどのようであったのか、またその
信憑性はどれほどのものであったのか疑問は尽きないことでしょう。愛児和彦の霊が乗
り移ったとされる時の描写を、見てみましょう。

 和彦君の霊  僕は和彦です。僕は十歳で死んだんです。僕の仕事は、思想の善導、
 衆生の済度(しゆじよう さいど)((人間を救うこと=者註)ということです。
 今は思想が混乱しています。だから母さんの体を使つて、現幽両界にわたって
 思想の善導を動めています。
  現世とは現れる世と書くでしょう。即ち物質界、現象界です。現象の本元がなけれ
 ばなりません。これが感覚を超越した世界、即ち幽世ー幽界ー霊界であります。
 霊界に起こつなことが一々現界に写されるのです

 土井  このことはプラトーも言っています。

 和彦君の霊  ですから、思想善導は現界の人を転向させるだけで、できるものでは
 ない、根本の霊界の思想善導も行わなければ目的は達せられないのです。
 いくら宗教家が現界の人々を済度しても、霊界の悪霊がまた他の人にとりついて、
 いろいろ悪いことを起しては、何にもならない。 だから、この現幽両界を済度して
 両方を転向させるのが、僕の役目なのです。
                       「九条武子夫人と語る霊界の座談会」

 愛息子の和彦がのりうつったという小林寿子の語る内容は大変高邁な内容で決して低
俗なものではありません。プラトンの言うように、この世界はすべて霊界の事象の反映
だとは著者は思いませんが、幽霊が出現するなどということが実際にある以上、霊界が
存在すると仮定するならば、霊界と人間界はやはり無関係とはいえないでしょう。常に
隣あっている異次元空間である以上、何らかの交流があると考えざるをえません。
 和彦の霊は、私たちの世界の物質科学文明と、霊の世界との関係についても、次のよ
うに語ります。

 和彦君の霊  僕は、物質文明を、今までの或る宗教家達のように否定するようなこ
 とはしません。
  例えば、病気などの場合に、薬が要らないなんていうのは嘘です。肉体の病気は物
 質であるところの薬によらなければならない。肉体の病気は物質科学の本領を全うし、
 霊的な 障害は心霊科学の立場から治してゆかなければならないのです。
  心霊科学の立場から物質科学を貶す(けなす)のもいけないし、物質科学者が何も
 知らないで心霊科学を貶すのもいけません。 要は物心一如でなければならないので
 す。                 「九条武子夫人と語る霊界の座談会」

 ここには、非常に興味深い問題が提起されています。この本のテーマである不思議な
ことについて、日本では頭から偏見をもって否定する人かおりますが、その根拠は物質
科学なのです。しかし物質を見る尺度と幽霊を見る尺度が同じであるということ自体に、
無理があります。
 まったく違うものを一つの尺度で計るというところに大きな問題があるのでしょう。
それに物質科学自体も現在はもっとつきつめられて深いものとなっていて、物質が粒子
だという考え方は過去のものになりつつあります。量子論などでは、物質はエネルギ―
の場によって仮に起きている現象にすぎず、物質の実在を絶対的なものとしては真理に
到達できないことがわかってきました。


 ここでも和彦の霊は霊界のことを教えてくれたり、さまざまな霊を呼び出すための橋
渡しのような役割をしています。和彦の霊は、母親が霊感を持ったことについてこんな
ことも言っています。

 和彦君の霊  それから、だんだん子供を亡したお母さんなどが(自分の子どもの霊
 を呼び出すことを=著者註)頼みに来るので、母さんは同情してやっているうちに、
 だんだん 多勢になって、中には霊術を試しに来る人もあるのです。
  どんな人が来ても平気でした。試しに来た人が汗だくになつて、『霊気お強いです
 ね。」といって掃ってゆきました。
                      「九条武子夫人と語る霊界の座談会」

 これらの文献から言えることは、晩翠は真摯に霊界とのコンタクトを求めながら、で
きるかぎり理知的であろうとしたことと、寿子もまた、真摯に求める人たちのために一
生懸命にこたえようとしたことは間違いありません。説明できない不思議な現象の数々
を先入観や偏見を取り払って虚心坦懐に見るならば、土井晩翠と小林寿子にまつわる話
の真実は否定すべくもないでしょう。

 この後、晩翠は、昭和13年に二高の教授を退き15年には唯一残った次女信子(中野好
夫夫人)も病没してしまいます。戦時中に空襲にあい、貸家と文学者の生命とも言うべ
き蔵書三万冊余を消失してしまいます。みずからの死の4年前、昭和23年には、最愛の
妻八枝夫人までもが病没しました。こうした不幸なこともありましたが、最後まで大部
の翻訳に取り組んだり、詩集・エッセイ集を刊行したりと著作活動においては衰えるこ
とがなく、晩翠の生きる姿勢は決してたくましさを失つてはおりませんでした。
 土井晩翠は、ただ寂しいから、孤独だから、心霊学に打ち込んでいったのではなく、
次々に訪れた愛する家族の死によつて、真に生と死の問題に目覚めたからだと考えます。

コメント(2)

つっちーさん

>大作家と呼ばれる人で霊界の存在を確信している方は多いみたいですね

シャーロック・ホームズの作家コナン・ドイルが有名ですネ♪ ペンギン

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