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量子論と複雑系のパラダイムコミュのコペンハーゲン解釈

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複数ある量子力学の解釈のうち、概念的にはボーアの相補性原理1927に依拠し、数学的にはハイゼンベルグの不確定性原理1927の上に築かれている一派。彼らが研究所をおいたコペンハーゲンから名とっている。

光の性質について、粒子であり、同時に波である。−とか。
猫が生きているかしんでいるかは、確立である。−とか。

結果がでれば、中身はブラックボックスでもいいという道具主義の立場をとる。

彼らは、、「わかる」ことは必ず必要といえるだろうか?-と考えたのがコペンハーゲン解釈だ。

その対象を操作「できる」ことが全てではないだろうか?

考えてみると我々自身の体すら本人がその仕組みを「わかる」わけではない。

それでも手や足は思う通りに動かせる。
これでいいという人いるだろう。

もちろん反対を唱えるものもいる。

アインシュタイン>神はサイコロを振らない

ドイッチュ>コペンハーゲン解釈なんて道具主義解釈にすぎない。コペンハーゲン解釈なんていまや誰も信じていない。

 



コメント(15)

確率解釈のひとつ。重なり合った状態から観測することによってそのひとつを取り出すという意味ですね。
はじめまして。

量子論と複雑系のパラダイムについて、自分なりの意見を、以下に、述べさせて頂くことにしました。

コペンハーゲン解釈に関して、自分は以下のように考える、という表明をして、言い出しっぺになることによって、これに対して、もしも議論の取っ掛かりになるレスを頂けて、考えを深めるきっかけになれば、嬉しいです。

****************************

太陽から地球まで光が届くまでに8分掛かる、ということは、地球上の観測者は8分前の太陽を見ている、ということです。

したがって、物は光速を超えれば、この世という観測可能な範囲内の外に、逸脱します。

ところが、物の構成要素の最小単位である素粒子は、ここに存在する可能性が何%で、そこに存在する可能性が何%で、あそこに存在する可能性が何%で、というふうに、全空間に波のように同時に遍在していて、すなわち、波は速度無限大で時間経過なしに空間移動していることになるわけです。

このことは、物は光速を超えたらこの世の外に出るとする相対論と整合的な議論となるように量子論を成り立たしめるためには、心はこの世の外に出ないままで光速を超え得る、と考えざるを得ない、と自分は愚考致します。

ミクロの素粒子の波は、マクロの観測主体によって観測された瞬間に、どこか一点に存在する可能性が100%になって一点以外のすべての点に存在する可能性が0%になる、というふうに、速度無限大で一点に収縮して点粒子になります。

すなわち、粒子性と波動性の二重性は、物と心の二重性で、心という意志には波をどこに収縮させるかを選び取り得る自由がある、ということです。

目が目自身を見ることができないことから分かるように観測行為とは距離を置いて対象化することで、主観の観測によって、外側から表面的に眺められる限りでは、客観化されて、物象という姿を呈する対象は、内側から共感的に追体験されるならば心なのだ、と言えようかと思います。

すなわち、すべての物に心という自由意志があって、それはミクロという単純な要素においては潜在能力として潜在していて、マクロの複雑系に至って初めて、顕在化して、部分の総和以上の全体が創発された、ということです。

もしも物たちが自己組織化した結果として初めてそこに心が生まれてきたとする唯物論が正しければ、ちょうど本体が光を遮って結果として出来た影が本体を動かし返すことができないのと同じように、心は物で出来た世界の事態の推移に何の影響力も行使し得ないことになりますけど、実際は、学校に遅刻しないために足を動かして走ったり授業中に手を動かして挙手したり、心という意志は意志通りに身体という物体を動かす行為を為し得る、という反唯物論的心身連動順は、自己組織化以前である最初からすべての物に心がある、とする唯心論の正しさを、証拠立てている、と自分は考えておるのですが、皆様は如何お考えになられますでしょうか。

****************************

現段階では以上のような考えを所持している、ということを、述べさせて頂くことを以て、はじめましての挨拶に代えさせて頂くことにしました。

ちなみに、多世界解釈においては、波は収縮せず広がったままで高さが変わらないとのだすれば、一つの世界における素粒子の存在可能性の総和が100%のままに保存されず計算の辻褄が合わないので、コペンハーゲン解釈のほうが正しい、と個人的には考えております。

意見交換させて頂ける方のレスを、心待ちにしております。

よろしくお願いしますm(_ _)m
>>[3]、

トピずれかもしれないけど、光速を超える観測方法が見つかったとすると、また物理学が変わってきちゃうかもですね?
>>[4]
波が収縮してどこか一点に存在する可能性が100%になれば一点以外のすべての点に存在する可能性が0%であるという情報が速度無限大で一点に伝わってくるという意味で心と心の伝え合いは光速を超えると言えると思います。
「粒子」が高さ無限大で幅ゼロの「波動」であるというふうに粒子が波動の一形態であるということは、「物」が「心」の一形態であるということを、示していると僕は愚考致しますが、如何でしょうか。
>>[5]、

松ぼっくりさんの言う「心」が、物理的にどういうものを指すのかがよく解りませんが、相対性理論だと、ものごとの起こる順序まで観測計によって変わってしまうので、観測者は物理的な真実を知る事ができないという事になってしまうと思うのですが、情報の伝達時間が0である物理系と観測者が真実を知る事ができない観測系と両方考えて、情報の伝達時間が0である物理系を「心」の物理系とするという事ですか?
>>[6]
もしピント外れの答えだったら、すみません。

心とは知情意の三領域に分けられて考えられてて、情に知をして打ち克たしめる意が意志です。

個体本来の欲求と外的環境が突き付けてくる要求との葛藤を内面化して、感情と理性(=知性)の葛藤を経験する動物が人間である、とする古来の心理学説において、理性が感情を抑える力は意志の力です。

人間以外の動物の場合は本能が壊れていないので、本能を抑える理性は必要なく、理性によって抑えられて本能が感情に変容することもない、というふうに、快感原則と現実原則への心の分裂はありません。

たとえば単細胞生物アメーバは、餌に向かって触手を伸ばしたところを横から針で突けば痛がって触手を引っ込める、というふうに、快を求め不快を避けるままが現実適応することになります。

物は目に見えるのに対して、心は目に見えないにせよ、ある、ということです。

物理学は数学で記述されますけど、目に見える具体的な物の背後に目に見えない抽象的な数が実在して、数こそ真実在で、物は観察者に対して見せ掛けられた幻だ、とする実在論を、数学者の多くは支持してますけど、数という観念が外界に客観的な実在としてある、とする実在論において、その観念は心の中にある存在だから、すべての物に、それと表裏一体の存在として、心はある、と僕は考えます。

たとえば、物質の構成要素の最小単位である素粒子は、スピンしてて、それは二回転して初めて元に戻るような自転で、これは半回転がi=√-1を掛けることを意味してて、一回転で√-1√-1=-1と正負の符号が反転して、二回転目で√-1√-1√-1√-1=1ともう一回正負の符号が反転して元に戻るわけですけど、i個のリンゴが存在する状態を具体的にイメージできる人がいないことから分かるように、素粒子のスピンは、以上のように、数学的に辻褄が合った計算処理が可能なだけで、そこにどんな目に見える具体的な物で出来た世界像を思い描くこともできないわけです。

目に見える具体的な物というのは幻覚にすぎなくて、実在するのは抽象的な数という観念だけだ、とする実在論は、哲人プラトンのイデア論で、哲学用語で言えば、客観的観念論です。

数理物理学者ペンローズは「観念」「物」「心」がじゃんけんの「グー」「チョキ」「パー」のように三すくみの関係になってると考えてますけど、僕は、ペンローズの考えに賛成してます。

もしも、ご質問の意味を汲み取れてなかったとしたら、すみませんでした。
>>[7]
EPR相関という二つの波動関数の収縮を考えなくても、一つの波動関数の収縮だけを考えても、超光速の情報伝達がおこなわれてる、と考えていいと思います。
アインシュタインの喩えで言えば、サイコロ振って或る目が出たらその目が出る可能性が100%であるという情報以外に、その目以外の五つの目が出る可能性がいずれも0%である、という情報も知らされるから、合計六つの情報が知らされたことになります。
>>[10]
相対論と量子力学をどっちも否定しないで、しかもなおかつ、情報が速度無限大で伝わるとする議論を、成り立たせることは、可能だ、と思います。
光速で進む光源から進む方向に光が放たれたとしても、その速度はcのままである、という光速度不変の原理からは、光速cと光速cの加え算の結果が光速cになる、というふうに、光速度を超えても光速のままである、すなわち、光速が無限大の速度の役割をしてる、ということが、分かるわけです。
すなわち、光速で動いてる者にとっては、全空間が一点に縮み切って、時間が延び切って時間の長さの遅延が無限大になって、時が止まるので、光は同時に全空間に遍在してる、すなわち、光は速度無限大で空間移動してる、ということは、言える、と愚考致しますが、如何でしょうか。
>>[11]、

ずっと悩んでいたんですけど・・・・・、

相対性理論は情報が光によって伝わるという前提があるのではないか?だから、情報が速度無限大で伝わるってのはもはや相対性理論ではなく、ニュートン力学!?

あれ、前時代戻っている!!!!!!!???????

アインシュタイン「僕たち。」
ニュートン「私たち。」
アインシュタイン & ニュートン「入れ替わってる!?」
>>[12]
要するに、物質という重い者は空間を延ばして時間を縮ませるのに対して、光という軽い者は時間を延ばして空間を縮ませます。
もし光子という素粒子が点粒子だとすれば、光子にとって、時間の長さの遅延は無限大であるという意味で、時は止まってて、空間は一点に縮み切ってるわけです。
だから、光子は、全空間に同時に遍在してる、つまり、速度無限大で空間移動してる。
秒速30万kmという有限速度が無限大の速度である、という矛盾が、ここにあるわけです。
ゲーデルの不完全性定理が教えるように、無矛盾性と完全性は両立し得ません。
もし無矛盾な理論体系が存在するとしたら、それは、真偽決定不可能な命題を内包する理論だから、同じ一つの命題が真である理論と偽である理論という二つに自己分裂せざるを得ないわけです。
相対性理論が一つの理論である以上は、無矛盾ではあり得ない、ということで、有限値と無限大という数値が等号で結ばれる、という矛盾がある、ということだ、と僕は考えます。
アインシュタインとニュートンは両者共に正しかった、ということになりそうですね。
>>[13]、

そういう考え方は好きですね!

量子論はある程度そう言った考え方なのかもしれない!

しかし、排反事象が完全に同時に存在するという考え方ではないと思います!

確率が導入されていますよね?

そうすると、基本的に(自分は松ぼっくりさんのような考え方は個人的には好きなんですが、)数学や演繹的な体系を越えてしまうのでは?しかも、さらに科学的に松ぼっくりさんの言うような状態、つまり、光速情報伝達系と無限速度情報伝達系が同時に存在するという現象は観測されていないのではないですか?

そうすると、科学の体系を越えてしまうのでは?あるいは、松ぼっくりさんが意図的に科学の体系を越えたいのかも?「こころ」として・・・!?
>>[14]
相対論と量子論の関係については僕の能力では直ちには答えが出ないようです。
うまくイメージ出来ませんでした。
光は、どのような速度で動いてる者とも、速度差が変わらない、という相対論の光速度不変の原理は、有限値から何か引けば引いた分だけ変わるのに対して、無限大からは何を引いても無限大のままで変わらない、ということを、意味してて、つまり、一方では有限速度とされる光速度は他方では無限大の速度である、という計算結果になる、と僕は考えます。
数学で、無限大という概念の定義は、変数xがあって、それがどんな正数Kよりも大きくなりうるとき、xは無限大となる、あるいは略して、xは無限大である、と言う、というものです。
光速度がどんな数よりも秒速30万kmだけ大きいということは、光速度が無限大の速度の役割をしてるわけです。
数学の概念としての無限についての議論を考えればいいのかなと思いますけど、現代数学は無限を扱うようになってから矛盾を内包するようになった、と言われますけど、数学者は無限論を過度に哲学的な議論に行き着かせないように、考えすぎないように、してるみたいですけど、数学の哲学のトピックとしては、興味深い包括的考察のテーマたりうるのでしょうね。
たとえば、数学は白か黒かしかないとする二値論理だけど、現実は白でも黒でもあるグレーゾーンだから、グレーという矛盾を許容し得る論理を思考に導入しなければ数学は不完全ですよ、ということを、ゲーデルの不完全性定理は、言ってて、矛盾許容論理と呼ばれる、通常の数学の論理とは別々の論理も、考えられてるようです。

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