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「デカルト的省察」勉強会コミュの暫定版つくった

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 現象学的判断中止において獲得される先験的主観とそれの意識作用(ノエシス)――この二つをあわせて先験的自我というのだろうか(恐らく違う)――が客観的認識が行われる根拠であり地盤であるという彼の発言から、われわれはこのことを理解する必要を要請されるであろうことは納得できると思う。そしてこれに対する理解は我々のフッサールの現象学理解に必ずや有用なこととなるであろう。
 それでは上記の先験的主観性とはどのようなものであろうかを見ていこう、まずもって彼が現象学においてなさんとしたところは何であろうか、その一つは学問の徹底的な基礎付けである。そのために彼が先ず手をつけたところはデカルト的省察すなわち既存の学問が基盤としている領域つまり自然的見方(空間時間という超越的[用説明] な世界が現信憑によって定立している状態――素朴にいま我々がものことを見ている世界)に対する懐疑である。
 端折って言ってしまえば彼は感覚的経験――経験的世界という既存の学問における地盤から素朴な妥当性の排除を要請した。
しかしこの素朴な「ものが存在している」という原信憑(Urdoxa)から如何にしてわれわれは脱却する事ができるのであろうか――ここが恐らく彼とデカルトとの方法論の差異が明確化されるところであろうと思うがメドイので今回は触れない――それは客観的世界に対するあらゆる態度決定を一切有効なものと認めないこと、つまり現象学的判断中止(Epoche)を行うことである。しかし判断中止を行うことにおいてもわれわれは自然的見方における何ものも失われることなく世界は以前と同様に経験された世界である。つまりエポケーによって獲得された先験的主観性の領域においては経験世界における判断、理論、価値なども保持されているがただ、それらの妥当性は変様されて単なる現象としてとどまっているのである。   
 世界に属するすべてのものが、わたしに対して存在するのは、わたしがそれらを経験したり、欲求したり、判断したりとその様な「われ思う」のうちで意識され存在し、世界の存在の妥当性もその様な意識作用から得るのである。したがって先見的主観性――純粋な自我とそれの意識作用――が世界の自然的存在に本来先立つ存在として、それに先行しているのである。

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