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柴田元幸コミュの佐藤良明、柴田元幸『佐藤君と柴田君』(新潮文庫)1991

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(2009年に綴った感想文をアップします。柴田さんより佐藤さんよりで、しかも脱線が多いので、スミマセン!)


メキシコの安めの中華バイキングでも、焼きそばが並んでいることがある。
 最近は中華料理店組合のお達しかどこでもバイキングをやっているらしいのだが。
 うちの近所でも中華のバイキングをしているところがある。
 しかし例によって脂ぎとぎとで、いかにもからだに悪そう。
 でもやはり麺モノであることにはかわりがない。
 ちょっとだけでもと自分に言い訳するが、けっきょく多めによそってぱくつく。

 もちろん焼きそばは脂をつかうだけだからあまりからだにいいわけがない。
 縁日なんかでもよく見かけ、それなりにおいしそうであるが、あまり手が動かない。
 一年まえにニホンから焼きそばの生めんを五玉ぐらい持ってきたときは、油控えめで大事に大事に料理したが、あまり印象には残らなかった。

 さて、ここまでが前座であった。

 柴田元幸と佐藤良明の綴った「佐藤君と柴田君」という新潮文庫を読んだ。
 この佐藤というひとはピンチョンとかを訳している、このあいだまで東大の英語の先生だったらしい。
 軽いノリではあるが、軽妙に話がはずむ。

 さて、この佐藤君、といってはまずいな、佐藤さんは高崎の出身、親が老齢でもあり地元に家族で移り住んだ。
 高崎という街。

 トウキョウから新潟方面に通じる高崎(・上越)線の沿線は、上尾あたりからトウキョウに近くなるほど活気がでるが(とくに大宮)、それよりも少し離れると、街はさびれる一方である。
 熊谷とか深谷といったところを意味するわけで、自動車道中心に街が再編されてしまい、駅の周辺は気が抜けた感じ。

 しかし高崎までくると、トウキョウ系の資本が投資されるのか、大々的に町並みが替わってくる。
 この佐藤さんもそれに途惑う。
 昔からの店はさびれ、大型店舗系が客をうばう。
 子どもの数もへり、住んでいるのはお年寄りが多くなる。

 その佐藤さん、中学時代に通った焼きそば屋さんを見つけ、懐かしさでいっぱいになり、家族総出でお昼を食べに行く。
 昔の日々がよみがえってくるなつかしの味。
 しかしそれは佐藤さんだけ。

「太くてグニャッとした麺、芯だらけのキャベツ、ラードのような挽肉、それに上州名物焼きまんじゅうのタレみたいな味付けが、不思議なほど舌にしっくりくる」

 店を出たところで奥さんが声をあげる、「もうこない。まずい!」

 佐藤さんはタイムスリップから目が覚める。
 そういわれると、たしかにいまの好みからすると、まずく感じられる。

 ああ、昔のニホンといまのニホンのなんというギャップ。
 レトロブームなんてなんだ。
 いまのソフィスティケイトされた焼きそばからすると、食べられたしろものではないというのは事実。

 ああ、ああ、とため息だけをついてしまう。
 お塩をまぶしただけのおにぎりとか。

 懐かしの味には、想いを馳せるだけにしておいたほうがいいのか。

( 24 of September, 2009)


「英語をものにするには英語を話すところに行かないとだめだ」という意見をよく聞くけれど、それが主張している実のポイントは、「語学学習は、ブロークンな表現が通じたこと自体がプラスの強化となるような状況でやらないとだめだ」ということなのではないだろうか。


 上は昨日の佐藤良明さんのことば。

 子どもがニホン語をまなぶとき、そのたどたどしいニホン語は、周囲の人間に「ほほえみ」を誘う。
 それは「プラスの強化」といわれるらしい。
 一方、ニホン人が外国語を習うとき、ミスには減点という罰が伴い、脅かしがつきまとう。
 ニホン人が外国語を学ぶとき、だからいつも意識をぴりぴりさせていなくてはならない。
 これを「処罰回避のコンテクスト」というらしい。

 しかし語学で大事なのは「無意識を鍛える」ことなのだ。
 理屈を通して学んだ外国語の知識が、無意識に沈み、意識には「自然だ」とか「おかしい」という感覚的なものとして認識されなくなってはじめて、流暢な言葉づかいが可能になる。

 これが、考えなくても喋っているという極意。

 わたしなども眼はニホン語を読んでいるのに、口ではだれかとスペイン語で言い争いしているということが間々ありうる。
 自画自賛ではあるが。

 ちょうど運転を習いたてのころには、話しかけられるのにも怯えるほどであるが、巧くなってしまえば、ハンドルを握りながら隣の女の子のうなじを撫でていることもできる(たとえの話ですぞ)。


 メキシコに来るあまりスペイン語に詳しくないニホン人の女の子が、groseria(スラング)だけには達者になってしまうことがある。
 女の子たちがそんなことばを使うと周囲が色めきたつ。
 これも「プラスの強化」というものだろう。

 厳しい語学学習もいいけど、誉めまくり戦術もいい。
 初等の語学は暗記物で、みんながイヤがるわけだが、ひととおり覚えてしまったら、どう頭をきりかえていくか。

 佐藤さん言うところの、英語にアットホームになる、ということらしい。


( 25 of September, 2009)

三日つづけて佐藤良明さんのことをあげつらう。
 柴田元幸さんも佐藤さんも、絵に描いたような優等生。
 わたし(たち)は、優等生さんにはジンセイの味なんてわからないだろうとたかをくくってる。
 しかしこの佐藤さん、ポップス論やら昭和論にも際立っているらしい。
 ついこのあいだの昔を振り返り、愛玩するようにいとおしがるというものである。
 じっさい、わたしもそんなもんで、もうジンセイもあがっちゃってるようなものだから、昔のことを想いだしては、ため息まじりにうっとりするという日々。

 そこでサザン・オールスターズである。
 かれらの音楽は革命的でも革新的でもない。
 あるあきらめのなかでの、やぶれかぶれさが身上といったものだろうか。
 音の羅列も注意をひいた、基本的には既成のラブソングのモザイク状の組み合わせでしかないのだが。

 「無邪気にon my mind」とか、「浮気なlady誘われリャsteppin' out」とか。

「この一見意味不明国籍不明の言葉こそ、我々の青春の集合無意識の言語にほかならぬ」

 それでこんなところを読んでてさっそく思い出したのがまたしても逍遥先生の「当世書生気質」。
 おなじような、アイデンティティの狭間で揺れるメンタリティが垣間見え、国籍不明性といったところで共通項が見出せる。
 ちょっと例をひいてみる。
 ( )は原文のまま。

「実に日本人の。アンパンクチュアル(時間を違えることをいう)なのには恐れるヨ」

「ユーアセルフ(君自身)にはわからないかしらんが。現在学力もさがったようだし。リイゾン(道理を分別する力)もよっぽど狂っているヨ」

「アイデヤリズム(架空癖)の奴隷になって。かのプロ(娼妓)のとこへ行ったものなら。それこそデンゼラス(剣呑)きわまった話さ」

「そりゃア。インポッシブル(難行(だめ))だ。こりゃアおかしい。人間のたのしみは。セックス(情欲)ばかりじゃ。ないじゃないか。アンビション(功名心(たいもう))をもって」

「こういうたらウィイク(気が弱い)なことをいうというじゃろうが。人間は元来パッショネイト、アニモル(情のある動物)じゃから。いかに「ウィル」(執意(こころざし))が定まっておったからというても」

 サザンの歌詞がふるめいてしまうほど。
 べつに書生さんのほうが理屈っぽいということではなくて、よく遊んでもいる。
 百年たっても、変化しすぎるというニホン語も、意外と不変なところがあるっていうことだろうか。

 ともかく、ニホン人が英語が苦手だなんて誰が言ったんだろう。

( 26 of September, 2009)

すでに三回にわたって触れた、佐藤良明と柴田元幸という二人の駒場教養の英語の先生のリレーエッセイ。

 このおふたりは、現代米文学に多大な貢献をなしているが、アカデミックな面のみでなく、いろいろな生活感をただよわせていることで、なにかを共有しているような錯覚におちいってしまう。

 もっともおふたりは、優等生であり、わたしなんかと比べものになるわけではない。
 しかしそれでもおなじ空気を吸っていたというノスタルジーを感じ、米文学の彼方からこんな声が出てくるというのが意外。

 それこそ事細かに突っ込みを繰り返したいくらい、読書会なんかで扱ったら、みんなが喋りたがるだろうな。

 そう、このおふたりの少年期というのは、「外人が外人だったころ」のことなんですね。

 眼がうるむ一歩寸前。。。(笑)


( 28 of September, 2009)
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