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60'〜70'〜80' SOULコミュの*60'〜70'〜80' SOUL (ソウル・ファンなら知っておくべき!)

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YELLOW MAGIC ORCHESTRA-BGM/TECHNODELIC[81]

ALFA RECORDS (FIRST PRESS ORIGINAL/PROMO)

[MEGA RARE!見本盤!Trading At A Higher Price!/It does not come out rarely!/It is Amazing Sound Pressure!]

Yellow Magic Orchestra[イエロー・マジック・オーケストラ]という名称は、細野が1970年代後半に提唱していたConcept(Electric Chunky Disco)である。1980年代初頭に巻き起こったTechno/New WaveのMovementの中心にいたGroupの一つであり、Synthesizer/Computerを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に(散開-解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのRecord Release/Concert Tourも行っている。英語圏で著名な日本人Musicianでもある。英米/英語圏の音楽界に対しても少なからぬ音楽的影響力を残しており、(U・T-BGM収録)はTrans-Techno/Hip Hopの始祖であると、後に英米で評されている。1981年はYMOにとって大きな転換期となる。3月に前衛的ともいえるAlbum[BGM]を発表。当時、開発されたばかりであったDigital Multi Track Recorderを駆使したこのAlbumは非常に実験的なAlbumであり、それまで耳に馴染みの良いPop指向のStyleから一転、Europe志向/New Wave色の強いElectric Soundを展開した。歌詞もそれまでのChris Mosdellによる散文詩から、Member自身による作詞(英訳詞はPeter Barakanとの共同作業)が行われるようになった。Album収録の(CUE)はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であると坂本龍一は語っており、(U・T)が後に英国の(New Musical Express)誌から(Hardcore Technoの元祖)と称されるなど、国内だけでなく世界にも影響を与えたAlbumである。同年11月には(BGM)とはまた趣向の異なる実験的Album(TECHNODELIC)を発表。当時としては最先端のSampling Machineを駆使し、金属音や人間の声などをSamplingし、加工して使われたSoundが、その後の世界中のMusicianに多大な影響を与えることになった。79年に行われたWorld TourでStageを陣取っていたのは、Moog III-C/Polymoog/Arp Odyssey/Oberheim 8 Voiceといった舶来の高級楽器。Joseph Zawinulのような大がかりなStage Setを見て(Weather Reportのようだ)と海外のPressに指摘された。YMOが活躍していたのは、Moog/Arpなどの舶来楽器がStudioの主役として君臨し、国産Synthesizerの存在が劣ったものと見なされていた時代。彼らYMO活躍で日本の電子音楽が世界的に注目を集め、それに応えるべく国内Makerが力を付けていったことで、海外でも評価される国産人気Modelが生まれてきた。初期のYMOのStageの中心に鎮座ましていたのが、通称(タンス)と呼ばれる大型(Modular Synthesizer-Moog IIIーC)、Recording/Tour/でProgrammerとして活動をともにした(第4のMember)松武秀樹の所有物だった。冨田勲のAssistantとしてCarrierをStartさせた松武は、黎明期のProgrammerのひとりで、Memberと出会う前は、CM音楽、The Beatles/OldiesなどをSynthesizerでCoverする企画Recordなどに主に関わっていた。松武がYMOのRecordingに最初に呼ばれたのは、Debut Singleとして計画されていた(Fire Cracker)の2度目のSessionのとき。参加しなかった1度目のRecordingは、Computerなど介在しない、Solinaなどを使ったFusion Styleのものだったという。なぜYMOは最初からComputerを使わなかったのか! 細野晴臣/高橋幸宏/坂本龍一の3人が、業界屈指の技巧派Playerだったからである。細野晴臣が、Disco Instrumental Groupとして新Band構想を思い付いたのは77年。Memberとして最初に声をかけたのは、林立夫(ティン・パン・アレー)/佐藤博(ハックルバック)といったFusion畑のPlayerだった。その誘いは実らず、彼らに変わる形で参加したのが、当時まだ無名だった高橋幸宏/坂本龍一であった。Rhythm BoxのClickを聴きながら叩くことを、大半のDrummerが拒絶した時代に(林立夫が加入を断った理由もこれだった)好奇心旺盛だった高橋は、機械とのSessionに嬉々として取り組んだ。坂本は東京藝術大学大学院卒のArrangerで、Rolandから発売されたばかりのSequencer MC-8を使って、自身のSolo Album(千のナイフ)をRecording中であった。MC-8はGiorgio Moroderも使っていた、世界初のTen key入力式Digital Sequencer。(四分音符=48)というふうに音符を数値に置きかえて、電卓のようなTen keyで入力するという前時代のシロモノだった。坂本がComputer録音に抵抗を持たなかったのは、大学時代になどの電子音楽を研究していたからである。この時代にComputerを熟知し、Popular MusicのRecordingにその技術を持ち込めたのは、細野周辺のSession Musicianではおそらく坂本龍一ただ1人であった。(Fire Cracker)の2度目のSessionで、Computerを使うIdeaが実践されるのは、細野がAmerican Disco Sceneで発見した、GermanyのKraftwerkの影響だった。人間のGroove/演奏ムラの一切を拒絶する、彼らの打ち込み主体の音楽を聴いて、細野はすべての演奏力を放棄して脳の中にあるGrooveだけを手掛かりにする、新GroupのIdeaを着想する。そのためにProgrammerとして呼ばれたのが、坂本のSolo Albumを手伝っていた松武秀樹だった。人間のノリを解析し(四分音符=48)を(47/45)などの数値に微妙にズラして、肉感的でFunkyな演奏をComputerで再現してみせたのが、First Album(Yellow Magic Orchestra)である。Group結成の準備期間に、細野は国産のKORG PS-3300を購入。(はらいそ/コチンの月)などのSolo Albumと同じように、初期YMOのRecordingでは機材を持ち込んで、音作りも自ら行っていた。だが、松武のProgrammingや、Moog/Oberheimなどの舶来製Synthesizerの音を聞いて(増殖)以降はほどんど私物をStudioに持ち込むことはなくなった。YMOの活動拠点だった、Alfa Recordsが所有するA-Studioは、日本で初めて24Channelの録音設備を構えたStudioである。LexiconのDigital Reverbなど、国内でまだ珍しかった舶来製の高級Effectorが設備されていた。Consoleも西海岸の最先鋭だったAPI。(Solid State Survivor)は、国内で行われた最初期のComputer Mixのひとつである。そんな舶来至上主義の現場で、唯一活躍していた国産電子楽器が、Roland VP-330だろう。(Technopolis-Solid State Survivor)の冒頭のTOKIOのRobot声を発する、声を変調するVocoderである。続く(増殖)で3人は、(Archie Bell&The Drells-Tighten Up)をCoverし、これを使ってVocoderによるDoo-Wopを披露した。StudioGroupとして構想されたYMOがLive活動を始めたのは、A&Mから海外Debutにあたって求められた、American Show Business界の慣習に応えたもの。Album PromotionのためにGuestを迎えた即席Bandが作られ、Moog III-C/Polymoog/Oberheimなど、松武の会社(MAC,Musical Advertising Corps.)から機材をRentalしてに乗り込んだ。このとき坂本が演奏していた2台のArp Odysseyは、Herbie Hancockの影響を受けて購入した、坂本の私物であった。YMOが画期的だったのは、いち早くLiveを実践したことだろう。MC-8をStage上に上げて、Computer SynchroをやっていたRock Bandは、YMOがほとんど唯一の存在だった(*YMOはStage上でComputerを走らせた世界でも最初のGroup)Sequencerの1TrackをClick音に宛て、その信号をMemberのHead Phonesに送って、出力されるSequenceとの同期演奏を行っていた。頭でCountを叩かず、一斉に演奏が始まる光景を見て海外のAudienceは驚嘆したという。また、CPUを積んだComputerの一種でありながら、RolandMC-8の最初のModelには冷却Fan は付いてなかったという。Canadaの涼しい気候で試作機が設計され、空調の効いたStudioでの使用を想定していたためだ。残されたYMOのLive音源には、たびたびOver HeatしてSequencerが暴走する模様が記録されているが、Tour後半になるとMemberも慣れたもので、Errorも恐れずTroubleを克服するLive Bandとしてのタフさが伝わってくる。本来は人力演奏に依存しないGroupだったYMOが、知名度を上げたのはMemberの演奏力によるところが大きかった。79年にはA&MのLabel Mate、The TubesからLove Callを受け、LAの殿堂Greek Theaterで初の海外公演。前座でありながらEncoreを受け、この成功を糧にYMOは、79年/80年の2回にわたってWorld Tourを行うことになる。その時代のSynthesizerは大半がMonophony(短音)で、音色をMemoryする機能もまだなく、ParameterのSettingには時間を要した。Preset切り替えを瞬時に行える、Live向けの(多声/多音)のPolyphonic Synthesiserが登場するのは、77年に発売されたSequential CircuitsのProphet5から。80年の第2回World Tourからお目見えする、この利便性の高い次世代Synthesiserの登場によって、以降のYMOの音作りがガラッと変わっていく。81年初頭、2度目のWorld Tourから帰国してすぐにRecordingが開始したのが(BGM)。それまで、Live用のReArrangeや、MC-8の数値打ち込みの橋渡し役を務めていた坂本龍一が(CUE)のRecordingをBoycottするという事件が起こる。坂本不在のHandiCapに屈せず、細野/高橋が自身でSynthesizerを操作するようになるのもここから。使い慣れたProphet5を使い(BGM)のほとんどのSoudがこの1台で作られた。また、それまでのYMOのRecordingではほとんど使われなかった、Rhythm Boxが初めて導入された。Roland TR-808である。80年暮れのWorld Tour最終日、東京・武道館公演の(1000のナイフ)のIntroductionで使われたのが最初で(BGM)のRhythm Sectionにおいて重要な役割を担った。後にAmericanに渡り、Hip Hop Sceneの誕生に大きく関わったこのRhythm Machineもまた、YMOを媒介に世界に知れ渡ることになった国産楽器のひとつである。Rowland が発売した、MC-8の次世代のSequencer、MC-4がStudioに持ち込まれるのもこのとき。初めて鍵盤入力Modeが搭載され、Musicianでも打ち込めるようになったことで、細野はこの後(浮気なぼくら)から自らMC-4のProgrammingも行うようになる YMO Boomのさなか(第4のMember)だった松武秀樹にもMediaからSpotが当たり、自身のGroup、(LOGIC SYSTEM)を80年に始動。このFirst Album(LOGIC)で、Europeanな荘厳なSymphonyを綴っていたのが、新入荷のE-mu Moduleだった。YMOの第2回World TourのStageで先にお披露目され(Riot In Lagos)のIntroductionで強烈なNoise音を演出。Americanの音楽大学を中心に普及していた、前衛音楽家のOwnerの多いE-mu Moduleは、MoogのようなPopular向けと違った独特なNoise発生器として、中期YMOのSoundを支えることになった。同年、LOGIC SYSTEMは早くも2作目のAlbumに着手。LAでRecordingが行われたが、このとき松武はStudioで、発売されたばかりの世界初のDigital Drum、LM-1を体験する。ROMにDrumの音声Dataを焼き込み、Phraseを打ち込んで生のようなDrem Soundを鳴らせる、世界初のPCM Rhythm Machine。Steely Dan(Gaucho-80)の録音で、Roger Nicholsが自作した試作機がすでに使われていたが、その技術を初めて商品化したのがこれだった。このLM-1が高価なために買えないという事情から、松武は帰国後、国内のEngineerに装置の制作を依頼。こうしてできたのが Order MadeのSampler、[LMD-649]である。LOGIC SYSTEMの第3作がRecordingされるより先に、YMOは(TECHNODELIC)のRecordingでこの機械を使うチャンスを得た。ここで3人は、一斗缶を叩いた衝撃音/工場のBowling音/Gamelan/kecakなどをSamplingして、世界初の本格的Sampling Albumがここに完成する。BGM-*3月/TECHNODELIC-*11月と、名盤の誉れ高き2枚が、81年という同じ時期に一気に作られたことは驚嘆に値する。(TECHNODELIC)制作後の3人は結成以来の達成感の中におり、ほとんど解散同然の状況だったという。期待する第3回World Tourが行われなかったのは、東京人である自分たちが世界の先端を行っている自負があったからだろう。82年は約1年、YMOとしては休眠期間に充てられ、各々がSolo Album制作に坂本龍一(Merry Christmas, Mr. Lawrence-戦場のメリークリスマス)/細野晴臣(PHILHARMONY)高橋幸宏(What,Me Worry?-ボク、大丈夫)がReleaseされ、いずれも高い評価を受けた。使いやすくなったDigital Toolの助けを得て、Member1人でもYMOのようなSoundは作れる時代に!このとき3人には、もはやYMOの必要のない存在になってしまったのかもしれない。

*Solina:(Strings Ensemble Keyboard)の元祖、弦楽器の音を出すOrganの製品名、開発はNetherlandsのEminent NV社

*Minimal Music:音の動きを最小限に抑え、Pattern化された音型を反復させる音楽/1960年代から盛んになった

*Dynamic Range:識別可能な信号の最小値と最大値の比率をいう。信号の情報量を表すAnalog指標のひとつ。

*KORG PS-3300:KORG社が1970年代後半に発売したPolyphonic Synthesiser、Emerson,Lake&PalmerのKeith Emerson/YMOなど数多くのArtistが愛用したことでも知られており、YMOの名曲(RYDEEN)で、馬が走るような効果音を合成したのは、PS Seriesと言われています。1台の中に3系統の完全Polyphonic Synthesiserを組み込んだKORGの名機/最高峰。当時の販売価格は、PS-3300は1,200,000円だった。

*E-mu Module:米国E-MU Systems社が1989年から発売したSynthesizer(音源Module-Hardware/Software構成する個々の部品)

*Sequential Circuits Prophet-5(シーケンシャル・サーキット プロフェット5):1978年から1984年にかけてシーケンシャル・サーキット社から発売されていたAnalog Synthesizer。日本ではモリダイラ楽器によって輸入/販売されていた。日本での標準価格は170万円であった。

*Roland TR-808:ローランドが1980年に発売したRhythm Machine。名機として高く評価されている。808という名から日本では俗に(やおや)とも呼ばれる。1980〜1983年にかけて製造され、製造台数は1万2千台。当時の価格は15万円だった。

*ARP Odysseyは、米ARP Instruments社が1972年に発表したAnalog Synthesizer。

*Synclavier:USのNew England Digital Corpが開発したSynthesizer/Sampler/Sequencerなどを統合した電子楽器である。現在でいうDigital Audio Work Stationの元祖ともいえ、1980年代のUSの商業音楽制作で一世を風靡した。

*Emulator:Computerや機械の模倣装置あるいは模倣Soft Ware

*Sampler:音楽的/非音楽的を問わずSamplingにより標本化された(音)を任意に再生出力することの出来る装置。外部から音声をSamplingしたり記憶装置から読み込んだりすることによりRAMに展開させ、SynthesizerにおけるPCM音源の1つとして扱われる。

*初期のSampler:Fairlight CMI/Synclavierといった楽器は、Samplerよりは音声合成装置とでもいうべきものであった。しかも、重量物で可搬性が無く、動作も不安定な代物でとても楽器としての常時使用に耐え得る物ではなく、増してやStage上での使用などは到底無理な話であった。また価格はもとより運用Cost面でも極めて高く、それらを総合的に勘案すれば、それこそ(ちょっとした1戸建て住宅が買える)などと表現された程の経済力が必要となるものであり、音の個性や先進性は大きな魅力でも、Major Scene Musiciansのでさえ個人Levelでおいそれと手を出せる様な代物ではなかった。この状況を覆したのが、Emulatorの登場である。当時の価格で300万円以上したが、前出の2台と比べれば圧倒的に安く、しかも操作は簡略化されていてMusicians達から支持を得た。競合各社もSampling Synthesizerを発売するが、Emulatorが売れた原因は、楽器の録音済みDataを販売したことに寄るところが大きい。他方で、日本ではSynthesizer Programmerの先駆けである松武秀樹が1983年当時、国産初と思われるDigital SamplerをStudioで使用していた。(LMD-649)というそれは当時(PCM録音機)と呼ばれた、Handmadeのマシンであった。サイズは一般家庭向けのステレオのPreamplifier程度の大きさで、Sample Timeは1.2秒程度。音源素材は6mmのテープに保管しており、RolandSequencerMC-4によるGATE信号/Trigger Signal(トリガー信号)で音を出す事ができた。ただし、Sample Dataの保存は出来ず、電源を切るとDataは消滅した。そのため、Stage上でも使用されたが現在とは比べ物にならないほどの手間が伴うものであった。

*Roland MC-4:1981年夏にRolandから発売された4 channel digital sequencer、1977年に発売されたMC-8の廉価版/後継機)音の高さ/音の音符の長さ/音の実際の長さ(Duration)を全て数値で入力するStep入力と、Real Time入力も可能です。作ったDataはCassette Tapeに保存できます。当時のManipulatorはStudioで渡された譜面を見て、それをすべて頭の中で数値に変換して入力できました。

[*書き込み/トピックスが少ないので、Collector/DJ?と言われている/言っている方、是非自慢の一枚を披露してください!!]

*文字数に制約があるので、短くしました!長文です!

U.T



Light In Darkness








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