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自作小説交流館コミュのただ、風が吹く

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このコミュに入会して気付けば早4年(笑)
一度くらい小説をうpしようかしら、と。
ブログ等で既出ですが、よろしかったら読んでみて下さい^^
トピック内で続きますが、途中で感想とかいただけると、
泣いて喜びます!
戦争ものですので、苦手な方は・・・また、別作で^^



ただ、風が吹く1

 1930年、春。ドイツ、ベルリン。

「あまりスピードを出すな、シュテファン。もうすぐベルリンだ。人も多くなる。」
 リヒャルト・フォン・シューラーは静かな声で、目線は景色を捉えたまま、運転席の男をたしなめた。
「大丈夫さ。せっかくの最新の車なんだぜ?ちんたら走れってほうが野暮なのさ。」
 運転席の男、リヒャルトの父方の従兄で名はシュテファン・フランツ・シューラー。
リヒャルトより2歳年上だが、まだいたずら好きの子供のような男で、素行も悪い。
が、リヒャルトはそんなに嫌ってはいなかった。年の近い身内で、学校も同じなのでいつも一緒にいる。
「・・・ベルリンは久しぶりだ。」
 懐かしい都会の風を頬に受けて、リヒャルトは目を閉じた。
その瞬間、シュテファンが急ブレーキをかけ、大声で叫んだ。
「ばかやろう!!てめー、死にたいのか!!」
 車の前には、うずくまる少女がいた。リヒャルトはすぐに車から降り、少女に駆け寄った。
「大丈夫かい?怪我はない?」
 少女からは何の返答もない。気を失っているようだった。運転席からシュテファンも少女を見る。
「轢いてないぜ。そいつがふらふらと歩いてきて車の前で倒れやがったんだ。」
 リヒャルトはシュテファンを睨み、少女を抱いて助手席に戻った。
「おい、リヒャルト。どうするんだよ、そんな子供。こっちは何も悪くないんだぜ?
うっ、臭いよ、そいつ。おい、放っておけって、」
 リヒャルトはシュテファンの言葉には耳も貸さず、少女の体に付いている汗や泥、
そして吐いたであろう汚れも丁寧にタオルで拭いてやる。
まだ春先だというのに、薄着の少女の体には、明らかに虐待とわかる傷が見えていた。
たしかにこんな子供には関わらないほうがいいのかもしれない。
だが、涙のにじんだ少女の顔を見ると、どうしても助けてやりたいとリヒャルトは思うのだった。
「知らないぞ、リヒャルト。」
 おとなしい割に頑固な性格のリヒャルトを良く知るシュテファンは、それ以上何も言わなかった。


「リヒャルト様、少女が目を覚ましました。」
 ベルリンのシューラー家別邸を取り仕切る初老の執事は、食事中のリヒャルトにそっと耳打ちをした。
「そうか、ありがとう、オルフ。すぐに行く。」
 まだ半分も食べ終わっていない食事を切り上げ、リヒャルトは同席していたシュテファンに
軽く頭を下げ、席を立った。
「お食事を終えられてからになさってはいかがですか?少女はセーラが看ておりますので、
心配ございませんが、」
 リヒャルトは、オルフに笑みを見せ、ありがとうと肩をたたいた。そしてそのまま部屋を出て行った。
「あいつには何を言っても無駄さ。知っているだろう?じいさん、あいつが頑固だって。
優しい顔して、な?」
 オルフはリヒャルトの食事を片付けながら、微笑む。
「そこがリヒャルト様のいいところでございます。」
 オルフの言葉に、シュテファンは意味ありげに笑う。
「そうかな?そこがあいつの人生で障害になるところかも知れないぜ?
まあ、あいつは歩く良心だからな、俺みたいないいかげんな人間から見れば。
せいぜい、大切にしてやんな。大事な未来のシューラー伯爵様をな。」
 オルフは昔からシュテファンにいい印象は持っていない。
できればリヒャルトと一緒にいないでほしかったが、従兄ではオルフにはどうしようもない。
「ワインを、」
 シュテファンは空にかったグラスを上げ、オルフに言う。
オルフはシュテファンを一瞥してから慇懃無礼に頭を下げる。
何がおかしいのか、シュテファンはずっと軽く笑っている。
「辛口がいい。」 
 オルフはシュテファンに背を向け、彼の言葉を聞いた。そして一度、彼を振り返り、また頭を下げた。
「・・・畏まりました。」
 嫌な気分だった。

 リヒャルトはドアを軽くノックし、部屋に入った。
この部屋はリヒャルトの母が生前、ベルリンに来るたびに使っていた部屋で、この家で一番いい部屋だった。
「どうだい、セーラ?彼女の容体は・・・、」
 リヒャルトがゆっくりとベッドに近付くと、それまでおとなしく横になっていた少女は
驚いたようにベッドから這い出て、部屋の隅に向かった。
リヒャルトとメイドのセーラは少女に駆け寄るが、彼女は来るなと言わんばかりに手を大きく振って
身を小さくする。
「大丈夫だよ、ここは安全なところなんだよ。ほら、僕は何も持っていない。
さ、ベッドに戻ろう。そこは寒いよ。暖かいところがいいだろう?」
 リヒャルトは両手を広げて少女を迎える。だが少女は声にならない声を上げ続けている。
のどはひくつき、体は震えている。目からは大粒の涙が次々と溢れ、少女にはすこし大きかった
リヒャルトの母の寝着を濡らしている。
「怖くないよ。僕はリヒャルト。道に倒れていた君をここに運んだんだ。
君はひどい怪我をしているんだ、さあ、ベッドに戻ろう。もう少し眠ったほうがいいよ。ね?」
 暴れる少女を無理に抱きかかえ、リヒャルトは彼女をベッドに戻した。
「セーラ、ゲオルゲ医師を呼んでくれ。」
 リヒャルトは固く少女をベッドに押し倒したまま、セーラに指示を出す。
リヒャルトの幼年時代からの主治医・ゲオルゲは、リヒャルトからの呼び出しにすぐに応じた。
オルフにコートを預けながら部屋に入ってきたゲオルゲは、リヒャルトに向かい一礼をし、
ベッドで眠る少女を診察する。
「ついさっき眠ったこところです。・・・暴れて疲れたみたいで・・・。わざわざすみません、先生。」
 本来ならば往診はしないゲオルゲに、リヒャルトは恐縮する。
「いえ、こういうことなら仕方がありません。それに私も久しぶりにぼっちゃんの顔を拝見できて
うれしいですよ。いかがですか?学校のほうは、」
 少女の体を診察しながら、ゲオルゲはリヒャルトに問う。
「ええ、何も変わりはありません。勉強のスポーツもそこそこに頑張っています。」
 ゲオルゲは、リヒャルトの答えに笑う。
「はは、優等生ですね、ぼっちゃんは。」
 少女の腕を取り、ゲオルゲは何やら注射をしている。
「鎮痛剤です。解熱剤は下から入れますから、すみませんが、ぼっちゃんは後ろを向いていて
もらえますか?」
 リヒャルトは少し頬を赤くして、すぐに後ろを向いた。
「ぼっちゃんはまだまだ純情でいらっしゃる。」
 またゲオルゲは笑う。リヒャルトはこの男のこういうこところが少し苦手だ。
もういいですよ、という声で、リヒャルトは再び少女のほうを向いた。
「体の傷は・・・まあ、ぼっちゃんもお気付きでしょうが、虐待の後ですね。
新しい切り傷があるので、それが痛むのでしょう。外傷はそんなに長く痛むことはなでしょう。
ところどころにある火傷は、多少痕が残りますが。あとは・・・、女の子ですから、心の傷が心配です。」
「声は?話せないようだが、」
「・・・喉がただれています。何かの劇薬を飲まされたのではないかと。
吐いていたというので、もう大丈夫だとは思いますが、声はもう出ないでしょう。
・・・酷なようですが、どこか施設に預けるのが得策だと思われます。
あまり長く置いて情が移らないようになさいませ。」
 施設・・・。
「では私はこれで。また診療所へ誰かを寄越してください。薬を調合しておきますので。」
 ゲオルゲを玄関まで見送り、リヒャルトはまた少女の眠る部屋に戻った。
「オルフ、僕は今夜ここで休むよ。用意をしてくれ。」
 オルフは文句を言わず、一礼して部屋を後にした。
「セーラ、君も疲れただろう。あとは僕が看ているから、もうお休み。」
 少女の寝汗を拭き終えたセーラは、布団を整えながらうなずいた。
「何かあればお呼びくださいませ。」
 セーラの言葉に、リヒャルトもうなずく。
「ありがとう。」
 リヒャルトからの感謝の言葉に照れながら出て行くセーラと入れ違いで、
布団を抱えたオルフが入ってきた。
「こちらのソファの上に置いておきます。明け方はまた一段と寒くなりますから、ご用心ください。
では、お休みなさいませ。」
「ああ、お休み。」
 オルフは静かに退出した。リヒャルトはひとつため息をつき、少女の顔を覗き込む。
「施設なんて・・・嫌だろう?こんなに傷付いている君をそんなところには行かせられないよ。
・・・大丈夫。安心してお眠り。僕が守ってあげるからね・・・。」
 リヒャルトは少女の頬に軽くキスを与え、自分も眠りについた。

コメント(18)

 ただ、風が吹く2

 朝、寒さで目が覚めた。
学校のあるバーデンとは違い、ベルリンの朝はオルフの言うとおり、まだ寒かった。
リヒャルトはガウンを羽織り、カーテンを開けた。朝の陽射しが眩しかった。少女はまだ目覚めていない。
癖なのか、広いベッドの右端で身を丸くして眠っている。
もう一枚、布団をかけてやろうとしたとき、少女がゆっくりと目を開けた。
また、驚いて暴れるのかとリヒャルトは警戒したが、少女はじっと彼を見つめていた。
「・・・おはよう。僕はリヒャルトというんだ。・・・言葉がわかるかい?」
 少女はリヒャルトの問いに、小さくうなずいた。彼女から返答があったことに、リヒャルトはうれしくなる。
「ここは僕の家だよ。っていっても別邸だけどね。安心してくれていい。
ああ、温かいスープを用意させようね。寒くなかったかい?」
 リヒャルトは少女の肩に触れようとした。だが少女は体をびくつかせ、それを拒否した。
「ああ、ごめんね。・・・君はこういうのは苦手なんだね。気を付けるよ。」
 リヒャルトは用意させた朝食を少女と共に摂った。少女は喉に炎症があるため、流動食となったが、
食欲は人並みにあるようでリヒャルトを安心させた。
 それからセーラに薬と少女用の服を調達してくるように言い付けた。それにオルフは少し表情を
固くしたが、特に何も言わなかった。
「君の名前は?何か書くものあるかな、」
 紙を探すリヒャルトに向かって、少女は必死で首を振った。それは無駄だと言いたげに。
「・・・ああ、読み書きができないのかな?」
 リヒャルトが優しく問うと、少女は泣きそうな顔になってうなずいた。
「ああ、いいんだよ。泣かないで。じゃあ、ゆっくりと唇を動かしてくれるかな、ゆっくりと、名前を。」
 少女はリヒャルトの言うとおりに口を動かす。自分の名前をなぞって。
「エ、エル、エルゼ。エルゼ?エルゼでいいのかい?君の名前はエルゼというんだね?」
 リヒャルトはうれしくなって声が弾む。少女は何度もうなずいてくれた。
「ドイツ人・・・じゃないね?」
 エルゼは濃い栗色の髪をして肌も少し黄色がかっている。
顔立ちもドイツ人女性のそれではないように思われた。エルゼの唇が再びゆっくりと動く。
ユダヤ、と彼女は言った。
「そう、ユダヤ人なの。じゃあ、今までどこかの家に雇われていたのかな?」
 エルゼはうなずく。それ以上は聞かなかった。おおよその予想はつく。
きっと雇われ先でひどい仕打ちを受けたに違いないからだ。
幼い子供を学校にも行かせずに働かせるところも珍しくはない。
「もし君さえ良かったら、ずっとここに居てくれていいんだよ。
この家は僕の母が気に入っていた別邸なんだけど、今は僕しか使わないから、
使用人もオルフとセーラだけなんだ。客人をお泊めするときなんかは人手不足になるから、
ここに住んで働いてもらうと助かるんだ。・・・どうかな?」
 リヒャルトは真剣な眼差しでエルゼに言いながら、そっと彼女の手に自分の手を添えた。
エルゼは一瞬ひるんだが、振りほどくことはしなかった。
「いいんだね・・・?ここに居てくれる?」
 エルゼは静かにうなずいた。そしてぎゅっと手を握り返してくれた。
「人はちゃんと働いていれば、毎日のパンと温かいベッドを得る権利がある。君も決して例外ではないよ。」
 優しい声でエルゼに語る。君はしあわせになる権利があるのだと。

 リヒャルトがエルゼの部屋を後にし、オルフと共に1階へと降りる途中、
それまで部屋ではずっと無言だったオルフが口を開いた。
「この事を旦那様には・・・、」
 少し、遠慮がちな物言いだった。
「僕から言う。・・・オルフは反対か?エルゼをここに置くことが。お前はここの執事だ。
はっきり言ってもらって構わない。」
「・・・反対ではございません。慈悲のある、ご立派な行いと尊敬いたします。
読み書きも私が日常に差し支えない程度にはお教えいたしましょう。」
 オルフは優しく微笑んでくれた。それを見てリヒャルトもほっとする。
「ありがとう。お前には幼い頃から面倒ばかりかけてしまうね。感謝しているよ。」
「・・・とんでもございません。」
 オルフは恐縮して頭を下げた。

 
 

 ただ、風が吹く3

 1階ではシュテファンが銃を磨いていた。
「おう、リヒャルト。ゆっくりしたお目覚めだな。」
 少し嫌味を含んだ言い方だった。
「悪いが、今日の狩は僕は行かないよ。とてもじゃないがそんな気分じゃない。
それに君の運転にはこりごりだよ。」
 リヒャルトの言葉に、シュテファンはあからさまに嫌な顔をした。
気持ちがそのまま顔に表れるのがこの男の特徴で、悪い人間になり切れない部分だった。
「せっかくの春休みをあんな女のために無駄にするのかよ?まあ、俺には関係ないから、好きにしろよ。」
 シュテファンは呆れたように言い放ち、銃を片付けた。
彼がエルゼをこの家に置くこということを知ったら、これ以上何を言われるかたまったものじゃない。
リヒャルトはただ、曖昧に笑ってその場を濁した。
 
 翌日、家に戻ると言うシュテファンを見送るついでにリヒャルトは街に買い物に出かけた。
エルゼが数字を教えると、すぐに紙に自分の年齢を書いたことがうれしかったので、
なにかプレゼントしようと思ったのだ。
「12歳の女の子って、どんなものを喜ぶんだろう?」
 リヒャルトは百貨店で人形の店に入った。
眠るときに寂しくならないように、抱いていられるものがいいだろうか。
エルゼは人のぬくもりを知らないから、こういうものから慣れていってほしいと思う。
「すみません、あれを包んでください。」
 意を決してリヒャルトが指差したものは、その店で一番大きい、肌色のテディベアだった。
女性のへの贈り物なんて、幼い頃に母の誕生日に花を贈って以来だった。
エルゼは喜んでくれるだろうか。素直に受け取ってくれるだろうか。
大きなそのテディベアを抱えて歩くリヒャルトは、不安になりながらもしかし、自分の心は満たされていた。
もしかするとこれは自己満足というものなのかもしれない。
でも、単純に、エルゼの笑顔を見たかった。それだけだった。
 大事な、大切な人を見つけたリヒャルト、17歳の春であった。

 ただ、風が吹く4

 1932年、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働党はベルサイユ条約打破を唱え、
共産党を破り第一党にのし上がっていた。
 
 ベルリン郊外、シューラー伯爵家。
「不況で就職先に困るのはわかるが、何も軍に入隊しなくてもいいだろう。シュテファン?」
 真新しい軍服姿をわざわざ見せに来た従兄にリヒャルトは感情のない声で言った。
「貴族は優遇される。何もしなくてもいきなり少佐だ。ちんたら働くのが馬鹿らしいじゃないか。」
 シュテファンは声を上げて笑う。
「29年の大恐慌で、アメリカ相手の貿易は潰れたに等しい。このシューラー家もそれでかなりの痛手を
こうむったはずだ。伯爵家だからといってのんびりと構えていると没落するぜ?
貴族の特権は利用できるだけ利用しろ。せっかく貴族に生まれてきたんだからな、損はするなよ?
リヒャルト?」
 リヒャルトは去年の春から新聞社で働いている。それも父親のコネでやっと得た就職先だった。
シュテファンの言い分もわからないではない。ただそれで納得してしまうのは、彼の理性が許さなかった。
「僕はヒトラーを支持するつもりはない。確かに彼はドイツの救世主かもしれない。
だけどどこか気に入らない。・・・反ユダヤ主義というのも気に入らない。」
「我々の市場を奪っているユダヤ人の味方をするのか?彼が資本家から支持される理由は何だ?
反ユダヤを唱えているからだろうが。それだけユダヤ人はドイツから嫌われているってことだろう?
支持率がそのいい証拠さ。」
 恐慌がなければ、失業者が街にあふれなければ、そんなことは言わなかったに違いない。
共産党のブロック経済失敗のつけをこんなかたちにしてくるとは何かがおかしい。
我ら民族の失敗を認めないで、他を排除しようなどとは間違っている。
「深く考えるな、自分の将来が安泰ならそれでいいじゃないか。世の中、きれいごとだけじゃ
食べていけないんだぜ?」
「僕は僕の理を貫く。君とは意見が食い違っても、それは仕方がない。それでも君は僕の従兄だ。
永久に尊敬はするよ。」 
 シュテファンは肩を上げてため息を大きくついた。
「それがきれいごとって言うんだよ。お前はどこまでも優等生だな。え?おぼっちゃまよ。」
 リヒャルトはシュテファンの言葉を聞きながら、それでも僕は善人ではないと、
自分のことを客観的に思っていた。

「おかえりなさいませ。」
 リヒャルトは就職してから、ベルリンの別邸に住んでいる。
新聞社が本邸よりもこちらからのほうが近いというのが理由だが、それは建前で本当の理由ではない。
同じ家に居ても滅多に顔を合わすことのない父親よりも、優しく帰りを出迎えてくれる人がいる家のほうが
誰だっていいはずだ。
「いかがでしたか?ご実家のほうは。」
 オルフはリヒャルトの上着を脱がせながら聞く。
「別に、いつも通りだよ。父様はご不在だったし。」
「そうでございますか。」
 二人の会話が聞こえたのか、奥からセーラとエルゼが足早に出てきてリヒャルトに礼をした。
「ああ、エルゼ、こっちにおいで。」
 リヒャルトはエルゼを手招きして呼んだ。
「実家に珍しいお菓子があったから、失敬してきたよ。何ていったかな、ああ、そうだ、
ヨウカンだったかな?日本のお菓子だそうだよ。セーラと二人で分けてお食べ。」
 はい、とリヒャルトはエルゼの手に長方形の箱を乗せた。エルゼは遠慮して首を横に振る。
「僕は食べてきたから。甘くておいしかったけど、僕には少し甘すぎたからもういらないんだ。
二人は甘いものが好きだろう?」
 こくん、とエルゼはうなずき、ありがとうございます、と口をゆっくり動かした。
リヒャルトはもうほとんど、エルゼの口の動きを読むことが出来るようになっていた。

 ただ、風が吹く5

 夕食を終え、居間で本を読んでいると、エルゼが静かに紅茶を運んできてくれる。
いつそうなったのか、まるで決まりごとのように毎日、紅茶を持ってきてくれる。
リヒャルトはこのひとときが一日の中で一番好きだった。とても心地いいのだ。
「ねえ、エルゼ。世界中にはいろんな国があるよね。ヨウカンは食べたかい?」
 エルゼはうなずき、おいしかったと笑う。
「エルゼはどんな国に住みたいと思う?このドイツ以外で、どこがいい?」
 首をかしげ、エルゼは困っている様子だった。
「僕はね、偏見のない国がいい。みんながみんな、平等で、その国には身分なんてないんだ。
みんなが持っているのは自分の体だけ。そしてみんなが幸せでいられるように、みんなが協力するんだ。
そんな国がいい。」
 エルゼはリヒャルトの言葉を真剣に聞いている。
「きれいごとだと思うかい?僕の言うことは。」
 ぶんぶん、とエルゼは頭を大きく振る。
「でも、これが僕の本心だよ。」
 エルゼもうなずく。
「・・・今のドイツは、君を幸せにしてくれる国だろうか?これからのドイツは、みんなを幸せに
できると思うかい?僕は思わない。救世主だなんて・・・・、フランスのナポレオンと同じじゃないか。
一人の人間に一国を任せるなんてこと、してはいけないことなんだ。」
 真摯にエルゼはリヒャルトを見つめる。
リヒャルトの言葉ひとつひとつを受け止めようと、必死に耳を傾ける。
「エルゼ、ねえエルゼ。どこかに行こう。何もない国へ行こう。一緒に行こう。」
 ぎゅっと手を握り締める。もうエルゼは触れられることに慣れ、握り返してくれる。

 ・・・そんなことできるはずがないと、わかっているのに。エルゼはどこでも良かった。
リヒャルトがいるところなら、そこが自分にとっての幸せの地。
そこが例え地獄でも、リヒャルトがいればそれでいい。
愛しているとは言えなくても、そこに彼がいてくれるのなら、それだけでいいのだ。
自分に人生を与えてくれた人。自分を絶望から救ってくれた人。自分に愛を教えてくれた人。
かけがえのない人。リヒャルト・フォン・シューラー。
貴方の為なら、何も惜しくない。貴方の為だけに自分は存在しているのだから・・・。
 エルゼは心の中だけで、惜しみない愛を唱え続けるのだった。

ただ、風が吹く6

「国際連盟を脱退だと・・・?」
 1933年、ドイツ大統領ヒンデンブルグは、国家社会主義ドイツ労働党(ナチス党)党首・アドルフ・
ヒトラーを首相に任命し、国際連盟を脱退した。
「ストレーゼマンの苦労を忘れたのか!?ワイマル憲法の思想は!?どこに向かうつもりなのだ、
我が祖国は!!」
 速報が舞い込んだ新聞社では一時、騒然となった。
「号外を出せ!!」
「非難する記事を書くと捕まるのでは!?」
「事実のみを書け!新聞は中立を貫く!!」
 号外発行を終え、報道編集長のヘルマン・ゴルは、その少々肥満気味な体を小さくすくめながら
一服していた。そして誰に語りかけるでもなく、一人つぶやいた。
「・・・民衆はもう、大戦を忘れてしまった・・・。」
 傍に居たリヒャルトはヘルマンに灰皿を差し出した。
「おお、すまんな。・・・シューラーは大戦のときはまだ、子供だったろうから、覚えていないだろう?」
 リヒャルトは軽くうなずく。
「わしはベルギーに行った。・・・人も殺した。戦争はな、体験してみんとその悲惨さはわからん。」
 ヘルマンの煙草を持つ手は震えているようだった。
「たしかにベルサイユ条約でのドイツの扱いはひどい。だがな、戦争に負けている以上、
それは仕方のないことなんだ。それだけの代償に値する行為を、ドイツは三国協商の国々にした。
それを民衆は忘れてしまっている。インフレで苦しいのはドイツだけじゃないのに、なのに、
あんな男の口車にみんな、おどらされて・・・馬鹿みたいだ。」
 あんな男とは、ヒトラーを指している。リヒャルトは下を向き、ただじっと床を見つめながら、
ヘルマンの話を聞いていた。
「国際連盟を脱退したその次にすることは目に見えている。軍部の拡大だ。ベルサイユ条約は
ドイツに空軍保持を禁止していた。だが、連盟を脱退した今、それを守る意味はない。」
「噂では、徴兵制度も復活するとか・・・、」
 リヒャルトとヘルマンは顔を見合わせた。
「・・・時期を見て、力を温存して、戦争・・・だ。」
 そしてこの二人の予感は現実となる。

 ただ、風が吹く7

 翌1934年、大統領ヒンデンブルグの死により、ヒトラーは大統領と首相を兼ねた総統として、
ドイツ国家の元首となった。
「1党独裁制とは畏れ入った。」
 リヒャルトは食事をしながらラジオでヒトラーの政見放送を聞いていた。
「もういい。オルフ、ラジオを消してくれ。」
「はい。」
 オルフは言われたとおり、ラジオを消す。リヒャルトはフォークを置き、椅子にもたれた。
「あの嫌な声を聞いていたら、食欲がなくなった。下げてくれ。」
「畏まりました。セーラ、」
 オルフがセーラを呼ぶ。
「エルゼは?」 
 食器を片付けるセーラを横目に、リヒャルトはエルゼの姿を捜す。
「今、使いに出しておりますが、何かご用でしたか?」
「いや、用というわけでは、・・・。」
 最近、エルゼの姿が見えないと不安になる。いつでも彼女には傍にいてほしい。
こんな感情をなんて呼べばいいのか、まだはっきりとはわからないが、エルゼがリヒャルトの
精神安定剤となっていることは明らかだった。
「・・・シュテファン様とはこの頃、お会いになっておられますか?リヒャルト様、」
 オルフは急に小声で話しかけてきた。
「シュテファン?いや、半年前に実家で会ったきりだ。彼がどうかしたのか?」
 リヒャルトの返答に、オルフは困った顔をして、口をつぐんだ。
いつにない、彼の歯切れの悪さにリヒャルトは嫌な予感がした。
「シュテファンがどうしたというんだ?オルフ?」
 リヒャルトの語気の強さに、オルフは観念したように口を開いた。
「・・・先日、リヒャルト様が新聞社のほうにお泊りになられて留守をされた夜に、
シュテファン様が来られました。私はリヒャルト様のご不在の旨を伝え、ご実家へのご帰宅をおすすめ
したのですが、シュテファン様は強引にこの家に立ち入り・・・、エルゼをお呼びになりました。」
「エルゼを?何の用があったんだ?」
 リヒャルトの顔色が変わる。
「・・・私も何事かとお聞きしたのですが、リヒャルト様の了承を得ているからとおっしゃって・・・、
奥様の部屋にエルゼを伴って入られました。」
「母様の部屋にエルゼとだと・・・!?」
 リヒャルトは思わず立ち上がった。何て事を・・・シュテファン!!手が怒りで震える。
「リヒャルト様がいいと言うわけがございませんでしょうが、私にはシュテファン様をお留めする
権利がないので・・・、申し訳ございません、リヒャルト様!」
 うなだれるように、オルフはリヒャルトに言う。この出来事をリヒャルトに報告するかどうか、
彼はかなり悩んだに違いない。自分を責めているようだった。
「電話を、」
 リヒャルトの声は冷たく、凍っているようだった。考えられないことでもなかった。
シュテファンは貴族至上主義だ。使用人をどう扱おうが、なんとも思わない男。前科はいくらでもある。
しかし、エルゼはリヒャルトが助け、大事にしている少女だ。そのエルゼに手を出すとは、
もはやリヒャルトのシュテファンに対する親愛な感情は底をつきそうだった。
・・・もう、従兄とは思えない。
ただ、風が吹く8

 リヒャルトの急な呼び出しに、シュテファンは夜になって応えた。
「久しぶりだな、リヒャルト。相変わらず王子様みたいにきれいな顔だ。」
 少し酔っていた。リヒャルトは抑揚のない声で、詰問を始める。
「先日、訪ねてきたようだが?」
「ああ、そうそう、お前は留守だったな。仕事が忙しそうでいいじゃないか。」
 へらへらと、なにがおかしいのか、笑っているシュテファンに憎しみさえ湧いてくる。
一緒に育った従兄なのに、兄のように、親友のように、慕っていたのに・・・!
リヒャルトは無言でシュテファンを睨みつける。
「わかったぞ、リヒャルト・・・。怒っているんだな?」
 リヒャルトの睨みに臆することなく、シュテファンは笑いながらリヒャルトを煽る。
「あのユダヤ女を犯したことに腹を立ててるんだな?かわいいじゃないか、
そんなことで顔を赤くして怒るなんて。」
「シュテファン!!」
 殴ってやりたいほど、怒りは頂点に達していたが、リヒャルトの固い理性がそれをなんとか制する。
「・・・どうしてそんなことを・・・エルゼはまだ16歳なんだぞ!?口も聞けない、
我々に逆らうことのできない娘にお前は・・・!!彼女は遊びと割り切れる世慣れたメイドでもないんだ!
それなのに・・・、お前は男として、貴族として最低なことをしたんだ。わかっているのか!?」
「あの女、初めてじゃなかったぞ。」
 シュテファンの言葉が、リヒャルトの背筋に衝撃を走らせた。手も足もがくがくと震える。
「つまりはそういうことなのさ。あの女は前の雇い主からもさんざん犯されていたのさ。
いまさら俺が1回や2回、犯したってたいしたことじゃないだろう?」
 今度は本当に殴った。
「もう、二度とこの家には来ないでくれ。お前とは従兄でもなんでもない。
街で会っても・・・俺に声をかけるな。」
 目からは涙が溢れる。
自分の拳を受けても、少しよろけただけで平然としている軍人が憎くてたまらなかった。
「・・・出て行ってくれ。」
 シュテファンは舌打ちをして、しぶしぶといった感じで出て行った。
・・・どこからすれ違ってしまったのだろうか。いい加減でわがままな従兄。
だが、人の宝物に手を出すような男ではなかった。変なところで気を遣ったり、不器用だったり、
そんなところが好きだったのに・・・。涙が止まらなかった。
リヒャルトはしばらくその場に立ち尽くしていた。
 ただ、風が吹く9

 玄関までオルフはいつもの通りにシュテファンを見送る。コートを着せ、傘を渡す。
「何か、最後にリヒャルト様にご伝言はありますか?」
 シュテファンはゆっくりと傘を受け取り、オルフを一瞥する。そして口の端を上げただけで笑みを作った。
「最後にはならない。いつか、近い将来にリヒャルトは俺を頼ることになる。
そのときになって気が付くだろう、俺がどんなに大切な存在かってな。・・・また会おうと伝えてくれ。」
 そう言い残し、シュテファンは別邸を後にした。
2階の窓から、従兄の帰る姿を苦々しく見つめ、リヒャルトは窓を閉めカーテンを引いた。
そしてそのまま涙を拭うこともしないまま、エルゼの部屋に向かった。
エルゼは今は使用人部屋に住んでいる。もう休んでいるだろう。軽くノックしてドアノブに手をかける。
「僕だ。起きているかい?エルゼ。」
 部屋の中で物音がして、ドアが開く。
「ごめんよ・・・。寝ていたのかい?」
 涙の跡がはっきりと残っているリヒャルトの無理をした笑顔に、エルゼは驚く。
急いでリヒャルトの目尻の涙を指で拭う。
「・・・エルゼ。」
 リヒャルトはエルゼのその白く細い手首を掴み、甲に唇を寄せる。
エルゼはそんなリヒャルトの行動を驚きの表情のまま見上げていた。
「あいつはもう、来ないよ。辛い思いをさせてしまったね。僕は知らなくて・・・。
知らずにのうのうと過ごしていた自分が悔しい。君はきっと僕と、僕の従兄であるあいつのために
耐えてくれていたんだね。でも、僕はもう、何の犠牲も払いたくない。
まして君に辛い思いをさせたあいつを許すなんてこと、できるはずがない。」
 エルゼの表情が固まる。リヒャルトは知っているのだ。シュテファンが自分に何をしたのか、
知ってしまったのだ。エルゼはリヒャルトの手を払いのけ、自分の部屋の奥に逃げ込んだ。
「エルゼ・・・!」
 知られたくはなかった。今さら恥じるようなきれいな体ではないが、それでも、
リヒャルトには知られたくなかった。こんな自分を知ってほしくなかった。
「エルゼ、僕は君を誰にも譲りたくはないんだ。」
 リヒャルトはドア付近から先には踏み込んでこない。
そこに立ったまま、部屋の奥で座り込んだ後姿のエルゼに話しかける。
「できることなら・・・、この家から一歩も外に出ないで、僕の目の届くところにいてほしい。」
 エルゼはリヒャルトの言葉にゆっくりと振り返る。目が合う。
リヒャルトは自嘲気味な笑みを作っていた。
「僕は意外と小心者だね。・・・だって怖いんだ。君がいなくなってしまう日のことを考えると、
とてつもなく怖くなってしまうんだ。・・・離したくないよ。」
 そんな言葉を、そんな表情で、この世で一番愛しい人が言うなんて・・・!
エルゼは思わずリヒャルトに駆け寄り、抱きついた。リヒャルトはそんなエルゼを何のためらいもなく
受け止める。腕を背中に回し、優しく抱き寄せてくれる。ああ、この人を愛している・・・!!
「エルゼ・・・、僕の傍にいておくれ。ずっと、ずっとだ。約束だよ・・・。」
 何度もエルゼはうなずく。リヒャルトの腕の中で、何度も、何度も。
自分は決して愛していると、言葉に出して言えることはできないけれど、そんなことを伝えられる
人間ではないけれど、貴方が望んでくれるなら、私は何でもする。何にでもなる。
心の中ではいくらでも叫ぶ。それだけは神様に許して欲しい。貴方を愛していると!
私は貴方の為にいつでも死ねると・・・!!
「エルゼ・・・。」
 額に優しい口付けをくれる。ああ、このままいっそ時が止まってしまえばいいのに・・・。
そんな夢みたいなことを、エルゼはリヒャルトの腕の中で考えていた。

 ただ、風が吹く10

「ニュルンデンベルグ法が可決された・・・!!」
 ユダヤ人から市民権を奪うこの法案の可決によって、財産のあるユダヤ人は次々と移住を始め、
商いを営む者達は店を閉めた。ドイツではもう、ユダヤ人は住むことができなくなりつつあった。
「なぜこんな法律を平気で公布できるんだ!?人種差別以外の何物でもないじゃないか!!」
 ヘルマン・ゴルはかなりいきり立っていた。
「ヒトラーの資金援助の裏方にロスチャイルド家がいるという噂がある。・・・おかしいじゃないか、
ロスチャイルドといえばユダヤ財閥だ。金があればいいというのか?矛盾しているものばかりだ!」
 明日の朝刊の一面トップ記事を推敲しながら、強く拳を握る。納得がいかない。
ヘルマンは新聞記者特有の正義感漢だ。矛盾は好まない。しかし制裁は恐ろしい。批判記事を書くことは
今やこのドイツ国内では自殺行為だった。
「家内が・・・ユダヤ系だ。街を歩いていて石を投げつけられた。ただ、歩いていただけで、だ。」
 ヘルマンは俯く。
「僕の大切な女性も・・・ユダヤ人です。」
 リヒャルトは仕事の手を休めずに、言った。
「そうか・・・。」
 ヘルマンはそれきり、何も言わなくなった。
 
 家に戻ったリヒャルトは。出迎えたエルゼの胸元を見て違和感を覚えた。
「何だ?エルゼ、その胸元につけているワッペンは、」
 まさか、服のデザインではあるまい。不自然に縫い付けられた星型のマーク・・・。
エルゼは困ったように笑った。しなくちゃいけないそうです、とその愛らしい口は動いた。
オルフが説明を加える。
「すべての着衣にユダヤ人はこのマークをつけなければならないそうで、わざわざ警官がこのことを
伝えに来ました。そして特別地区への移住も勧めてきましたが、それは断りました。」
「特別地区?」
 噂では少し耳に挟んでいたが、まさか我が家にまでそんな話が来るとは思いもしなかった。
「何でございますか?その特別地区とは、」 
 オルフは警官から直に話は聞いたものの、あまり理解ができなかったらしい。
それだけ警官の話があいまいだったということだ。
「僕が聞いたのは、ユダヤの人たちを差別から守るために、ユダヤの人たちだけが住む地域を作ったと
いうことだけだ。詳しいことは報道関係にも知らされていない。軍が主導していることだから、
警官もあまりよくわかっていないんだろう。」
 差別から守るため。そんな優しいものじゃないということだけは、容易に想像できる。
だが、かといって、そこがどんなところかまでは見当がつかない。
「エルゼ、そんなマークはつけなくてもいい。外しておきなさい。それから、これから外へは出ない
ようにしなさい。この家にいる使用人はオルフとセーラだけだ。いいね?」
 リヒャルトにしては珍しく、有無を言わさない命令だった。
エルゼは不安な表情を見せたが、すぐにうなずいた。
「我が家にはユダヤ人はいない。・・・わかったね?」
 オルフは何かを覚悟したリヒャルトの表情を読み取り、自分も決心したようにうなずいた。
「畏まりました。このシューラー家別邸からは何の犠牲も出しません。このわたくしが執事であるかぎり。」
 それからリヒャルトとオルフは何もなかったかのように、いつも通りの生活に戻っていった。
ただ、エルゼだけが、不安を隠せずにその場でじっとしていた。

 ただ、風が吹く11

 1935年、今やベルリンの街にはナチス党のシンボルである、ハーケンクロイツの旗があちこちに掲げられ、
一種異様な雰囲気に包まれていた。兼ねてから噂にあった徴兵制度の復活も現実となり、
もう誰もが戦争の始まりを予感していた。
「今日、シュテファン様よりお電話がございました。・・・シュッツシュタッフェル(ナチス親衛隊保衛本部)
への栄転がお決まりになったそうです。」
 オルフの言葉にリヒャルトは眉をひそめた。
「シュッツシュタッフェル?そんなものにあいつは・・・、」
 どこまで落ちるつもりなんだ、シュテファン。ただの軍人でいるうちはまだいい。
だが親衛隊となれば立場が違ってくる。戦争をする側ではなく、させる側となってしまう。
それがどれだけの意味を持つのか、あいつにはわかっていない。
今が良ければいいというあいつらしい選択だが、それでは駄目なのだ。早く目を覚まして欲しい。
・・・だが、もう、あいつとは絶縁した。関係はない・・・。
 呼び鈴が鳴る。
「こんな夜更けに誰でしょうか、」 
 オルフは玄関に向かった。そしてすぐにリヒャルトのもとに戻ってきた。
「警察です。」 
 リヒャルトは立ち上がる。覚悟はしていたことだ。
「リヒャルト・フォン・シューラーですね?」
 玄関に立つ警官は慇懃無礼に言う。リヒャルトも礼はせず、はい、とだけ答えた。
「軍部より徴兵命令です。謹んで受けるように。」 
 黙ったまま警官から紙を受け取り、さっと目を通す。
「ごくろうさまでした。」
 警官の目は見ずに、それだけを言い踵を返す。
オルフは警官を見送ってから、慌ててリヒャルトのもとに駆け寄った。
「リ、リヒャルト様、それは一体・・・、」
 オルフのどもりに思わずリヒャルトは噴き出す。
「慌てなくても大丈夫だ。まだ戦地に送られるわけじゃない。ベルリンで軍事訓練を受けるように
とのお達しだ。」
 オルフは少しほっとしたようだったが、まだ完全に不安は拭いきれていないようだ。
「そ、それでは、いずれ大きな戦争が始まれば、戦地に行かなくてはならなくなるので?」
「そういうことだ。」
 軍部拡張を推し進めている政府にとって若い人材は必須だ。そんなことぐらいで驚いていては身が持たない。
「・・・街ではとうとうユダヤ人狩りが行なわれ始めました。同じ人間をあのように扱うとは、
アーリア人としての誇りは一体どこに・・・、」
 オルフは俯いたまま呟く。エルゼのことを心配しているのだ。
いくら家の中に隠れ住んでいて、伯爵家を堂々と警察は捜索できないとはいえ、近所の住人はエルゼが
ユダヤ人だということを知っているのだ。暇を出したという言い分を、信じるかどうかは、誰にもわからない。
いつ通報されてゲシュタポ(特別警察)が来るかわからないのだ。ゲシュタポに捕まれば、
特別地区という名の収容所行きだ。もう特別地区がどんなところか、うすうすわかり始めていた。
「エルゼを部屋に。紅茶を持って来させてくれ。」
「畏まりました。」
 あまり何も考えたくない。だが、この世の中が人を緩慢にはさせてくれない。
愛する人をただ素直に愛することすら、この世の中では困難なことなのだ。
 ドアをノックする音が聞こえる。
「入っておいで。」
 声をかけると、そっとドアが開き、紅茶のいい香りがリヒャルトの部屋を満たす。
そして愛する人が微笑みを浮かべて入ってくる。この一瞬が至福のときだと感じる。
愛する人が自分をその瞳で捕らえるその一瞬が。
「今夜はアールグレイだね?」
 エルゼはうなずき、リヒャルトの傍に来る。ティーポットをいつも通り机に置き、カップにお湯をくぐらせる。
「エルゼ、そのまま注いでこちらにおいで。アールグレイは冷めた方が苦味が出ておいしいから。」
 そう言いながらリヒャルトはエルゼを抱き寄せる。
「何だか、疲れたよ。」
 エルゼの胸に顔を埋め、ため息を吐く。安心するのはここだけだ。エルゼは優しく頭を撫ぜてくれる。
まるで母のように。いつのまにこんなに大人になったのだろうか。
あの泣き濡れた少女はもう立派な大人の女性になりつつある。対等に愛を語れる存在に。
「・・・君を守りたい。ずっと僕の傍にいておくれ・・・。」
 いつもリヒャルトは傍にいてくれと願う。そんなこと、エルゼは言われなくてもそうしているのに。
何に不安を抱いているのだろうか。リヒャルトの不安はすべて拭い去ってあげたい。
リヒャルトに降り注ぐ不幸はすべて自分が被りたい。
リヒャルトを脅かすすべてのものを自分が排除できたなら・・・。
そんなエルゼのささやかな願いは、叶いそうになかった。

ただ、風が吹く12

 1939年、ドイツはソ連と不可侵条約を結び、ポーランドへの侵略を開始、それに対してイギリスと
フランスがドイツに宣戦布告をした。第2次世界大戦の始まりだった。
 エルゼの一歩も外に出ない屋敷内だけの生活は4年目を迎えていた。
もう、鳥のさえずりや日の暖かさを忘れそうだった。エルゼの現実は、耳を塞ぎたくなるような
ラジオからのニュース、ヒトラーの濁声の演説、時折窓から見る街の風景だけ。
そのどれもが暗く病んでいるようだった。
 ポーランドを占領したドイツ軍はとどまるところを知らず、その勢いは増すばかりであった。
 そして、ついに怖れていたその日はやって来たのだ。

「年明けと同時に、デンマークへ出兵だ。」
 もう39年も終わろうとしていた夜、軍事訓練から帰ってきたリヒャルトは開口一番、そう言った。
オルフもセーラも、そしてエルゼも目を見開いた。
「皆も覚悟はしていたことだと思うが、ポーランドの次は北欧、デンマークとノルウェイを侵略する。」
 言いながらエルゼを手招き、その腕の中にすっぽりと収める。エルゼはリヒャルトの顔をじっと見上げていた。
「どうにかならないのですか?そんな寒いところに伯爵子息ともあろうお方が、」
 オルフは息を荒くしながらリヒャルトに詰め寄る。リヒャルトは苦笑を浮かべ、エルゼを見つめた。
「まあ、年老いた伯爵なら免除されたかもしれないけれどね。・・・身分など関係ないさ。
もう多くの同胞が戦地に向かった。僕だけがのんびりとはできないよ。」
 しかし・・・、とまだ言いたげなオルフを手で制し、リヒャルトは素晴らしいほどの笑みを作った。
「さあ、今夜は乾杯だ。僕の無事を祈って皆で乾杯しよう。ほら、ぐずぐずしている時間はないよ。
明日には僕は戦地の人となるのだからね。」
 それは空元気なのか、エルゼにはリヒャルトの心の奥までは知ることが出来なかった。
 
 4人で夕食を済ました後、リヒャルトはエルゼの手を引き、母の寝室のドアを開けた。
「覚えているかい?君がこのベッドで目を覚ましたときのことを。」
 エルゼはうなずく。忘れるはずがなかった。
暖かいベッドで目を覚ましたあの日、両手を広げて自分を包んでくれようとした少年。
人を信じられなかった自分は、その少年から逃げて泣いた。
「君は泣いて暴れて・・・。あの少女がこんなにりっぱな女性になるなんて、あのときは思いもしなかったよ。」
 繋いだ手を強く握り直す。
「君はもう21歳。僕も26歳。お互い、歳をとったね。・・・僕はもう、ずっと前から君が好きだった。
これからもずっと好きだ。この気持ちはきっと一生変わることはないだろう。君に僕の愛を捧げるよ。」
 リヒャルトの言葉にエルゼは顔を上げ、その瞳を見つめる。リヒャルトは少し、苦しげな表情だった。
「だから君も・・・、君の愛を僕に捧げて欲しい。」
 なんと言う愛の言葉だろうか。愛しい人が懇願するように、自分の愛を求めている。
自分の愛など、初めから貴方に捧げているというのに・・・!!
「口づけをしてもいいかい・・・?」
 エルゼを引き寄せ、リヒャルトは囁く。なんて甘美な響きなのだろうか。エルゼはそっと目を閉じた。
リヒャルトの愛しい唇が自分のそれに降りてくるまでのわずかな時間、ここで自分の人生が終わればいいと、
エルゼは本気で考えた。
「愛しているよ、君のすべてを。」
 言葉を、愛撫を、これほどまでに素直に受け入れ、感じることができるのは、相手がリヒャルトだから。
愛する人だから。
泣かずにいようと思っていたエルゼだったが、その瞳からは涙が枯れることなく流れ続けるのであった。
 出会いから9年。この夜、二人は初めて結ばれた。

 ただ、風が吹く13

1940年、新しい年の夜明けとともに、エルゼの愛しい恋人は旅立っていった。
その唇で愛を語り、その指で体に触れ、全身で愛とは何かを教えてくれた恋人。
最後に額に優しい口付けをくれた恋人。
「すぐに帰ってくるよ。それまで離れていなければならないけど、それは後から見ればほんの一瞬だから。
振り返って懐かしく思える日がきっと来るから。それまでの辛抱だよ。・・・愛している。」
 絡ませあっていた指をゆっくりと解き、瞳を見つめる。また涙が出そうだった。
「どうか、お体をご自愛くださいませ。」
 オルフの言葉に、リヒャルトは苦笑いを浮かべる。
「僕は戦場に行くんだよ?体を気遣う余裕はないと思う。たぶんね。・・・この家のことは任せたよ。」
 その目にはうっすらと涙が滲んでいた。オルフは静かにうなずいた。
「じゃあ、オルフもセーラもエルゼも元気で。・・・行ってくるよ。」
 そう言ってリヒャルトは玄関ドアを開けて行ってしまった。
外まで見送れないエルゼは、すぐに2階に駆け上がり、リヒャルトの母の部屋に入った。
窓を開け、下を見下ろす。エルゼの視線に気付き、リヒャルトは見上げてくれた。
何も言わなくても、通じる心があることを、今はじめてエルゼは知った。
 
 死なないで、生きて、生きて帰ってきて。私はここで待っています。ずっと待っていますから!!
 
 リヒャルトは軽くうなずき、踵を返して歩き出した。
迷いを振り切るかのようにそれから二度と、後ろは見なかった。

 ただ、風が吹く14

 リヒャルトが去ったベルリンは寒さが増すばかりで、次々に市民のもとに届く戦果状況だけがエルゼの
生きる糧だった。何もいらない。無事に帰ってきてくれたらそれだけでいい。
あの人の命以外、何も望むものはない。
「エルゼ、解熱剤はこれだけか?」
 オルフが薬庫を開けてエルゼに問う。薬庫を覗き込んでエルゼはうなずく。
最近、物資の流通があまり良くない。
「困ったな、セーラが風邪をこじらせてすごい熱なんだ。これだけで治ってくれればいいんだが。」
 エルゼは以前、自分を診てくれたゲオルゲ医師を思い出した。リヒャルトの幼き頃の主治医。
彼も戦場に行ってしまっているが、彼の診療所には薬があるはず。家の人に頼んでみよう。
奥様がいると聞いている。エルゼはオルフがセーラの部屋に入って行くのを確認して、コートを羽織った。
そっと裏口から外に出る。5年ぶりの外の空気。足が地面につく感触を久しぶりに思い出した。
ユダヤ人の証である胸のマークはつけていないし、裏道を使って診療所まで行けば大丈夫だろう。

「エルゼ?」
 しばらくしてオルフはエルゼの姿が見当たらないことに気が付いた。
家中を探してもいない。まさか・・・外に?
「裏口!?」
 雪が舞い込んだ跡が裏口にあった。オルフはすぐにエルゼを追った。
足跡は降り積もる雪で消されそうだった。コートも着ずに、老いた執事は必死に走った。
「エルゼ!」
 雪であまりよくは見えなかったが、遠くにエルゼらしき女の姿を捉えた。それと同時に甲高い声が聞こえた。
「その女はユダヤ人よ!捕まえて!!」
 その声の主はゲシュタポを従えて、エルゼを指差した。あの顔には見覚えがある。
エルゼがよくリヒャルトのために茶葉を買いに行っていた紅茶店の女店主だ。
オルフは絡みそうになる足で駆けつける。
「違います!その者はうちの召し使いでございます!混血ですが、ユダヤ人ではございません!」
 エルゼはゲシュタポに腕を捕まれ、連行されかかっていた。女店主は駆け寄ってくるオルフに向かって叫ぶ。
「嘘よ!私は見たわ!この女はユダヤのマークをつけていた!ずっとかくまっていたんだわ、この非国民!」
 オルフはそんな罵倒を気にもかけず、エルゼのもとにたどり着いた。
「その者をお離しください。その者は我が主人の大切な方でございます。どうか・・・。」
 オルフは懇願するが、ゲシュタポはエルゼを離す気配はなかった。
このままではシューラー家に迷惑が掛かってしまう。非国民という烙印が押されたら、
このベルリンでは生きてはいけない。エルゼは自ら腕を出し、ゲシュタポに捕まった。
「エルゼ!エルゼ!!」
 車の乗せられ、どこに向かうのかわからないまま、エルゼは目を閉じた。
遠くで自分の名を叫ぶオルフの声が聞こえる。ゲシュタポがオルフを捕まえる気がまだないうちに、
早く、早く行かなければ。
 絶対に外へ出てはいけないというリヒャルトの言いつけを破った結果がこれだ。
・・・自業自得なのか、それともこれがユダヤ人としての自分の本当の運命なのか。
そんなことを考えるだけ無駄のような気がしてくる。
 エルゼを乗せた車は時折停車し、そのたびに何人かのユダヤ人を新しく乗せた。
老人、子供、若人と、まさに老若男女おかまいなしだった。エルゼはコートのポケットに入っていた飴を
震える少女にあげた。その少女はやせ細り衰弱していて、まるで昔の自分を見るようだった。
その少女は素直に飴を受け取り、エルゼに微笑んだ。ここにいる全員が、自分のこれからの運命を悟っている。
そう、この先には死しかないのだ。

 ただ、風が吹く15

 戦況はドイツが有利だった。北欧に続き、フランス・パリを占拠。勢いに乗ったまま、
ソ連への侵入を開始しようとしていた。
 SS(シュッツシュッタフェル)隊中佐となったシュテファン・フランツ・シューラーは、
ユダヤ人の収容所の中でも最大の規模を誇るアウシュビッツ収容所に勤務していた。
毎日毎日、数え切れない程のユダヤ人や反ナチ主義者が送られてくる。働ける者には囚人服を着せ、
わずかな食事できつい労働を強制させる。働けない者はそのままガス室で処刑した。
 その日もいつも通り、ヨーロッパ各地から送られてきた囚人たちの長い列を官舎の窓から見下ろしていた。
その中に見覚えのあるシルエットを認めたが、それが誰だかははっきりと思い出さなかった。
シュテファンはなぜかとてもその人物が気になり、あれが誰なのか確かめようと官舎を後にした。
何かが焦げているような匂いに少し顔を歪めながらその列に向かった。
相変わらず列の最後尾は見えない。並ぶ人間たちの表情は揃って暗い。当たり前だ。
「どうされましたか?シューラー中佐、」
 部下がシュテファンに声を掛ける。
そのシューラーという名を聞いてとっさに俯いていた顔を上げた女と目が合った。
その女はシュテファンを認めるなり驚愕の表情を作った。・・・見覚えがあるはずだ。
「・・・エルゼじゃないか。」
 シュテファンは嫌な薄笑いを浮かべ、エルゼに近付く。エルゼはその分、後退していく。
焦れたシュテファンはエルゼの腕を掴み、強引に自分に引き寄せる。
「おまえ、まだ生きていたんだな。ダッハウあたりでもう死んだと思っていたよ。
かくまってもらっていたのか?お優しいリヒャルト王子によ?」
 エルゼはシュテファンの頬を平手で殴った。どうせ死ぬのだ。何をしたって怖いものなんてない。
自分の命よりもリヒャルトを侮辱するような言葉が許せなかった。
「・・・上等だ。」
 シュテファンは殴られた頬を擦りながら不気味に微笑んだ。なぜかはわからないが、
この女を前にするといつもそうだった。この女をズタズタにしてやりたくなるのだ。
なけなしのプライドもその汚れきった体も、今までない以上に傷付けたかった。
立ち直れないほどに壊したかった。
「ここではおまえはもう人間じゃない。家畜以下だ。もう一度リヒャルトに会える夢なんて見るだけ
無駄だ。・・・せいぜいドイツのために働くんだな。」
 そう言ってシュテファンはエルゼの顔に唾を吐きかけた。そして睨むエルゼを眺めて満足そうに
その場を立ち去った。屈辱感がエルゼを襲う。今までいろんな仕打ちを受けてきたが、これ以上の
屈辱を味わうのは初めてだった。どうしてこんなにあの男に虐げられなくてはならないのだろう。
自分が一体あの男に何をしたというのだろう。
・・・自分みたいな汚い女がリヒャルトの傍にいたこと、それが罪となっているのだろうか。
それならば甘んじてその罪の罰を受けよう。愛するリヒャルト。あなたがすべて。
あなたの上に降りかかる不幸があるならば、自分が代わってその不幸を受けるから、どうかあなたは
いつまでも幸せの中で笑っていて欲しい。エルゼは遠いベルリンの方を見つめ、祈った。

 ただ、風が吹く16

「お姉ちゃん、列が二つに分かれているよ。」
 エルゼが飴をあげた少女は窮屈な列車での移動で体力を消耗し、エルゼに寄りかかるようにして立っていた。
その少女がようやく見えてきた列の先を指差してそう言った。エルゼも目を凝らして列の先を見る。
良く見れば老人や病人たちの列と、健康な人たちの列とに分れているようだった。
・・・どうして分かれているのか、悲しいことにエルゼはすぐに理解した。
自分たちは家畜以下だとシュテファンは言った。その言葉通り、働けない家畜はすぐに処分されるのだ。
エルゼは自分にもたれかかる少女のことが心配になる。
「次、」
 冷酷な声が聞こえる。気分はまるで死刑執行の宣告を待つ犯罪者のそれだった。
エルゼは少女の手を強く握った。その冷酷なドイツ兵は少女を一瞥し、病人たちの列を差した。
そっちに行けと無言で命令したのだ。
「お姉ちゃん、」
 少女は不安な瞳でエルゼを見上げる。エルゼは覚悟を決めた。自分もこの列に行こうと。
「おまえはあっちだ。」
 ドイツ兵がエルゼの腕を掴み、少女と引き離す。
「おまえはまだ働けるだろう。」
 加減をしない男の力で、エルゼは無理やりに反対側の列に並ばされた。
エルゼはなおも少女の方へ行こうとしたが、少女が手を前にしてそれを制した。
「お姉ちゃんはそっちに行って。」
 少女は微笑み、言った。少女の列は進みが早く、エルゼと少女はどんどん離されていく。
ずっと少女はエルゼに手を振っていた。リヒャルトとの別れで涙は枯れ果てたと思っていたが、
エルゼの視界は涙でぼやけて少女の姿をはっきりと見ることはできなかった。
完全に少女が見えなくなると、エルゼはその場に座り込み、泣いた。

 収容所というところはエルゼが想像していたよりもはるかにひどいものだった。
人間を人間とも思わない扱い。本当に家畜以下だった。少しでも具合が悪くなると殺された。
死体を焼き、昇る煙は絶えることがなく、いつも不快な匂いを発していた。
「また見てるよ、あの軍人さん。」
 エルゼと一緒に働いているおばさんが耳打ちをする。毎日のようにシュテファンはエルゼの前に現れた。
だが何を言うでもなく、ただエルゼを見て、そのまま去っていくのだ。見張られている。そう感じる。
エルゼはシュテファンの視線を感じても、決して彼を見ることはない。見る必要などなかった。

 冬の間は辛かった収容所暮らしも、春になって暖かくなると幾分はましになった。
慢性の空腹にも体は慣れてくれた。つくづく自分は雑草なんだと、エルゼはおかしくなる。
母の顔は知らないが、健康に産んでくれて感謝しよう。ここでは一度風邪をひくと最期なのだから。
それでも栄養失調からくる目のかすみなどは避けられなかった。ときどき襲う眩暈。
そんなときはいつもあの少女のことを考える。自分に微笑みを見せて死んでいく列に並んだ少女。
彼女は自分に死ぬなと言ったのだ。生きてと言ったのだ。だから頑張ろうと思った。
リヒャルトのためなら惜しくない体だが、あの少女の分も出来るだけ、行けるところまで生きようと思った。

 ただ、風が吹く17

 今日もあの女は生きていた。シュテファンは官舎の自室に戻り、上着を脱ぎ捨てた。
もう半年になるのか・・・。意外にタフなエルゼがおかしくて軽い笑みがもれる。
簡単に死なれてもつまらない。そんなことを考えていたとき、ふいに電話がなった。
「シューラーだ。」
 すぐに取る。
『ベルリンから外線です。リヒャルト・フォン・シューラーという方からですが、お繋ぎいたしますか?』
 リヒャルトからだと?
「繋いでくれ。」
 シュテファンはそう伝えるとすぐに電話は外線に切り替わった。ひとつ、息を吐く。
「シュテファンだ。・・・リヒャルトか?」 
 相手が息を呑むのがわかる。
『・・・久しぶりだな、シュテファン。どこにいるのか捜すのに少し苦労したよ。』
「ふっ、いまさら何事だ?俺とは絶縁したんじゃなかったのか?」
『僕もさんざん悩んだよ。だが、おまえに頼りざるを得ない状況になったんだ。』
 久しぶりに聞く従弟の声は疲れが滲んでいた。
「おまえ、戦地には?」
『行った。・・・ユーゴで足を撃たれて強制送還だ。』
「名誉の負傷か。」
『・・・ふざけないでほしい。』
「別にふざけてなどないさ。で、それで?俺に頼りざるを得ない状況って何だ?」
 間が空く。
「リヒャルト?」
『・・・家に帰ったらエルゼがいなくなっていた。オルフの話だとゲシュタポに捕まったというんだ。
ドイツ中の収容所を捜したが見つからなかった。ダッハウ収容所にもいなかった。
・・・残っているのはそこだけなんだ。』
 搾り出すような声。最悪なことは考えたくないのが手に取るようにわかるから、あえてそれを口にする。
「もう死んださ。」
 大きなため息が聞こえた。
『やめてくれ・・・・、シュテファン。』
「どこにもいないんだろう?もうあの女はこの世にいない。」
『シュテファン、そこには、アウシュビッツにはエルゼはいないんだな?本当のことを言ってくれ。』
「いない。もしいたとしても、この大人数の中からわざわざ俺があの女を捜すとでも思うのか?諦めろ。」
『頼む・・・、シュテファン。エルゼを見つけたら助けてやってくれ。』
 その声は涙で震えていた。優しくて、自己犠牲力が高くて、芯の強い従弟が涙声で自分を頼ってくる。
これ以上の快感はない。
「用はそんなつまらないことだけか?」
『シュテファン、』
「それだけならもう切るぞ。仕事があるんだ。」
『シュテファン、頼む・・・。』
 リヒャルトの必死さを感じれば感じるほど、滑稽になってくる。
「じゃあな。」
 返事は聞かずに一方的に電話を切った。笑いが溢れてくる。おかしくてたまらなかった。
リヒャルトの焦燥な顔を想像するとおかしくて腹が捻れそうだ。そんなにエルゼが大切か?
自分のプライドよりも?伯爵子息として何不自由なく暮らしてきたあの従弟をここまで恋に狂わすものが、
あのエルゼのどこに隠れているのいうのか。シュテファンはまだわかっていなかった。

 ただ、風が吹く18

 目だ。口が聞けない分だけ、エルゼの目は人をまっすぐに見る。
後ろ暗いものを持つ人間はあの目で見られることに嫌悪感を抱く。だからひどく扱ってしまうのだ。
そのことにエルゼを毎日監視していたシュテファンは気付く。
口だけでなく、目も見えなくしてしまえばいい。それなら無理に自分を無視する必要もなくなるだろう。
シュテファンはゆっくりとエルゼに近付いた。
 背中に視線を感じながら、その視線が強くなることに気付きながら、エルゼは裁縫の仕事をやめなかった。
両隣に座っている人たちが一斉に席を立つ。それでもエルゼは手を休めなかった。
「エルゼ、悲しいニュースがある。」
 シュテファンはエルゼの背後に立ち、ささやいた。
「聞きたくないか?」 
 くやしいことに、その声はリヒャルトにとてもよく似ていた。
エルゼは波打つ心を自分で嗜めながら、シュテファンの方をゆっくり向いた。
シュテファンは笑みを浮かべてエルゼを見下ろした。いつもそうだ、いつもこの男は笑っている。
 エルゼはシュテファンを見据える。屈したくはない。
「実に悲しいことだ。エルゼ、」
 シュテファンは一呼吸置いて、言った。
「リヒャルトが死んだ。」
 その言葉の意味を理解するのに、エルゼは一瞬の時を必要とした。
・・・リヒャルトが死んだ・・・。今、シュテファンはそう言った。
死んだと、リヒャルトが死んだと・・・・!!
「アーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
 声帯の震える音が声とならない声となり、エルゼの叫びとして響いた。そして、何かが切れた。
「エルゼ、」
 倒れ掛かるエルゼを支えようとして差し出したシュテファンの手を振り解き、エルゼは外に飛び出した。
「エルゼ!!」
 何に向かって走っているのか。エルゼはただがむしゃらに荒れた収容所の敷地内を走り回った。
シュテファンは追いついたエルゼに抱きつき、一緒に倒れこんだ。
それからエルゼはぴくりとも動かなくなった。
「・・・エルゼ?」
 揺らしても、叩いても、エルゼは微動だにしない。
シュテファンは気を失ったエルゼを抱え上げ、自分の官舎へと急いだ。
 
 ただ、風が吹く19

 目が覚めたら、見知らぬ天井が映った。
「やっと起きたか。」
 少し遠くで声がする。リヒャルト様・・・?
「丸2日も眠ったままだったな。どうだ、気分は。」
 足音ともに近付いてきた人物はリヒャルトではなく、シュテファンだった。
手には水の入ったグラスを持っている。咄嗟に逃げようとしたが、体が重くて動けなかった。
「栄養失調と心身衰弱だ。」
 動けないエルゼの横に腰を下ろし、飲め、というふうにグラスを差し出し、シュテファンは言う。
エルゼは頭を左右に小さく振る。
「いらないのか、まあ、いい。」
 グラスを持つ手をやり場なく下ろして、シュテファンは腰を上げた。
リヒャルトが死んだという嘘で、これほどまでにエルゼがショックを受けるとは思わなかった。
甘く見ていたのだ。二人の絆を。このままではエルゼは自殺を考えるだろう。
先手を打っておかなければならない。
「エルゼ、リヒャルトが死んだからといって馬鹿なことは考えるな。
この部屋には自殺できるようなものは何もない。2階だから飛び降りても死なない。
銃もナイフもない。・・・おまえは大事な労働力だからな。簡単には死なせないぞ。」
 シュテファンは自分で自分の言葉に矛盾を感じた。数え切れないほどの囚人がいる中で、
エルゼ一人が死んだところで痒くも痛くもない。一日に何千人も処刑している。
なのになぜ、エルゼの自殺を防ごうとしているのか。・・・わからない。
「エルゼ・・・、」
 エルゼはシュテファンの言葉を聞いてはいないようだった。その目は遠くを見つめている。
シュテファンは再び腰を下ろし、そっとエルゼの頬に手を当ててみた。エルゼはそれに気付き、
シュテファンを見た。だが、その目にシュテファンを映しても、エルゼは無表情だった。
「・・・心を、リヒャルトのところに置いてきたのか?エルゼ、人の心は変わる。
生きるために変わるんだ。じきにわかる。理想とプライドだけでは生きていけないことをな・・・。」
 それでも、エルゼは無表情のままだった。


 1941年、ベルリン。
 リヒャルトは絶望の中にいた。半年前、ユーゴスラビアで足を負傷し、ベルリンに帰った来た。
そして愕然とした。家で待っているはずの恋人がいなくなっていたのだ。
恋人のベッドには昔リヒャルトが贈った、もう色の褪せてしまっているテディベアだけが横になっていた。
思いつくすべてを捜した。だが見つからない。最後の頼みの綱である、ナチス親衛隊員の従兄にも
捜索を断られた。もうどうすることもできない状況になっていた。
死んだとは、とてもじゃないが、考えたくなかった。
「リヒャルト様、もう少しお食べになってくださいまし・・・。
こんなにお痩せになってしまわれて・・・。」
 オルフは今日も食べ残しのあるリヒャルトの夕食を片付けながら、ため息をついた。
「エルゼが空腹で辛い思いをしているかもしれないと考えたら、食欲が湧かないんだ。
おまえたちには心配をかけてすまないと思うんだが、自分ではどうしようもないんだ。」
 うな垂れるリヒャルトを見るたび、オルフは胸が痛む。
あの時、エルゼが捕まった時、無理にでも助ければ良かった。自分の身などどうなっても構わなかったのに。
シューラー家のこと、世間体のことなど、何一つ考えずに。
そうすれば、どんな結果になっていようとも、少なくとも、リヒャルトのこんな姿を見ずに済んだはずだ。
まるで、そうまるで、自分の半身がなくなったかのようなリヒャルトの姿。
・・・神様はなんとむごい試練をこのお方に与えられるのか。オルフは泣きたかった。
自分の不甲斐なさに。そして、これからの未来に。

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