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自殺→地獄←『あの世は無い』コミュの転生(2) 勝五郎の場合

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 生まれ変わりの話は2つに分けられます。1つは、前世でこうだったと話すことが事実に合っている。もう一つは、証人を含めて、その話の信憑性。 どの話も同様で、その気になれば多数の事例を知ることが出来ますが、要はたった一つでもいいから、充分信憑性のある事例をじっくり見つめて納得出来るかどうか判断の材料に加えることでしょう。 日本人の転生の話としては一番に挙げられる勝五郎の話をじっくりと御紹介しましょう。 <「霊魂は必ず生まれ変わる」より 今村光一>

 勝五郎の転生の話はこうである。
 勝五郎は、文政5年(1822)11月7歳のとき、5歳年上の姉のふさと遊んでいるときこんなことを言った。「姉さんは、この家に生れてくる前はどこにいたの?」
姉は、変なことをいう弟だと思いながら、
「生れる前にどんなことがあったか、どうしてわかるの?」
と聞き返した。
すると、今度は勝五郎の方が驚いて聞き返した。
「じゃ、姉さんは、生れる前に何があったか思い出せないの?」
「そんなことをいって、じゃ、勝ちゃんはおぼえているの?」
これに勝五郎は、次のように答えた。
「もちろん憶えているよ。僕は、程窪の久平さんの子で、そのときは藤蔵っていう名前だったんだ」
 
姉はもちろん、こんな話を本気にするわけはなかった。
 だが、勝五郎はこれだけで話をやめなかった。その後も、何度も前世の話を姉にするので、始めは相手にしていなかった姉も、彼のしつこさに負けて、とうとう彼のことを両親に話した。両親はもちろんびっくりしたが、ともかく勝五郎の前世の話というのをさせてみることにした。すると、彼は次のように話はじめた。

「僕は、前には程窪の久平さんという人の子どもだった。そして、お母さんはおしづという名前だった。僕が5つのとき、お父さん(久平)は死んで、その後に伴四郎という人が、お母さんのお婿さんになってやってきた。伴四郎さんは、僕のことをとても可愛がってくれたけど、僕はその次の年、6つになったときに、疱瘡にかかって死に、それから3年たって、この家の今のお母さんのお腹に宿って、この家の子に生れたんだ。」

 勝五郎の話は、もちろん村中に広がった。そこで、庄屋多門伝八郎も放っておけなくなって調べ、それを翌年四月にはお上に申し上げることになったというわけである。

 小泉八雲(1850〜1904)が、初めて広く紹介した例である。八雲は、明治22年に来日、島根県の松江に住みついたイギリス人で、日本人娘小泉節子と結婚して、イギリス名ラフカディオ・ハーンを捨てて、日本に帰化した人である。東京大学や早稲田大学で教えるかたわら、日本の民話や伝説をいろいろと本に書き、外国に日本のことを広く紹介した人として有名である。「KWAIDAN(怪談)」は特に有名で、今でも。日本を知りたい外国人たちは彼の本をよく読んでいるそうだ。
 そしてこの話も、明治の昔(1897年)アメリカのボストンで『The Rebirth Of Katsugoro(勝五郎の転生)』の名で出版されたという歴史的いわくがあるものである。

 勝五郎は江戸末期の文化12年(1815)、武蔵国多摩郡(現在の東京都多摩地区)中村の谷津入りというところで、百姓源蔵の二男として生れた少年だった。また、勝五郎の生まれ変わりの記録は江戸時代の奉行所の公式記録の中に残されていて、お役所の公式記録の中に残された珍しい例でもある。八雲は友人の雨森氏から示されて紹介するのだとしている。
 またこの記録に関する一件書類は、当時の大名松平観山自身が記録に書き、その写しは、四十七士で有名な江戸品川の泉岳寺にも保存の為に納めたという。

 「これから書き下ろす事柄は作り物語ではない──少なくとも私の作り出した物語の一つではない。これは日本の古い一つの記録──或いはむしろ記録類系ともいうべきものを翻訳したのであるが、それにはちゃんと署名もしてあれば捺印もしてあり、その上この世紀の初期に遡っての日付さえ記入してあった。‥‥」(落合貞三郎訳 八雲全集による)

 この件は特に珍しい一件だったからだろう、大名松平観山がじきじきに中村に出向いて調べ、観山の署名付きの調査書もついている。大名がじきじき調査に出向いたというのだから、ちょっとした“大事件”だったにちがいない。観山は勝五郎の祖母つやなどから直接に話を聞いて調べたと書いている。中村の庄屋多聞伝八郎の調書は「この話はとても信じがたき話ではあります。しかし、私は役目としてこの話をお上の耳に入れるため、一件を調書にしたためお上に申し上げます。」という書き出しで始まっている。

 「勝五郎に関するいろいろな証言は、私の地内の住人たちによって、私の面前でなされました。そこで私は勝五郎の父源蔵を私の家に呼んで調べました。源蔵のいうことも先の住人たちのいうことと全く同じでした。このような信じ難き噂話が余り広く拡がるのもどうかと思い、信じ難きことながら、私は役目柄としてこのことをお上に申し上げます。」
 
 勝五郎の真剣さに両親は程窪の伴四郎という人物のことを、詳しく調べてみようと思ったが、彼らの生活は貧しく、その日暮らしに追われてなかなかその機会が無かった。そうこうするうち、いつも一緒に寝ている祖母のつやに、勝五郎は寝床の中で色々なことを話した。それは大体次のようなものだった。

 彼は「4歳の頃までは何でも憶えていた。でも、今では色々なことを忘れてしまった」と言ってから話した。「今でも憶えているのは疱瘡にかかって死んだことや、壷に入れられて丘の上に埋められたことなどだ(当時の風習では、死者は壷に入れられて葬られたという。また、このことから勝五郎は死んだ後のことも記憶していたことが解る)。丘に行くと、そこで地面に穴が一つ掘られ、人々はその穴の中に僕を入れた壷を落とした。ぽんといって落ちたよ。あの音は、今でもよく憶えている。それからどうしたのか良く判らないけど、僕は自分の家に戻った。そして、自分の枕の近くを離れずにいた。しばらくすると、老人──僕のお祖父さんらしい人だった──がやってきて僕を連れ去った。僕はお祖父さんと2人で歩いて行ったが何だか空を飛んでいるみたいな気持だった。二人で走った時は夜でも昼でもなかった。それはいつも黄昏時みたいな感じだった。暑くも寒くもなく、お腹も減らなかった‥‥」
 
 こうして勝五郎の話はつづくが、以下、簡単に要約しよう。勝五郎は老人と二人でずいぶん遠くまで行ったような気がしたというが、それでも自分の家の人々が話をしているのはいつも聞こえたという。かすかだったが自分の為に上げられる念仏の声も聞いたし、自分の仏壇に温かい牡丹餅をあげてくれた時には、その匂い嗅いだのを憶えているという。それから老人が自分をこの村(中村)に連れて来た。勝五郎によれば老人は何だか遠回りしてこの村に連れて来たような気がするという。そして老人はこの家(源蔵の家)を指差して言った。

「さあ、ここでお前は生まれ変わるんだ。お前は死んでから3年目になるが、今度はこの家で生まれ変わることになっている。お前のお祖母さんになる人は親切そうな人だから、お前がこの家に生まれ変わるのは大変幸福だ。 そういうと、老人はどこかへ消えてしまった。

 勝五郎はしばらく戸口の前の柿ノ木の下に立っていた。そして家に入ろうとすると、家の中から話し声が聞こえてきた。誰かが言っていた「お父さんの収入が少ないから、お母さんが江戸へ奉公に出かけなくてはならないだろう」 これを聞いて、彼はこの家に入らないことにして、三日ほど庭にいた。三日目になると結局、この家のお母さんが江戸へは出かけないことになった。そこでその夜、雨戸の節穴から家の中に入り、その後三日間は、まだかまどのそばにひそんでいた。そして、そのあとで初めてお母さんのお腹に入った。

 こんなことを話したあとで、勝五郎は祖母に次のようにいったという。
「この話はお父さんとお母さんには話してもいいけど、ほかの人には誰にも言っちゃいけないよ」
 このあと、勝五郎が前世の父久平の墓参りをさせろというので、つやが彼を連れて程窪を訪ねた。文政六年(1823)一月二十日のことだった。

 程窪村に入ると、祖母は、「お前の家はどこだったのか、あの家か、この家か」といくつもの家を指差してたずねたが、「どれも違う、もっと遠くだ」といいながら、彼は一軒の家の前にくると「ここだよ」と言って、その家にどんどん入って行った。

 祖母は、そのあとからこの家に入って主人の名前を聞くと「伴四郎」だという。そして、伴四郎と答えた人物に妻の名を聞くと「しづ」だと答えた。藤蔵という子がいるかと聞くと「六つのときに死んだ」との答えで、死んだ年齢も勝五郎の言ったのと合っており、勝五郎の言っていたことは、みな事実だったし、彼は行ったこともない程窪村の前世の自分の家を知っていたのである。

 勝五郎の転生に関する奉行所の一件書類には、関係者の氏名、年齢なども書いてあり、それによると、次のようになっている。なお、年齢はいずれも文政六年現在である。
 源蔵──勝五郎の父、姓は小矢田氏、当四十九歳、貧のため日夜籠を造って江戸で商売す。江戸居住中の旅宿は馬喰町相模屋という。
 せい──源蔵の妻、勝五郎の母、当三十九歳、かつて尾張家に仕へたことのある弓術家村田吉太郎の娘。吉太郎はその後尾張家を追われ浪人となった。
 つや──勝五郎の祖母、当七十二歳、若い時大名松平隠岐守の御殿女中だった。
 藤蔵──武蔵国多摩郡程窪村で六歳の時に没した。文化二年(1805)生まれで  年(1810)二月四日疱瘡にて死す。程窪村の丘上の墓地に葬る(年齢の数え方は今と違うので、藤蔵は勝五郎のいうように六歳のときに死んでいることになる。しかし、死んで三年目に生まれ変わったという点は、勝五郎の記憶とは少し違っている)。
 伴四郎―─藤蔵の養父、姓は鈴木氏、当五十歳。
 しづ──藤蔵の実母、当四十九歳。
 久平──藤蔵の実父、文化六年(1809)藤蔵五歳(当時の数え方による)の時死す。
 勝五郎の記憶で若干の違いがあったのは、死んで三年目に生まれ変わったというところだけだが、われわれの普通の記憶でも、このくらいの間違いはざらにあるわけで、問題にする程のものではないだろう。

 また、勝五郎は祖母つやと初めて程窪村を訪ねたとき、前世の家で、その家の向かいに在ったたばこ屋を指差し、前にはここにたばこ屋はなかったといい、伴四郎の家の植木についても、この木は別の場所に在ったとかいって、前世の記憶を披露してみせたが、それはいずれも正解だった。生まれ変わりなどということに、疑念をもっていた伴四郎も、これですっかり勝五郎のいうことを信じるようになった。

 勝五郎は程窪村を訪ねる前に、前世の家の様子や、前世の両親や伴四郎の体格など、体の特徴についても話しており、それらはいずれも正解だったことが、祖母の程窪村訪問で確かめられたのだった。この後、彼は伴四郎の家に引き取られたが、村人たちは彼のことを藤蔵そっくりだと言っていたという。

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