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ニーチェ図鑑コミュの超人

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第二章 「超人と自己超克」

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「人間は、動物と超人のあいだに張りわたされた一本の綱なのだ、 − 深淵のうえにかかる綱なのだ。
渡るのも危険であり、途中にあるのも危険であり、ふりかえるのも危険であり、身震いして足をとめるのも危険である」(4)

ニーチェは人間と言うものを中間者的な存在としてとらえた。人間は超克されるべき存在であり、その超克された姿をニーチェは「超人」と名づけた。

「超人は大地の意義なのだ。あなたがたの意志は声を発して、こう言うべきだ。『超人こそ大地の意義であれ!』と。」(5)
超人とは「神が死んだ」この世の中において神に取って代わる存在として描かれている。しかし神に取って代わる存在でありながら、超人は神的な超越的性格は一切持ち合わせてはいない。超人を「大地の意義」と言う現世的存在としてニーチェは描き出している。また超人は他者を救うべき存在としては描かれていない。全人類個々が自己超越を行い、全員が超人になる、これがニーチェの超人論の理想なのである。

人が超人となるためには「精神の三段の変化」を実行せねばならない。精神の三段の変化においては、精神はまず駱駝の精神でなければならない。駱駝の精神とは耐える精神であり、「汝なすべし」といった命令に畏敬の念をそなえつつ、「重く苦しいもの」を背負って歩む精神なのである。次に、「汝なすべし」と戦い、自由を手中に収めるため、駱駝の精神は獅子の精神へと変化せねばならない。この精神は、己自身の支配者となるべき強い意志を持った精神である。「汝なすべし」に勝利し、自由を手に入れた獅子の精神は次に創造する精神である幼な子の精神へと変化せねばならない。幼な子は無垢であり、忘却であり、新しい始まりであり、ひとつの遊戯である。その精神は「我はそう欲す」という純粋に能動的な衝動のみによって遊戯し、新しい価値を創造するのである。これにて精神は最高の境地に達する。

しかし三段の変化はここで終わったわけではない。幼な子の精神は没落し、再び駱駝の精神とならねばならない。なぜなら、超人とは常に自己を超克すべき存在であり、自分で新しい価値として創造したものをも破壊し、更に新しい価値の創造へと向かっていくべき存在であるためである。それゆえに超人と幼な子の精神とを同一視しりのは誤りである。超人とは、常に自己超克をめざし、「精神の三段の変化」を繰り返す者のことを言うのである。面白いことに、ニーチェは精神の変化について、少しずつ次第に変化するものではなく、ある瞬間に突然変化するものだとしている。『ツァラトゥストラはこう言った』には「瞬間」と言う言葉が大きな意味を持って使われることが多いが、「精神の三段の変化」においてもまさにその通りである。

さて、超人の意義とはいったい何なのであろうか。それは自己を超えた偉大なものを生むために自己を犠牲として没落することである。これはまたニーチェのいう「自己超克」の意味でもある。

そして『ツァラトゥストラはこう言った』における超人の意義、それは「等しきものの永遠回帰」の思想を克服するところにある。

コメント(1)

ニーチェは「同じものが永遠に回帰する」という思想を克服されるべき考えとして位置づけていたのではなく、まさにこれこそが自己の哲学の要としてニーチェの哲学いっさいを活気づける根本思想だと位置づけていたのではないでしょうか。

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