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自由の幻想コミュの仏教型自由とアメリカ型自由

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日本語の会話はややこしい。
いや、最近の世界の会話はややこしい。
何がややこしいのかというと翻訳の問題である。
会話を構成しているものの一つに「言葉」がある。
言葉とは文化的歴史的な積み重ねがあって、そこに成立する。
仮に使っている本人が、そういった積み重ねを知らなくても言葉は発せられ会話は成立する。
しかしそのような会話をじっくりと傍聴すると、実はまったく食い違っていたり、対話としては成立していなかったりする。
以上は雑感であり、このような認識はこのややこしい世界で会話をする上での良心であると私は思う。

このコミュニティでは「自由」についての対話が主たる目的なので、そのことについて思うところを書かせてもらう。

自由とは何か?大変難しい質問だが、もともとは仏教用語の「自由自在」を、かの福沢諭吉翁がLIBERTYという英語を翻訳する際に流用した。
なので「自由」とは何かと考えることとFREEDOMとは何かを考えることは分けて考えるべきである。
また私たちの社会で頻繁に使われている自由は既に100年以上の社会的な積み重ねがあるものなのでLIBERTYとは少し違うと考えても良いかも知れない。

今回は、私たちの社会で頻繁に使われている自由を「自由」とLIBERTYと比較して考えてみたい。

「自由自在」とは仏教用語であり、簡単に言えば「自らに由って自ずと在る」ということだろう。
どういう事かといえば「他人の意見やしがらみに惑わされないことが、生きるという事」とでも言い換えることができる。
「自由自在」は仏教がまだ初期のころからある考えかたであり、世捨て人である仏陀の考え方を色濃く投影しているとも言えなくもない。
つまりは、複雑な社会システムとの共生は一見生きているように見えるが、それは社会に生かされているということなのだよ、と仏陀は言いたかったのだと思う。
仏教で言う「自由」とはそんな考え方である。

一方、LIBERTYとは何かというとこれは一言では語れない。
宗教・法律・文化の様々な面で様々な使われ方がされている。
そこでコミュニティ紹介にもあった「アメリカ型自由」という意味でLIBERTYを考えてみたい。
アメリカと言う国はイギリスからの独立戦争を経て、国家社会としてのLIBERTYを確立した国である。
従ってアメリカのLIBERTYというと「勝ち取った権利」というニュアンスが歴史的に非常に強い。
しかし、民主主義が成熟しきった昨今の状況において、”何者か”からLIBERTYを勝ち取ることはもはや難しくなっている。
そこで、社会としてLIBERTYを擬似的に供給するシステムが必要になった。
それが資本主義と機会均等という考え方ではないだろうか。
「アメリカ型自由」というのは資本主義というルールに則った競争の勝者に贈られる賞品であり、
「アメリカ型自由」は資本主義という競争が「フェア」であることを証明している。

以上を比較すると「自由」とは自身をシステムから切り離すことを指向しており、「アメリカ型自由」はシステムを円滑に運営するための手段、若しくはシステムそのものである。
こうして並べてみると同じ”自由”でも正反対の考え方に見えないだろうか?

では「私たちの社会で頻繁に使われている自由=私たちの自由」とは何か。
それについては改めて別の方のご意見を伺えればと思う。

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