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【写真】ドイツ語圏 珠玉の街コミュのドイツの街角からドイツ史を考える

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「ドイツ語圏の街の特徴は?」⇒「ドイツの街角からドイツ史を考える」へ管理人にてタイトル変更いたしました。
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 と考えてみると、まずドイツ語とは何かがよくわからなくなってきた。
 第一の疑問として、DeutscheとGermanischはどうちがうのか?
 前者はドイツ語読みで後者は英語読みなどと一行で片付けられる場合もあるがとんでもない誤解である。この話は長くなるのですっ飛ばしてこの駄文ではGermanischという観点からのドイツ語を話す街について考えてみると…

 サッカーではよくゲルマン魂なんていわれるが…ゲルマン魂?なんだかよくわからないような。
 もっとも語源はライン川をはさんでにらみ合っていたケルト人(ガリア人)が対岸の野蛮人を総称した言葉らしく、ゲルマン人自身は各部族に分かれて同一民族であるという意識も自分たちを表す語彙もなかったというのがいかにもドイツ人らしいというか。

 ドイツ語圏の街の特徴を考える場合、まずは隣の言語圏、即ちスラブ圏とラテン圏との境界でどのように街の特徴が変化しているかということを個人的な経験から。
 その前にドイツ語圏同士ではほとんど国境は感じられない。ミュンヘンからザルツブルグまで汽車で行っても雰囲気は全く変わらないし、むしろバイエルンの特殊性は低地ドイツよりオーストリーの方にはるかに共通性を感じる。またオランダとの国境の小さなドイツの村W….にしばらく滞在していたとき、国境を越えてみたが雰囲気は全く変化が感じられなかった。

 ラテン圏、特にフランスとの境界を考える場合、フランスとゲルマンはどこが違うんだろう?
 現代フランスを形成したフランク族はもともとゲルマン族の一派…というかゲルマン族を代表する大勢力ではなかったのか? それがいつの間にラテン人の代表のような顔をして本家本元のイタリア人も見下すほど傲慢になったのか? 征服民族が被征服民族の言語に同化するというのは征服者がごく少数の場合に支配権を確立するためによくあるが、フランスの場合それはあてはまらない。おまけにさらにその下にはゲルマン人に散々な目にあわされたケルト人としての顔があって、フランスとドイツの対立を複雑なものにしている。

 ドーデの“最後の授業”はあまりにもフランスよりの解釈だとドイツ贔屓(第二次大戦の同盟国だからね)の私としてはかねてから憤慨していた。仕事仲間にアルザス人(即ち国籍はフランス人)がいて、外見や気質は典型的なドイツ人なものでますます確信が深まった。
 しかし実際にザールブリュッケンからライン川を越えてアルザスへ、W…やF…の小さな街を経てストラスブールへと入っていくとその先入観は全く間違っていたことがわかった。ザールの機能的で規律正しい世界から場の空気が一変して…ここは完全なフランスである。街並み、モード、料理、酒から通行人の表情までフランスを主張している。顔立ちはそういえばややゲルマンがかっているが。ドーデの時代にはそんなことはなかったはずで、子供たちは学校から帰るとドイツ語を話しドイツ式に生活していたはずである。この変化の早さは何だろう? 情報化時代は民族のアイデンティティーも簡単に変わってしまうのか?

 次にスラブ圏との境界はどうなっているのか?
 西ドイツとチェコスロバキア(今はどちらの国もなくなってしまった。かたや合併かたや分裂で)の国境地帯のF….という街での経験の話を次回に。

 ...などと知ったかぶりをしたが、実を云うと私自身はドイツ語を話せないし読めない。少なくともここ20年は。
 はて第二外語はドイツ語だったはずなのだが。
 100年以上にわたってその世界の最高権威だったあるドイツの学会誌が、時代の流れには逆らえず使用言語をドイツ語から英語に変えたとき、ほっとすると同時に何か物寂しい気持ちになった。

コメント(108)

Stephen Cabot wrote:
>カソリックもオルソドックスも意味は同じです。

 どういう文脈でおっしゃているのか、もう少し敷衍していただけませんか。
「意味」というのは、なにをさしておられるのですか?
スウェーデン人とスウェーデン語の運命は、中国を征服した満州族を思い出させますね。万が一、豊臣秀吉が明を滅ぼしたりしていたら、日本もそうなったのかもしれません。

ところで、16世紀にはドイツ語をほとんど使わないカール5世という神聖ローマ皇帝が存在しました。18世紀になっても、ドイツ各地の宮廷ではフランス語のほうが優勢というところがありました。17世紀にスウェーデンがドイツを統一した場合、言語面ではまた別の想像も可能かもしれません。たとえば、現代のインドネシアあたりのように、交易のための商業言語が新たな共通語になるなど(バルト海の商人達の共通言語が何だったか考えていますが、浮かびません)。

でも、やはり「プロテスタント帝国」での一番高い可能性は、ルター訳聖書の言葉=ドイツ語の公用語化でしょうか。すると、カトリック連合はラテン語を再び公用語にして、ラテン語とドイツ語というヨーロッパの言語対立が起きる。ドイツ語を話すカトリック達は、自分たちがローマ人だという意識を強め、ゲルマン的過去を忘れたがる。そこから、カトリック的国民史と国民文学が生まれ、などなど…。

写真は、ゲルマン的、プロテスタント的ドイツ国民史の舞台であるヴァルトブルク城です。
ziegelhausさん

 あらゆる宗教は、分派が発生しそれぞれが我こそは正統と主張するものだし、そうなってこそ競争原理?が働いて活性化するものだと思いますが…

 日本語ではカソリックは普遍的な・公的なと訳されるので公教会、オルソドックスは正統的な真正のと訳されるので正教会と云われる場合が多いですが、どちらもまあ似たような意味でしょう。
 もちろん神学的には深遠な意味があるのでしょうが、そのあたりはすっ飛ばしまして(ここに詳しい方はぜひ書き込んでください)、俗物的に派閥抗争の観点から何に対して普遍的な・正統的なと主張しているのか、要は普遍的でないもの・正統的でないものは何だと云いたいのかと考えてみますと…

 カソリックにせよオルソドックスにせよ、あるときから突然他の邪宗?と区別するためにこう名乗ったというものではなく、自然発生的にこう呼ばれる(呼ぶ)ようになったのでしょうからその時代や背景によって、何と区別したかったのかは違うと思います。そういう意味では私が以下に述べる意見もそうではないという反例はいくらでもあげられると思いますが、私なりに理解しているところでは…

 カソリックはすべての民衆に普遍的なという意味でしょうから、最初はユダヤ人だけの宗教であるユダヤ教や各人・各都市によって気に入ったものを拝むグレコローマンの多神教に対するアンチテーゼだったと思いますが、すぐにキリスト教史初期の諸異端派に対する正統性を主張する言葉に変りました。
 唯一の正統派なのですから何も形容詞をつけることはないのですが、コンスタンチノープルとローマの勢力争いが顕著になってくると、ギリシア人曰くのカソリック、ローマで云われているところのカソリックということでグリークカソリック・ローマンカソリックと、おそらくは対立する他派が限定する形容詞をつけて呼んだのだと思います。
 グリークカソリックという呼び方は今でもありますが、現在はどちらかというとグリークオルソドックスという呼び名の方が一般的です。このオルソドックス−正統的というのは明らかに(ローマ)カソリックに対する正統性を意識していると思います。

 日本ではカソリック(及びその分派としてのプロテスタント)が圧倒的に優勢ですからどうしてもカソリック的史観が中心になってしまうので、オルソドックスはカソリックから分離独立したなんていう書き方のものが多いですが、これは明らかに逆であって皇帝がいるコンスタンチノープルの方が圧倒的に権威があったのに対して、これに反発したローマの側が分離独立したという方が実態に近いと思います。
 しかしながらコンスタンチノープルは東ローマ帝国がふるわなくなるにつれだんだん威信が低下し、特にオスマントルコに圧迫されるようになってからはローマに対して妥協的な態度をとらざるを得なくなったため、ローマの方に権威があるようなイメージが醸し出されてきました。オルソドックスというのはそういうイメージに抗して、いや歴史的にはコンスタンチノープルの方が正統派なのだという主張が込められていると思います。

 考えてみればローマの権威は何を根拠にしているのか?といえば聖ペテロ(キリスト教組織化の第一功労者であるとはいえ、やはり使徒の一人に過ぎない)の殉教の地でそこに彼を記念する大聖堂が建っていて、その建物の主は彼の後継者だと自称しているという程度のあいまいなもので、ローマ帝国をバックにした大組織であるコンスタンチノープルの権威とは比較にならなかったのではないでしょうか。ローマといえばローマ帝国の壮麗な中心というイメージがありますので、ローマ教皇こそ昔からキリスト教徒のトップであったと思いがちですが、キリスト教が盛んになった頃は西ローマ皇帝すらローマから逃げてしまった一地方都市となっており、その都市の総主教という程度の存在がローマ教皇であったと思います。といっても当時は西方は東方に比べるとろくな都市がなかったため西方を代表することには間違いないですが。

 ローマ教皇が今日のような権威を持つに至ったのはゲルマン人・ドイツ人と組んで、彼らの圧倒的軍事力をバックにしてから後のことだと思います。
 もちろんゲルマン人・ドイツ人もまたローマ教皇の権威を利用してローマ皇帝と名乗ったわけで、お互いの利害関係がローマの地位を押し上げることで一致したといいますか、ローマという名前がドイツ史の中で呪縛的な意味を持つのもそこに起因するのではないでしょうか。


焼きそうせいじさん

 ゲルマン的・プロテスタント的…タンホイザーとルターというドイツ国民史の精華の舞台というわけですね。となるとやはりバルト・ドイツ帝国の首都はこのあたりがふさわしかったかも。
 それにしても旧東ドイツ地区というのは何だか地味な?イメージが。もう少し歴史的な部分を観光客にアピールする姿勢があれば日本人にも人気が出るのではないでしょうか。

 豊臣秀吉が明を滅ぼすというのは結構可能性があったシナリオのような気が。これを戦略的に無茶な出兵というのは戦後教育・史観に影響されすぎじゃないかな。少なくとも当時の日本は満州族よりははるかに強力でしたし、呉三桂のような内通勢力がちょうどいい時期に出てくれば一気に…というのは充分ありえたと思います。
 もっとも日本の中国化が始まるはるか前に、その内通勢力との内部抗争に疲れてさっさと手を引くことになりそうです。満州族は自分たちの住む荒涼とした大地に比べれば中国は魅力的に感じたので粘りましたが、日本人にとってはああいう地勢は執着するほどの魅力はないかと…
>70番の焼きそうせいじさんへ
「バルト海の商人達の共通言語」についてですが、(耳学問ですが)中世においてバルト海一帯に覇を唱えていたハンザ同盟およびその取引先の国では、中低ドイツ語が使われていたそうです。この言語は、今の低地ドイツ語の古いやつで、そういうわけでオランダ語にも近いわけです。というのも、オランダ語が低地ドイツ語から派生したものなので。

この低地ドイツ語は、ルター聖書を通じて高地ドイツ語が書きことばとして普及した結果、今では一地方でのみ話されています。
アルフォンソさん

ご教示ありがとうございます。そうですね、それが一番ありそうですね。

Stephen Cabotさん

スウェーデン語の話が出ている折も折、合唱団の練習に出かけたら、スウェーデンの民謡か何かの楽譜がまわってきました。タイトルだけ原語で、あとはうちの指揮者が訳したそうです。が、スウェーデン語だけでは何が何だかわからず、ネット上にあった英訳に頼ったとか。タイトルを見ても、たしかにドイツ語からは遠そうです。オランダ語やルクセンブルク語みたいに、ネーションの独自性を打ち出すために方言程度のものを国語化した場合とは、やはり異なりそうですね。ちなみに、フランス語ではそうした動きがない(ベルギー、スイス、ルクセンブルクで使われている国語としてのフランス語は、パリのそれと同じ)のも、ドイツ語との違いか。

写真はアイゼナッハのルター像と、バッハとルターが200年違いで通っていた「超名門ギムナジウム」の入り口です。
 ドイツ語・英語は西ゲルマン語なのに、北欧系は北ゲルマン語ということですから、英語・ドイツ語の違い以上にスウェーデン語は違うということでしょうね。私も北欧へ行ったときは全く理解できませんでした。
 外見?はどちらかというとドイツ人と北欧人が似ていて、英国人はちょっと違うという印象があるのにちょっと不思議ですね。やはり英国はかなり混血しているからか。

 オランダ語はどちらかというとドイツ語の一方言というイメージがあり、このコミュに入ったときはオランダも当然ドイツ語圏なのだろうと思っていました。サクソン人(ザクセン人)はこのあたりを通過してブリテンに侵攻したのだからドイツ語と分化する期間はそんなに長くなかったと思うんですが、何でこんなに英語とドイツ語は違うんでしょうね。
 同じ西ゲルマン系だといわれても、私にとっては大差でかなり苦労ました。それも結局報われない苦労を。
30年戦争とドイツ統一(承前)
 
 ワレンシュタインの評価は憂国の大政治家・軍人から強欲・残忍な傭兵隊長までピンキリであり、また故国であるボヘミア(チェコ)が現在ではスラブ人の国になっていることもあって民族解放の英雄というどう考えても見当外れの評価まである。
 
 傭兵部隊といえばかつては古代ギリシアが本場であり、ギリシア人傭兵隊はオリエントから地中海をまたにかけて大活躍したが、これはアレクサンドロス以前のギリシアに強大な統一勢力が存在しなかったからであろう。そして30年戦争当時のドイツもまさに小国分立で傭兵の本場になっていた。
 傭兵というと国民軍が当り前になった現代では相当うさんくさいイメージがある。しかしながら専ら自分自身のために戦う傭兵こそ、戦況を冷静に判断し宗教的な熱狂などには踊らされず客観的な落しどころを探る能力が求められている。
 そして自分のために戦うのであるから常に損害を最小限に抑えなければならず、これは戦死すれば天国へ行けると鼓舞する雇い主の側からすると裏切り行為のようにも見えるだろう。
 そして傭兵の常として敵を徹底的に壊滅させるのを避けるという面があり、これは韓信曰くの“狡兎死して走狗煮らる”という状態を避けるための保身的態度である。要は敵を徹底的にやっつけて戦争がなくなれば傭兵は失業してしまうのである。

 ワレンシュタインとスウェーデン王グスタフ・アドルフは当代きっての名将として皇帝(カトリック)軍と新教軍を率いていたが、特にワレンシュタインの側にあまり戦いたくないという様子が見える。グスタフ・アドルフ以外(例えばデンマーク王クリスチャン4世)を相手にするときは徹底的に圧勝するのに、グスタフ・アドルフが相手だとあまり正面衝突せずに妥協の余地を残しておこうという態度なのである。
 これを傭兵特有の保身と見るか、それとももっと深い読みに基づいた戦略と見るかであるが、ワレンシュタインの中にはその両方の要素が矛盾なく共存していた気がする。

 ワレンシュタインの個人的な最終目標はおそらくボヘミア王になることではなかったろうか。そしてハプスブルク家がボヘミアを一傭兵隊長に委ねるわけはないので、ボヘミア王になりたければ新教側につくかあるいは両者の緩衝地帯のような役回りを果たすかしかない。ワレンシュタイン自身は新教徒の一族出身で、皇帝に仕えるためにカソリックに改宗したようなものであるから、宗教に対するこだわりはあまりなかったであろう。またボヘミアは後のハプスブルク家の統治が続いたことにより現在ではカトリック地域になっているが、当時はカソリック・新教の勢力は拮抗していた。

 そして自分自身の利益だけでなくドイツの将来を考えた場合にも、ハプスブルク家を中心にカトリックでドイツを統一するというのは無理があり、これを強行すれば戦渦が広がるだけだと考えて別の形の体制を模索していたのではないだろうか。
 スウェーデンによるドイツ統一というのは、ボヘミア王としてバルト・ドイツ帝国に参加するかあるいはハプスブルク帝国との緩衝地帯になるかは別にして、ワレンシュタインにとって大いに食指をそそられるストーリーだったと思われる。

 しかしながらまず第一の誤算はグスタフ・アドルフの戦死であった。ウィーンを目指して進軍中だったグスタフ・アドルフはワレンシュタイン軍接近の報を聞いて引き返し、リュッツェンで両軍は対峙する。そしてこの戦いで自ら危険な場所に身を置くのを好む勇敢さが裏目に出て流れ弾にあたり、若きスウェーデン王は戦死してしまう。

(この稿続く)
30年戦争とドイツ統一(承前)

 グスタフ・アドルフは戦死したものの、スウェーデン軍の士気は高くリッツエンの会戦は結局スウェーデンの勝利に終わる。
 ワレンシュタイン側にそれほどの戦意がなかったためであろうし、彼はこれ以降ますますスウェーデン・新教徒側との和平を模索するようになる。
 これは皇帝側からみるとはっきりした裏切行為であり、ほどなく皇帝から送り込まれた刺客によりワレンシュタインは暗殺され、30年戦争の主役二人は相次いで舞台から消えてしまう。
 その後もだらだらと戦いは続き、ついに1648年のウェストファリア条約で30年の戦乱は終結。新教徒の判定勝ちというべき内容で北ドイツ一一帯は新教徒勢力が支配し、ハプスブルク家は大きく後退。ドイツは人口が激減した荒廃状態で小国が林立して近代化にとり残されることに。グスタフ・アドルフ戦死以降、スウェーデンの軍事・政治を支配した大宰相オクセンシェルナは巧妙に立ち回ってスウェーデンはポンメルン地方をはじめバルト海南岸を獲得し、バルト帝国という名にふさわしく大国化していく …というところが一般的な評価であろうか。

 しかしながらスウェーデンはこんなもので満足してはいけなかったのではないだろうか。グスタフ・アドルフはゴート起源説(かつてヨーロッパを席巻したゴート族の末裔こそがスウェーデン人、ヴァーサ家であるとする)の信奉者で、明らかにハプスブルク家に替わってドイツ皇帝・ローマ皇帝になることを目指していたであろう。これに対してオクセンシュルナはリシュリューと並ぶ大宰相ということになっているが、やはり妥協が本領の“政治家”に過ぎず目先の利にとらわれて大局を見失ったと思う。
 プロイセンによるドイツ統一のときには諸列強の体制が固まっていた時代であったからビスマルクのような妥協・根回しを得意とする政治家が本領を発揮した。しかしながら30年戦争時のような混沌とした時代においては理想論をかざして目的に向かって突き進むがむしゃらな力が必要であったと思う。
 スウェーデンは千載一遇のチャンスを逃してしまった。グスタフ・アドルフとワレンシュタインという大きな構想を描ける両者を失ってしまってはやむをえなかったのかもしれないが… 

 スウェーデンの弱点は人口の少なさであり、これはドイツ皇帝として諸侯に君臨する上では大きな問題とはならないが、領邦型国家として周辺大国と張り合うには致命的欠点となる。
 その致命的欠点はすぐに顕在化する。30年戦争以降のドイツ情勢はロシアの台頭につながり、スウェーデンはこのロシアとぶつかることになる。

(この稿続く)
30年戦争とドイツ統一(承前)

 ロシア・バルチック艦隊といえば、日露戦争における日本海海戦での斬られ役であるが、結果はともかくとしてはるばるバルト海から大艦隊を喜望峰まわりで日本まで回航してきたのは空前絶後の大作戦といえるだろう。
 ロシアが内陸の一後進国から大国にのし上がったのはピョートル大帝の時代である。そしてピョートルが一番こだわったのはバルト海に進出して不凍港に海軍根拠地を持つことであり、最後には伝統あるモスクワを棄ててバルト海岸に自分の名前を付けた新しい都市を築いて首都を移してしまう。
 そしてその時代は30年戦争の勝者であるスウェーデンが“バルト帝国”として全盛期を迎えていた。

 スウェーデン・ロシアの開戦が避けられなくなったとき、周辺諸国のプロイセン・ポーランド・リトアニアはすべてロシア側についたが、スウェーデンはそれらをすべて戦争や外交交渉で黙らせて、ついに両国の決戦となった。

 当時のスウェーデン王はカール12世。グスタフ・アドルフ以上に冒険的なカールは大胆にもウクライナに進出し、ウクライナコサックの同盟軍と合流後、一気にモスクワを陥すべく北上する。
 しかしながら待ち受けるピョートルにポルタヴァの平原で完敗し、この一戦でスウェーデン軍は崩壊、2度と立ち直ることはなかった。

 ポルタヴァ以降、ロシアは強国として成長しついには赤いローマ帝国ともいえる世界に影響を及ぼす大国になっていくのに対し、スウェーデンは政治的・軍事的には没落し、平和で穏やかな小国として落ち着いてしまう。もっともどちらの国民が幸せかは別であるが。

 この戦争で一番の重大な結果は、プロイセンとロシアがこれ以後概ね友好関係を保つようになったことだと思う。そしてこれは後のドイツ史、ロシア史に大きな影響を与えることになる。
 プロイセンはドイツ騎士団の伝統から東方殖民に力を入れる国であったのが、これ以降は西へ発展してドイツ統一を目指すようになる。その一方でロシアはスラブ人の盟主と目されるようになりプロイセンとの良好な関係を利用して同じく西へ発展していく。
 おそらくプロイセン、そして後の統一ドイツはロシアを見くびっていたのだろう。ロシアやスラブ人などは少々強大になっても後で何とでもなると思っていたのかもしれない。そしてその結果が両世界大戦につながっていく…

 ここで30年戦争に戻って、もしスウェーデンによるドイツ統一がなっていたら…
 スウェーデン人はゴート族やロシアの起源となったバイキングからも伺えるようにバルト海から黒海へのルートに執念を持つ民族である。
 カール12世がウクライナと同盟を結んだのも突飛な行動ではなく、かつてのドニエプルを支配した歴史的背景があってのことであり、ウクライナもまたルーシの本家としての伝統をスウェーデンと共有しているという親近感を感じていたであろう。
 したがってスウェーデンを盟主とするドイツは主として東に進むためロシアの台頭はなかったであろうし、ドイツからはじき出されたハプスブルク帝国ももっと早い時期から東に進むであろうから、ゲルマン人とスラブ人の関係は今日とは全く違ったものになっていたであろう

(この稿続く)
30年戦争とドイツ統一(承前)

 ワレンシュタインは民族的にはドイツ人(ゲルマン人)ではなくチェック人(スラブ人)であるため、チェコでは彼を民族解放運動の英雄とする歴史観があるようだ。要はハプスブルク家支配の暗黒時代のボヘミアでスラブ人を解放するために闘ったが志半ばに倒れた悲劇の英雄というわけである。
 チェコは第二次大戦後、“民族浄化”によりドイツ人を追放してスラブ人の国になったためこんな歴史観が出てきたのだろうが、プラーグが世界の文化の一大中心として栄えたのはまさにそのハプスブルク家支配の時代であり、ワレンシュタイン自身も自分が異民族であるという意識はなかったろう。ボヘミアにおいてはドイツ文化とスラブ文化はうまく融合していたのである。

 スウェーデンにより統一されたドイツが東に進出していけば、ロシアの台頭はありえず、現在の東欧・中欧全体が当時のボヘミアのような状態になっていたのではないだろうか。
 またここ200年ほどの世界の一番の不安定要素といえるゲルマン人とスラブ人の対立は全く違った様相となり、世界の歴史は根本的に変わっていたであろう。
 そして現実の歴史がそうならなかった理由はいろいろあるだろうが、やはり一番大きかったのはワレンシュタインの暗殺であったと思う。

 暗殺者の直系の子孫という英国人とはパブで大いに話が弾んだ。
 彼も私もエール党であり、これが本当のビールの味ということで意見が一致したが、最近の若い英国人はあまりエールを飲まず普通の?ピルスナータイプのものを好むようになり、昔からの酒飲みは嘆いているらしい。
 これは考えてみればワレンシュタインを暗殺された復讐として、チェコが発祥の地であるピルスナーが英国の伝統文化?を破壊しているといえるだろうか。
おひさしぶりです。2月1日に投稿したその直後から、身内の変事のために日本へ2往復したりして、書き込みができませんでした。

日本へ急遽飛ぶのに使ったのがフィンランド航空でしたが、機内やヘルシンキ空港で、フィンランドではフィン語とスウェーデン語を今でも併用していることを知りました。しかしながら、気候、地勢からしてスウェーデン本国だけではとても多くの人口を養えませんから、少数の傭兵隊が戦争をしていた時代ならばともかく、国民国家がぶつかりあう18世紀後半からは、スウェーデンという枠を解体でもしないと、やっていけなかったでしょうね。

ヴァレンシュタインは、ウィキペディアのドイツ語版が異様に詳しく、面白く読んだのですが、彼を「チェコ人」とする見方もあることを、そこでも確認しました。幼少期にはドイツ語が上手ではなかったとも書かれていました。もっとも、近代以前の人々に「民族籍」をつけるのは、カール4世でさえチェコ人にされてしまったような、今から見れば微笑ましいような揺籃期ナショナリズムの所産らしいですけれど。

ビールについて言えば、私はチェコのピルスナーを地上最高の飲料と思っております。ただ、プラハのパブに行っても、面白いヒネた話をしてくれるチェコ人が、もうほとんどいなくなってしまいました。

”【写真】ドイツ語圏 珠玉の街”というコミュニティなので、なるべく写真をつけようと思っていましたが、プラハの酒場の写真が見つかったので、追加します。老舗ビアパブの「金の虎」です。2006年3月撮影。
http://www.uzlatehotygra.cz/

焼きそうせいじさん、お久しぶりです。

 ワレンシュタインは名前からしてドイツ人だとばかり思っていたのですが、チェック人だという説の方が強いことは最近知りました。ドイツ文化にどっぷりつかったチェック人の一族がドイツ風に改名したのでしょうか。
 もっともいわれるように当時は“民族籍”なんてものはあまりこだわっていなかったので本人はあまり気にしていなかったでしょうね。

 最近の民族自決とか、民族国家への流れというのは、文化的にはあまりいい方向ではないと思います。やはり多民族が共存して色々な要素が交じり合ってこそ新しいものは生まれるものだし、そういう意味では当時のボヘミアはボヘミアンという言葉が生まれたくらいで異邦人が暮らしやすい自由な雰囲気に満ちていたのだと思います。

 スウェーデンというのは他国を支配してもあまり憎まれない不思議なところがあります。30年戦争ではドイツで大暴れしたのにドイツ人からはあまり(少なくとも皇帝軍ほどは)恨まれていません。同じバイキングでもノルウェーやデンマークのバイキングは征服・侵略というイメージがありますが、スウェーデンバイキングはロシアの建国時でも征服したのではなく調停者として招かれた(一種の神話かもしれませんが)とされています。

 フィンランドに少数民族としてスウェーデン人がいるのもかつてスウェーデンがフィンランドを支配していたからですが、現在はもちろん当時も大きな紛争は起きていません。グスタフ・アドルフの最精鋭部隊はフィンランド人部隊であったことは有名で、王はフィンランド人に全幅の信頼を寄せていました。まあこれも民族主義的な観点からはフィンランド人はスウェーデンによって侵略戦争に駆り出された被害者だとということになるのかもしれませんが…
 といっても微妙な感情の齟齬はあります。私は仕事で短期間フィンランドにいたのですが、相手が純フィンランド人かスウェーデン系かが判るまで、政治・歴史の話は用心してしないようにしていました。混血が進んでいるので顔を見てもよくわかりませんが、名前を聞くとどちらかはすぐにわかります。もっともオリンピックなどでよく見るスキー選手はアジア的テイストが混じった顔立ちの人が多くこれが本当の?フィンランド人に近いのだと思いますが、これは有名スキー選手というのは田舎の山奥の出身が多いので混血の度合いが少ないからでしょうか。
 なおフィンランドの全人口でスウェーデン系は7−8%とされていますが、ヘルシンキ近郊や研究・技術系の職種はスウェーデン人が多く、私が仕事で会った方の80%近くはスウェーデン系でした。

 スウェーデン人のこういう一種の徳のような部分がポルタヴァ以降はさっぱり発揮されなくなったのは惜しいですね。やはり30年戦争でドイツの支配権を握りそこなったのが最後のチャンスだったか…

>チェコのピルスナーを地上最高の飲料と思っております。
 ここだけは意見が違うようですね。
 私に云わせれば、ピルスナーの出現からビールの堕落は始まったような気がします…確かに完成度が高いので世界中が飛びついたのは納得ですが、酒は未完成の荒々しさが魅力なのではないかと…
ドイツとゲルマン

 このトピックの最初に戻って、ドイツとゲルマンにについて考えてみると・・・現在の日本ではドイツといえば現在のドイツ国のことを指し、ゲルマンといえばゲルマン民族のことを指すが、この区別は極めてあいまいである。
 中学で英語を習い始めたとき、ドイツはGerman、Germanyと教わったように、英語圏ではゲルマン(ジャーマン)という言葉は80%程度がドイツのことを指し、ゲルマン民族のことを指す場合は20%程度であろうか。
 これに対しドイツ語を習い始めると教科書にはドイッチェ(Deutsche)と書いてあったので、何だ日本語の読み方の方が現地読み?に忠実だったのかと思ったものである。なお日本語の“ドイツ”というのはドイッチェのオランダ語発音だそうであるが、オランダを意味するダッチとドイッチェとは全く語源が同じというのが皮肉である。またドイツ語でもGermaneという言葉はあるが、この場合は90%程度がゲルマン民族のことを指し、ドイツのことを指す場合は10%程度だろうか。

 おまけにドイツといえば現在の領域の国家してのドイツだけでなく、ドイツ語圏、過去の神聖ローマ帝国の領域、大戦終了前のドイツ人・ドイツ文化が支配的だった領域といった様々な領域が考えれる。またゲルマン民族といっても現在ゲルマン系の言葉を話す連中だけに限定するべきなのかそれとも言語的にあるいは文化的にラテン化してしまった場合はどうするのかといった曖昧さが残る。

 そこでそれぞれの語源を調べると、まずゲルマンの方ははっきりしており、これは紀元前数世紀にライン川をはさんでゲルマン人とガリア人が対峙していたときに、ガリア人が対岸の野蛮人を総称して用いた言葉である。シーザーの遠征以後ガリア人はラテン化してしまい、それ以後はローマ人もゲルマン人・ゲルマニアという言葉を使うようになって、文明世界?での呼び名はゲルマンということになった。

 これに対してドイツという言葉の語源は2説あるようだ。
 ひとつは前2世紀にローマに侵入してマリウスに撃退されたゲルマンの一支族であるテウトニ族を、ローマ人がゲルマン人の代表格?とみなしてチュートン人と呼ぶようになり、チュートン(Teutone)のtがdに変じてドイッチェと呼ぶようになったという説である。フランスでの呼び方である同じくゲルマンの一支族であるアレマン族からとったAllemagneと似たような語源であるとする説である。
 もうひとつの説はゲルマン祖語である“民衆の”を意味するtheudoとか何とかいう言葉が同じくtがdに変じてドイッチェになったとするものである。“民衆の”がなぜドイツかというと、ゲルマン民族の大移動によりラテン圏をすべて占領したゲルマン人たちがラテン化してしまったのに対し、ゲルマニアにとどまったゲルマン人たちはラテン化せずに民衆のままの状態を保ったので、彼らはドイッチェと自称したという説である。

 それぞれの呼び方によりドイツという存在をどう捉えているかがわかって興味深い。

(この稿続く)
ドイツとゲルマン(承前)

 ドイツという言葉の響きは、何か日本人にとって憧れを感じさせるものがある。オランダ語発音ということは江戸時代からであろうが、ゲルマン(ジャーマン)というのが何か無機質で冷たい印象を受けるのとは正反対である。ただ漢字の独逸というのは誰が考えたのか知らないがあまり感じが良くないので何とかしてほしいものであるが。

 そのドイツの語源としてのチュートン説というのは何だかピンとこない。チュートンという言葉は今もドイツまたはゲルマンの同義語として現役であり、同じ意味を持ちながら発音が変化した語と変化しなかった語が並立するというのはちょっと考えにくいのではないだろうか。
 やはりドイツの語源としては“民衆の”という説を採りたいし、これはまさに“ラテン化しなかったゲルマン”というドイツの本質を一言で表していると思う。

 その説をとることにすると、ゲルマンというのは文明人としてのローマ人(元々はガリア人起源の言葉だが)が野蛮人の1種として命名したものであり、ドイツというのはドイツ人自身が“野蛮でなぜ悪い、ラテンの退廃から免れた我々こそが…”という気概を込めて自ら命名したのものといえるだろうか。

 何だか倭と日本の関係に似ているような…
 ひょっとするとそのあたりが日本人がドイツに対して抱くある種の好感の根っこにあるものかもしれない。
 統一国家形成に遅れた国が懸命になって…という共通項や明治以来の文化導入事情、あるいは今次大戦の同盟国、そしてクラマー以来のサッカーにおける…といったことはこれまでさんざん論じられてきたが、一番の根本はそこかもしれない。

 というところで、そろそろ種切れになったので一連の駄文はこれで終了とします。最近ドイツに行っていないのでインスピレーションもわかないし…
 ただこのトピックは私が自分の妄説を延々と述べる場というわけではなく、コミュ参加者がドイツ史に関して語り合う場ということだと考えているので、皆様どんどん書き込んでください。私ももちろん参加して話を盛り上げます。
Stephen Cabotさん

力作の連載、お疲れさまでした。私ももう少しちゃんとレスポンスできればよかったのですが、なかなかそれがかないませんで、相済みません。

>“野蛮でなぜ悪い、ラテンの退廃から免れた我々こそが…”

これは、19世紀から20世紀前半にかけてのドイツ人の意識が、中世に投影されて形成された「国民の物語」とも言えましょうか。

何の因果でか、土曜日にヴァルトブルクに2回登り、別のガイドの説明を2回聞きました。しかし、この二人が同じことをほとんどしゃべらなかったのが、何とも印象的でした。歴史というのはこういうものかもしれません。

焼きそうせいじさん

 ワーグナーが取り上げたタンホイザー伝説はまさにその好例といえそうですね。
 フランス(とアングロノルマン)の騎士道とドイツの騎士道の違いといいますか。
 ルターがここにこもったのもひょっとしたら偶然ではないかもしれません。
バイエルン州南部、アルプスに近い小さな町Xにその会社はあった。
 電力を大量に消費する産業は歴史的にまず水力発電の便の良いところに発達するものであり、ドイツならアルプス、米国ならナイアガラ近郊を発祥の地とする企業が多い。
 その会社も本社工場は19世紀からの歴史を誇る煉瓦作りであり、町の住民のほとんどは関係者というドイツの田舎町によくある企業城下町を形成していた。

 20年ほど前にはじめてその会社をとある研究提携提案のために訪問した。その朝ミュンヘンのホテルで待っていると担当者のY氏が車で迎えに来た。本社工場までは2時間足らずのドライブである。
 ホテルを出てすぐにオリンピックスタジアムの前を通った。この間のワールドカップのための建て替え前の旧スタジアムである。ドイツ人にとっては1974年のワールドカップでベッケンバウアーがクライフを退けた聖地でもあり、私にとってもこれまで(TVで)観たスポーツイベントの中で最も思い入れが強いものである。当然その話題になるとY氏も熱狂して観ていた世代であり大いに話がはずんだ。

 滞在中は仕事も順調に進み、Y氏との親交も夜の街の付き合いも含めて深まった。生粋のバイエルン人であるY氏とは歴史観のようなものも共通するものがあった。
 Y氏は技術者として非常に優秀な方であり、私の提案の意味や価値もすぐに理解して自ら志願して本件の担当者となってくれたのだった。ただしY氏はその会社内では全くの非主流派・異端児のような存在であり、だからこそわけがわからないことを言いに来た日本人との付き合いは彼に任しておけというような意味合いもあった。また典型的なドイツの伝統企業である同社で彼が一担当者以上の存在になれる可能性もなかった。

 ところが数年後状況は一変した。その会社が米国の新興企業Z社に買収されてしまったのだ。レバレッジとか何とかいう手法を用いた”小が大を飲む”買収と当時話題になったものである。そして親会社となった米国のZ社は、残念ながら私の提案した研究とは反対の方向の研究開発への大量投資で伸びてきた企業であり、当然ながらこの提携話は自然消滅となって私は別の提携先を探すことになった。

 それから数年後、Y氏はZ社の研究開発担当役員となって渡米し、さらに数年後Z社の役員を兼ねたままドイツのXに帰り元の会社のCEOとなった。彼とは仕事上の付き合いはなくなったものの、個人的なメールのやり取りは続いており、異例の昇格を大いにお祝いしたものである。

 そしてさらに数年後に私は別の並行して進めていた研究案件でZ社に対して売り込みをかけることになった。当然ながらZ社の研究開発担当役員を兼ねているY氏を仲介者として話を進め、順調に予備交渉は進行した。
 そしてZ社での初のface-to-faceでの打ち合わせのため渡米する数日前に、この打ち合わせのためにZ社で待っているY氏からメールが来た。数行の内容で今回の話は無かったことにしたいということで理由も説明も書かれていなかった。国防がらみの難しい案件ではあったので理由などは書けなかったのであろうし、私としても結論がそうならば別に真偽不明の言い訳などは聞きたくもなかった。
 ただその結果、私が約10年かけていたその研究案件はそれで打ち切りになり、私の立場もかなり悪化することになった。

 あれ以後Y氏とは連絡をとっていない。何かやむをえない事情があったのであろうが、もはや現役の間は連絡をとりあうことはないだろう。

 久しぶりの書き込みなのにドイツ史とは関係ない私の個人史のような愚痴話になってしまった。ただあと長年月がたってお互いに引退していい歳になれば、彼とはまたバイエルンのXの町(彼は引退後もここに住みたいと云っていた)で一緒に飲みたいなという気持ちもある。
 Xの裏通りの飲み屋街のうらぶれた雰囲気は今でもよく思い出す。
 30・31のコメントに書いたケンプテンが上記のXの町である。

 私のキャリアの命取りになったかもしれない・・・少なくともあれがうまくいっていたら人生がかなり変わっていたと思う苦い思い出が詰まった町であるが、最近何か懐かしい。
 やはりコメント91のケンプテンの件は結果的に私のキャリアの命取りになってしまったようだ。
 まあ次のキャリアを求めて転進するいいきっかけになったと負け惜しみでも云っておこう。

 この件以来ドイツとの縁が切れてしまったが、また新しい案件でつながりができそうなので、そのときはまた書き込む内容が浮かぶかもしれない。しかし最近のmixiの退潮はひどいので以前のようには盛り上がりそうもないのは寂しい。
>>[86]

初めまして。

>オランダを意味するダッチとドイッチェとは全く語源が同じというのが

少し前に読んだ本に、多少関係のあることが書かれていましたので、書き込みさせていただきます。

「ドイツ語学への誘い」河崎靖 現代書館

ざっとの内容は、ドイツ語の成立とかそういうものですが、新約聖書で有名なマルティン・ルターについて結構なぺージが裂いてありました。
当時、旧約聖書はヘブライ語で。新約聖書はギリシア語で書かれ、聖書の中身は、まあ・・・民衆には関係のないものであったようです。教会は、聖書の翻訳をよしとはしていなかったようですが、ルターは信念を持って生涯、何度も聖書のドイツ語訳を試みた。
・・・まあ、そういう内容でした。

当時の教養人は、ラテン語もヘブライ語もギリシア語も分かったようで、このためか、ルターの生きていた16世紀の初期新高ドイツ語の中には現在のドイツ語の知識だけでは分からない言葉が入っていたようです。それは、多くのラテン語であったり、ドイツ語と合成されたラテン語であったり・・・。

さて、本の最後辺りに、Deutsch どいっちゅ という単語について書かれていました。
これのもとは、8世紀後半。古高ドイツ語のdiutiskだと。
当時の教養人の言語はラテン語。
それに対し、民衆の言語をtheudiskと言った。その後、この単語はゲルマン諸部族をさす言葉になった。・・・と。

ダッチとドイッチェとは全く語源が同じということでしたが、それはこの単語ではないでしょうか? 


話は少し変わりますが…
私は時々ネットでGrimmの文章をぽつぽつ読んでいます。
die Kinder-und Hausmaerchen
Deutsche Sagen
Das Deutsche Wörterbuch von Jacob und Wilhelm Grimm など。

特に、最後の「ドイツ語辞典」ですが・・・
Grimmは単語一つ一つの由来とか逸話を集め、近隣の国の言葉ではどのような単語になっているかも書き込んでいます。ギリシア語やヘブライ語についても多少言及し、その単語がもともとどういう意味を持っていたのかも書いていたりします。
Grimm兄弟は、自分たちの国の言葉が、つまり「ドイツ語とは何か?」を生涯かけて追及していたのです。(生涯かけても終わらず、後任者が研究を続けたことになりますが。)
>>[94]

 なるほどdiutiskにtheudiskですか。私の方はそれほど詳しく調べているわけではありませんが、一般論としてオランダ人を含むドイツ人はドイッチェなどと自称・他称されており、ブリテン島の連中が少し訛ってダッチと呼んだが、これらはゲルマン祖語で民衆のという意味のtheudoからきているなどとあちこちに書かれていたもので、だいたい話が一致しているようですね。
 まああのあたりのゲルマン族を指す一般的な用語だったのでしょう。

 ドイツは長く統一国家がなかったので政府が公的に“正しい”ドイツ語を作る機運が生まれにくく、そこで大きく貢献したのがルターとグリム兄弟でしょうか。
 まあそういう正しい言葉・変化しない言葉というのはラテン語聖書やアラビア語コーランのような聖典を理解するには便利ですが、言葉は時代と共に進歩・変化すべきだという考え方もありますね。
 英語は比較的変化スピードが速い(だから発音とスペルがあまり一致しない)と思いますが、それ以上はるかに変化が激しいのが日本語であり、これはちょっと如何なものかと・・・

 それにしてもグリムのドイツ語辞典を読んでいるとは本格的ですね。
 これは単なる辞典というより言語から文明の本質に迫るという歴史哲学書に近いと理解していますが、英語のOEDとかフランス語の−何だったかな−等、こういうものがぜひ日本語でも編まれることを期待しています。
 日本語は他言語との類縁関係はあまりないものの前記変化のスピードから色々考察すればなかなか面白いものになりそうな気がします。
>>[95]

日本語の場合、
広辞苑とか、既にあると思います。
あの程度では物足りないのかもしれませんが、広辞苑と古語辞典と漢和辞典の大きいのを読めば、だいたいのことは書いてあります。
古語辞典の小さいのにすら、神社の建築様式、鳥居の様式を図入りで載せています。かな〜り専門的で面白いですよ。

ちなみに・・・
私の趣味は、古事記(無論現代語訳です)や日本書紀、風土記を読むこと。
神社の宮司さんと会うとその地域の名前の由来を聞くこと。
ドイツ語のFrakturが読めるようになること(自分で作った表を手にしないとまだまだ判別が厳しいです・・・)
宝石に詳しくなること
天然真珠を安く手に入れること

仕事を退職したら、
欧州に旅行に行きたい・・・当然ドイツ語圏
グリムの集めた伝説の中でも特にお気に入りのder Wilde Jaegerの伝説の舞台であるder Hackelに行って、森を探索して、そのあたりの古老に伝説について聞いてみたい
ラテン語を勉強し直したい
できれば、ギリシア語とヘブライ語も誰かに教えて欲しい

すみません。
切りがありませんね。
>>[96]

 古事記・日本書紀・風土記を読んで、フラクトゥールで書かれた本が理解できて、ラテン語・ギリシア語・ヘブライ語!を習う・・・
 Wilder JaegerのHackel というのもとんでもなくマニアックみたいだし・・・
 これはすごいですね。カトリック関係者でときどきこういう古典全般の鉄人(笑)みたいな方がいますが・・・

 特に日本の古典とドイツ及びその基となったキリスト教・ユダヤ教の古典の両方を語れる方はあまりいないと思います。
 私も興味だけはどちらもあるので、江戸の語源はエドワードやエデンの園にあるといった駄文(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=34711749&comm_id=1970271)を書き散らしたこともあります。

 このトピは私の妄説を延々と展開する場ではなく、詳しい方・興味がある方にどんどん書き込んでもらって盛り上がろうというのが趣旨ですから、ぜひ色々なテーマで書いてください。
>>[97]

>フラクトゥールで書かれた本が理解できて、
いえ、1行読むのに1時間以上かかります!(><)

>ラテン語・ギリシア語・ヘブライ語!を習う・・・
あくまで「妄想的希望で・・・」

>Wilder Jaeger
ははあ。der wilde Jaegerを正しく変化なさいましたね。

>Wilder JaegerのHackel というのもとんでもなくマニアックみたいだし・・・
おっしゃる通りです。
こういう調べ物が大好きです。5年ぐらい調べても、まだよく分かっていませんが。
友人には「神社おたく」「風土記おたく」と言われていますが、「Grimmおたく」ともおっしゃってください。(胸を張るぞ)

>カトリック関係者でときどきこういう古典全般の鉄人(笑)みたいな方がいますが・・・
知ってます。私は全然違いますが、ちょっとだけ知っている神父・・・?いや、牧師さんか?
英語とフランス語が話せて、ギリシア語とヘブライ語が分かるとか。ドイツ語は分からないと言ってましたが・・・。

>妄説を延・・・
いえいえ。
お話が難しくて、いささか書き込みするのに勇気が要りました。

どんなテーマがいいのでしょうか?
少なくとも・・・美しい写真があるといいかも、ですね。
>>[98]

 そこまでグリムに思い入れがあるのなら、グリム物語にみる森(山)の歴史などというのを書いてみては如何でしょう。

 ドイツ人の原風景は森(対比すればフランス人は平野、イングランド人はうねうねと続く低丘かな)とよくいわれますし、ローマ帝国もライン川・ドナウ川沿いの町は支配できても森の中に入ると彼らの世界で、何度も軍団が森の中に誘い込まれて全滅しています。
 しかし現代ドイツでは一部地域を除いてほとんどの森は切り払われてしまいましたが、今でもドイツ人は森林逍遥が好きなのはその名残かと思います。

 そこでドイツにまだ森が残っていた時代をグリム物語から構成してみるというのはどうでしょう・・・おそらくグリムの時代にはもうかなり森はなくなっており、それを昔の伝説から想像した部分も多いと思いますが。
>>[99]

なるほど。
素晴らしい思い付きですが、困りました・・・。

私は現地主義で、日本の神社や土地の由来ですら、書物をほとんど信じていません。だから、読むのはまず『風土記』で、漢字の参考としてとか話の参照のために『古事記』『日本書紀』を少し見るのです。
つまり、ほとんどは現地調査です。従って大変に時間がかかっている割に資料が集まりません。実は(やるともなく)高校1年生の時から少しずつ資料を集めて、ン10年経ちましたが、全然まとまりません。

それを、現地になかなか行けないドイツの「森」となりますと・・・テーマに選んだとしても、単なる思い付きか、見当はずれの偏見と独断による独り言になってしまうような気がします。
der Hackel一つにしても、5年ぐらいかかってやっと・・・少し資料が集まったぐらいです。

でも・・・
自己満足のder Hackelの話を、多少ここにUPさせていただくことをお許し願えるのなら、研究発表をほんの少ししてみましょうか? 
資料の整理ができていませんので、他愛もない、できそこないのエッセイにしかなりませんが。(苦笑)

なお、
同時進行で進めていますことが、
『風土記の中に登場する植物』が、現在のどの植物に当たるのか、を調べることです。1年かかって1種類がまだ分かりませんです。。。(ちなみに「白歛」「白芨」)
これがGrimmの時代の植物とかだと、もうGrimmのドイツ語辞典ぐらいしか資料がないですね。
>>[100]

 der Hackelの話、大いに興味があります。
 書いていくうちに皆さんの反応を見ながら構想がまとまってきて、推敲を重ねて完成版ができたら何か別の媒体を選んで・・・というのがいいような気がします。
 資料を集めるというのも書きながら同時進行でいいのでは。
 まず書いてみなければ何も始まりませんし、それをこのように自由に発表できる場があるのですから、いい時代になったものだと思います。
 自己満足大いに結構、人間のすべての営みは自己満足のためではないでしょうか。
>>[101]

ありがとうございます。
実は、Mixiは、さほど使っておりませんで、別にHPを持っています。
ただ・・・
私が3年ぐらいかけて調べた内容を、断りなく勝手にコピーしている人が時々いて、その人のサイトに私の文章がかなりまとまってUPされていたのを見た時にかなりショックを受けました。以来、大事なことは内緒にして、別々のサイトに3つぐらいに分けて、肝心なところはぼかしてUPし、一番おいしい処は信頼できる人にだけ(続きと言う形で)メールでお知らせしているという次第です。

さて。
23日に一つ資格試験を受けますので、今はその学習を細々としています。
車の中でCDを聞のと、辞書を引いて単語を覚えるぐらいしか学習する時間が取れませんので、少し落ち着きましたら、資料を見直してみます。
>>[101]

ドイツ語検定の試験の学習を兼ねて、 der Hackel についてまとめてみました。
「ドイツの街角からドイツ史を考える」というトピックには程遠く、「伝承の中に登場する森が、実際には何処にあるのか」を調べたものです。
かなりトピックの内容から外れますが、グリムの集めた伝承の中の話、ということで、ご容赦ください。
また、伝承は伝承。言い伝えなので、途中でいろいろ変化しているようです。あくまでも可能性の一つ、とお考えいただきたいと思います。
der Hackel

ドイツ伝説集 Hans von Hackelnberg についての覚書

グリムの書いた『ドイツ伝説集』DEUTSCHE SAGEN herausgegeben von den Bruedern Grimm
に、Hans von Hackelnberg ハンス・フォン・ハッケルンベルク について書かれた伝承が幾つかある。
その中に、Der wilde Jäger Hans von Hackelnberg が、よく狩りをしていたという Der Hackel ハッケル山・・・という山が登場する。

ドイツ伝説集172の注には、以下のように書いてある。
1) Im Hackel? Der Hackel: Ein Forst unweit Halberstadt bei der alten Dornburg.
「原注 1 ハッケル山に住むのであろうか。ハッケル山は古城ドルンブルクの近くにあり、ハルバーシュタットから程遠からぬ所。312番を参照のこと。」(『グリム ドイツ伝説集(上)』桜沢正勝/鍛冶哲郎 訳 より抜粋)
参考
http://www.billzhouse.com/landsknecht/sagen/g172.htm
http://www.billzhouse.com/landsknecht/sagen/g312.htm

私は、この der Hackel (ハッケル山)が、ドイツのどこにあるのかを知りたいと思った。

Hans von Hackelnberg は、Braunschweig(ブラウンシュバイク)公国の御猟場管理人であったと言うことだが、ハノーファーの近隣にあるブラウンシュバイクの少し南に、Halberstadtという町がある。
では、der Hackel (ハッケル山)はすぐ近くにあるぞ!
すぐに分かると思っていたが、調べても調べても分からず、数年が経過した・・・。
そのうち、ドイツのあるHPの内容から、Hackelberg の名前は、Hackelberg の両親が Hakelforst(ハ−ケル・フォルスト) 辺りの出身ということから付けられた名前らしいことが分かった。
Ein Forst unweit Halberstadt ということで地図を手に入れて調べてみたら、Hakelforst は、Halberstadt の東の方角20km辺りにあることが分かった。この森の中に、Domburg ドムブルク(m。rn ではない)という城の崩れかけたものがあることが分かった。
しかし、ドイツ伝説集には、古城 ドルンブルクの近く・・・と説明してある。さらに、172に、「ハッケル山については312を参照、」とされているのだが、
http://www.billzhouse.com/landsknecht/sagen/g312.htm
ここには、ハッケル山の名前は出てくるが、詳しい場所についての記述はなく、Der bannte Tut-Ursel in Gestalt einer Ohreule in die Dummburg auf den Harz. と、あるのみ。
今度はDummburg。ということで、混乱してしまった。

http://www.billzhouse.com/landsknecht/sagen/g326.htm
↑ここには、Hakel の場所についての記述あり
http://de.wikipedia.org/wiki/Hakel ←城跡の写真があり
http://de.wikipedia.org/wiki/Domburg_im_Hakel
ちゃんと Dombrugの写真付
http://www.earth-dots.de/domburg-im-hakel-72670.html ←地図
続き

いろいろ探し、やはり私の探していた der Hackel (ハッケル山)は、この Hakelforst(ハ−ケル森) のことだと確信したしだいである。
そこで、時々困った時にお世話になる某大学のドイツ語の先生に確認のため、少し相談してみた。これこれこういうことを知りたくて調べていましたが、こういう結果になりました。如何でしょう・・・と。

すると・・・先生から重要な情報を頂いた。
「あまり文章の字面をそのまま鵜呑みにしないように。」と。
先生はGrimmの研究をしておいでの専門家である。その方からGrimmの『ドイツ神話学』についての情報を頂いた。
『ドイツ神話学』とは、語学の天才であるヤーコブがその才能をいかんなく発揮して著した著書である。ヘブライ語・ギリシア語・ラテン語・その他の古典から関係部分を抜き出し、ゲルマンの精神が其処此処に散らばっているものを拾い集め、どのようにゲルマンの精神が形作られていったかを検証しているもの・・・と私は思っているが、
何せん、こんな難書を邦訳している人はまだいない。一部を訳して本にしてある場合を除いて。
従って、この本の内容を知りうる者は、単にドイツ語に堪能なだけでなく、他の言語もかなり理解できる人でなければだめなのである。

その・・・難解な『ドイツ神話学』の中にも Hackelberg は取り上げられているというのだ。さらに、版が異なってくると der Hackelの場所についての情報も異なるというのである。だから、
「文字表記をそのまま信用しないように。」ということらしい。
確かに…
ここではその情報は伏せるが、さほど遠くはないが、「違う場所」の情報であった。
『ドイツ伝説集』(DEUTSCHE SAGEN)は、Grimmが考えた話ではなく”herausgegeben von den Bruedern Grimm”・・・つまり、Grimm が誰かから「聴取して集めた」『言い伝え』なのである。従って、複数の説があったり、伝えるうちに文言が変化していったり誤って伝えられたりがあって当然なのだ。

ということで・・・「可能性の一つ」として、
Der wilde Jäger Hans von Hackelnberg が、よく狩りをしていたという Der Hackelハッケル山という山は、ハルバーシュタットから程遠からぬ所にある Hakelforst(ハ−ケル森)を候補に挙げることは悪くないと思う。

もう一つの可能性については、今後の調査によるが、取りあえず画像などUPしておこう。上の画像は、参考にしたHPからの転用である。
maidさん

 力作を興味深く読ませていただきました。
 リンクがドイツ語ばかりで私の理解が及ばない点も多いですが、何となく雰囲気はわかりました。

 地名が山から森にですか。ドイツの”山”は森に覆われた低山が多いですから・・・そしてその森も切り払われ、山も削られていき・・・
 地図で見るとまだかなり森は残っているけど、森の中に縦横に道が走っているみたいですから森林公園?のようになっているのでしょうか。

 昔はブラウンシュバイク公国・・・よく聞いた名前だなと思ったら、私がサッカーを見始めた頃強かったサッカーチームでした。ゲッティンゲンからハノーファーにかけてのニーダーザクセンの一帯はもうあまり森は残っていないように感じましたが、当時は森に覆われていたのでしょうね。
>>[106]

日本語の「山」というのが、やや曖昧な表現なのだと思います。
Forstは、植林した森林とか営林地という意味があるようです。
このHakelforstは、Hannoverの東南約110キロの所にあるHalberstadtという都市から真東に16キロほどいった辺りにある、標高241mの小山です。「丘」というべきでしょうか? 

日本の場合、国土地理院で認定を受ければ山と見なされるようです。
現在、一番低いのは、大阪の天保山で、標高は4.5m。という情報を頂いたことがあります。自然の山で一番低い、徳島の弁天山は標高6.1mで、
天保山とどちらが日本一なのかという論争も起きている・・・とか。

ドイツ語では、山を表すものとして以下のようなものがあります。
Berg・・・山、丘
Gebirge・・・山脈、連山、山岳地帯
Huegel・・・丘陵
Wald・・・山林、森
一番高いのは・・・Gebirge ゲビルゲ でしょうか。
ドイツ映画“コリーニ事件”を観た。よくあるナチス時代反省映画(笑)であり絶賛された点には全く共感を覚えなかったが、主人公がトルコ系ドイツ人(ドイツ人の父とトルコ人の母で離婚して母はトルコに帰国)という設定は興味深かった。ドイツとトルコの関係に関してはこのトピックでも数回にわたって論じたが、ドイツにおけるトルコ人の存在感を海外が主たるマーケットである大作映画では初めて取り上げた作品だと思う。

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