ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

清朝コミュの孝荘太后の昭西陵

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
中国の最近のテレビ番組で「百家講壇」というのがあります。ある歴史的なテーマに対して、その道の専門化が、十数回から二十回にもわたり講義を行うというものです。どうも人気が高いらしく、テレビでは再放送を良くやっているようだし、DVDのセットもいくつも売られています。そのDVDも「品切れ」ですと表示が出ているものが少なくありませんでした。僕はたまたま「明亡清興六十年」の山海関の役の回を見ましたが、この戦役を2回にわたって番組で紹介していました。なかなか面白い番組です。日本だったら、講義という形ではなく、ドキュメンタリーとする番組が多いのでしょうけど、中国ではこのスタイルが好まれているようです。(http://www.cctv.com/program/bjjt/01/index.shtml

そのうち「歴史上のドルゴン(「歴史史上的多爾袞」)」という番組が書籍化されていたので買ってきました。もとがテレビ番組だったからでしょうか、テーマは非常に絞られていて、また分かり安く書かれています。“ドルゴンが孝荘太后と若いころから友達だったというのは本当か?”、“後金の汗位を得られなかったのはなぜか?”、“清の帝位を得られなかったのはなぜか?”、“中国の統一に失敗したのは何故か?”、そして最後に“ドルゴンと孝荘太后の関係の謎”です。視聴者の関心をひくようなタイトルです。

その中で最後のテーマについて面白い記述があったので紹介します。
孝荘太后がドルゴンと結婚していたのかというテーマは、さまざまな歴史書で取り上げられています。説としては(1)結婚していた(2)結婚していない(3)正式な手続きとしての結婚はしていないが、実質上共に生活していた、と3つ考えられます。この著者は(1)と(2)の観点に対し十ほどの論点を挙げています。最終的に同じ観点に対する相反する意見を総合的にみて、弁証法的に判断をしています。そのうち、孝荘太后の祭られている昭西陵についての説明が非常に精彩を放っていました。

清の王陵は、清東陵という北京郊外のものと、瀋陽にあるヌルハチとホンタイジの陵があります。孝荘太后の陵は昭西陵といい、清東陵にあるのですが、その配置されている位置が不思議なのです。普通、これらの陵は四週を壁に囲まれてある領域をつくり、その内側におかれています。それが、孝荘太后の昭西陵は何ゆえか、その壁の外側におかれているのです。この壁は家族の象徴でもあるわけで、何かの理由で孝荘太后の墓は王陵の中に設置するわけにはいかなかったのです。伝説では孝荘太后の棺をホンタイジの陵に運んでいたら、この場所で棺が異様に重くなり、どうにも動かなくなったので、そこに陵をつくったと言われているそうです。
さらに、不思議なのは孝荘太后が康熙帝の時代に亡くなった後、実に35年もの間埋葬が行われていないということです。康熙帝はこの祖母を非常に尊敬しており、大事にしていたはずなのですが、その康熙帝は生存中に孝荘太后を埋葬することができなかった。埋葬したのは雍正帝だそうです。それも王陵の壁の外に。
(清東陵のHPhttp://www.qingdongling.com/

この二つのことを説明するには、何らかの重大な理由があったに違いないとこの著者は述べています。清朝の皇帝は北京入城後、漢民族の考え方に大きく影響を受けています。そのなかで、兄嫁が弟に嫁ぐことが、非常に倫理観にそむく行為だとされてしまったので。さすがの康熙帝でさえ、孝荘太后を王陵の中に祭ることができなかったに違いないと言うわけです。また、その時代では、ドルゴンはまだ反逆者としての汚名を蒙っており、そのドルゴンと結婚していたとなると、ますます王陵の中にいれるわけにはいかなくなります。

そのほかにも3点ほど孝荘太后とドルゴンと結婚していたに違いないと言う論点がありましたが、それは日本でも読むことのできた内容でしたので、この点だけ紹介しておきます。

コメント(10)

阿祥さん、興味深いお話を有難う御座いますわーい(嬉しい顔)
孝荘太皇太后がドルゴンと結婚していたか?否か?
大きな謎ですよね。
孝荘太皇太后の陵墓の位置などは、なるほどと思いますが、ここで私が気になったのは、

>康熙帝はこの祖母を非常に尊敬しており、大事にしていたはずなのですが、その康熙帝は生存中に孝荘太后を埋葬することができなかった。

という一行です。
王陵の中に埋葬するわけにはいかない、というだけなら、もっと早い段階で王陵の外に埋葬できたはずですよね?
それを康熙帝自身の存命中にまったく埋葬しなかったのは何故でしょう?
仮に孝荘太皇太后がドルゴンと結婚していたとして、それを朝廷としてはどう評価すべきか迷っていたのでしょうか?
つまり、
否定して秘密にしておくべきなのか?
肯定したうえで断罪すべきなのか?
何も非は無いとして認めるべきなのか?
朝廷がどの立場を取るのかハッキリできなかったのなら、埋葬もできなかったかもしれませんね。
忍豚さん、レスありがとうございます。上の文章はほとんど原文のままの内容をまとめています。ですが、この書籍では忍豚さんの問題には直接解答はされていませんので、僕の考えを書きます。

まず、清朝側の評価ですが、これはこの事実の抹殺を図ったということです。
この事件が謎となっているそもそもの理由は、清朝の公式記録にまったくこの結婚に触れたものがないということなのです。ただ、ドルゴンの称号は時が移るにつれ変わっていき、叔父摂政王、皇叔父摂政王から最終的に皇父摂政王になってしまっており、このことが謎をよぶ原因になっています。叔父を意味する叔がとれてしまい皇父となってしまうと、これはそのまま父君ということになってしまいます。
では太后下嫁のことがどこに書かれているかというと、当事の反清復明の根拠地である江南地方の武人の残した詩の中なのです。張煌言という浙江を拠点に、鄭成功とも行動を共にした人物の書いた「建夷宮詞」という詩です。それ以外には直接この結婚のことを記した記録がないのです。この結婚に対する反対派はこの詩が書かれた場所が、北京という現場から離れていることを理由に反対の根拠としていますが、著者は逆に朝廷による徹底的な隠蔽工作であるという見方に軍配を上げています。

そして、もし孝荘太后がドルゴンと結婚していないなら、ホンタイジのもとに祭られるのが筋だと説明しています。清史稿には孝荘太后の言葉として“すでにホンタイジは祭られて久しい。私は彼よりもあなたやあなたの父君のそばにいたいから、この河北の陵に祭ってくれ”と康熙帝に述べたと記されているそうです。しかし、著者は、実際には順治皇帝はその晩年には数年もの間孝荘太后と口をきいておらず、その言葉は信じられないという判断をしています。
また、後の西太后は咸豊帝の亡くなった後、実に47年の後に同じ咸豊帝の陵に祭られたという事例もあり、時間が経ったからという理由は成立しないとも述べています。孝荘太后が自ら心情的に、あるいは祭る側の人々が何らかの理由でホンタイジのもとに祭るわけにはいかないというのが原因のはずです。
ですから、この35年間の放置というのは、公式には結婚の事実を抹殺して認めていないにもかかわらず、孝荘太后を含めた当事者達のホンタイジと一緒にするわけにはいかないという認識は一致しており、だとすればどうしたらいいのかという結論が出なかったからではないかと思います。

もしかすると、順治帝は母憎さのあまり、絶対に王陵に入れるなと言い残したのかもしれません。しかし、だからと言ってじゃあどこにこの尊敬する祖母を祭ればいいのか?康熙帝は何らかの形で父の言葉に縛られていて決断できなかったのかもしれません。それで、この課題は次の雍正帝にまで残されたと。まあ、これは想像ですが。とにかく、あれだけ果断な康熙帝でさえ処理できなかったというのは、それだけでもこの問題は難問であったに違いありません。
ドラマのDVDは確認しましたが郵送は難しいとか。ハンドキャリーしか方法はないんでしょうか?
女真族の美人基準ってどんな感じなんでしょうか?那英みたいな感じなんでしょうか。
<宣和堂さんへ

紹介されているHPには字幕なしとありますが、現地の放送では中国語字幕はありました。それで僕も楽しむことができました。ですので、ここは日本語字幕はありませんよという事だと思うのです。保証は出来ませんが。
Yesasiaというのはおもしろいですね。いろんなメディアが購入できるアマゾンみたいなものですね。

孝荘太后が大玉児と呼ばれていることについて、この本では、満蒙第一美人と呼ばれるような妃は、ホンタイジの関係で調べると孝荘太后の姉である宸妃であろうと解説しています。実際ホンタイジはずっとこの姉の方に御執心だったようで、彼女の生んだ息子が亡くなったときにはひどく悲しんだそうです。それが、さまざまに物語がつくられていく中で、孝荘太后の方が美人であるように変わってしまったと推論しています。たしかに、紹介されている肖像をみても、あまり美しい様子ではなさそうですよね。
ちょうど、今読んでいる台湾の小説「天問」に孝荘太后の心情を語ったうまい描写があったので紹介しておきます。久しぶりのホンタイジの来訪を受けたあとの孝荘太后の独白です。
「彼(ホンタイジ)が最も愛しているのは姉、最も大事にしているのはおば(孝端文皇后)・・・。わたしは、彼女たちの都合が悪いときにだけ代わりに呼ばれるだけ・・・。これからも、無理をして気を使って彼の注意をひく事はやめよう。彼を理解しようとしても、彼の世界に入ろうとしても、それはできない。もう数日すると彼は明を攻めに出征してしまう。私はまた書物の世界に戻ろう。本を読むことで日々を費やそう。」
この心理描写は、歴史的事実や孝荘太后の肖像から見ても、なかなか説得力のあるものだと感じました。

<翡翠さんへ
来週また仕事で北京に行きます。もし必要ならハンドキャリーしましょうか?
《大清風雲》は買ってきて見ました。史実とはかなりかけ離れたところがありますが、ドラマとしては秀逸の出来です。ヒロインの許晴のHPの中に映像がありましたので見てみて下さい。

http://www.xuqing.cn/about3/images/dqfy.wmv
ヒロインの許晴 なかなかいいですね。昨夜から妻と仲良く観てます。
ゴロツキ集団と忌み嫌らわれた清朝末期の八旗と違い 色とりどりの鮮やかな鎧を纏った鐵騎は壮観でした。近代に入っても騎兵対歩兵は1対4の戦力比率でした。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

清朝 更新情報

清朝のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング