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長谷川四郎コミュの再度『シベリア物語』

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(ねたばれ注意)

長谷川四郎の『シベリア物語』その1「シルカ」

 ソビエト政権下にて監視のもと、強制労働を強いられる毎日、しかも酷寒。
 生きて帰れるかもわからないのに、どこに歓びがあるものか。

 しかし二人の監視兵を人間としてとらえ、村の人々をも生きている人として見ていく。
 言うのは容易であるが、それ相応に苦役にあえいだはずであるが、書き手はどこかふっ切れている。

 敗戦期、中国・満州、朝鮮からニホン人は命からがら逃げ帰ったもので、途中では家族の悲劇をはじめ、言い尽くしがたいことが続いた。
 以前、おなじく長谷川四郎のことに触れたマイミク・naratoさんはたとえば五木寛之のことを取り上げていて、このひとの逃げ帰り記の苦渋ぶりはわりと知られていると思うが、ただ単に苦しさのみでなく、疚しさのようなものでいっぱいにならずにはいられなかったのだろう。

 しかし長谷川四郎は、ソ連兵の監視下に同化してしまった。

 大戦ではソ連も多大な人的損害をこうむったし、どんないなかの村でもその影響をうけている。
 しかし村のひとは、捕虜を労働者として扱ったり、かなり人対人という遣り取りが交わされていたのは驚きである。

 ニホン人強制労働コミュニティーは、(そのすべてではないにしても)かならずしも閉じた世界ではなかったのである。

 捕虜が、キャベツの行商に出されるなどということは、この作品を読むまでわたしは想像だにできなかった。

 人類はみな兄弟なんて安っぽい台詞を信じるわけもないが、描かれていく人物は、おおくの意味で生の人間であることが懇切丁寧に語られていく。

 たとえばアメリカ大陸を16世紀に訪れ、人類学的に(つまり相対的価値観に基づいて)原住民を観察したごく一部のスペイン人宣教師のことをわたしは思い描いたりする。

(20/IV/2010)


長谷川四郎の『シベリア物語』その2「馬の微笑」

煉瓦の話からはじまる。
 社会主義といってもまだのどかで、機械化などされていないからその仕事も人間的であり、ひとが追いまくられることはない。
 炭鉱の仕事は厳しいが、それでも捕虜のほうが囚人よりもまだ未来をもつことができるらしい。
 そんな社会を書き手はせっせと見つめ、描写し、なによりも自分がかかわるひとたちを観察していく。

 書き手たちを縛り付けるのは、スターリンの社会主義政府である。
 しかし書き手は、政府がかならずしも強力絶大ではないし、たとえば宗教心が民衆のなかに残っていることを確認し、そのなかにひとの姿をみつめ、そうずることによって安堵することができたのかもしれない。

 煉瓦工の親方やら馬番のたよりなげな少年とか、人物が的確に、しかし優しさをこめて描かれる。

(21/IV/2010)


長谷川四郎の『シベリア物語』その3「舞踏会」

捕虜の身分でも、土地の舞踏会に招待される、というか、学習の場でもあるのかもしれないが、地元のひとにとっては晴れの舞台である。
 ここでは書き手は、監視兵とかよりも高い位置のひとびとに接することになり、その階層の日常生活を感じ取っていく。
 もちろんこの日常生活にも政治やらこのあいだの戦争のことが紛れ込んできて、だれもがイノセントでいられるわけではもちろんない。
 通奏低音のようなものとしては、スラングがあらわれる、ヨッパイマーチとか。
 さらにラジオのことやら壁新聞やら、話が自在さを帯びてくるが、さいごには舞踏会に舞い戻ってくる。

(22/IV/2010)


長谷川四郎の『シベリア物語』その4「人さまざま」

世間には、それこそありとあらゆるひとがいる。
 たとえばこの書き手にとって、ソヴィエト社会主義政府の下での信者は興味をそそる存在である。
 鍛冶場で働く信者にとって、神と罪と火とが結びつくと、その生なましさに読み手は身をびくりとさせてしまう。

 機関車修理工場では、ふたりの女がボスとしてつき、さながら掛け合い漫才風に書き手は観察していく。
 いくら環境が環境だといっても、書き手は女の生態というものに、いくらかこころを動かされたようなところがあって、話がとりわけふくらむ。

 さいごには、社会主義体制になじむことができない、つまり社会的不適応者としての老人に出会い、その反俗的といってもよいような世界観でしめくくられる。

 あいだに政治的イデオロギーを意識していると思われるボスも描かれるが、書き手はあくまでもやや風刺的にペンを動かしながら、その個的資質といったものにこだわっている。

 捕虜の、強制労働の身にあって、なんという観察心だろうか。

(23/IV.2010)


長谷川四郎の『シベリア物語』その5「掃除人」

なんといってもやはり酷寒の地であり、凍りついた糞尿が塔のように盛り上がり、書き手はそれに挑まなくてはならない。
 コンクリのように堅いそれと格闘しながら通りがかるひとの好奇の眼やら捨て台詞をやり過ごす。
 それは労働の原初的体験といったものを思い起こさせるが、市井のなかにあって、あるいは労働以上のものを語っていると感じるならば、わたしはロマンチストすぎるだろうか。
 それでもわずかなすきに、ひとの暮らしを覗きに出る。
 その娑婆に書き手はなにを視るのだろうか、共感できるなにか、つながりを感じられるなにかであろうか。
 それはなにかではあるかもしれないが、書き表せるということの原初的な歓びをわたしは見てしまう。

 いきなり文学づいてしまう。
 ボードレールが、ヴェルレーヌが、ハムレットの名があらわれる。
 ごみのなかからは、使えそうなものは拾っていくが、あるときチェーホフの小説だったかが出てきて、それを読むためにはあるていどの犠牲は覚悟のうえだったものの、火にくべられてしまう。
 このときの感情なんて、やすっぽいことばで言い捨ててしまうことはできないだろう。

 それにもかかわらず、書き手はいう。

「私は、人生は難しいものだという意見には、まあ、賛成だけども、それが悪いという説には、まず、反対だった。」

 しかしこんなわずかなせりふにて長谷川四郎の本質をくくってしまおうとするのも、あまりに冒険的すぎるだろう。

(24/IV/2010)


長谷川四郎の『シベリア物語』その6「アンナ・ガールキナ」

 収容所にあらわれたロシア女は、みすぼらしくも取りすました感じがあり、容貌には魅力はないものの、ニホン人捕虜の同情をそそる。

 ニホン語の通訳という触れ込みであるが、そのニホン語はあやしげで、どうやら夫婦生活で習い覚えたもののようにみえ、つまり戦時中にニホン人と暮らしていたらしいと皆で察する。

 正規の(通訳)将校として現れるようになると、その滑稽さがつよまる。
 組んだ中尉にもあまりよく思われてはいない模様。
 捕虜たちは、そのニホン語をとおしてあれこれと想像し、朝鮮人女性軍属のことまで思いをよせる。

 そんなこんなが積み重なって、いなかの伝説の塚のようなアンナ・ガールキナ伝説なるものまで生まれる。

 たしかに二人の、ニホン系のこどもがいることまでわかる。

 しかしやがて行方がわからなくなり、もしかするとそのニホン語をめぐって化けの皮がはがれたのかもしれなかった。

 じじつ、やがて炭鉱のなかで働いているのが見かけられた(もっとも、これもあくまでも伝説の域かもしれないが)。

 収容所の女にはすべからく好奇とからかいの気持ちがいりまじる。
 書き手はそれでも冷徹に、しかし優しさをこめてこの人物をめぐるイメージを文章化する。
 つまりアンナ・ガールキナの虚と実とを。

(27/IV/2010)


長谷川四郎の『シベリア物語』その7「ラドシュキン」(1)

きょうは抜書きのみ。

「私たちは煉瓦工場で、よく働いた。労働の辛さが感じられずに、いつのまにか時間が過ぎてゆくような日々があった。私たちは朝は長かった自分の影がだんだんと短くなり、それがまた、だんだんと長くなるのを、ただそれだけを、無意識のうちに感じながら働いた。そして夕がた、午後おそい明るい太陽に照らされて、自分たちの作った煉瓦が広場一杯に、まるで賢明な昆虫が作ったようにきちんと並んでいるのを見た。そんな時、わたしたちはまるで自然の一部になって、その営みを行っているように思われたのである。そんな時空腹は大したことではないように思われた。」

 これこそシベリア物語のエッセンスだと叫びたくなる欲求を感じるが、それでもやはり単純化しすぎているようで、黙してしまう。

 すくなくとも、かれらにとって、労働というのは自己実現なる生やさしいものとはちがうのだ。

 しかも、そんなふうに時間が過ぎてよくような日々があったわけだが、そうではない日々ももちろんたしかにあったわけだ。
 だから単純化にたいして身構えてしまう。

 すくなくとも、労働と存在論とのつながりを感じてしまうが、もっと詳しくと問われてみても、ただ気が動顚するだけかもしれない。

 生きることというのは、こういうことなのだと呟いてみたい誘惑も感じるが、どこかで揚げ足をとられてしまう。。。ああ、被害妄想がつよすぎるのだろうか(笑)。。。まあ、笑いですんでしまえば、たわいない話なのだが。

(28/IV/2010)


長谷川四郎の『シベリア物語』その7「ラドシュキン」(2)

ラドシュキンは、がんばりすぎて軌道からややはずれてしまった男。
 お座なりな仕事しかできなくなり、そのためかどうか、まわりをどこか斜めに眺めている感じであるが、そうはいっても頼りがいはある。
 書き手にとっては頼もしい存在であるが、ただそれだけではない。

 話はラドシュキンの家庭、家族の描写からはじまり、煉瓦作業所につながる。
 ラドシュキンは、頼もしいだけではなくて、謎でもあり、その行動、ことばに書き手はひきつけられていく。

 書き手は、限定的自由にめぐまれることになる。
 馬の出し入れのために、厩(うまや)までひとりで朝晩、往復する。
 帰りに本屋のようなところに寄ることもあったらしく、ナポレオンのモスクワ包囲についてを読み継いでいく。
 そののち、怪我をしたさい、ラドシュキンから、ドイツ軍のレニングラード包囲についての本をむさぼるように読む。
 アナロジーである。
 この四、五日は至福のときであり、この書き手の作品にしてはめずらしく、昂揚したトーンでみちている。

 ラドシュキンはいわば挫折した男、しかしこの男のなかに書き手はどれほど豊かな世界を垣間見ていることだろうか。

 ふたたび気に入ったフレーズ:
「窓々は外からは太陽に照らされるとともに、内からは生命に照らされていた。」

(29/IV.2010)


長谷川四郎の『シベリア物語』その8「ナスンボ」

拘束者であるロシア人と俘虜であるニホン人、どちらにとっても他者であるモンゴル人のナスンボ、だれでもないひとであるはずなのに、政治のからくりに巻き込まれて、形のうえではおなじく俘虜の身分。

 遊牧民として自分の生きてきたようにずっと生きていきたいのに、あたらしい環境はそれをゆるさず、どこか妖しげな文化と文明に染まっていく。

 書き手からみれば、ナスンボはただの犠牲者であり、正邪の観念さえ超えているのだが、この集団生活のなかでは、どちらにとっても窮屈さが目立つ。

 ナスンボはトラックではるか遠くまで仕事にやられるが、郷里のモンゴルを思い起こさせるような地にまでたどり着いたとき、郷愁にかられてか、逃亡のまねごとをくわだて、拘束される。

 どっちみち、ひどく劣悪な扱いはうけなかったようであるが、時代と政治の犠牲者の意味合いがつよい。

 ニホン人俘虜も犠牲者であるが、自分たちの政体等がもたらしたもので、原因ははっきりしているが、ナスンボの場合は、犠牲者としてもてあそばれただけでしかなかった。

 しかしナスンボを通して、ニホン人もロシア人も相対化されるという意味が底にながれている作品。

(30/IV/2010)

長谷川四郎の『シベリア物語』その9「勲章」

このタイトルのみで、すでに作者の意図がのみこめたような気がした。
 この「シベリア物語」は、どこをとっても書き手の必死の思いが漂ってくるのであるが、この作品は、諧謔的というか揶揄的な趣をもつ。

 大隊長である佐藤少佐は、俘虜となったのちにも大隊長としての公然たるちからをふるい、ソ連側も苦々しく思うところがあっても、利用できるところは利用しようとする。

 とにかく佐藤少佐は、敗戦前のちからを蓄え、ぬくぬくと過ごすことに腐心する。

 それでも話がすすむにつれ、ソ連側が搦め手で少佐にせまり、少佐はあるときは毅然とし、またあるときは逃げを打つ。
 そのへんのやり取りはとりわけ戯画的であり、もちろん作者は少佐に批判的。
 だがやがて落ち目になっていく少佐も、裏ではどんな取引に出ていたことやら。

 そして戯画調がいや増しになり、ついには少佐も故国にたどりつける。


 うちのおふくろさんの長兄もシベリア抑留中に亡くなったということで、曹長だったか。
 もちろんシベリアは過酷な地。
 のちになって生き残ったひとが、長兄の連れ合いのところまで訪ねてきたという。
 作業班というのがつくられ、その班長がかなりの権限をもつことができたらしい。
 長兄は班長を務めていて、その温厚さにより人望があつく、病にたおれたときも、他のひとが班長にまわってくるのを避けたい気持ちで班員は病の申告が送れ、それにより手遅れになったとかいう話。
 もとより生き残ってきたひとの話をどこまで信じられるかおおいに疑問。
 でもそんな話を背景にすると、敗戦前に権力を握っていたものが、収容所においてもなお権力を握り続けられたというのが、まず解せない。
 たとえば古山高麗雄の「プレオー8の夜明け」と比べたりすると歴然とする。

(01/V/2010)


長谷川四郎の『シベリア物語』その10「犬殺し」

 時間というのは暗黒なもので、それは単調な車輪の音をたてている。。。柵に囲まれて住み、その中で時間が足踏みしながら過ぎ去ってゆく。。。

 初めて外の景色を眺めた。。。流れ去る暗黒の時間が、じっと動かない空間に変わったのである。。。

 静と動とのアナロジーがただよう。
 貨車に閉じ込められての移動、そしてときたまの停車。
 長い労苦のすえに、祖国帰還も近いらしいが、たしかなことはなにもない。
 ただ静と動のあいだでたゆたう、そんななかで、貨車のひとたち、その集団というものが抽象的に、しかし生々しく(矛盾しているが)描かれる。
 しかし書き手は、祖国帰還がさほど愛おしいものでもないかのように、透徹したまなざしを保つ、そうでもしないと自分をささえていけないからであろうか。

 そんなとき、一部ののみものが奥地に働きに出され、往った先では犬を殺したために、妙なトラブルにまでまきこまれる。
 さいごのさいごまで引っかかりを感じないわけにはいかない。

 しかし大事なのは、帰国を待つ書き手は、どこか吹っ切れてしまい、どこかで越えてしまったということ。

(04/V/2010)

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