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お坊さんダイエットコミュの仏教のまとめ

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お坊さんダイエットを書き始めて早1年。
最近はまいにち食べているものを書いているだけですが、ここらでちょっと真剣に仏教の勉強をしてみようと思います。

それがどうダイエットにつながるかは分かりませんが、日本の歴史、文化に密接にかかわっている仏教について以前からしっかり基本を学ぼうと思っていたので、自分のためにも簡単にまとめたいと思います。

廣澤隆之著「図解雑学 仏教」ナツメ社

をもとにまとめます。

仏教の歴史やお釈迦様の話は後にして、まずは、仏教の基本的な考え方をまとめたいと思います。

それは、「思い通りにならない人生の現実を苦で示し、その苦をしっかり認めて原因を探り、苦を乗り越えて解脱を得ることを説く」という思想です。

要点をまとめると、

・ 人生は苦である
・ 苦とは思い通りにならないことをいう
・ 生まれてきて死ぬことを繰り返すことを輪廻という
・ この輪廻は苦である
・ この苦を克服すること、つまり苦の輪廻の輪から抜け出すことを解脱という

いかにして苦(思い通りにいかない人生)を乗り越え解脱(心の平安)を得るかが仏教の基本理念になります。

思い通りにいかないのが人生
だから人生は苦である
その苦を取り除くための教えが仏教であり、
教えを極めると解脱し、仏になる

うーん、やはりなかなか大変そうです。

思い通りにいかない人生とどう折り合いをつけていくのか、ただあきらめてしまうのか?
これから仏教の教えが続きます。

コメント(16)

四苦八苦とは通常、「非常に苦しむこと」と辞書に書かれています。
しかし、仏教では、お釈迦様が思い通りにならない人生の実態を4つの「苦」で示していることを意味します。
それが四苦。
四苦とは

・ 生
・ 老
・ 病
・ 死

の4つの苦のことをいいます。
具体的には、

思い通りの環境に生まれてくることはできない − 生
老いることは避けて通ることができない − 老
病の苦しみは避けられないものである − 病
誰にも必ずいずれ死が訪れる − 死

になります。

これにさらに4つの苦しみを加えたものが八苦になります。

・ 愛別離苦:愛する人と別れることは思い通りにならない
・ 怨憎会苦:怨みや憎しみを感じる人と出会うことは思い通りにならない
・ 求不得苦:求めても得ることができないことは思い通りにならない
・ 五蘊盛苦:身も心も思い通りにすることはできない

このように思い通りにならない人生。
だから人生は「苦」である。
この「苦」の現実を認め、その原因を探ることをお釈迦様は説きます。
そして、

・ 思い通りにならない現実の原因を
・ 思いを抱く心のあり方に求め
・ 心のさまざまな発動を抑制することで
・ 思いを消し去り
・ 苦を乗り越える道を示しました

まずは、人生は思い通りにいかないという現実を認識することからスタートするのが仏教の基本的な考え方になります。
<迷いの世界>

古代インドの宗教では、生あるものは生まれては死ぬのを繰り返すと考えられていました。

生 → 死 → 生 → 死 → 生 → 死
↑                       ↓
死 ← 生 ← 死 ← 生 ← 死 ← 生

このような考えは果てしない流れのようなので、「流転(るてん)」と呼ばれています。
または、車輪が回転し続けることにたとえられて「輪廻(りんね)」とも呼ばれています。

仏教では、輪廻とは「迷いの世界」そのものと考えられており、この輪廻から抜け出すことを「解脱」といいます。

生きていること自体が「苦」であり、その「苦」は輪廻を通じて永遠に続けられる。
その輪廻から抜け出ることは、「苦」から解放されることを意味し、この解脱を達成することが仏教の教えになります。

さて、「迷いの世界」については、「三界」と「六道」という2つの考え方があります。

三界とは、「欲界」「色界(しきかい)」「無色界」です。

・ 欲界 :食欲、睡眠欲、性欲などの欲望が支配的な世界
・ 色界 :欲望は超越したが、物質的なものが残っている世界
・ 無色界:欲望も物質的なものもなくなった精神のみの世界

六道とは、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人(にん)」「天」です。

・ 地獄:前世で最も重い罪を犯した者が転生する世界
・ 餓鬼:前世で欲望が強く欲望のままに行動した者が行く世界
・ 畜生:人間以外のものに転生する世界
・ 修羅:憎しみ、怒りが充満した世界
・ 人 :前世の善行によって転生する人間界
・ 天 :前世で多くの善行を積んだ者が住む神々の世界

これらのうち、どの生存状態に趣くかは、それまでの善悪の働き(業:ごう)にもとづきます。
天と人は善行を積み重ねた結果として生まれた状態で、善趣といいます。
地獄、餓鬼、畜生、修羅は悪行の結果として生まれた状態で、悪趣といいます。
仏教では「業」を重視します。
業とは、それまでの善悪の働きのことを意味し、積極的に善行に努めれば、よい結果を招くと考えられています。
輪廻することも、そこから解脱することも業によります。

運命のような定められたものではなく、努力すればそれなりの結果が得られることができるという自由意志を認めたのが仏教における業の考え方の基本です。

業は三種に区分され、三業と呼びます。

1. 身業(身体行為):献身的な看病など
2. 語業(言語行為):温かい言葉によって人を励ますなど
3. 意業(精神行為):身体行為、言語行為と結びついている考え

よいことをすればよい結果が、悪いことをすれば悪い結果を招きますが、仮に悪い結果を招いた際に、その心理的動機を探り、その動機にひそむ迷いの原因を除去することが修行において重視されました。

仏教徒が守るべき原則的な善行は、以下の十種になります。

1. 不殺生:生あるものを傷つけたりしてはならない
2. 不偸盗:他人の持ち物を盗んではならない
3. 不邪淫:みだらな性生活をしてはならない
4. 不妄語:うそ偽りを言ってはならない
5. 不綺語:ざれごとや誇張表現などをしない
6. 不悪口:憎まれ口をきかない
7. 不両舌:二枚舌を使わない
8. 不慳貪:けちけちしたり過度に欲しない
9. 不瞋恚:イライラしたり怒ったりしない
10.不邪見:よこしまな考えを抱かず、ブッダの教える因果の理にもとづく生活をする

これを十善業道といいます。
<三法印>

ブッダの教えの特徴は、3つの印で表れされ、それを三法印と呼ぶ。
それは、

・ 諸行無常
・ 諸法無我
・ 涅槃寂静

の3つになります。

諸行:迷いの世界での身体的、精神的な働きとその働きによって生み出される全てのもの
無常:この世にあるものは永遠にあり続けず、むしろはかないもの

諸法:すべての存在しているもの
無我:すべてのものは因縁によって生じており、それ独自で存在しているものではなく、常に他のものとの関係によって条件づけられ、制約されているので独立自存ではない

涅槃:輪廻の苦を抜け出た安楽な境地
寂静:この境地になるとすべての煩悩を滅しきって、心はまったく乱れがなく静まりかえる

ブッダは迷える生きとし生きるものを涅槃静寂の境地に向かわせるためにさまざまに教えを説きました。
<四聖諦>

お釈迦様が最初にした説法は四聖諦(ししょうたい)と伝えられています。
四聖諦とは、4つの聖なる真理という意味です。

1. 苦聖諦(苦諦):人生は思い通りにならない苦であるという真理
2. 苦集聖諦(集諦):苦をもたらす原因があり、それは欲望を引き起こしたりする煩悩であるという真理
3. 苦滅聖諦(滅諦):苦をもたらす原因である煩悩を滅した境地は涅槃であるという真理
4. 苦滅道聖諦(道諦):苦を滅した涅槃に至るには修行の道があるという真理

この4つの真理は2つずつの組み合わせになっています。

2の集諦が原因で、1の苦諦が結果、4の道諦が原因で、3の滅諦が結果で、どちらも原因と結果の組み合わせになります。

まず、結果を見つめ、その原因を探るという、因果関係で物事を理解する仏教の基本的態度が認められます。

これらの真理を深く体験するために、繰り返し瞑想に努めます。

人生は思い通りにならないから苦しい
思い通りにならないのは、思い通りにしようという煩悩が原因である
だから、その煩悩を瞑想によって消し去る
すると、思い通りにしようと思わなくなり苦しみは消え去る

ということでしょうか。
瞑想によって自らを深く見つめ直し、苦の原因である煩悩を消し去り、涅槃の境地に達する。

だんだん仏教の基本的な考え方が分かってきそうです。
<八正道>

四聖諦の第四番目の道諦には、修行における8つの実践の道が説かれています。
この八正道をすることで、涅槃に至ることができます。

1. 正見:正しい見解を持つこと。お釈迦様の教える通りに物事をありのままに見ること
2. 正思:正見にもとづいて正しく思惟すること
3. 正語:正見にもとづいて正しい語を語ること。うそをついたり、無駄なおしゃべりをしたり、他人を傷つけるような話などをしないこと
4. 正業:正見にもとづいて正しい行いをすること。殺生、盗み、みだらな性的行為をしないこと
5. 正命:正見にもとづいて正しい生活をすること。正しい手段で衣食住の糧を得ること
6. 正精進:正見にもとづいて正しい努力をすること。特に悪い行いは改め、善い行ないをするようにし、すでに行っている善い行いにますます励むこと
7. 正念:以上の6つにもとづいて、お釈迦様の教えを正しく記憶し、真実への思いに専念すること
8. 正定:正見や正念に即した正しい瞑想を行うこと

どれも当たり前のことですね。

・ 自ら心に正しい行いをすることを誓い
・ そのことに専念し
・ 精神を集中し
・ 知恵を磨き
・ お釈迦様の教えを身につけるための
・ たゆまない努力をする

そのための修行の枠組みが八正道になります。
仏教の修行のマニュアルの基本になっています。
<中道>

お釈迦様の教える実践の核心は中道であるといわれています。
中道とは偏りのない立場を実践することで、具体的には「苦」と「楽」の2つの極端に偏るのではなく、この2つの状態から離れた自由な精神を保つことをいいます。

これはお釈迦様の体験からこの真実を見出したといわれています。

・ 若い頃に経験した「快楽」からは真実を見出すことはできなかった
・ 出家修行時代の徹底した「苦行」によっても真実を見出すことはできなかった

この2つの経験から、楽に偏ることも、苦に偏ることも無益であると実感し、不苦不楽、つまり2つの極として対立するものから離れた自由な発想を持つように、と弟子たちに教えたと伝えられています。

このような2つの対立する見方、考え、価値などに偏らないことを中道といいます。

さらに、この中道の考えは輪廻するさまざまな存在のあり方の考察にむけられました。
それは、常見と断見です。

常見とは、世界は永遠不滅で、人は死んでもアートマンという実体が永遠に存在しているという考えです。
断見とは、この世界には何一つ永遠なものはなく、生あるのはこの世限りであるから死後のために努力するのは意味がないという考えです。

この常見、断見ともに極端な考え方なので、この2つの考えから離れて考えることも中道になります。

極端な考え、意見、行動を取らないように気をつけたいと思います。
<法(ダルマ)>

お釈迦様は悟りを開き、ありありと法を見た後、教えを説き続けたと伝えられています。
お釈迦様は、この法について語ったため、お釈迦様の教えを説き聞かせることを「説法」といいます。

この「法」という言葉は仏教において最も重要ですが、さまざまは意味がこめられており、一義的に理解することがきわめて難しい概念になります。

仏教における「法」とは、存在する物事を成り立たせ、その状態を保っている構成要素や属性のことを意味します。

車で言えば、ドア、ボンネット、ブレーキ、エンジン、形状、色など多様な構成要素から成り立っています。
人間も、肉体(顔、胴体、足…)、心理(欲望、怒り、無知…)などのいろいろな構成要素からなりたっており、それを考察の対象としました。

このような分析された存在のあり方(法)は、他の宗教に見られるような神が創造したものとは考えません。
しかも、ブッダがこの世に現れようが現れまいが、厳然とした存在の不変なあり方であり、それは存在の原理とも法則とも、心理とも考えられました。

お釈迦様は、そのような存在のあり方、法則を法(ダルマ)としてありのままに見抜き、迷っている者が理解しやすいように、存在のあり方、いき方をさまざまに説きました。

お釈迦様がいなくても構わない。
あきらかに他の宗教とは根本的に違う概念ですね。

神と仏の違いがこんなところにもあるのかもしれません。

神は全てを創造するもの。
仏は全ての物事をありのままに理解するもの。

まだ、漠然とですが、仏教の根本に触れた思いです(まだまだ全然浅いですが)。
<縁起>

縁起とは、あらゆるものは、他のあるものによって(依存して)成り立っているということで、法(ダルマ)、すなわち存在のあり方の特質に関する理解の原理になっています。

この原理を端的に示すのは、「これがあるとき、それがある。これが生じるとき、それが生じる。これがないとき、それがない。これが滅するとき、それが滅する」という定型句で、種々の原因や条件がある限り物事は成立し、成立させる原因や条件がなくなれば、現れた物事もなくなるということです。

例(花)

・ 原因:種子がなければ花は咲かない
・ 条件:水や温度や光が必要

種子、水、温度、光のどれかが欠けても花は咲かない。

原因を「因」、条件を「縁」といい、あらゆる物事は因と縁とによって結果(果)として成立している考えられています。

このような因果関係によって世の中のすべての現象を理解することは、あらゆるものを創造する原因を神に求める宗教とは根本的に異なります。

因果関係にもとづく現象の理解は科学的と考えられますが、仏教では科学のような客観的知識を求めることを目的とせず、あくまでも、因果関係にもとづいて迷いから悟りへと心身を変容させることに関心を集中させました。

因果関係の代表的な例が、四聖諦になります。

欲望などの煩悩が原因となって、人生は思い通りにならない苦という結果になり、煩悩を滅した状態、つまり、涅槃という結果は、修行という原因によります。

これらの因果関係はさらに精密に考察されますが、その基本となる原理が「縁起」になります。
<十二支縁起>

仏教の教理では、苦を滅した解脱(涅槃)を求めることを基本としています。
苦の原因を探り、その原因を滅することで苦の生存から抜け出ることを縁起として理論化しています。

・ 激しい欲求(渇愛)が原因になって
・ 執着を生じ
・ 執着することが原因で
・ 思い通りにならないこと(苦)が生じる
・ という縁起(因果関係)が骨格になる

この縁起の実相を知らずに自己の生存欲求のままに生きることを根本的な無知(無明)とみなします。
そして、苦は最終的に老・死という現実となって現れます。
この根本的な無知(無明)から老・死に至るまでの因果関係を最も完成した形式で理論化したのが十二支縁起の説になります。

1. 無明:欲望のままに生きる
2. 行:潜在的な意志による行い
3. 識:対象を識別する心の作用
4. 名色:心的活動の主観的、客観的側面
5. 六処:人間が持つ6つの感覚能力(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚・知覚)
6. 触:感覚器官と対象物、認識の結びつき
7. 受:触によって受けた作用
8. 愛:感受したものへの愛着
9. 取:愛着するものに執着する
10.有:執着によって引き起こされる生存
11.生:新たにもたらされた生まれ
12.老死:老いて死にゆく

この系列を原因から結果へと順次に考察する瞑想と、結果から原因とさかのぼって観察する瞑想があります。
そして、最終的に無明を滅することによって、生と老死という誰もが直面している苦を滅します。
<渇愛と無明>

様々な欲望が執着を生み、苦を引き起こすと考え、欲望を抑制することが仏教の実践的なテーマの核心になります。
その中で欲望の背後にはのどの渇いた者が激しく水を求めるような衝動があると考えられ、その状態を渇愛といい、その渇愛はお釈迦様の教える真実を知らない無明の状態であると考えられました。

渇愛は、次の3つに区分されます。

1. 欲愛:日常生活での物事への欲求
2. 有愛:生存そのものを対象とする欲求、この世では好ましい生を送り、来世は善いところに生まれようとする欲求
3. 有無愛:生存に何も意義を見出さなかったり、自殺願望を抱いたりするなどの虚無的な傾向に向かう欲求

この渇愛があるから、輪廻の中に生まれてしまうと考えられました。

これらの欲求に心を奪われることなく、お釈迦様の教える生の真理を知ることが仏教の教えになります。
このお釈迦様の生の真理を知らない状態を無明といい、明とはブッダの悟った知恵を意味します。

お釈迦様の生の真理とは何か?
苦から逃れる術は?

少しずつ仏教の核心に近づいていますね。
<煩悩>

煩悩とは、心身を煩わせるもの、悩ますもの、そして汚すものと定義されます。
代表的な煩悩は、

1.貪欲:欲望
2.瞋恚(しんに):怒り
3.無癡(むち):おろかさ
4.慢:誇り
5.見:誤った見解
6.疑:疑い

です。
特に、貪欲、瞋恚、無癡の3つはとりわけ心を迷わせ、悩ませる働きが強力であるので、三毒といい、貪瞋癡(とんじんち)と呼ばれることが多いようです。

こういった煩悩を抑制し、心を安定させ、心を清めることで、苦から解放されると考えられるので、煩悩を抑えることが修行の中心課題になります。

煩悩に関しては、心の中の汚れという考え方と、清らかな心をおおう汚れという考え方があります。
<五蘊>

自分という存在は、他のなにものにも代えがたい「自己」であると思っているが、そのような「自己(我)」は実在しないと仏教は考えます。
つまり、我の存在しない無我の境地が仏教の基本で、精神にも肉体にも自己を認めることができないのに、思い誤って自己とみなし執着していると考えます。

この自己存在についての考えを、仏教独自の思想として理論化したのが五蘊の考えになります。

五蘊とは自己を形成する五種の構成要素で、

1.色(しき):肉体や物質
2.受:感じたものを受け入れる作用
3.想:外界のイメージを構成する作用
4.行:意思や心の作用
5.識:認識する作用

になります。
これら五種が種々の条件で結びつき、自己存在が成り立っていると考えるのが、五蘊仮和合といいます。

あらゆる生きものは、この構成要素の組み合わせに過ぎず、その組み合わせによって魚にも鳥にも獣にも人間にもなり、その組み合わせの条件は過去の業によって決定されます。
それゆえに、特定の霊魂が永遠に輪廻を繰り返すのではなく、五蘊の組み合わせが繰り返しさまざまな生きものとなって現れるのが輪廻であると考えられました。

このように五種の構成要素に還元すれば、そのいずれにも自己といえるものはないと考え、そこには死んでも滅することのない霊魂のような、変化することのない自己は認めず、五蘊を観察することで無我を知ることが重要になります。

私たちは私たちゆえに私たちらしいと思っていますが、それが間違っているというのが仏教の考え方です。

体も感じ方も視覚も意思も認識も別々に構成されて、組み合わせも千差万別。
組み合わせによって犬にも猫にも蛙にもなるなんてにわかに信じられません。
ちょっと仏教が分からなくなりそうです。
<十八界>

自己の内面に働く6つの感覚・知覚作用と、それらが外界に向けて作用するときの6つの対象を十二処と理論付け、この十二処によってイメージが形成される6つの領域(六識界)と十二処をあわせて十八界といいます。


  六根(自己の内面)  六境(外界)
1.眼根(視覚能力) → 色境(色と形)        → 眼識
2.耳根(聴覚能力) → 声境(声や音)        → 耳識
3.鼻根(嗅覚能力) → 香境(におい)        → 鼻識
4.舌根(味覚能力) → 味境(味)          → 舌識
5.身根(触覚能力) → 触境(触れられるもの)    → 身識
6.意根(知覚能力) → 法境(感覚されたものの観念) → 意識

このうち、1〜5によって感覚が成立し、それが6によって認識されます。
このように外界と心は結びつきます。

この考えはさらに理論化され、対象と感覚・知覚機能とが結びつくことでイメージが形成される領域を想定しました。
この感覚・知覚機能(根)と対象(境)と表象作用(識)の3つがそれぞれに六種に組み合わされ、この構造が仏教における認識論の基本になります。

…と書いていてあまりにも観念的で意味がちょっと分からないです。
五感と第六感ということでしょうか!?
<知恵の活用>

仏教では、個別的な事物に普遍的な本質や原理を探求する知恵を求めます。
この知恵は、「知を愛すること」を意味する哲学に似ている側面がありますが、仏教が求める知恵はより実践的になります。
仏教では、この知恵を解脱や涅槃のために活用することを実践的に求めます。
論理のためだけに知恵を活用することは厳しく諌められます。
このような実践的に求められる知恵を、般若と称します。

苦の存在である輪廻における生は、お釈迦様が見出した原理・真理に関して根源的に無知であるから繰り返されると考えられました。
このような無知を無明といいます。
明とは、仏教が求める知恵のことで、輪廻から抜け出し、苦を滅した平安な境地へと至るために実践的に求められるものです。

この明といわれる知恵は、煩悩を破壊する超人的で不思議な力が秘められていると考えられて、この力が次第にブッダの救済の力として受け止められ、ブッダを救済者としてあがめるとともに、この力を得ることは超人的な能力を獲得することになるとも考えられるようになりました。
<慈悲の実践>

慈とは、他人に利益や安楽をもたらそうとすること。
悲とは、他人の不利益や苦を取り除こうとすること。

ここで誤解されるのは、母親が自分を犠牲にしてまで子をいたわる気持ちを慈悲と思う人が多いのですが、仏教ではこれは慈悲とはいいません。
母親が自分の子だけを愛するのは愛着である、煩悩の所産になります。

そうではなく、慈悲とはすべての生きとし生けるものへの純化された愛情になります。
慈悲は対人間関係のみに求められるものではなく、全ての生きものに及ぶべきで、この考え方は不殺生の戒めに結びつきます。

この慈悲に、他者を安楽にする喜び(喜)と、自己・他者や友・敵といった区別には無関心になる態度(捨)とが加わり、慈悲喜捨の4つの徳目が最高の境地(四梵住)であるとも、はかりしれない心(四無量心)ともいわれます。
このような徳目の実践が仏教の道徳的観念の根拠になりました。

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