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古写真肖像☆考証館コミュの幕末維新期の肖像(幕府)

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激動の維新期、幕府側にも多くの逸材がいました。
佐幕思想のために奔走した彼らの肖像を紹介する場です。
宜しくお願いします!

画像〜最後の将軍・徳川慶喜古写真

コメント(168)

また、ちょっとご質問です手(パー)
松平容保には

禁門の変での働きを孝明天皇から認められ
その際書簡と御製(和歌)を賜ったのだが、
彼はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、
死ぬまで手放すことはなかったという。

との逸話が残っていますが、その「竹筒」が写っているものは
ありませんでしょうか?
なにかに「首から提げていた」と書かれていた記憶があるので
どこかに写ってる可能性はないですかね?
ちょっと前に、会津の鶴ケ城での企画展で展示されていたはずです。
その時の画像とかあるかもしれませんね。
探してみます。
ををexclamation & question早速ありがとうございますぴかぴか(新しい)
じゃあ、実話なんですねexclamation & question
画像楽しみにしています揺れるハート
ありましたよぴかぴか(新しい)

左;松平容保が孝明帝より賜った「御宸翰」です。
  司馬遼太郎の「王城の護衛者」でも有名なアレです。

中;孝明天皇
右;松平容保
竹の筒の方、たぶん画像は世に出てないかも。。。
ををexclamation ×2御宸翰そのものが世に出てるんですね手(パー)
ご遺族が隠し持っておられるとしか聞いてなかったので、
作り話のたぐいなのかと思ってました。

私が知らなかっただけですねダッシュ(走り出す様)
お恥ずかしい衝撃
竹筒の方は、肖像写真にちょっと写ってたりしないかな・・・
位ですので、大丈夫ですわーい(嬉しい顔)

ありがとうございましたるんるん
>よしやす (^-^)ノさん、Qさん
 竹筒に全ての御宸翰は入らなく。ですから世には出てこないでしょう。
そして、容保が授かった御宸翰のうち一部しか公開されていない。
他のは、問題があるので公にできないと思います。
ご意見、有り難うございます。
世の中には、公には出てこないすごい資料がたくさんあるのでしょうね。
特に、いろんな方(歴史上有名な人々等)の御子孫やその家と親しかった家の方々などは、家の蔵の中などにも まだいろいろとお持ちなのでしょうね。
本当に興味深いことですが、それぞれに公にしないご事情がある場合もあるでしょうし、あまり興味本位で見たい見たいと言うのもいけませんね。
でも、いつか少しずついろんな資料がみつかったり公になったりして、いろいろとその都度発見したり驚かされたりするのも楽しみなことです。
生きている間に、後どれくらいそうしたことに触れられるかも、少し楽しみな感じがします。
小栗上野介(1827〜68)
名は忠順(ただまさ)。
日米修好通商条約批准のため渡米、世界を一周して帰国。
勘定奉行として横須賀製鉄所建設を進める。
完成するまで幕府はあるのかという問いに、「幕府の運命に限りがあるとも、日本国の運命には限りがない」と答えたという。
討幕派諸藩には抗戦を主張。
知行地の権田村(群馬県高崎市)で官軍により処刑される。
会津の家老たち。

最後の筆頭家老 梶尾平馬
城代家老 西郷頼母
家老 佐川官兵衛
駐日公使ハリスと通辞ヒュースケン、そしてそれを護った幕臣たち。。。
このあたりから、幕府の維新が揺らいでいきますね。

因みに、ヒュースケンは寝ているところではなく、斬られて亡くなられたときの写真です。
以前にも載せたことはありますが、桜田門外の変でこの世を去った井伊直弼です。
最近、大河でも登場し、涙を誘いました。
引き続き、御大老の関連画像。
奥さん(正室)の昌子さん、桜田門外の変の画像です。
有名な写真です。今年の大河ドラマ『篤姫』こと『天障院』

これから、どんな風に描かれるのかわからないけど、天障院が和宮を偲んで、箱根で詠んだ歌です・・・

君の齢 

    止めかねたる早川の 

      水の流れもうらめしきかな
会津の家老の方々。。。

佐川官兵衛
田中土佐
神保修理

当時の会津の立場や処遇には、涙なしでは語れないところがありますね。
幕末四賢候・伊達宗城の四男・奥平昌邁です。
なかなかのイケメンだと思いませんか?
> 八犬伝さん

『歴史読本』でも紹介されていましたね。小栗旬さんに少し似ています。
>こひみさん

早速のレス、ありがとうございます。以前図書館で古写真ばかりを集めた本が置いてあり、借りて帰ったことがあります。そこに奥平昌邁の写真が載っていたので覚えていたのですが、最初の方のページに竹内何とかという侍の写真も載ってました。それが吉本新喜劇の島田一之介にそっくりなので驚きました。島田一之介を知っている人は少ないと思いますが・・・
>八犬伝さん
島田一之介は知りませんが外国奉行兼勘定奉行の竹内下野守の事でしょうか?
文久二年(1862)遣欧使節団の正使でナポレオン三世に謁見し、修好条約を結んだ人です。


>Kenさん
ありがとうございます。そう、これです。

ちなみに島田一の介は↓にあります。

http://www.yoshimoto.co.jp/shinkigeki/html/zain.html

表情が違うので似ているようには感じないかも知れませんが・・・
既に出てたらすみませぬ・・・

写真1:敏腕外交官・田辺太一

写真2:全米を熱狂させたトミーこと立石斧次郎(右)
お兄さんとビールを飲んでる写真♪かわいーーーー!

写真3:イケメン外国奉行・池田長発
写真1:幕末の幕府首脳と米国公使の記念撮影。
右から大関増裕、松平太郎、勝海舟、稲葉正巳(館山藩主)、石川重敬、ファルゲンブルグ米公使、江藤尭則

写真2:全米を熱狂させたトミーこと立石斧次郎
遣米使節団の時

写真3:全米を熱狂させたトミーこと立石斧次郎
遣米使節団の時その2
最近、青森で発見された、会津藩主 松平容保公の写真です。
戊辰戦争後、嫡男・容大に家名存続が許され成立した斗南藩が青森にありました。
斗南藩の旧会津藩士の方の遺品から見つかったそうです。
写真は会津戦争時、娘子隊に参加し幕府軍と戦い、
生き延びた平山蝶(右)と吉の姉妹(明治五年撮影)

真中は私有の「鎮将府よりお達し會津御処置書写」

右は私有の「松平肥後嘆願書写」
ジュール・ブリュネ

写真・中;
箱館政権のブリュネ(1869年)
前列左から2人目がブリュネで、その右は副総裁の松平太郎。

写真・右;
フランス陸軍参謀総長時代(1898年)
中央で脱帽している人物がブリュネ。

フランス陸軍の士官で、江戸幕府陸軍の近代化を支援するため派遣されたフランス軍事顧問団の一員として来日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に、大鳥圭介や土方歳三らと共に参加。

1838年1月2日、フランス東部アルザス・オー=ラン県ベルフォール生まれ。
エコール・ポリテクニーク(理工科学校)を卒業後、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を卒業し、陸軍砲兵少尉に任官。
その後、砲兵中尉としてメキシコ戦争に出征し、レジオンドヌール勲章。

ナポレオン3世は、開国した日本との関係を深めるため、15代将軍・徳川慶喜との関係を強め、1866年に対日軍事顧問団を派遣することを決めた。
ブリュネはシャルル・シャノワーヌ参謀大尉を隊長とする軍事顧問団の副隊長に選ばれ、フランス陸軍砲兵大尉として1867年初めに日本に到着。

軍事顧問団は横浜大田陣屋で幕府伝習隊を1年以上訓練したが、1868年の戊辰戦争で江戸幕府は明治新政府軍に敗北。

フランス軍事顧問団は勅命によって新政府から日本からの退去を命ぜられたが、ブリュネらフランス軍人は残留を選択し、フランス軍籍を離脱。
ナポレオン3世やシャノワーヌらにその旨の手紙を送った上で、イタリア公使館での舞踏会の夜に脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流、箱館戦争に従軍した。
シャノワーヌ隊長は参加しなかった。

ブリュネは、箱館で江戸幕府の海軍副総裁であった榎本武揚を総裁とする、いわゆる「蝦夷共和国」(箱館政権)の創設を支援した。

ブリュネは陸軍奉行らを補佐して箱館の防衛を軍事的に支援し、4個の列士満("régiment" レジマン、フランス語で「連隊」)は、それぞれフランス人下士官(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていた。

1869年6月、五稜郭に立て籠もる箱館政権軍を明治新政府軍が攻撃し、五稜郭は陥落、総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降する。
ブリュネらは陥落前、箱館港に停泊中のフランス船に逃れた。

ブリュネは裁判のためフランスに送還されたが、折りしも1870年に普仏戦争が勃発して軍に復帰することを許された。
セダンの戦いでプロイセン軍に包囲されたフランス軍はナポレオン3世以下全軍降伏し、ブリュネも捕虜となったが、間もなくフランス政府が講和を結んだため、釈放されてパリ・コミューン鎮圧に参加した。

その後の詳しい経歴は不明だが、1898年には戦争相となっていたシャノワーヌの下でフランス陸軍参謀総長となる。

また、日清戦争では日本軍の上陸を支援し、シャノワーヌとともに明治政府から勲二等旭日重光章を授与されている。
これは外国人に授与される勲章としては最高位のものであり、明治政府の閣僚となっていた榎本武揚の上奏があったと言われる。

1911年8月12日にパリ近郊の自宅で死去。
ブリュネの描いたスケッチ

左;幕府軍
中;幕軍の歩兵
右;長鯨丸の水兵

仏軍の陸軍砲兵将校でありながら、なかなか絵心があり、今となっては大変貴重な史料を遺している。

一度は仏軍を抜けてまで、日本の幕軍と最後まで共に五稜郭まで戦ったことといい、
復隊後、参謀総長になってからにおいてまで、日清戦争で日本を支援していることなどから、
また、上のスケッチを見ても、なかなかの親日家であったことなどが覗える。

結構な変わり者である…とも、勝手ながら思う。
土方さんとも親しかったであろうから、スケッチくらい遺してくれればよかったのに。。。

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