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Martin Heideggerコミュの第二節・存在への問いの形式的構造  第一パラグラフ・第二パラグラフの読解について。

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第二節・存在への問いの形式的構造
第一パラグラフ・第二パラグラフの読解

凡例:
「」はハイデガーや私の強調部分
>は私の解釈。
〔〕は私の付け加え。

..................................................................


存在の意味への問いが「設定される」べきである。

>「存在の意味への問いが作られるべきである。
>存在の意味への問いが創造されるべきである。」
>これは、前節から言って、
>「存在」というものが不明瞭であるからであって、
>それに対して、
>問いを創造することが重要だといっている。

この問いが、
一つの基礎的な問い、
それどころか
基礎的な問い「そのもの」であるなら、
そのような発問は適切な見通しを必要とする。

>そのものって何?
>なぜハイデガーは「そのもの」であると強調したのか?
>分からない。
>なぜ、
>「存在の意味への問い」が
>「基礎的な問いそのもの」
>になるのだろうか?
>そして、
>問題なのは、
>これから、
>明らかに、
>ハイデガーは
>存在の意味への問いを
>基礎的な問いそのものとして、
>扱うことになることだ。
>だから、
>なぜ、この問いが基礎的な問いそのものになるのかを、
>私たちは問わなければならないと思う。


だから、
問いというものには何が属しているのか、
簡単に論究さればければならない。
そうすれば、
存在問題が一つの「際立った」問いとして看取できるものになってくるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

問うことは、いずれも一つの探求である。
あらゆる探求は探求されているもののほうから先行的にその方向を定められている。

>たとえば、
>ある存在者Aを探求するとする。
>すると、
>私たちはAをまずAとして認識しなければ、探求は始まらない。
>つまり、
>AをAとして見ることによって、Aを探求することになる。
>だから、
>Aを探求するということは、
>Aが「始めから」Aとして定まっていることが必要である。
>だから、「先行的に」、その方向を定められているのである。

〔存在の意味への問いを〕
問うことは、
存在者が存在している事実と存在している状態において、
その存在者を認識しつつ探求することである。

>たとえば、
>私の目の前には
>コップ(存在者)があるが、
>「この」コップとは何か?と問うとき、
>つまり、
>「この」コップを知るためには、
>なによりも
>「第一に」、
>コップが存在している事実を了解しなければならない。
>そしてそのことがあって、
>次に、
>「コップの中にはコーヒーが入っている」
>「コップは透明だ」
>などという状態を確認しなければならない。
>つまり、
>実体と属性の関係のように、
>私たちはまず、
>このコップが「存在している事実」を確認し、
>それから、
>このコップの「存在している状態」を確認しなければならない。

>そして、
>このコップを
>探求する〔もっとよく知る〕とは、
>このコップを持ってみる
>このコップを描いてみる、
>このコップを割ってみる、
>など、
>このコップを「経験」することが必要となってくるだろう。
>その際、
>勿論、
>私はこのコップを「このコップが存在する」と分かりながら
>(ただし、
>コップの意味を飲み物を飲むものと限定するのではなく、
>もっと広い形で、それが「存在する」と分かりながら)
>経験しなければならない。
>つまり、
>リアリティー(実在性)をもって、
>存在するということが分からなければならない。
>それが、
>認識することであろう。
>だから、
>認識しつつ探求することは、
>それが存在することが分かりながら、
>その上で、
>それをもっとよく知ることであると私は考える。

認識しつつ探究することは、
「根本的に探究すること」になりうるが、
この根本的探究とは、
その問いが向けられている当のものから邪魔者を取り払いつつ、
その当のものを規定するにほかならない。

>これは、
>前の前の文の言い換え、または、付け加えだと思われる。

>つまり、
>それが存在することが分かりながら、
>その上で、
>それをもっとよく知ることは、
>根本的に探究することになりうるが、
>この根本的に探究することは、
>たとえば、
>存在者AをAとして、規定することに他ならない。
>なぜなら、
>AをAとして規定しなければ、
>いったい、何を探究するのか、全く分からなくなってしまうからである。
>また、
>たとえば
>さっき書いた
>「このコップの探究」について考えてみると、
>つまり、
>このコップを描くということを考えてみると、
>まずは
>目の前にある本、パソコン、などを私の前から消して、
>このコップ自身に向き合わなければならない。
>このコップを中心に添えるための、
>構図を決めなければならない。
>つまり、このコップについて考えるには
>邪魔者を取り除いて、
>つまり、本やパソコンを背景におしこんで、
>そのものを浮かびあがらせてこなければならない。

〔だから、〕
問うことは何かを問いたずねることであるのだから、
その問いにおいて「問われているもの」をもっているわけである。
何かを問いたずねることはすべて、
なんらかの仕方で、
何かを手掛りに問い合わせることである。


>だから、
>問うことは、
>たとえば、
>このコップとは何か?と考えることは、
>このコップを
>それが存在することが分かりながら、
>その上で、
>それをもっとよく知ることである。
>ということは言い換えると、
>そのとき、
>私はこのコップを確かに、
>一つものとして規定しているのであり、
>「それ」として、
>扱うことが出来る。
>つまり、
>「それ」をもっていると、さしあたり、いえるわけである。

>また、
>何かを問いたずねることは、
>たとえば、
>このコップとは何か?をたずねる〔問う〕ことは、
>まずは、
>このコップを触ったり、見たり、たたいたりしながら、
>分かることである。
>つまり、
>「このコップ」を手掛りに、
>触ったり、見たり、たたいたりする仕方で、
>たずねるときに〔問うときに〕
>分かることである。

〔そして、〕
問うことには、
問われているもののほか、
「問いかけられているもの」
が属している。

>そして、
>問うということには、
>たとえば、
>このコップについて考えてみると、
>このコップとは何か?と
>問う声を聞くもの、問いかけられている者が
>この問いの中に包含してなければならない。
>すなわち、
>この疑問文が成立するためには、
>このコップとは何か?
>という疑問を聞くもの、
>つまり、
>「問いかけられているもの」が必要となる。
>だから、
>問われているもの(例えば、このコップ)の他、
>問いかけられているもの(例えば、この私)が必要になってくるのである。


根本的に探究する問い、
言い換えれば、
とくに理論的な問いにおいては、
問われているものは規定されて概念へともたらされるべきである。

>(言い換え)
>根本的に探究する問い、
>つまり、
>それが存在することが分かりながら、
>その上で
>それをもっと知ろうとする問い、
>言い換えると、
>とくに理論的な問い、
>においては、
>問われているもの(このコップ)は、
>規定されて概念へともたらされるべきである。

>ここで言われている「理論的な問い」とはいったいどういう問いなのだろうか?
>Q:このコップとは何か?
>A:このコップは透明だ。
>は、理論的な問いといえるのだろうか?
>これに飽き足らず、もっとよく知ろうとする態度が、
>理論的な問いなのだろうか?
>分からない。
>また、
>「規定されて概念へともたらされるべきである」と言明しているが、
>このコップはこのコップだと扱うことが
>(それがリアリティーがあるものとして認識することが)
>規定することであるが、
>そして、
>それから概念へともたらされるべきであるとあるが、
>概念へともたらされるとはどのような事態なのだろうか?
>どのような態度をとれば、概念へともたらされるといえるのだろうか?
>これもまたなぞである。

そうだとすれば、
問われているもののうちには本来的に志向されるものとして、
「問いたしかめられるもの」がひそんでいて、
このものに達したとき問うことはその目的を果たすわけである。

>Q:このコップとは何か?
>A:このコップは透明だ。
>の場合、
>「問いたしかめられるもの」は、
>「透明である」ということである。
>そして、ここから考えると、
>「問いたしかめられるもの」とは、
>あるものの「様態」を考えることになるのであろうか?
>ということから、
>存在の意味とは何か?
>と問うことは、
>それの存在の意味の「様態」、存在の意味の「状態」を問うということなのであろうか?

>また、「本来的に志向されるものとして」(渡辺)
>もしくは、「根本において指向されたものとして」(細谷)
>とあるが、指向/志向するを
>「まなざしを向けること」と解して、
>本来的に/根本においてを
>「その本質を見極める」と解して、
>これを、
>「その本質を見極めるまなざしを向け」と解釈してみよう。
>すると、上記の様態、状態は、
>決して、コップの本質を見極めたものではないので、除外されるべきであろう。
>だから、
>「問いたしかめられる」られるものは、
>「問われているもの」のうち、それを本質的に構成するものそれ自体でなければならない。
>それにしても、
>「志向的に」「本来的に」の意味が分からないので、
>これは、全くの仮説であるのだが。

問うこと自身は、
或る存在者が、
つまり問う者が
とる態度として、
存在の或る固有な性格をもっている。(渡辺)

問うことは、
すなわち問う人のはたらきであるから、
それ自身、固有の存在性格を帯びている。(細谷)

>細谷訳だと、分かりやすいが、
>これはつまり、
>問うこと自身には、
>問うもののはたらきであるのだから、
>固有の存在性格を帯びている。
>つまり、
>問う者の態度が、問うことに、反映されてくるということだ。

>そして、ここで疑問なのだが、
>「問いかけられるもの」と「問うもの」は違う存在者なのであるだろうか?
>私はこれまで、一緒のもののように感じてきたが、
>どうも、この二つは全く違うものとして考えるべきであるように思われる。
>だが、問う者の固有の存在性格〔存在の或る固有な性格〕は、
>以後どのような形で出てくるのだろうか?
>問うものは範例的な存在者であるのだろうか?

問うということは、
「ただ漫然に問うだけ」というふうに遂行されることもあれば、
明示的な問題設定として遂行されることもある。
この明示的な問題設定に特有なことは、
問うことが問い自身の前述の構成的諸性格すべてにわたって
あらかじめ見通しがきくものになっているという、
この点にある。

>これは、
>ただ漫然と聞く、つまり、ただ何気なく問うことは、
>「問われているもの」「問いかけられているもの」「問いたしかめられているもの」
>の三つがそろってなく、
>明示的な問題設定、明確な問題設定は、
>この三つがちゃんとそろっていることが必要であるということを言っている。

コメント(55)

ilbikkey さん。

お返事ありがとうございます。

>あまり時間がないので、今は♯14へのお返事として、「コップ」のことだけ触れておきます。
>たしかに、僕は「このコップとは何か」という二文さんの疑問を、半分意図的に(笑)「コップとは何か」
>という問いにすり替えました。
>そのわけは、「この」コップを「〜とは何か」という語法で問うことは不可能ではないかと感じたからです。
>だからあえて、「個物はそれとして問うことができないのではないか?」という挑発(笑)も含めていました。

について。

あっ、挑発だったんですね(笑)
ぜんぜん、気が付きませんでした(笑)
そして、僕も、
>Q:このコップとは何か?
>A:このコップは透明だ。
について、この問いは間違っているんじゃないか?
と疑問におもっていました。

というか、
まず、
what(何) と how(どういう風か)を取り違えてますね(笑)

ただ、
how をどのよう「である」かと解すれば、
なんとかいけるとか、
屁理屈を吐きそうですが、
ちょっと、いろいろややこしそうなので、逃げておきます。
(頭がパンパンになってきたので、逃がしてください・笑)
たぶん、
読解にはあまり関係ないので、
そっとしておいてください(笑)

そして、
問い自体が
不可能である(無意味である)ことには、
書いた本人ですが、半分賛成します(笑)
>ハイデガーの場合「問われてるもの」と「問いかけられているもの」の関係が、
>例えばコップの例を出した場合のそれとどの程度リンクしているのか、僕も今日もがあります。 

について。

失敗だが考えたことを述べてみる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

問い:「コップとは何か?」において、
「問いかけられるもの」と「問われているもの」の差異はなんだろうか。

まず、
細谷訳の「〜に」(問いかけられるもの)と
「〜へ向かって」「〜へ向けられた」(問われているもの)の差異であることは確かだろう。
しかし、
この「〜へ向かって」と「〜に」は同じように見える。
どうやっても分けられないように私には思える。

しかし、
「コップとは何か?」と問うとき、
私は、「コップ」について、了解していることは確かだろう。
つまり、
先立って、「コップ」、を理解していなければならない。

「コップは飲み物を飲むものである」
つまり、
私は、コップを定義することになる。

しかし、「存在」は定義できない。
しかし、私たちは「存在」を知っている。
定義できないが、それを「知っている」のである。

それから、
私は、
もし、コップ学というのものを立てるとするならば、
様々なコップに問いかけなければならない。
このとき、
「〜に」が成就されることになるだろう。

おそらく、「〜に」は
行為を導く、具体的な行動、具体的な経験を差すように思われる。

私は沢山のコップを手掛りにして、
それを学として立てていく。

例えば、
コップ学の専門家ならば、
様々なコップを知っており、
このコップは水を飲むのに適している、
このコップは茶色が美しい、
など、
様々なコップを経験している
もしくは、
様々なコップの知識を有している
ことによって、
専門家たる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

残念ながら、
こういう分かりきったことしか言えない。
まだ、考えが足りない気がする。
♯19 ilbikkeyさん

お返事ありがとうございます。
ちょっと考えをまとめるのに手間取ってしまい、
今頃のお返事です。

さて、まず、
>まず、第2節での「問われているもの」と「問いかけられているもの」は、
>書き出しは形式的だったにしても、
>『存在と時間』では前者が「存在」、後者が「現存在」(≒人間)になる、」>というところまで本文中で確定されています。
>確認してみて下さい。もしも、具体的にどの部分が該当するか読みにくけれ
>ば、改めてご質問下さればと思います。
なのですが、
これに関して全く異論はありません。
全くそのとおりだと思います。

ですが、僕が知りたいのは、


どうして
「存在への問い」を問うのに、
「問う者」である「現存在」(≒人間)を
範例的な存在者にしなければならないのか?
ということです。
いいかえれば、
「問う者」がなぜ「現存在」になり、
そして、「問いかけられるもの」すなわち範例的存在者になるのか?
ということです。


たぶん、以下引用ですが、
ここの意味が分かってないために、
この答えが出せないのではないかと考えています。




(以下引用)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

存在への問いが表立って設定され、
この問い自身が完全に見通されながら遂行されるべきであるなら、
これまで解明してきたところにしたがえば、
この問いを仕上げるために必要になるのは、
存在を眺めやる仕方、
および
存在の意味を了解してそれを概念的に捕捉する仕方を究明すること、
また、
範例的な存在者を正しく選択する可能性を準備し、
この範例的な存在者へと近づく通路の純正な様式を際立たせることである。

眺めやること、
了解して概念的に捕捉すること、
選択すること、
通路をたどって近づくことは、
問うことの構成的な諸態度であり、
したがって、
或る特定の存在者の「諸存在様態」ですらあるのだが、
この特定の存在者とは、
問うものであるわれわれがそのつどそれであるところの、
まさにその存在者にほかならない。

それゆえ、
存在問題〔存在とは何か?という問い〕を仕上げるとは、
或る存在者
-----問いを発する存在者を-----
その存在において見通しをきくものにすることである。
〔すなわち〕
存在問題を問うことは、
或る存在者自身の存在様態として、
この問うことにおいて問いたずねられている当のもののほうから
-----すなわち、存在によって-----
本質上規定されているのである。
われわれ自身こそそのつどこの存在者であり、
またこの存在者は問うことの存在可能性をとりわけもっているのだが、
われわれはこうした存在者を、
術語的に、「現存在」、と表現する。

存在の意味への問いを表立って見通しのきくように設定するためには、
或る存在者(現存在)をその存在に関して先行的に適切に究明しておく必要があるのである。

(引用終わり・渡邊版・P17〜18ー細谷版P38〜39)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



特に、「存在様態」や「問うことの存在可能性」というところがわかりません。
渡辺先生の解説本を読んでもすっきりしませんでした。

これは一体どういうことをいっているんでしょうか?

さらに、

>「存在」というものに漠然とした形ではあっても何らかの了解を保持している存在者である「現存在」、
>すなわちわれわれ自身を「問いかけられるもの」と規定した。

とilbikkeyさんはおっしゃっていますが、
「存在」に対して「了解」をもつとは一体どういうことなのでしょうか?


私は、
上記♯18で、
「存在」をわれわれは知っていると書きましたが、
これもまたあやふやな言動であると思いました。


何か、何を言いたいのか、うまく説明できませんが、
ここで詰んでいるので、何らかのお返事がいただければ、打開出来るのではないかと思っています。


最後に、
コップ学(笑)の件ですが、
解説ありがとうございます(笑)
なぜ自分でもこんなこと書いたのか?わけわからないですが、
たしかに、cupnessをしるものがもっとも良く知るものではありますね。
♯24 ilbikkeyさん

早速のお返事ありがとうございます。
ちょっとまだ、質問疑問を言葉にだせるまでになっていないのですが、
一点問い合わせます。

>「問うことの」は、後の「存在様態」と同格としてとって、「問うという存在可能性」とも訳せる部分です。
は「存在様態」ではなく、「存在可能性」ですよね??

ちょっと「存在様態」では意味がわからなかったので、そうではないかと問い合わせておきます。
それでは返事を書いていきたいと思います。
まず、下記についてですが。

>ちょっと「コップ」にこだわるようですが(笑)、
>たとえば「コップとは何か?」という問いを立てる場面を想像してみます。
>けれど、この設問はよく見るとおかしな疑問ですよね。
>ある程度はコップというものが、ほかのいろいろなものとどういう点で違うの
>か、についての理解を前もって持っていないなら、「コップ」とはなにか?と
>いう問いも立てられないはずです。
>ほんとうにコップについて「何も」知らない人は、「コップとは何か?」とい
>う語法で問うことができないのではないでしょうか。
>「存在」についても、ある範囲まではこれと同じかたちで考えられるはずで
>す。
>ただ、「存在」は「存在者」ではないから、存在への問いだけは少しかたちが>違う、とは言えそうです。

全く疑問をはさむ余地がありません。

ちょっと、
>ただ、「存在」は「存在者」ではないから、存在への問いだけは少しかたちが
>違う、とは言えそうです。
が引っかかる部分がありますが、
(存在者への問いも、「問われているもの」「問いかけられているもの」「問い確かめられるもの」があるきがするので)

そこは後で書かれるとして、全く上記のことに反問はありません。
ilbikkey さん

お返事ありがとうございます。

というか、
>僕の言い方が難しかったので、考えにくかったのですね。
なんてとんでもない。
僕の理解力(思考力)と知識不足が原因ですので、
こちらこそ、いろいろ足労をおかけしてすいませんです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、
存在者〔コップ〕とは何か?と
存在〔〜がある、〜である〕とは何か?
問いの違いですが、
上記のご説明でだいぶ分かりました。
ありがとうございます。

上記二点について、大丈夫です。

また、
>「存在」は決して、「存在者」からの抽象概念ではありません
>(ハイデガーはそう言っていると僕は思います)。
>むしろ「有る」という、動詞に近いようなことがらです。
についても、

ハイデガーはそのように言っているように僕も思います。
問い:
「このコップ」とはなにか?が作られるためには、
まずもって、
「このコップ」が
「存在している」(ダーズザイン)ことを認識し、
「どうあるか」(ゾーザイン)を認識していなければならない。

そして、これが成立するには二つの条件がいる。

それは、
第一に「このコップ」を眺めやっていなければいけない、
「このコップ」に視線(まなざし)を向けなければならないということだ。
これが「〜へ向かって」の意味だろう。
すなわち、
「このコップ」に集中し(まわりの背景を消し)
それを「このコップ」として、
【ひとつのもの】として押し開き(展示し)【規定】しなければならないということだ。
これが第一に必要になる。

そして、第二に必要になるのは、次のことだ。

すなわち、
【実際に】この問いに応えるためには
【私が見なければ、つまり、私が経験しなければならない】ということだ。
これが「〜に」の意味だろう。
つまり、このコップを見て、このコップを持って、このコップを触ったとき、これらは成立する。



・・・・・・・・・・・・・・・・・


ilbikkeyさん、他、みなさんこんにちわ。
二文です。

ちょっと、上記のことを考えたので、ここのトピックに載せてみます。

二年も経っていますが、
僕の中の時間は過ぎていないらしく、
まったくここから成長していませんが、
みなさんのお返事や考え方をお教えいただければたすかります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また、いきなり上記の文章でワケが分からないと思いますが、

いろいろ考えたのですが、
そしていきなり批判をするのですが、

>たしかに、僕は「このコップとは何か」という二文さんの疑問を、
>半分意図的に(笑)「コップとは何か」という問いにすり替えました。
>そのわけは、「この」コップを「〜とは何か」という語法で問うことは不可能ではないかと感じたからです。
>だからあえて、「個物はそれとして問うことができないのではないか?」という挑発(笑)も含めていました。

に対して、コメントがあるので書きます。

二年前は体力不足のため、「このコップ」とは何かを手放してしまいましたが、
しかし、
今、頑張って考えてみると、むしろ事態は逆で、
「コップとは何か?」という方が「〜とは何か?」という語法で問えない気がしています。
というよりも、
「コップとは何か?」の方が「異常」な問いだと感じました。

理由は思いつきませんが笑

そして、
ilbikkeyさんが、
「このコップ」とは何か?は「〜とは何か」で問うことができないとおっしゃいましたが、
少なくとも、それは違うと考えました。

というのも、
「このコップ」には
「問いたしかめられる」
「である」(ist:istでよいのかわからないですが、ハイデガーがistにしているので、そうしておきます。)
が存在しているからです。
これは間違えありません。

どうでしょうか?
ilbikkeyさん

早速のお返事ありがとうございます。
こちらこそ、
本当に拙い読みに付き合って頂いて、
感謝、感謝です。

ありがとうございます。

だから、
お時間出来た時に、ゆっくりお返事いただければ助かります。

私的なことですが、
僕も、仕事が今落ち着いて、
やっと「存在と時間」に立ちかえれる機会を得て、
前に自分の書いた文章に戻っているので、
すぐにお返事されなくても大丈夫です。

わざわざコメントありがとうございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>二文さんが読み込まれている部分は、
>存在と時間という本全体の理解度にも大きく影響してしまう部分なので、
>ハイデガーの本文に即して、できるかぎり正確に読む態度が前提となります。

僕もそう思っています。

ここの読みはとても重要で、
ここの理解が全体の理解にとても役に立つ気がしているので、
とてもこだわってなんとか自分なりの答えを出そうとしている感じです。
(木田元さんが、あんまりここは衒学的で、昔はうならされたけれど、
今は重要に感じないとおっしゃってた気がしますが、
僕は、ここの問いの構造の解明はとても重要だと勝手に思っています)

また、
>>[35] の始めに書いてある上記の文章は、
次のハイデガーの文章を自分なりに厳密に「解釈」したものです。
だから、本文に即して書いたものだとは自負しています。
(自負だけは笑)
すべて、問うということは、求めることである。
そしてすべて、求めるということは、
求められているものの側からあらかじめ/前もって受け取った指向性をそなえている。

問うということは、
存在するものを、
それが現にあるという事実と
それがしかじかにあるという状態について認識しようと求めることである。
認識的に求めることは、
問いがむかっているところのものを、
開発的に規定する作業という意味での「考究」となることがある。

要するに、
問うということは
「〜へ向けられた問い」であるから、
それによって《問われているもの》(Gefragtes)がそれにぞくしている。


そして、すべて「〜へ向かって問う」ことは、
何らかの形で、
「〜に問いかける」ことである。
したがって、問うということには、
問われているものの他に、
《問いかけられているもの》(Befragtes)がぞくしている。

考究的な、すなわち特に理論的な問いにおいては、
問われているものが
規定されて概念として表明されなくてはならない。
(細谷訳P33〜34)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ついでに、
お忙しいのに、
さらに質問を付け足してしまうのですが、


求めるということは、求められているものの側から
あらかじめうけとった指向性をそなえている。(細谷)

探し求めることはすべて、
探し求められるものから、あらかじめ方向を決定されています。(桑木)

あらゆる探求は、
探求されているもののほうから先行的にその方向を定められている。(渡辺)


という文章について、
僕は、ここを
「眺めやるとか、眼差しをかける」とか
そういう解釈をしたのですが、
それはなんだか違っている気がしないでもないですので、
ilbikkeyさんがどのように考えられるのか少しこれも質問したいと思います。
どのようにお考えになるか、お教えいただければ幸いです。
いえいえ、こちらこそ、慇懃な感じになってしまうかもしれませんが、こんな哲学の無理解者に対して(あまり勉強の出来ないものに対して)こういう風に付き合っていただくだけでも、感謝です。また、僕も、ilbikkeyさんの文章から派生して、様々なことを考えれるので、とても理解が進みますです。

さて、それでは反論なのですが(笑)
まず、下記の点から書いていきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>二文さんのハイデガーの読み方を否定するつもりはありません。いろんな読み方があっ>ていいと思います。【ただ、少しだけハイデガーの肩をもつならば、二文さんの読み方に>はすこし「視覚」により過ぎのところがあるようにも思います。】

これ【】についてですが、少し言いたいことにあります。
「視覚」によっているのは、ハイデガーであり、僕ではありません。
というか、「〜へ向かって」ということを示す最も良い比喩が「視覚」であるように、ハイデガーは考えているように思いますし、僕は、それに同意しているので、そのようにしているつもりであります。
では、それがどのようなところから推測されるのでしょうか?
それは、次のところからです。

「存在を眺めやる[ヒンゼーエン:hin-sehen:接頭辞hinには「ある方向へ向かって」という意味があります。だから、蛇足ですが、「眺めやる」っていう日本語はちょっと誤訳気味と思いました。]仕方」(P26:10行目:桑木版)/「存在の【方を】見やり」(P38:7行目:細谷版)/「存在を眺めやる仕方」(P19:13行目:渡辺版)とかいう表現、
また、そのすぐあとに出てくる「何か【へと】眺めやり」(P26:13行目:桑木版)/「眺めやること」(P19:15行目:渡辺版)/「なにか【の方を】見やり(P38:10行目:細谷版)などからです。
そのうえ、後者の部分は、「問うということを構成する働き」(P38:12:細谷版)であるとまでいわれ、ここは、「問うということは 「〜へ向けられた問い」であるから、」の部分の「反復」された部分あると僕は考えます。だから、「〜へ向かって」を「視覚的」な比喩をつかって考えることは、ハイデガー的にはあながち間違えではないと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また、「〜とは何か」についてですが、少し考えたことがあるので、書きます。
まず、この疑問「〜とは何か?」は、僕は、「定義」、または、これを付け加えてよいのかわかりませんが、「本質」、を表すための語法ではないと、ilbikkeyさんのレスポンスを読んで考えました。というのも、やはり「このコップとは何か?[どのよう「である」か?]」「このコップは透明だ」は、問いとして成立していると考えるからです。(友人にも同じ質問をしてみましたが、同じように答えました)では、「〜とは何か?」(what is 〜?)は何を表すのでしょうか?そもそも、疑問文が成立するとは、いったいどういう事態なのでしょうか?それは、問われているもの/問いかけられているもの(ここでは、この二つは未分化だと思います)が「持っている」何か:「〜である」を【指し示す】ために使われるのではないかと思います。つまり、「問いたしかめられるもの」を【指し示す】ために、疑問文が成立するのではないかと考えます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また、
最後に、

>別に人間がそれを見ていなくても、コップはずっとそこにあるし、むしろコップの方が人間>に向かって出会ってくる(存在をアピールしてくる)という考え方はおかしいでしょうか。>ハイデガーがとっている立場は、そちらの方が近いように、僕は感じます。

これは全く納得できません。【コップの方が人間に向かって出会ってくる(存在をアピールしてくる)という考え方はおかしいでしょうか。】というのは、いかんと思います。僕の中の何かがそれは違うといっています。ハイデガーは、僕はそのような立場をとっていないと、思います。これに関して理由はまだ思いつきませんが、内的になにか違うと感じていることをお伝えしておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いまのところ、
Ilbikkeyさんの文章に対する反映は以上な感じです。

こちらもいろいろと意見が聞ければ、助かります。

よろしくお願いします。
ilbikkeyさん、お返事ありがとうございます。
というか、「すいません」や「反省」していますなんて・・・
そんなこっちも付き合っていただいているだけでアレなのに、謝られると、恐縮してしまいますです。笑

では、ilbikkeyさんの返答に対して、お返事を返したいと思います。

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>「〜とは何か」というのは、
>二文さんは、何かの「定義」のことを問題にしていたのではなかったんですね。

はい、そうですね。「定義」de-fini-tionのことを問題にしていたわけではないですね。それよりも、その対象とされているものが持っている「意味」sens(注:フランス語ですいません。「方向性」という含意でも使いたいので、フラ語で書きました。)のことを問うために使いました。だから、「定義」de-fini-tionのことを問題にしていたわけではありません。
しかし、ilbikkeyさんが、「〜とは何か?」という質問に対して、「定義」de-fini-tionを考えたのはとても面白いことだと思いました。というのも、「定義」とは一体何か?を考えることができたからです。


では、定義とは一体なんなのでしょうか?少し僕の考えを書いてみます。


まず、de-fini-tionという語に、-fini-( http://lise-sophia.net/kktm/Essay/fini.htm)が入っているところから見ても、「定義」とは、「何かを限定する」すること、つまり、何かを「規定する」ことと捉えられると思います。だから、「このコップ」はilbikkeyさんは、「定義」できないとおっしゃっていますが、僕は、「このコップ」を「このコップ」として扱う時点で、つまり、「このコップ」を他の物を邪魔者として「このコップ」に集中する(こういう怪しそうな言い方しかできませんが)する時点で、「このコップ」は「このコップ」として「定義」de-fini-tionされたと思います。
つまり、>>[38]で、

>他と取り換えることのできない《このコップ》だけを考えるとすれば、その定義をする時に
>頼ることができるそれ《以外》のものが考えられないような気がします。

とおっしゃっていますが、「このコップ」は、デカルトの言い方を借りるならば、延長するものの中から「定義」(限定)された「このコップ」であります。「このコップ」は決して、他の大きなくくり:類(例えば、延長するもの、例えば、空間)から独立して存在しているわけではありません。だから、「コップとは何か?」で最高類と種差でコップが定義できたように、「延長するものの中にある、私の部屋の中にある、机の上にあって、本の横にあって、パソコンの前にある、飲み物を飲む」【ひとつもの】とすれば、ちょっとイリーガルかもしれませんが、最高類と種差(同じ場にあってそれとは違う差)から、「定義」de-fini-tionできるように思います。
そして、

>「このコップとは何か」という疑問がひっかかったのもそうで、もしそれが、たとえば「このコップとはどのようなものか(how)?」だったなら、僕も何も問題をかんじませんでした。

で、ひっかられたのも、同語反復に思われたので、そう思われたのかもしれません。つまり、「〜とは何か?」というのが「定義」を表すものならば、問い:「このコップとは何か?」においては、「このコップ」を「このコップ」として「定義」(限定)して扱っているにもかかわらず、その答え(定義)を求めるのは、循環していて、同語反復以外のなにものでもありません。だから、ilbikkeyさんは、これは違うと思われたのかもしれません。

そして、存在への問い(「存在」とは何か?)においても、「存在」の「定義」de-fini-tionを求めるものではないはずです。そもそも、一節で言われているように、「存在」は定義できません。だから、「〜とは何か?」も、たぶん、「定義」を表すだけに使われるものではないとおもいます。しかし、ilbikkeyさんがおっしゃっていて、>>[17]で書いているように、「〜とは何か?」(what )ではなく、「どのよう「である」か?」(how)と書いていたほうが、確かに、混乱は防げていたかもしれませんが、副産物もあったことだし、僕としては収穫でした笑

しかし、
ここで大きな疑問が浮かんできます。
存在の問いは、whatで問われているのでしょうか?
それとも、howで問われているんでしょうか?
それとも疑問を呈すること自体が問題なのでしょうか?

うーん、
いや、what でも、howでも、「〜である」が関わっているので、
あまり意味のない疑問かもしれませんが、
ilbikkeyさんはどう考えられますか?

(続きます)
蛇足:また、木田元さんが「ハイデガーの思想」(岩波新書)(P123の最後)の中で、こういう文を書いていたので、少し参照項として書いておきます。「定義」についてここに残しておけば、僕自身、何かのときに考えられるかもしれないので笑

<形>(エイドス)はまた<ゲノス>とも言いかえられる。しかもこれも、通常解されるような<種><種類>という意味ではなく、作られた物がそこに由来する<出自><素性><起源>という意味での<ゲノス>なのだと、ハイデガーは主張する。さらに、この<形>(エイドス)は、ある物の制作が完了したとき、それがいかなる物であるべきか、どれだけの事象内容を包摂しているべきか、その包摂の<限界>(ホロス)を含意しているし、その限界内に包み(ホリツエイン)込まれている事象内容の総体が、そのものの<定義>(ホリスモス)となる。
ilbikkeyさん、こんにちは。
お返事になります。
というか、下記がどう表現すればいいか、難題で、
仕事もあるにはあったのですが、それで、お返事に時間がかかりました笑

では、お返事を返していきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>なるほど、フランス語のサンスに近い意味で「意味」ということばを使っていたんですね。
>「方向性」という含意も響かせたい、ということですね。
>どういう方向性でしょうか。少し噛み砕いて教えて下さい。興味があります。

これの方向性なのですが、これは、本当に、「意味」sensという、存在と時間の根幹に関わる解釈となるので、なかなか表現しづらいのですが、しかし、試行錯誤して考えてみます。

まず、僕は、
問い:このコップは何か?[どのよう「である」か?]
答え:このコップは透明だ。
というのは、試行錯誤の結果、「理論的な問い」であると結論しました。というのも、「理論」という語源である、テオーリア[眺めること/観照]をすることによって、「透明だ」ということが分かるからです。そして、sens「方向性」というのは、このテオーリアすること[眺めること/観照すること]だと考えています。ただし、この場合、「透明だ」というのは、「このコップ」の本質を捉えたものではないと考えています。
では、なぜ、sens「方向性」がこのテオーリアすることなのでしょうか?
それは、このテオーリアが、「このコップ」と「透明」ということを結びつける役割をしていると僕が考えるからです。このテオーリアが「このコップ」という語と「透明」という語を【結びつける】役割をしているからです。
そもそも、「このコップ」と「透明」ということは、「語」として考えてみれば、これはなんら関係のない二つの語であります。当たり前ですが、「このコップ」(注:ここでは語としての「このコップ」)をいくら考えてみても、いくら分析してみても、「透明」ということは演繹されてくることはありません。「このコップ」が見えていない[経験できない]ilbikkeyさんにとっては、「このコップ」に対して言うべきことはありません。しかし、ここにある、現実存在している、「このコップ」そのものにいったん【向かうならば、方向をむけるならば、】(これが、【ひとつのもの】にするということです。)、その【テオーリア】[観照/眺め]により、「透明」ということを指し示す/結びつけることになります。この結びつける/指し示す、つまり、「このコップ」の「方向性」を決める、それを意味sensと呼びたいと僕は思っています。
そして、この観照する/経験できることを「身体性」として考えるならば、私たちは、この「身体性」を抜きにして、意味/方向性sensを考えることはできないのではないかと思います。

そして、ここで、「問いかけられるもの」Befragtesや「問いたしかめるもの」Erfragtesが結実すると思います。

というのも、まず、
接頭辞Be-には、「目標に向かっての動作」(自動詞から他動詞を作る)という意味があります。ここから考えてみても、「目標」(このコップ)に向かっての【実際の動作/実際の経験】をこのBe-でハイデガーは表したかったのだと思います。そして、このBe-によって、目標に向かっての動作によって、その向かうべき方向性が【実際に】定められてきます。
そして、接頭辞Er-には、第一に、「生成」という意味があります。「生成」の他には、「開始」、「結果」、「到達」という意味があり、この【結びつけること】、【結び付けられてしかと確かめられること】、それが「生成」や「到達」なのだと思います。

全体でまとめると、
「方向性」ということを含意したかったのは、第一に、「問われるもの」Gefragtesの中に入っている「〜へ向かって」という方向性、第二に、「問いかけられるもの」Befragtesの中に入っている【実際に/経験的に/身体的に】向かう方向性この二つであります。
そして、「意味」ということで表したかったのは、その方向性によって向かわれたものを【結びつける】/【生成】する(これが「問い確かめられるもの」Erfragtes)ということです。

ちょっと文章としてわかりにくいものとなってしまいましたが、とりあえず、考えていることはこんなことです。

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>定義について、語源に遡って調べてくれてありがとうございます。
>最高類と種差による伝統的な「定義」も、その語や概念などのもつ外延を画定するという点
>ではまったく同じ発想だと僕は考えます。

ん?外延を確定する?というところが分かりません。
むしろ、逆で、「内包を画定する」というのがただしいのではないでしょうか?
中山元の思考の用語時点では、このように書かれていますが、ilbikkeyさんの書き間違いでしょうか?
ちょっとわかりませんでした。

(引用)
アリストテレスいらい、内包的な定義は、「類」と「種差」というふたつを決めることで確定されてきたからだ。つまりあるものが他のものと共通して属する「類」をまず指定する。そしてその類のなかでほかのものと違うという「種差」を決める。これが内包的な定義の基本的な手順だ。
(引用終わり)(思考の用語辞典:ちくま学芸文庫:P82)

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>「このコップ」を、より大きなくくりからだんだん削っていって、いつか「限界づけ」と
>いう意味での「定義」にいたる、という二文さんのお話は、とても興味深いですが少し無理
>があるように思います。

どのような無理があるでしょうか?
たしかに、イリーガルであるとは(標準的な手続きではない)とは感じていますが、類と種差の定義づけ方も同じ操作ではないでしょうか?

>たしかにいつかは「この」コップに至るかもしれないですが、それでようやく「このコップ」
>になれたというだけで、ほんとうの意味での定義にはなれていないと僕は考えます。

はい、僕も、本当の意味での定義にはなっていないとおもいまず。というか、僕は、これをほんとうの定義としては扱っていません。では、何として扱ったのかというと、【ひとつのもの】にする所作、そのように扱ったつもりです。
>>[35]
すなわち、それは、

第一に「このコップ」を眺めやっていなければいけない、
「このコップ」に視線(まなざし)を向けなければならないということだ。
これが「〜へ向かって」の意味だろう。
すなわち、
「このコップ」に集中し(まわりの背景を消し)
それを「このコップ」として、
【ひとつのもの】として押し開き(展示し)【規定】しなければならないということだ。
これが第一に必要になる

ということしかやっていないと思っています。
だから、
最高類と種差という定義立てでできることは、【ひとつのもの】を【規定する】ことだけだとかんがえています。
しかし、これに関してilbikkeyさんはどのようにお考えでしょうか?


>このコップを本当に厳密に定義しようとするなら、二文さんも嗅ぎ付けているように「この
>コップはこのコップである」というのに近い、単に「あのコップではない」という意味しか
>もたない、たいして役にたたないものにしかならないのではないでしょうか。
>「木ではない」「机ではない」「食器の一部だけど、皿ではない」・・・というように「・・・
>ではない」という否定神学的なやり方でしか、「この」コップにはたどり着けないのではな
>いでしょうか。


なんども言うことになってしまいますが、定義de-fini-tionは、【ひとつのもの】にすることしかしていません。類と種差の定義づけも、コップの本当の定義というよりは、あるものに対するひとつの包み込み(ホリツエイン)でしかないとおもいます。だから、ほんとうの定義というのは、その限界(ホロス)内に包み込まれている(ホリツエイン)されている【事象内容の総体】をいうのではないでしょうか?その方向性を見出すことが「意味」sensであるとおもいます。
>>[002]、読ませていただきました。


>問われているもの(例えば、このコップ)の他、問いかけられているもの(例えば、この私)が必要になってくるのである。


ぼくが思うに、ハイデガーが言う「問われているもの(ゲフラークテス)」とは、あるとか存在するとかいうことであり、
「問いかけられているもの(ベフラークテス)」とはそのあるとか存在するということが帰属している在るもの、存在しているもの(二文さんの例で言えばコップ)のことではないでしょうか。
>>[006]

>「このようにして、現存在こそ、ほかのあらゆる存在者に先んじて存在論的に第一次的に、『問いかけられるべきもの』であるということが判明したのである。」
(細谷訳・第四節・P50)


存在の問いが『問いかけられるべきもの』(ベフラークテス)はあらゆる存在者ではあるけれども、その中でも「ほかのあらゆる存在者に先んじて存在論的に第一次的に、『問いかけられるべきもの』」は現存在であることが謳われていますね。
>>[007]

>ハイデガーの場合「問われてるもの」と「問いかけられているもの」の関係が、例えばコップの例を出した場合のそれとどの程度リンクしているのか、僕も興味があります。


「問われてるもの」が、在るということだとしたら、「問いかけられているもの」は実際に在るさまざまなものですね。例えばコップ。
しかしコップなどの事例から、在るとはどういうことかに迫ろうとしても迫れない。
そこでハイデガーは、さまざまな在るものの中でも存在的および存在論的に現存在(人間)という存在者こそが特権的に優位にあることを訴えて、現存在を突破口にして、あらゆる存在者の存在問題を解明してゆこうとするのですね。

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