ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

SHAKRESを愛でる会コミュのflavor of love

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
FLAVOR OF LOVE

加山ユウジの初恋の話をしよう。
突然で、激しく、香しい恋の話。ただし、それは決して甘い匂いでないことだけは保証する。

ユウジは決して積極的に異性と関わりを持とうとするタイプではなかった。むしろ、スポーツに打ち込んできた人間の少年期にありがちなことだが、女子というものはうるさいだけで話が合わない異世界人だと決めつけていた。
十四年の人生の中で恋心の欠片も抱いたことがないユウジは、今も放課後のグラウンドでサッカー部の仲間たちが準備運動をしながら、女子生徒をランク付けしていくのを冷ややかな気持ちで聞いていた。顧問の加納先生が病気で長期休暇をとっているため、ここ最近の練習はたるみがちでともすれば今のようにサッカーをしにきたのか雑談をしにきたのか分からなくなってしまう。
「なんと言っても中野だろう。なんと言っても胸がデカいのがいい。グラビアアイドルみたいだ。なんと言っても女は胸だよ。一番最初に目がいくもんよ。なんと言っても・・・」
「『なんと言っても』使いすぎ。」
「それに、胸に最初に目がいくなんて、オヤジじゃあるまいし。女はやっぱ顔ですよ。オレは佐藤を押すね」
「でも、佐藤って暗いっすよ」
「バカ、影がある女のほうが、心を開いてやりたくなるじゃないか。きっと、両親が目の前で事故死したとか、そういう、残酷な過去があるんだよ」
「佐藤のオバサンって、購買部でパートしてるだろ?オレ、今日も昼にパン売ってもらったぜ」
「明るい女のほうが話しやすくていいじゃん。小松とかさ。」
「でも、小松って女子から嫌われてるんだぜ。ブリっ子してるとか言ってさ」
「意外と谷村とかかわいくね?性格きついけど」
「それは幼馴染に聞いてみないとな」
そこで突如、ユウジに話が振られた。目をしばたたかせているユウジに、芸能レポーターがタレントにマイクを差し向ける振りをしながら、同じクラスの部員が質問してくる。
「お隣さんとして、どうよ?谷村のこと気になったりしないですか?」
すると、他の部員も悪ノリして、次々と質問とも冷やかしともつかない言葉を浴びせてきた。
「風呂、一緒に入ったことは?」
「朝、起こしに来てくれたりして」
「チューくらいしただろ、チューくらい」
「結婚を考えたことは?」
どこのギャルゲーだ、と突っ込みたくなる発想に、ユウジは顔をしかめた。
「んなわけないだろーが」
「みーんなそう言うんですけどねー」
「隠していてもためにならんよ」
「出るとこ出てもいいんだよ」
前屈運動をしていたユウジはおもむろに立ち上がると、部員達に背を向けて駆け出した。最初は小刻みにゆっくりとしたステップで、やがて、全速力で。遠ざかるユウジの背中を見ながら、何人かが舌を出した。
「やりすぎたかな」
「あいつ、オクテだからな」
「後で謝っとくか」
しかしながら、次の瞬間、部員達は口を開けて呆れることになる。
ユウジが向かった先は、グラウンドの隅に設置された便所だったのだ。

朝から腹の調子は悪かった。きっと、朝食のオカズに賞味期限の切れた明太子を食べたのがいけなかったのだろう。授業の間はなんとか我慢できたし、昼までには腹痛も治まっていたので特に気にすることもなくなっていたのだが、油断して弁当を完食したのは誤算だった。せめて、消化に悪い冷凍食品の類は避けていれば・・・。
「出すまでは出ていない」。小学校の頃から、何度となく身に滲みて味わった教訓を、今度もまた活かせなかった自分が腹立たしい。
ユウジはもうすぐ中学三年生になろうとしている身で尚も、学校のトイレで大便をするのは恥だと考えている男だった。それは、多くの学校で大便ができない少年少女の大半がそうであるように、小学校低学年のとき、学校のトイレで大便をしたというだけで同級生からからかわれたトラウマに由来する。ただでさえ恥辱をしのんで用を足さねばならない身なのに、よりによって「便所ボックス」とは。
「便所ボックス」とはここ、市立端座丹亜中学校のグラウンドに設置された汲み取り式便所を擁する小屋のことである。プレハブと木材でできた概観が電話ボックスに似ているため、誰からともなくそう呼ばれ始めた。アンモニアの強烈な匂いと清潔とは言い難い衛生状況のせいで全ての教職員と生徒は極力、便所ボックスを使用しないようにしするのが暗黙の了解だ。むしろ、この中学校に通う以上、便所ボックスで用を足すなどというのは耐えがたき屈辱であり、男子生徒同士の諍いがあるときには決まって「おまえ、便所ボックスに閉じ込めるぞ」と罵るのが決まり文句となっている。
戦前の創立当時から存在するという便所ボックスは三度の改装工事を加えられた校舎や体育館よりも遥かに歴史深い建造物であるが、これは「ゴキブリは人類よりも長く地球上に生息している」と謳うのと同じくらい無意味な肩書きである。そのことで便所ボックスを誇りに思っている学校関係者など一人もおらず、むしろ、「プールもない学校にどうして屋外便所だけはあるのか」と嘆く声だけが内外から聞こえてくる。
そんなわけで、いくら極度の腹痛のためとはいえ、便所ボックスにこもることとなったユウジはかつてないほどの敗北感を味わっていた。
とにかく臭い。下からこみ上げるあまりにもダイレクトなあの匂い。ジャージに匂いが滲みこんでしまわないか心配だ。仮にそうなってしまったら、洗濯でとれるんだろうな。お母さんに、今日の洗剤の量を多くしてもらうように頼まないと。
そして汚い。五分、いや、一分もいれば伝染病の一つや二つはもらいそうなほどだ。セメントの床には謎の黒いシミが点々としているが、あまり正体を深く考えたくはない。天井からは電力が切れたまま、誰にも取り替えてもらえない裸電球がぶら下がっている。おそらく、もう何年も掃除などしていないのだろう。ユウジとて、掃除時間に便所ボックスを担当させられた記憶などない。いや、排泄物の汲み取りすら定期的に行われているのか怪しいものだ。
以前、友人達と便所ボックスを覗き込んで「マジで汚ねえなあ!」、「ここでクソするくらいだったらクソ食ったほうがマシだな!」などと笑いあった記憶が蘇る。悔しさと惨めさで涙が出そうになるのを堪えた。去年の夏、県大会の決勝で負けたときにも泣かなかったのに。和式便所に屈みこんだまま、涙が眼から溢れないように顎を上げ、前方のプレハブの壁を睨みつける。涙で滲んだ視界は、水中で目を開けているかのように輪郭が曖昧になっている。
そこで、ユウジは「彼女」を見つけた。

目の前の壁の中から突然
まるで炙り出しのように、曇り空が晴れ渡るように。
浮かび上がったキミの顔。
刹那、男子便所に潜入した痴女かと思ったけれど。
考えてみれば、覗き込めるような隙間も無かったわけで。
最初の出会いはほんの一瞬。
キミを見つけて戸惑う間も無く。
僕はただただ驚いて
折り曲げた足の間でいちもつが
萎んでいく感覚だけを理解していた。

信じられないことだが、ユウジは大便用の個室の壁に女の顔が現れるのを目にした。文字通りユウジの目と鼻の先に、首から下のない顔がユウジの方を見ていた。
時間にして二、三秒、涙で霞んだ視界ではあった。しかし、見間違いというには細部が整い過ぎていた。長い髪をたゆらせ、小さく微笑む彼女の年齢はユウジよりも少し上くらいだろうか。同世代の女子、例えばアキと比べるとやや落ち着いた顔つきをしていたように思う。一瞬の印象ではあるが、かなりの美人だった。僅かな遭遇だったのにも関わらず、ユウジの目の中に映った彼女の顔は、脳に焼印を押したかのように鮮明にユウジの記憶に刻まれた。
それはただ単に彼女の美しさゆえではなかった。ユウジの心を捉えて離さないもの、それは彼女の表情だった。
どうして彼女はあんなに淋しそうに笑っていたのだろう。誰に何を言われたら、どれだけ心に傷を負えば、笑顔の意味を打ち消してしまうほどの翳りが表情にこびりついてしまうのだろう。そんな風に見つめられたら・・・
キミを・・・
守りたく・・・
守ってあげたくなってしまう・・・
そんな風に見つめられたら・・・・
「うごっ!!」
ユウジはそこで、自分がどのような体勢でいるのかを思い出した。ここに入ってきたとき感じたものとは比べ物にならない羞恥の波に突き動かされるようにして、飛び上がりズボンを引き上げる。無論、尻を拭いている余裕などはない。
「ごめん!」
謝ったはいいが、肝心の女の子の顔はもうそこになかった。あるのはくすんだプレハブの壁だけ。辺りを見回しても、悪名高き便所ボックスに人の気配などするはずもなく、ユウジは戸惑うばかりだった。
あの少女は何だったのだろう?トイレの花子さんでした、なんてひどいオチだ。あるいは夢だったのだろうか。。悪臭のあまり脳が麻痺して幻覚でも見たのか。
 何故か呼吸が苦しくなる。落ち着かなくてはと深呼吸してみても、心臓の音は大きくなって、便所ボックスに今にも響き始めそうだ。髪の毛を掻き毟る。地団太を踏む。咳をする。何かしていないとおかしくなってしまいそうだ。最早、息が苦しいどころか、呼吸をすることすら煩わしく思われる。
ここまで心が乱されるのは、あの少女の所為だと気付いたとき、ユウジの目から涙が零れ落ちた。さっきは止められた涙が一つ、二つ、頬をつたって、床に落ち、汚物のシミに紛れ込んでいく。
もう会えないのか・・・
認めたくなかった。自分は彼女のことを何一つ知らない。そして、彼女も自分のことを知らない。名前もクラスも学年も。自分がどうしてこんな風に泣いているのかも。それが悔しくて、更に涙を急き立てる。
俺って泣くとき、こんな声をあげるんだな。
長い間、泣いたことがなかったユウジにとって、その涙は自分でも驚きだった。せめて、人に見られていないのが唯一の救いだ。まさか便所ボックスの中にいることを感謝することになるとは思ってもみなかった。
こんなにも矛盾していて。
こんなにも無意味で。
なのに全てを受け入れられる。
これが恋というものなのか。ユウジはやっと自分の感情に名前を見出すことができた。
だとすれば、野球部の連中も、クラスメイトも、教師や両親やその他大勢の大人達もこんな苦しい気持ちを感じたことがあるのか。
いや。そんなことはユウジには信じられなかった。この想いは特別なのだと思えてならなかった。自分は、世界のどこを探しても二度と見つけることが出来ない、失われた特別な恋のために涙を流しているのだ。そして、代わりがきかないものだからこそ、オレの涙でも空白を埋めることができず、枯れることなく溢れ出てくるのだ。くだらない奴らのくだらない色恋沙汰とは比べ物にならない、気高く美しい想いが、たった今消え去ってしまったのだ。
冷静に考えれば、いくら初恋の衝動とはいえ、この昂ぶった精神状態は常軌を逸していると気付いたはずだ。その時点で便所ボックスという場所の異常性に思考が及んでいたかもしれない。しかし、そのときは理性で膨れ上がった感傷を押さえ込むことができず、ただただ泣くしかなかった。赤子のようにしゃくりあげることしかできなかったのだ。
泣けば泣くほど絶望は大きくなる。何もかもが嫌になってしまう。遠くで聞こえる運動部の女子たちの笑い声すら疎ましい。
キミに会えてよかったのか。
それとも会わないほうがよかったのか。
ユウジは時間が経つのも忘れて泣き続けた・

泣かないで。

ふいに女の子の声が聞こえたような気がした。確かではない。鼓膜を飛ばして、直接頭に響いてきたような、そんな聞こえ方だった。ユウジは反射的に目の前の壁を見やった。
やはり、彼女はいなかった。その代わり、そこには人の顔ほどの大きさのシミがあった。長年の風雨とアンモニアに晒されたプレハブに広がる、黒くくすんだそのシミを一目見て、ユウジの胸に去来した閃きがあった。
あるいは、それは本能に似たものだったのかもしれない。運命の相手を逃すまいとする、生まれる前からユウジの体に殖えつけられたプログラム。自らの啓示に従い、ユウジはそのシミをじっと見つめた。涙で視界をぼやけさせながら。寄り目になりながら。わざと目の焦点をずらしながら。
尻を拭くのも忘れて、ユウジはその作業に没頭した。コツをつかめたと思った瞬間にそのコツがするりと逃げていくような、そんな繰り返しの挙句に、ユウジはついに彼女を見つけた。
会いたかった。
その笑顔を守りたかった。
笑顔の下の影を消し去りたかった。
キミの声が聞きたかった。
ただキミを見ていたかった。
キミの側にいたかった。
例えボクがキミにとってどうでもいいヤツだったとしても
ボクはボクの大切な人に消えてほしくなかったから。
ボクの好きな人に消えてほしくなかったから。
「また・・・会えたね・・・」
ユウジは初恋の相手に、涙にまみれた笑顔で挨拶した。
ユウジが好きになったのは、便所の壁のシミだった。
世界一美しい壁のシミ。角度と焦点によってはだが。


できればずっと「彼女」と話をしていたかったのだが、便所ボックスからなかなか出てこないユウジを心配して、様子を見に来たサッカー部員の「おおい、下痢グソなら胃薬持ってきてやろうか」の一言によって、ユウジは「彼女」と引き離されてしまった。
「明日も来るよ」
そう告げて、何度も「彼女」を振り返りながら、ユウジは便所ボックスを後にした。
その後、練習に戻っても思うように集中できず、ミニゲームでは七回トラップミスし、十二回パスミスした。それは拭き忘れた尻の違和感もかなりの要因を占めていたのだが、恋する男子がそんなことに気付くはずもない。
家に帰って、風呂に入っていても、夕飯を食べていても、布団に入っていてもユウジの興奮が冷めることはなかった。
一応断っておくと、ユウジは自分の恋愛対象が壁のシミである、という事実を認識していなくて、「彼女」を便所の精か何かだと思っていたわけではない。「彼女」がただの名も無きシミであり、命も心も持たない便所の汚れに過ぎないことはユウジも十分理解していた。そのことで少しは悩みもした。しかし、その日眠りにつくまでにユウジは悟りとも言うべき結論に達していた。
「『彼女』がシミだからって何だって言うんだ」
ユウジは布団の中で強く拳を握り締めた。
「世の中には車や人形に、人間と同じくらいの愛情を注ぐような大人がいるじゃないか。オレの場合はそれがシミだっただけだ。何もおかしくなんかない。恋にルールなんてないに決まってるさ」

「ユウジ、おっはよ!あれ、どしたの?目腫らしちゃって」
翌朝。登校中、校門の前でユウジの背中を叩いたのはお隣さんにしてクラスメイトで幼馴染の谷村アキだった。昔は一緒に登校したものだったが、中学生になってからはなんとなく別々に家を出るようになっていた。
「別に。花粉症で痒いだけ」
「花粉症?おいおい、春にはまだ早いでしょーが。どーせ、小テストの出来が悪かったの、おじさんに搾られたんでしょ」
「中学生にもなって、怒られたくらいで泣くかよ」
こうしてみると、アキも可愛らしい顔立ちをしている。短めのツインテールを揺らして笑う顔には、多少はドキリとさせられる。が、「彼女」ほどではない。「彼女」と比べると口は悪いしデリカシーも無さ過ぎる。大体、幼い頃から一緒ににいた時間が長すぎて、今更異性として意識などできない。よくて歳の近い兄妹、悪くて腐れ縁といったところか。
「あんたのことだから、今日も数学の小テストあるの忘れてたでしょ?一時間目だよ」
「げっ!!」
確かに忘れていた。さすが幼馴染。鋭い。
「しょうがないなー。範囲短めだから、今から目通しとく?関数だから、あたし、けっこう自信あるし、よかったら・・・」
何故かだんだんアキの声が小さくなっていくのを不思議に思いながら、ユウジは片手を挙げた。
「ごめん、オレ、今ちょっと腹が痛くてさ。先に教室行っといて」
「え?ちょっと・・・」
言うが早いか、ユウジはグラウンドの方に駆けていった。便所ボックス、みんながそう呼んでいるトイレに向かったようだ。
アキ自身、見るからに汚らしいあの施設には良い印象を抱いていない。使ったことはおろか、中を覗いてみたことすらない。
「ここからだと校舎のほうが早いのに・・・」
首を傾げたアキの表情は少し寂しげだった。

コメント(17)


やはり今朝も便所ボックスは無人だった。息を弾ませ、大便用の個室の扉を開ける。
「おはよう」
アンモニアの匂いが鼻をつく。これだけはいつまでも慣れそうにない。「彼女」は挨拶を返してくれなかったが、当然のことなのでユウジは気にしなかった。壁のシミを見ながらユウジは昨日の要領を思い出し、寄り目になってみる。
昨日よりも早く「彼女」の顔は現れた。改めて見ると、人間としか思えない顔つきだ。マンガ絵のように記号化されて人間に見えているわけではない。人間に見える壁のシミ、というよりは壁のシミでできた人間、といったほうが正しい。角度と焦点によってはだが。
しかし、昨日と違って今朝壁に浮かび上がった彼女は笑っていなかった。無表情で、閉じられた唇はやや堅い。何より目を合わせてくれないのが気がかりだった。
意外と気分屋なのかな。シミなのに。
もちろん、そんなことは口には出さず、ユウジは当たり障りない話をしながら、彼女の様子を窺ってみた。しかし、一向に彼女の表情が緩む気配はなかった、ような気がした。むしろ、どんどん険しくなっていく、ような気がした。
どうも、定石を知らないで打った囲碁のように、話せば話すだけ自分の印象を悪くしているようだ。それでも全く原因が思いつかない。それがユウジを混乱させる。
アキ以外の女子と親しい会話などしたことがないユウジはこの状況に狼狽し、何をしていいのか分からなくなってきた。つまりは、テンパってきた。女の子って難しい、としみじみ思う。アキが相手なら男と同じような態度で砕けて喋れるのに。
アキのことが頭によぎった瞬間、「彼女」の表情がさらに険しくなった、ような気がした。眉間にうっすらと皺が寄り始め、見るからに怒っている風だ。
「もしかして・・・アキと話してたこと、怒ってる・・・?」
「彼女」は憮然としたまま頷いた、ような気がした。ユウジは慌てて両手を振りつつ、弁解する。
「誤解だって!あいつ、家が隣でガキんときからよく顔を合わしてて。だから仲は良いかもしんないけど、でも、全然そういうんじゃないからさ!」
背中全体に冷たい汗が広がる。暑くなくても汗をかくことがあるのだと、身をもって思い知る。必死で言葉を紡いでも、「彼女」はなかなか機嫌を直してくれない、ような気がした。
やがて、ユウジは弁解することに空しさを覚え始めていた。そもそも、自分は「彼女」にとって何なのか。一方的に自分の思いを「彼女」にぶつけているだけで、「彼女」が自分をどう思っているかなんて一言も聞いていないではないか。それは当然のことなのだが、マイナス思考に陥る傾向のあるユウジには、そこまで頭が回らない。
もしかすると、彼女は限りなく迷惑がっているのではないか。今不機嫌になっていることだって別にアキに嫉妬しているとかではなく、単純にオレの顔を見たくないだけではないのか。好きでもない男の顔なんて。
それでもユウジは弁解を続ける。続けずにはいられない。朝のホームルームを告げるチャイムが鳴る。そしてホームルームが終わり、一時間目の授業が始まってもユウジは話し続けた。
「アキのことなんて本当にどうでもいいんだよ。そりゃ、いい奴だとは思うけど、それだけなんだ。もしも君があいつとオレが会っているのが嫌だって言うんなら、喜んでそうするよ。だってオレが好きなのは・・・」
今、この姿を見ている人間がいれば何と思うのだろう。もしかすると気が触れているように映るかもしれない。それでもいい。むしろ、本当に気が触れてしまえたらどんなにいいだろう。そうすれば何の心おきもなく、「彼女」のもとに行けるのに。
「君だけなんだから。」
言葉を繋いで、ユウジはその場に座りこんだ。床に下ろしたズボンの尻が不愉快な感じで濡れてきたが、気にならない。疲れと恥ずかしさが入り混じって、ユウジは立ち上がることができずに俯いていた。
「迷惑・・・だよね。こんなこと言われても。だってオレ達付き合ってるわけでもないのに・・・」
「迷惑じゃない」
びっくりしてユウジは顔を上げる。確かに声が聞こえた。「気がした」ではない。か細く、小さな声だったが、自分の鼓膜を震わせた感覚がはっきりとあったのだ。
壁の中では「彼女」が不安げに目を細めている(これは「気がした」)。
「・・・迷惑じゃないから」
彼女の唇は動かないが、それでも声は確かに聞こえてきている。紙芝居でも見ているようだった。
個室に響く、夏の夕方の風鈴の音を思わせる、静かで、高く、澄み切った声。
耳にするのは二回目の大好きな人の声は、前よりもしっかりと聞き取れている。
なのに。
こんなにも。
弱くて。
不安げで。
「・・・から怒った・・・。」
え?今なんて言った?
「好きだから怒ったんだよ」
今にも泣き出しそうな声だった。「彼女」の台詞から抜け落ちた主語と述語に思い当たったとき、ユウジは自分の馬鹿さ加減に腹が立った。自分が好きで、自分を好きでいてくれる女の子。「彼女」を自分の所為で不安にさせていることが許せなかった。
「ごめ・・・」
「だめ」
口から出かかった後悔の言葉を「彼女」は優しく押しとどめた。
「かわりにもう一回聞かせて?」
「え?」
「さっき、言ってくれた言葉」
ああ。
オレはこの女の子から好かれているんだ。
ユウジは涙が流れそうになった。心拍数と、ボットン便所の穴に吹く風の音だけが個室を満たしている。
きっと、恋しているときの涙は心臓で作られるに違いない。そう思えるほどに、涙が胸から押し寄せ、こみ上げてくるように感じた。
ユウジはまっすぐに「彼女」の目を見てしっかりと三文字の言葉を発音した。
「好きだ」
彼女は優しく微笑んだ、気がした。
ユウジは結局一時間目を丸々欠席し、数学教師、担任、そしてアキの三人から大目玉を食らったわけだが、本人は全く意に介す様子もなかった。何を言っても暖簾に腕押しでにやつくばかりのユウジをアキは気味悪くも、訝しく思った。
それからの日々はユウジにとって、人生最良であった。
ユウジは名前の無かった「彼女」のことを花子さん、と呼ぶようになった。この不謹慎極まりないネーミングは当初、ギャグのつもりで口にしたのだが、思いのほか「彼女」側の反応が良くて即採用となったのだった。ただ、花子に言わせれば、「ユウジに呼んでもらえたら名前なんてなんでもいい。花子でも太郎でもたこ八郎でも」とのこと。
それからともに時間を過ごすにつれて、二人のスケジュールとでも言うべきものが出来上がっていった。
まず、登校してから便所ボックスに顔を出すのが日課となる。大抵の場合は「おはよう」と挨拶しあうくらいだが、時間に余裕があるときには軽く話をすることもある。
弁当の時間をどうするのかは考える必要があった。中学生カップルたるもの、昼休みには肩を並べて中庭で弁当、というのが定番ではあるものの、花子が弁当を食えないうえ、場所さえ移動できないことがネックとなった。流石に便所の中で弁当を食うことには、恋の病の重態であるユウジとはいえども抵抗があった。
ではどうしたのか。前振りの割にひねりのないオチで申し訳ないが、ユウジは受け入れたのである。彼は便所ボックスで昼食をとるようになった。アンモニアと細菌の巣窟である便器の側に弁当を広げ、彼女と会話を楽しみながらおかずをつついた。悪臭により弁当の味わいは劣化したものの、ユウジは弁当のクオリティーよりも花子と少しでも長くいることを選んだ。そして花子も最初のほうこそ遠慮していたが、最後には素直に彼のお昼時の来訪を喜ぶようになった。
恋と愛の違いは何か、という永遠の命題の一つの解がここにあるといっても過言ではないだろう。
「あなたは愛する人のために、ボットン便所で弁当を食べられますか?」
そして放課後。
ユウジは毎日、サッカー部の練習に精を出していた。三年生になってから新しい顧問が就任し、練習も厳しくなった。それでもユウジは花子にいいところを見せたい一心で努力した。花子の位置からは、グラウンドの間逆にあるサッカー部の練習場所が見えないはずなのだが、どんなカラクリか花子は、ユウジのプレーの細部まで語ることができた。誰にいつどこでパスを出したか。あるいはパスをもらったか。今日の調子は昨日と比べてどうだったのか。足が痛そうに見えるが練習のしすぎではないのか。などなど。
毎日、練習のたびにユウジは腹痛を起こしたと告げて便所ボックスに向かった。もちろん花子と会うための芝居だが、やがて顧問が疑惑の目を向けてくるようになり、面倒になったユウジは「実はキレ痔で、運動しているとひどく痛んでくるんです。ボラギノールM軟膏を塗りにいきたいんですけど」と誤魔化すようになった。自らも痔に悩まされる新顧問は「先生はプリザ派だ」と親しげに肩を叩いて、以後見逃してくれるようになった。
平日、ユウジが花子に会える機会はこれだけだ。練習後、チームメイトと一緒に下校するのを断ると、異性と交際していることを勘付かれるような気がした。それでなくとも、昼休みのたびに姿をくらますユウジに異性の気配を嗅ぎ取っている者は大勢いるのだ。そして、いくらユウジといえども自分の彼女が壁のシミであることをカミングアウトすることには躊躇いがあった。恥に思っていたわけではないが、誰にも理解してもらえないだろうと諦めていた。ならば最初から誰かに言うべきではない。ユウジはこの恋を二人だけの秘密にしようと決めていた。
休日は部活があるときだけ花子と会うことができた。サッカー部の練習の無い日にグラウンドにいる他のクラブの目を避けて便所ボックスに入るのは至難の業だったし、実際にやろうと言い出したところを花子に止められた。
「危険すぎるわ。それに・・・
ここで花子ははにかんだ笑顔を浮かべた。
「引き裂かれた恋人達って、ちょっとときめかない?」
このとき、二人は初めてくちづけを交わした。
ユウジのファーストキスは冷たい硬材の味がした。それから一週間ほどの間、ユウジは口内炎に悩まされた。

一年が過ぎた。色々なことがあった。

便所ボックスに入り浸るユウジはガラスの胃腸だと噂されるようになった。
お盆休み、全部活が休みの日に初めてお泊りした。
サッカー部が県大会でベスト4になり、花子にウイニングボールをプレゼントした。
花子の上に落書きがされた。
運動会を抜け出してずっと二人一緒にいた。
学園祭を抜け出してずっと二人一緒にいた。
校外学習をサボってずっと二人一緒にいた。
おかげで三者面談のときに親に泣かれた。
クリスマス・プレゼントに消臭剤を贈った。
花子の部屋で用を足していた生徒とユウジが殴り合った。
アキとほとんど話さなくなった。
ユウジのスポーツ推薦が決まった。

また二月の終わりになった。グラウンドに吹く風も少しだけ和らいできた。ユウジは六時間目の授業に出ず、便所ボックスへやって来た。どうせ進路は決まっているのだから、律儀にお勉強をしてやることもない。それならば少しでも長く花子といたかった。
人気の無い校庭を縦断し、便所ボックスが近づいてくるとユウジはそこに女が立っているのに気がついた。
大人の男ほどに背が高いその女は鮮やかな紫色のセーターの上に白衣を纏い、じっと腕組みしながら便所ボックスを凝視している。腰まで伸びた髪を馬の尾のようにまとめており、どこか日本史の教科書の登場人物めいた古風な凛々しさを漂わせている。やけに鋭い切れ長の目には見覚えがあった。確か、秋ごろに転任してきた天野とかいう養護教諭だ。前の教諭が原因不明の病気で入院したとかで急遽代わりに着任して以来、端正な外見と、見かけ通りのきびきびとした仕事ぶりで主に女子生徒から莫大な人気を集めていると聞く。休み時間のたびに保健室には悩み相談に訪れた女子が溢れかえっているらしい。
そいつがこんなところで何をしているのだろうか。排便という風でもない。何かを観察しているようにも、ただ単に考え事をしているだけにも見える。いずれにしろ、早く立ち去ってもらいたいところだが・・・。
「何をしている」
話しかけられてしまった。それはこっちの台詞だ、と言いかけて飲み込む。
「ちょっと便所を・・・」
「それなら校舎で済ませればいいだろう。ははーん、さては御主、こっちだな」
天野はカトちゃんペッにも似た仕種をしてみせる。ユウジは慌ててかぶりを振る。
「違います!吸ったことないっす!」
「冗談だ」
白衣のポケットをまさぐり天野は萎れた煙草の箱を取り出した。おまえがかよ、とはもちろん突っ込まないでおく。
「しかし臭いな、ここは」
煙と一緒に吐き出すような言い方だった。なんとなく煙を見ていると、天野の口紅の色も紫なのに気付いた。
「そうですか?」
「そうさ。臭わないのか?花粉症ならいい薬を処方してやるぞ。とは言っても春にはちと早いがな」
あれ?同じことを誰かからも言われたような気がする。そうだ、アキだ。そういえばもう、随分長いこと口を聞いていない。別に喧嘩をしたわけでもないのだが、なんとなく、花子に気を遣うとアキを避けてしまうのだった。
あいつ、私立受けたって聞いたな。合格発表、まだなのかな。
「・・・おい、聞いているのか」
天野が何か喋っていたらしい。ユウジはとりとめのない思考から我に返る。
「え?何ですか?」
「鼻だけじゃなく耳も悪いのか。ヘレン・ケラーみたいな奴だな。まあいい。この便所に近づかないほうがいい、と言ったんだ」
「どうしてですか?」
「汚いからに決まっている」
嫌な顔で笑う女だな、とユウジは思った。侮蔑と優越感を足して二を掛けたようなふてぶてしい笑顔はユウジの心象を悪くした。紫色の唇も、どこか冷たい攻撃性を感じさせる。それでも一般人からすれば特に怒るような場面ではないと思い、ユウジは堪えて普通の声色で返した。
「そうでもないですよ。最近は消臭剤も置かれてるし、掃除もマメにされてるみたいです」
「一体誰がそんなことをしているんだ?」
「さあ・・・」
「おまえか?」
ユウジはぎくりとした。もちろん、便所ボックスを掃除している、というのはユウジ自身の話である。最初は散髪に行くくらいのインターバルで、今では三日に一度ほど。洗剤で便器を磨き、床をたわしで擦るだけだったが、一頃と比べると随分清潔になった自負がある。ユウジが天野に対して抱いた苛立ちは、そうしたユウジの努力を帳消しにするかのように「汚い」と切り捨てられたことも起因していた。
ユウジは天野の問いに答えなかった。いけすかない。実にいけすかない。なんでも知っているような顔をしやがって。近づくな?どうしておまえにそんなことを命令されなくちゃならんのだ。昔の人はうまいことをおっしゃったものだ。曰く、人の恋路を邪魔する奴は馬に食われて死んでしまえ。
ユウジが黙っていても天野は特に気にする素振りをみせずに煙草を黙々と吸っていた。やがて、煙草が三分の一ほどの長さになったところで地面に捨てた。爪先で、タバコの吸殻をグラウンドに埋めてから天野は歩き出した。
「保健室に戻る。おまえも授業は出るようにしろよ」
ユウジのサボりを強いて咎めない天野の余裕が、余計に腹が立たしい。天野が校舎に消えるまでずっとその背中を睨みつけていた。地面から垂直に伸びた、姿勢のいい背中は一度たりとも振り返らなかった。
乱された心でユウジは便所ボックスに入った。どんな消臭剤でも打ち消せないアンモニアの臭いを嗅いだ瞬間、ユウジは心が休まるのを実感した。

「春から別々だね」
寂しそうに花子が笑って、こみ上げてきた涙をさっと拭った。最近ユウジの目には花子の顔だけでなく、全身が見えるようになっていた。壁から出てこられないということと、誰かに落書きされた髭が消えないということを除いて、花子は普通の女の子と何一つ変わらなかった。
「会いにくるよ」
ユウジは取り繕ったが、それが難しいことは分かっていた。便所ボックスに入るためだけに度々中学校にやってくる高校生。もしも見つかったら不審者以外の何者でもない。しかし、問題はもっと深刻だった。
ユウジが推薦を受けた高校のスポーツ科は全寮制だったのだ。土日ですら外出は難しいと聞く。これから三年間、ユウジと花子は離れ離れに暮らすことになってしまう。
かつて、自分達の交際の困難さを冗談めかして悲劇のだと言っていられたのは、本当の悲劇に出会ったことがなかったからだ。
「本当に?」
「本当に」
その言葉は嘘ではなかったが、本当になるとも言い切れなかった。姿の見えかかったユウジの将来は、夕焼けが闇に侵されていくように、ユウジの心を重くさせる。卒業が近づくほどに、ユウジの不安は募るばかりだ。これなら・・・
これならいっそ・・・
「オレ、推薦取り消してもらうよ」
花子が驚いた顔を見せる。
「だめよ。だってすごくサッカー強い学校だって・・・。国立も夢じゃないって・・・。そう言ってたのに・・・」
「サッカーはいつでもやれる。でも花子はそうじゃない。オレには花子のほうが大切だ」
「だって・・・。夢だったんでしょ、国立。決勝のウイニングボール、私にプレゼントしてくれるって・・・。お願い、私のために夢を諦めないで?」
「オレの夢は花子とずっと一緒にいることだ。プレゼントだって、ウイニングボールよりもいいものをあげる。水洗便所、花子ほしい、って言ってたろ?」
ユウジの声に迷いはなかった。たった十五歳の少年の全身から未来を背負っていく決意が滲み出ていた。それがどんなに辛い未来でも。
花子は何も言わなかった。ただ、そっとユウジの頬に手を伸ばした。
「ありがとう」
花子の手は温かかった。
「水洗、できるかな?」
「できるさ。卒業までに掛け合ってみるよ。サッカー部のエースの言うことなら話は聞いてもらえると思う」
「ありがとう、ユウジ。薬、ある?」
「もちろん」
断っておくが、薬とは何もイケナイ薬のことではない。肌荒れ用の塗り薬のことで、キ
スするたびに唇の荒れたユウジが携帯するようになったのだ。つまり、「薬ある?」とは「キスミー」という意味の二人の合言葉であった。
放課後になるまでユウジは花子と一緒にいた。外に出ると、出口の前にアキがいた。
「久しぶり」
それだけ言ってすれ違おうとするユウジをアキが制した。
「何してたの?」
「便所から出てきたヤツにそれを聞く?」
ユウジはおどけてみせた。アキは笑わなかった。ユウジの体に染み付いたアンモニア臭を前にしてリアルに笑えなかった。
「花子さんと会ってたの?」
意味が分からなかった。やがて、アキの言う花子がユウジの花子のことだと理解できたとき、アキの顔が歪んだ。
「よくないよ、ユウジ・・・。こんなことやめようよ」
「知ってたのか?」
「うん」
最後にこうしてアキと面と向かって話したのはいつだろう。背が伸びて、ツインテールをおろしたアキは、以前より少しだけ垢抜けていた。
「いつからだ」
「ずっと前から。ユウジの様子がおかしいって思ってたから、後をつけたの。ユウジがよくここに来ることは分かってたから。そしたら中から声が聞こえてきて・・・」
「面白がってたのか?」
アキの体が雷に打たれたようにわずかに震えた。
「ちがう。面白がってなんかいないよ」
「変態か、バカだと思って嘲笑ってたんだろう。それで、他の奴らに洗いざらい話したんだろう」
「誰にも話してなんかいないよ。信じて」
「くそう、どいつもこいつもオレ達をバカにしやがって!!」
大声で怒鳴ったユウジの脳裏に、天野の歪んだ紫色の唇がよぎる。
「何がいけない?オレがおまえらに何か迷惑かけたのかよ!?オレが誰かを好きになって、その誰かがたまたま壁のシミだったってだけのことだろ?幼稚園児や実の母親に惚れるよりはよっぽどマシじゃないのか!?おまえにだって人とは違うことの一つや二つあるだろうがよ!!大体、おまえらいつだって彼女の家のこと悪く言いやがって!!便所ボックスってなんだよ!!なんか『うまいこと言ってみました』みたいなニュアンスがムカつくんだよ!!くだらねえよ!!花子の気持ち考えろよ!!おまえ、本気で人を好きになったことあんのかよ!!どうせないだろう!!そんな奴が偉そうに説教するんじゃねえ!!おまえがオレをバカにする権利なんてねえ!!ひとつもねえんだ!!」
一気にまくしたてて、ユウジはしゃがみ込んで咳き込んだ。大丈夫、と擦り寄るアキの手を払いのける。
なんて自分はみっともないのだろう。
首筋に生暖かい液体の感触があった。雨か?見上げると、空は雲ひとつない晴れだった。青い空をバックにしてアキが泣いていた。
「あたし、ユウジの、こと、バカに、してないよ。人を、好きに、なったことも、あるよ」
しゃくりあげながら、途切れ途切れにアキは話している。
「だって、あたし、ユウジ、好き、だもん」
ユウジは驚いてアキを見る。
アキは大きく息を呑んだ。そして背中を向けて走り去っていった。
声をかけようにも言葉が出てこなかった。

「そうか・・・」
天野はそう呟いて黙り込んでしまった。
無理もないかな。ベッドの上でアキはちょっとだけ後悔する。
あまりにも複雑で、過酷な悩みを背負うにはアキは幼すぎた。彼女は泣き腫らした顔のまま、保健室に直行した。
天野は不思議な女性で、お世辞にも愛想があるとは言いがたいが、家族にも話せないことでもすらすら話せてしまえるような包容力がある。今にしたって、さりげなくカーテンも部屋の鍵も閉めてくれる配慮が嬉しかった。
アキは便所ボックスとユウジのこと、そして自分がユウジに勢いで告白してしまったことを、ダムが決壊するように打ち明けた。無表情で相槌も打たずに聞いていた天野は、話が終わってからずっと腕組みして考え込んでいる。
薬と真新しい布の匂い。それらはアロマセラピーのようにアキの気持ちの高ぶりを冷ましていった。
「あたし、ユウジが誰を好きでもかまわないんです・・・」
天野はあらぬ方向を見つめている。聞こえているのだろうか。例えそうでなくてもいい。
「ちゃんと告白できて、それで断られるんなら、悲しいけど諦められるから・・・。でも・・・」
再びアキの目に涙がこみ上げる。
「便所のシミに負けるなんて・・・。納得できません!!」
天野は目を瞑る。眠っているようだ。
「だから、あたし、ひどいことをしたんです・・・。あの部屋に行って、油性マジックで、シミに落書きしたんです・・・。髭を書いて、何度も何度もなぞって・・・。こんな陰険な女だから、便所のシミに負けたんです・・・」
おもむろに天野は立ち上がると、机に向かい、引き出しから何枚かの書類を取り出して戻ってきた。ベッドの上に広げられたそれらの書類は医学系らしい専門用語や、崩し文字が多くてアキには知った名前を見つけるのがやっとだった。
「加納先生に・・・。戸川先生・・・。」
いずれも長期休暇をとっているこの学校の教師だ。その名前がどうしてこんな紙に・・・
「彼らだけじゃない。他にもこの学校で長く欠席している生徒の名前がここには挙がっている。私が赴任してきてから三人、その前には五人。不思議に思って調べさせてもらったよ。養護教諭の勤めというやつだ」
書類の中にはどこかの病院のカルテらしいものも混じっている。それが手に入れようと思って手に入れられるものではないことは、一介の中学生であるアキにも分かった。
「私は彼らの病気の原因が同一なのではないか、つまり何らかの感染症菜のではないかということを証明してみることにした。で、結論からいえば、証明はほぼ終了しそうだ」
全くぶれることのない口調からは、天野が自分の頭脳に対して絶対的な自信を持っていることが窺える。それはごく平均的な中学校の養護教諭としては傲慢とも思えるほどだ。それでも天野の言葉はきっと正しいのだろう、と信じ込まされてしまう。まるでカウンセラーか宗教の教祖のようだ。
この先生、普通じゃない。
スリラー映画で殺人犯が身内だと気付いたヒロインのように、アキは目の前の養護教諭に対して初めて恐怖を感じていた。
「彼らの症状は酷似している。幻覚、幻聴、妄想、妄言。そして、彼らの大半が下痢、腹痛に悩まされていた」
幻覚?幻聴?妄言?それって・・・。
「今尚、この学校では感染者が増え続けている。確か、おまえのクラスで入試を受けられなかったヤツがいただろう」
はっとアキは思い出す。原田さんだ。志望校が同じだったから覚えている。一週間前の入試当日、彼女は急病にかかったとかで会場に来られなかったのだが・・・。
「ちょっとやそっとの被害規模なら、私が腰を上げるまでもないと思っていたのだが・・・。こいつはちょっと深刻かもしれん。このサンプルの分析結果次第だが・・・」
天野は白衣のポケットから小さな試験管を取り出した。中に入っているのは砂のような粉だ。
「便所ボックスを取り壊す」
正式に便所ボックスの取り壊しが決定したのはそれからわずか三日後のことだった。
決め手となったのは天野が便所ボックス内で採取したサンプルの成分表と、長期休養者のいずれもが便所ボックスで用を足したことがある、との裏が取れたことだった。
鬼神の如く立ち回り、解体業者まで格安で手配してしまった天野の奮闘を知るものは少ない。
「アンモニアとあの地下に元々存在した植物類の化石の成分が長い時間をかけて合成され、人体、特に中枢器官にとって有害な成分を生み出すようになり・・・」
天野がアキに説明してくれたが、とにかく便所ボックスが危険だ、ということくらいしか理解できなかった。それよりも、アキは養護教諭のキャパシティを軽々と超えていく天野に畏怖の感情を強めていった。
ともあれ、卒業式の翌日、春休み第一日に取り壊しの日取りが決定し、どこからともなく校内に噂となって広がった。生徒、教職員の感想は主に二つ。
「本当に、本当によかった」
そして
「解体工事って、七十年分の毒素がぶちまけられるんだろ?大丈夫なのか?」
ちなみに、ボックス自体の解体工事の後、便所は徹底的に洗浄されてコンクリートで埋め立てられることが判明し、後者の危惧は解消された。
誰もが便所ボックスの撤廃を心から支持した。
ユウジを除いては。

卒業式を二日後に控えた雨の日。
アキは昼休みの渡り廊下で、人だかりを見かけた。
「行ってみようよ」
友人の誘いにほんの一瞬躊躇してしまったのは虫の知らせというやつだろう。
果たして、好奇に湧く生徒達の中心にいたのはユウジだった。
「ひっ」
アキが声をあげたのも無理はなかった。
うつぶせに倒れこんだその顔には青い痣ができており、鼻血が垂れ流されていた。
「なんだ、終わりかよ」
三人の大柄な男子生徒たちが、ユウジの顔に唾を吐きかける。一人は柔道部の主将だ。全国大会に出たこともあるらしく、朝礼で表彰されていたのを覚えている。
彼らの服装も乱れており、どうやらユウジと殴り合いをやらかしたようだった。サッカー部のレギュラーであるユウジが廊下に伸びているところをみると、おそらく三人がかりで袋叩きにしたのだろう。何事かぼやきあいながら、柔道部連中が去っていくと、見物人も興味をなくして去ってしまった。
おかしい。みんなユウジのこと、無視してる?
ユウジに駆け寄ったアキには野次馬達の冷め方の早さが気がかりだった。
ふと、あたりに散らばった紙切れに気付く。新品らしいキャンパスノートの残骸。そしてマジックで文字の書かれた表紙。

便所ボックス保護に関する署名運動

よく見れば、ユウジの肩からもタスキがかかっており、こちらには「教育委員会の横暴許すまじ」と書かれている。
「・・・あいつら、・・・言ったんだ・・・」
ユウジが顔を廊下に突っ伏せたまま、呟いている。
「え?」
「あいつら・・・。『便所ボックスはクソの役にも立たない』って言ったんだ・・・。『どうだ、うまいこと言うだろう』って・・・。だから・・・」
「ばか!」
反射的に叫び返すと、完全に引いている友人の手を引いて、アキは駆けていった。
ばか。ばか。
もう知らない。またボコボコにされて、ボロ雑巾みたいになって、便所の掃除用具入れに放り込まれちゃえばいいんだわ!!きっとあんたもそれで本望でしょうよ!!
だけど、あんたがそこまでして守ろうとしてる女の子なんて・・・
ただの便所のシミでしょう!!
鼻をつくのは雨の匂いか涙の匂いか分からなかった。友人が「加山くんってキャラ変わったよね」などと言うのも聞こえない振りをした。

「あんたを許さない」
保健室で顔に赤チンを塗ったくる天野に向かって、ユウジは告げた。
「大層だな。傷が滲みるのくらい勘弁してくれ」
「皆が噂してるぜ。あんたが黒幕だって」
天野の冗談を無視してユウジは続ける。
「何の話だ」
「とぼけるな!!」
思わず大きな声を出してしまい、引きつった頬の傷が痛む。顔をしかめたユウジを見て天野が笑う。例の、人を見下した笑顔。
マジで嫌いだ、こいつ。
ユウジは絆創膏を貼ろうとした天野の手を無視して、保健室を出ようとした。
「分かっているんだろう」
天野の声が背中から聞こえてくる。
「花子さんは幻だ。おまえは病気なんだよ」
ユウジは奥歯を噛みしめながら、保健室を後にした。
卒業式が終わった。しかし、ユウジは何の感慨も沸いてこなかった。ここ数日、署名運動をはじめとする不審行動を繰り返していたユウジに声をかける者もなかった。それはかえって好都合だった。
「ほらね。やっぱり」
便所ボックスに向かうユウジを見て誰かが笑う。花子の存在は既に全校生徒に知れ渡っていた。ユウジの過剰ともいえる便所ボックスへの思い入れを不審に思ったサッカー部の友人が尾行し、便所ボックスで花子と会話し、キスを交わすユウジを発見したのだった。もちろん、彼にははユウジが壁に向かって会話していただけにしか見えなかったが。
噂は広まり、この変わり者の少年に嘲笑が向けられたが、もうそんなことはどうでもよかった。今までつまらないプライドにこだわって、花子との関係を胸のうちにしまってきた自分がむしろ愚かに思えていた。
何度も嗅いだ臭いに迎えられて、ユウジは花子の部屋を訪れた。花子がゆっくりと微笑む。
まただ。
ユウジは思い出していた。初めてユウコと出会ったとき、彼女が浮かべていた寂しげな笑顔。ユウジと付き合うようになってからは、なりを潜めていたその笑顔に、ユウジの胸は軋んだ。
別れのときが迫っているのだと感じた。
「逃げよう」
「だめ」
ユウジが一晩中考えて辿り着いた結論を、即座に花子が否定する。
「どうして?壁から君だけ切り抜いてしまえばいい。簡単なことだったんだよ。そうさ、もっと早くそうすれば、オレは推薦を蹴らなくても済んだんだ・・・」
「後悔してる?」
消え入りそうな花子の声に、ユウジは慌てて首を振る。
「まさか!後悔なんかするもんか!ここでの時間がオレは大好きだった。ずっとここで君と二人でいたかった。ずっと、君と・・・」
「ビチグソ加山、快便ですかー!!」
外から男子生徒のふざける声が飛んでくる。それすらもユウジの耳には入っていなかった。
「だから、オレと一緒に行こう。オレの部屋で・・・。オレの家で暮らそうよ」
「だめなの。私、ここからは出られない」
「どうして?」
「それは私がトイレの花子さんだから」
堪らず、ユウジは花子を抱きしめた。確かな弾力、確かな温もりを腕の中に感じる。これが幻だなんて信じられない。いや、例え幻だとしても、この時間は現実以上にリアルだ。
窓の隙間から桜の花びらが舞ってきて、ユウジの肩に落ちた。男子生徒どもが便所ボックスの周りでメンズ・ファイブの「へーこきましたね」を大合唱している。最初は二、三人で歌っていたのが、やがて歌声が増えていき、最後には大晦日の聖歌隊並みの大合唱に変わっていた。
ああ。
頼むからそっとしておいてくれよ。
オレがおまえらに何をしたって言うんだ。
ユウジは体を曲げて耳を塞いだ。その上から、覆いかぶさるようにして花子が抱きしめる。まるでユウジにとっての核シェルターのように。とても心地いい。赤子の頃に戻ったみたいだ。このまま、ずっとこうしていれたらどんなに。
「いい加減にしなさいよ!」
女の叫び声で大合唱は中断された。どうやら、女は泣いているようだった。
「最後くらいちゃんとお別れさせてあげなさいよ!あんた達に邪魔する権利なんてあるの?本当に心から人を好きになったことがないから、そんなことができるのよ!」
聞きなれた声。幼い頃、何度も聞いた声。
ユウジはその声の主に深く感謝した。
ありがとう。
気持ちに応えられなくてごめんなさい。
だけど、もしオレが人間の女の子を好きになったのなら、
相手はきっとオマエだったよ。
いつの間にか辺りは静寂に包まれていた。皆、黙ったまま帰って行ったらしい。ユウジは沈黙の中に身を埋めた。花子の胸に抱かれながら、まどろみの中に落ちていった。

翌朝。
トラックとショベルカーでやって来た解体業者達は愕然とした。
取り壊し予定便所の前に、一人の少年があぐらをかいて座り込んでいる。
まっすぐこちらを見据えた目は赤くはれ上がり、まるで血を流した跡のようだ。
あるいは、本当に血が流れるまで泣きでもしたのかもしれない。尋常ではないその少年の様子に業者の男たちは戸惑うばかりだった。
「あのさあ、そこ、工事の邪魔になるからどいてくれるかな?」
声をかけてみても一向に立ち退こうとはしない。過去に、民家や商店を取り壊す際には、このような行動に出る人達はいた。長く暮らした家屋に慣れ親しんだお年寄りなどだ。
しかし、まさかこのような汚くみずぼらしい便所の解体で、座り込みが出るとは思わなかった。親方が頭をかく。予定時間はとっくに過ぎていた。説得の言葉もだんだん荒々しくなっていく。
「そんなことやって何の得があるんだよ!!」
「いい加減にしろよ、クソ坊主!!」
「一緒に解体して、おまえの墓石立てちゃろか!!」
しかし、いかなる脅しにも顔色一つ変えず、少年はじっとあぐらをかき続けている。力づくで動かそうとすると、折りたたみ式のナイフを取り出し、応戦する構えをみせる。
「あいつ、頭おかしいんじゃねえのか!?」
「それに、あいつ、なんかすごく臭いぞ!」
流石に気味が悪くなってきたところで、親方が決断した。
「もういい。始めろ」
「しかし、親方」
「こっちはこれでおまんま食ってるプロだ。プロがなめられちゃ話にならねえ。心配するな。ショベルで突っ込めばすぐ逃げ出すさ」
ためらいながらも、若衆が親方の命令に逆らえる由もない。ショベルカーのギアを引き、前進させる。
地震のような震動が便所ボックスを揺らしている。ショベルカーの魔手が機械的にしなりながら振り上げられる。それでも少年はびくともしない。砂埃が目に入って瞬きをしただけだ。
こいつ、死ぬぞ。
運転手の背筋に冷たい戦慄が走る。なんて目をしてやがる。まるで死人みたいじゃねえか。
彼がショベルカーを止めなかったのは、職業的義務感でも親方への忠誠でもなく、純粋に目前の少年に恐怖したからだった。無意識のうちに彼の防衛本能が働いた。危険なもの、外敵を排除しようとする本能。
それは時間にして瞬間的なものでしかなかったが、人一人殺めるにはそれだけの時間で十分だった。
ショベルがゆっくりと振り下ろされる。象の鼻にも似たそれはえらく怠慢な動きで、それでいて確実にユウジごと便所ボックスを破壊しようとした。
目を閉じた。
「彼女」の顔が浮かぶ。
「彼女」の顔しか浮かばない。
ああ。
どうせ死ぬなら。
「彼女」の傍にいればよかった。
唾を飲み込む。
そして感覚が失われる。
闇。
ひたすら広がる闇。

どれくらいそうしていただろうか。
死の気配が目と鼻の先で停滞している。
どうした?
運転手が怖気づいたのか?
目を開けると少女の背中が見えた。
シャツとスウェットだけのラフな井出たちで。
両手を広げて深呼吸でもしているかのように。
そしてその手が自分を守るために広げられているのだと気付いたとき、
ユウジはその女の子の名前を呼んだ。
「アキ!」
少女が振り向く。口元を歪めてみせたが、目は笑っていない。よく見れば肩がかすかに震えている。
ショベルは彼女の眉間のすぐ前で止まっていた。運転手が何事か怒鳴っている。
「どうして?」
ユウジの問いにアキが蚊の鳴くような声で返す。
「女の子に、二度も恥かかせる気?」
そしてユウジの隣に座り込んだ。動揺するユウジにアキが笑いかける。
「あたしがここにいる。だから、ユウジは花子さんに会いに行ってあげて」
「でも、おまえ一人じゃ・・・」
「早く!彼女淋しがっているはずよ。それに・・・」
アキが顔を向けた先から、ぞろぞろと知った顔が歩いてきていた。野球部員、クラスメイト、そしてアキの友人らしい女の子達。まさか。アキが声をかけてくれたのか。
「あたし、一人じゃないよ」
ユウジは黙って頷く。そして便所ボックスの中に駆け込んだ。

「アキさんってあたしのこと嫌いだと思ってた」
事情を聞いた花子はそう言ったが、はにかんだ微笑を浮かべている。考えてみれば、女友達もろくにいない花子からすれば同姓から受ける親切に慣れていないのだろう。今の感情は戸惑い半分、嬉しさ半分といったところか。
「トイレの花子さんの祟りがあるぞー!!」
表では卒業生による有志のデモ隊がシュプレヒ・コールを始めている。それが業者の若衆を刺激するようで、今にも小競り合いが起こりそうな気配だ。
「みんな、私なんかのために・・・」
「そんな言い方するなよ。みんな嫌々やってるわけじゃない。今まで花子にしてきたこと、悪かったって思ってるんだ。だから、こうして罪滅ぼしをしようとしてくれてるんだ」
「私、誰も恨んでなんかいないよ。だけど、みんなの気持ちは嬉しい」
「花子、今度アキと喋ってみろよ。あいつ、いいヤツだからきっといい友達になると思うよ。今はアキには花子が見えないけれど、大丈夫、すぐに見えるようになるさ。なんだったら、オレが通訳してやってもいい」
「ありがとう。私・・・」
言葉を切った花子はまた泣くかに思われた。しかし、涙の代わりに花子が見せたのは、今までで最高の笑顔だった。
「私、ユウジからたくさんもらったね・・・。好きっていう気持ちも、キスも、消臭剤も、再生紙じゃないトイレットペーパーも・・・。だけど、あたし、何も返せなくて・・・」
「お返しなら今もらったよ」
「え?」
「今、花子、これまでで一番幸せそうな顔してる」
花子は顔に手をやってみる。自分の表情を自分で確かめるように、目、口、頬に触れる。
「本当だ。あたし、幸せそう」
「幸せそう、じゃなくて幸せだよ。これが幸せなんだ、花子。これからずっと幸せが続くんだよ、花子」
そうだ、そうに決まっている。きっと工事も中止になるだろう。そすしたら、オレはここで暮らし始めよう。高校には通わないぶん、バイトでなんとかやっていける。そして、いつか一人前の男になったら・・・。
「結婚しよう」
突然のプロポーズに花子は戸惑ったようだった。構わず、ユウジは続ける。
「ずっと二人で生きていこう。君がほしいものはなんでもあげる。まずは水洗便所だね。ウォシュレットも音姫もついたやつ。便座が自動式なら最高だ。それから、床をタイル貼りにしよう。バカが煙草を吸いに来たりしないよう、煙感知機も取り付けよう。ヒルトンホテル並みに綺麗なトイレになるよ。子供は三人がいいな。親にも紹介するよ。大丈夫、きっと分かってもらえるよ。オレ、頑張れるよ。花子がオレのこと好きでいてくれるなら頑張れるよ」
「あたし、きっと子供できないよ」
「それなら養子を迎えたっていい」
そして唇を重ねる。今までで一番長いキス。
「薬、多めに塗らないとな」
さすがに照れてきてユウジは笑った。花子も笑顔のままだった。
大丈夫。
何度も繰り返す。
大丈夫、幸せは続くんだ。
「ありがとう。でも、結婚はできない」
花子がそう言った。笑いながら。幸せに埋もれながら。
なんて?今なんて言った?
どうして「できない」なんて言う?オレのことを好きならどうして?
「あの人が来たから」
あの人?
ユウジは小窓から外を見やる。
作業服姿の解体業者の群れにに一人だけ、スカートスーツの人間が紛れているのが分かった。眼鏡をかけてはいるが、その顔には見覚えがある。
「天野!?」
どうして養護教諭がこんなところに?
作業員の一人が天野にスピーカーを手渡した。小さく頷いてから天野はスピーカーのスイッチを入れた。
「デモ隊、いやもとい、暇人どもに告ぐ。おまえたちのやっていることは限りなく時間の無駄だ。薄々気付いているとは思うが、馬鹿げている。茶番だ。恥さらしだ。確かに人生とは無駄と回り道の連続だ。そして大概、無駄なことでも『何かを無駄にした』という教訓だけは残してくれる、という点において意味がある。だが、おまえたちは違う。おまえたちのしていることはとことん、徹底的に、有無を言わさず、完璧な無駄だ。無駄の大銀河だ。無駄のビックバンと無駄のビックバンが繰り返されて、果てにできたのは無駄のブラックホールだけだ。それによく考えてみろ。業者の邪魔をして費用とスケジュールを狂わせている時点で損害賠償ものだぞ。誰が払う?親だろう。自分で責任を負えないことをするな、青二才が。青春に酔って現実を見失うな。そもそも大前提からして変だと思わないのか?加山ユウジの彼女は壁のシミ。そんな話、突っ込みどころ満載じゃないか。これはおまえらの沽券に関わる問題だぞ。恥を知れ。そして今からでも遅くない。自分の人生に戻れ。夢に取り込まれるのは中のバカだけで充分だ。全部そいつの所為にして降りてしまえ」
またあの女か。いつでもあいつが邪魔をするんだ。
「大丈夫。私は分かっている。悪いのはあいつと便所なんだよ」
同じ「大丈夫」でもここまで意味合いが違う使い方ができるものなのか怒りに駆られて、今すぐ飛び出し、天野の頭をかち割りたい衝動に捉われる。天野の演説は冷酷に事実を並べ立てることによって、デモ参加者のモチベーションを著しく下げることに成功していた。それを読み取って、天野が声を大にする。
「突貫!!」
今まで止まっていたショベルカーが再びショベルを振り上げる。アキを除く生徒達は散り散りに逃げていく。所詮は寄せ集めの烏合の衆。目的の純粋性において、彼らがユウジはもちろん、アキにさえ肩を並べていたはずもないのだ。
「やめろ!!」
飛び出そうとしたところで、ユウジの足がもつれた。慌てて起き上がろうにも力が入らない。怒鳴ろうにも舌が回らない。まるで悪い薬でも飲んだかのように意識が薄らぐ。
だめだ。こんなところで。
しかし、ユウジの意識はもう限界だった。長きに渡り、ユウジの身体中を蝕み続けてきた毒素は、侵略を完遂すべく中枢神経を強制終了させようとしていた。
視界の隅に花子が映る。幸せという名の笑顔を浮かべながら、花子は口だけ動かした。
さ、よ、な、ら。
それがユウジの最後の視界だった。
頬が床にくっつく。ざらざらとしたセメントの感触。
やっぱりタイル貼りにしないと駄目だな。
そしてユウジの意識は消えた。
ユウジは入院した。状態は殊の外深刻だった。検査と投薬を繰り返し、退院した頃には夏休みになっていた。
真っ先にユウジが向かったのは、中学校のグラウンドだった。部活はどこも休みらしく、青く澄んだ空は逆に殺風景を助長していた。便所ボックスがあった場所に立ち尽くす。おざなりにコンクリートで塗り固められた地面には、もはや昔の面影も無い。鼻をひくつかせてみても懐かしいアンモニア臭はせず、ただ砂と青葉の匂いだけが感じ取れた。見舞いによく来てくれたアキから話は聞いていたが、いざ自分で目にしてみると、こうもあっけないものか。
「退院おめでとう、というべきかな」
 気がつくと、背後に天野が立っていた。真夏日和の昼下がりなのに白衣を着て汗一つかいていない。彼女の顔を見ても、ユウジの胸にかつての激しさは蘇ってこなかった。
「ここに来たら、思い出すと思ったんです」
「何を?」
「自分がどれだけ『彼女』のことが好きだったのか。でも、だめです。忘れてしまいました」
あるいは、本当に病気のせいだったのかもしれない。いや、たぶんそうなのだろう。しかし、あの頃、ユウジを焦がし、突き動かした衝動が全て自分の意思ではなかったなどとはにわかに信じられない話だった。
 では、オレの想いはどこに消えたのか?
病室でずっと考えていた疑問は、思い出の場所に来ても解決されず、より濃いものとなっていた。
「いいものを見せてやろう」
天野が手の平を向けたのは、便所ボックス跡の傍らに立つサルスベリの木だった。つられて見やると、見覚えのある模様が根元近くの幹に描かれていた。
「これって・・・」
「彼女」の笑顔が浮かんできそうになって、思わず目をこする。改めてよく見ると、それはキノコだった。くすんだ色の小さなキノコの集まりが、「彼女」のシミと同じ大きさ、同じ形に生えていた。
「例の便所がなくなってすぐだ。生えてきたのを谷村が見つけた。菌糸体を調べさせてもらったが、便所から検出された成分にも含まれていたよ。さしづめ・・・」
ユウジは言葉も無く立ち尽くしている。目線はあまりにも懐かしく、特別な形のキノコに注がれたままだ。
「『彼女』の子供、といったところか。谷村に感謝しろよ。おまえが入院している間、このキノコの世話をしてくれと私に頼みにきたんだぞ。おまえが退院するまで、萎びたり乾燥したりしないようにってな。まあ、キノコの世話なんてどうすりゃいいのか分からんかったから放置していたが」
ユウジの肩が震えだす。天野の位置からは顔が見えないが、泣いているのかもしれない。
「谷村な。たかがキノコでも花子の子供だから、と言っていた。花子がいないのなら自分が母親になる、ともな。夏休みには毎日、こいつらに会いに来ているみたいだ。もうすっかりお母さんの顔になっていたぞ。ほら、牛乳をふいた雑巾が木の根元にあるだろう。こいつらの一番の好物らしいぞ」
ぎゃははははっは、という声がユウジから発せられたこと、そして、それが笑い声だと気付くのには時間がかかった。
「子供?お母さん?ひひひひ、あんたら頭おかしいんじゃないのか?だって、くくっく、キ、キノコだぜ!!はははははは」
半年近くの入院生活はユウジの脳から毒素を取り除くのに充分だったらしい。ユウジは完全に常識側の人間として天野とアキを笑い飛ばしていた。
そうか。治ったのか。よかったな。でも。
天野は腹を抱えているキノコの父親(?)に延髄切りを喰らわせた。ユウジは腰を砕けさせてダウンしたが、それだけでは飽き足らずに気を失うまでチョーク・スイーパーをかけた。ユウジが泡を吹いてからようやく力を緩めてやる。
「孕ませた女に責任も取らないとは、最低な男め。天罰だ」
少し顔が赤らんでいるのは、便所ボックスを撤廃させた張本人であるはずの自分が、日和っていたことを、よりにもよってユウジに笑われたことへの恥らいであった。
屍のように身動き一つしないユウジに罵声を浴びせかけたところで、グラウンドをこちらの方へ駆けてくる人影が目に入った。
「タケオくーん、ミルクの時間でちゅよー」
賞味期限の切れた牛乳パックを振りかざし、満面の笑みを浮かべたその少女は、すぐに怪訝な表情に変わった。平和な昼下がりに似つかわしくない風景、うつ伏せに伸びている男に気付いたのだ。
「誰です、この人?」
彼女にはこの不審者が退院したユウジの成れの果てと知る由もない。
「夢の残り香さ」
天野は肩を竦めた。



ログインすると、残り1件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

SHAKRESを愛でる会 更新情報

SHAKRESを愛でる会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング