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アルファードよ永遠にコミュの幻の3.16無料パンフ

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2007・3・16銀座タクト・・・。
それは知る人ぞ知る、ほとんど誰も知らないアルファード再結成ライブの日でした。

当日は、友人としてボクらをサポートしてくれた、三軒茶屋ブルーシャトーのボーカルのヤンヤンさんが、事前に原稿を集め、当日来た人だけに配る、限定版アルファード・パンフレットを作ってくれました。
その日だけの配布なので、たった100部しか作られていません。

埋もれさせてしまうのは惜しい作品なので、公開したいと思います。

表紙はボクの2007・3・11の日記が、そのまま使われているので、こちらをどうぞ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=370284433&owner_id=804576

コメント(8)

2ページ目は、マイミクでGS評論家でもある招き猫さん。

彼女と次回に登場する町井さんの尽力で、一昨年発売された「GSアイラブ・ユー」への、ボクのインタビュー掲載が実現しました。

〜アルファードに想いをよせて〜
≪時を越えて聴ける幸せ≫・・・・・・・・・・・・・・・大森 眸

 無理を承知で、アルファードを一言で語るとしたら遅れてきたGSだろう。
もし彼らが、GS絶頂期にあらわれていたら人気GSの一つになれたのかもしれない。

 しかし彼らが活動をはじめたのは、GSの火が消えようとした時期だった。
だからといって、アルファードは、決してアナクロな音楽を目指したわけではない。
70年代初期の英米ロックをしっかり自らの中に取り入れていた。

ただ、GSブームが失速したあと、ブームが下火になる中で、芸能界にいたバンドの中には、ロックを捨ててムード歌謡化しなければ生き残れなかったバンドがいたことなども含めある種のアレルギーからロック=非商業主義な流れになり、ともすれば難解な方向へ行こうとした中で、アルファードが選んだのは、歌心を大事にしたポップロックだったということだ。

この姿勢が、当時あまり理解されなかったという事は、とてももったいなかったと思う。

 何年か前にライブで「涙の想い出」を聴いたことがある。

それは、アルファードではなく、森本タローさんのバースデーライブでのことだった。

彼のバンド、再結成されたスーパースターにボーカルとして参加したHIROくんが、70年代に在籍していたバンド、ジェフ(森本タローさんがプロデュース)が、アルバムの中でこの曲をカヴァーしたことがあったので、歌うことになったのだ。
そのとき幸運にも私の隣にはサリーさんがいた。
そして自分では、行くことのできなかったあこがれのお店、“のっぽ”やオリジナルを歌っていたアルファードに思いを寄せた。

その後もHIROくんがボーカルをやっていた時期のスーパースターでは、何度となく「涙の想い出」が演奏され、ファンにもおなじみの曲になった。しかし、オリジナルのアルファードの「涙の想い出」は、まだ封印されたままだった。

 そしてついに今日、みんなといっしょにアルファードの復活を目にすることができるのです!(TдT) アリガトウ
今回は町井さんの登場です。
大森さんと同じく、GS関連の雑誌には、よく執筆されています。

≪アルファードのオリジナル曲について ≫   町井ハジメ

 1970年も終ろうかという冬のある日、岸部おさみ(現・一徳)と森本太郎が、書きあがったばかりの譜面を手に、アルファードが出演中の鶯谷のゴーゴー会館「JACK」を訪れた。
アルファードのリード・ヴォーカル丸山芳春は、この時の事を生涯決して忘れられないと言う。
その譜面に書かれていたのは、「涙の想い出」と、「帰らぬ少年」の二曲。
どちらも作詞は岸部おさみ、作曲は森本太郎が手がけている。

作詞・作曲者のクレジットでお判りの通り、この二曲は“ジュリー”こと沢田研二を擁し、グループサウンズ・ブームの頂点に君臨していたザ・タイガースのメンバーが、殺人的なスケジュールの合間を縫って書き下ろし、アルファードに贈ったものなのだ。
他のグループにとっては、何ともうらやましい話ではないか。

 アルファードが、このような恩恵に与る事ができたのは、初代ドラムスの平本佳紀がタイガースのボーヤ上がりだった事が最大の要因だが、アルファードは、ごく初期の時点から既に、タイガースとは浅からぬ因縁があった。

そもそも、岸部おさみのおばが経営していた喫茶店「のっぽ」のアルバイト仲間として丸山と、後にアルファードのサイドギターを担当する事になる佐藤道夫が出会った事が、グループ結成のきっかけとなったからだ。
グループの生い立ちや歴史などは別項に譲るとして、本項ではこの二曲を中心に書かせて頂く。

 71年になり、この二曲のカップリングのシングルレコードが、“日本CAC”というマイナーレーベルから、“NC711”というカタログ番号で発表された。
ファンの一人が懸賞で得たレコード自主制作の権利を、アルファードに譲った事によって実現したデビュー曲のリリースだった。

自主制作とは言え、今のインディーズバンドが簡単にCDを出せるのとは大きく違い、レコードをプレスできるという事は、歌手やバンドにとって一種のステータスだった。

 奇しくもアルファードのレコード・デビューと時を同じくして、グループサウンズ最大の人気を誇ったザ・タイガースが、日本武道館に於いて解散コンサートをおこなっている。
70年代に入るとグループサウンズ・ブームは完全に終焉し、音楽のトレンドは、フォークや、ニューロック(ハードロック)など、シリアスなものに移りつつあった。

客の不入りで閉店するジャズ喫茶も相次ぎ、アルファードが演奏できる場所は、ゴーゴーホールやサパークラブが多くなっていった。

 しかしアルファードは、そういった流れに敢えて逆らうかのように、ポップロック主体のグループサウンズ・スタイルにこだわった。

“遅れてきたGS”とも言うべきだろうか。
あくまで目標は“GSの王者、ザ・タイガース”だった。
 デビュー曲のシングルレコードは、手売り販売だけにもかかわらず当初のプレス分50枚を、あっという間に売り切り、追加プレスを重ねて、最終的な枚数は数百枚にまで達した。

【続きです】

 昭和50年代生まれの筆者にとって、アルファードの活動期間は全て生前の話であり、このレコードに収められた二曲を初めて聴いたのも、ほんの十数年前の事だ。
十数年前というと、60年代当時は比較的マイナーな存在だったグループの音源がCDで再発された事によって脚光を浴び、「カルトGS」と呼ばれ再評価され始めた時期にあたる。

そのような追い風の中にあっても、単独でメジャーデビューを果たすことが出来なかったアルファードの音源は依然入手困難状態にあり、「涙の想い出」は、レコードを聴く事ができた一部の幸運なファンの間でのみ、“タイガースのメンバーが書いた幻の名曲”として伝説化していく。

私は、どうにか音源は入手していたもののジャケットに関しては、数年前に出版された「プレミアレコード図鑑」という貴重盤レコードを集めた本で初めて見た程だった。

 A面となっている「涙の想い出」は、アルペジオからコーラスへと繋がるイントロ部分が印象的で、それに続く躍動感のあるサイドギターのコードカッティングと、岸部おさみを髣髴とさせる特徴的なベース・ラインがそのままサウンドの要となっている。

マイナーコードによる哀愁を帯びたメロディー、歌メロそのままの間奏ギター、タイガースの大ヒット曲「君だけに愛を」を思わせるエンディングなど、まさにグループサウンズらしい曲に仕上がっている。

 一方の「帰らぬ少年」は、同じ作者によるタイガースの「坊や歌っておくれ」と同じようにプロテストソング的な意味合いを持つ、やや重い作品。
メロディラインは、ほぼ同時期の森本太郎作品であるタイガースの「散りゆく青春」や、吉沢京子の「幸せってなに?」の流れを汲んでいる。

 テイチクのスタジオに於ける初めてのレコーディングの際には、自主制作故の時間の制約などもあり、不慣れなアルファードは大変苦労した。
また運の悪い事に丸山は風邪で喉を痛めていた。
そんな中、付きっ切りでアドバイスをしてくれた作曲者の森本太郎は、アルファードにとって大変心強い存在だった。

両曲ともに今聴くと多少粗さを感じるのは事実だが、今となってはこの録音自体が当時のライヴバンドの音をそのまま現代に残す貴重な物であり、完成されてしまったものからは得る事のできない、危うげで初々しい魅力が封じ込められている。

 72年、ついにビクターからメジャーデビューという話があり、スタジオ・ミュージシャンをバックにこの二曲を再びレコーディングした。
「涙の想い出」の再録音ヴァージョンは、ワウ、ハモンド、ヴィヴラフォン等を導入している反面、以前目立っていたサイドギターとベースが弱くなり、結果的にビート感が落ちたという印象は否めない。

同時に再録音された「帰らぬ少年」は、キーとテンポが上げられた事によって丸山のハイトーンがより生かされている。
バックには、良くも悪くも“プロがアレンジするとこうなるだろう”という見本のようなオーケストラが施され、サウンド自体の耳障りは良くなった。

結果的には、お蔵入りしてしまいメジャーデビューは幻となってしまうのだが、再録音された二曲とも商品という観点で見れば十分に市場に出ていてもおかしくないレベルの出来であり、陽の目を見る事が無かったのは非常に悔やまれる。

 その後、アルファードは当時所属していた現代企画を通じて、「空に星があるように」や、「いとしのマックス」などの大ヒットで知られるシンガー・ソングライター、荒木一郎の未発表作品のデモ・テープの中から「シェルビー」と「風になりたい」の二曲を譲り受けた。

二曲とも72年頃からステージでは頻繁に演奏していた。ちなみに「シェルビー」は、荒木一郎自身が74年にシングルB面にて発表している。

解散直前の73年3月になり、青木リカ&アルファード名義で、CBSソニーから、映画『混血児リカ』の主題歌「ひとりゆくさすらい旅」というシングルを発表。
バック・バンドという形ではあったが、初のメジャーレーベルからのリリースだった。

 不思議な縁で丸山氏をはじめ、アルファードのメンバーの方々と知り合い、三十数年振りの復活という華々しい今日の席に立ち会える事になった。

また本冊子に拙文を掲載させて頂き、身に余る光栄と感じている。
 今、ステージ上のアルファードに、心から敬意を表し、拍手を送る。
≪アルファードと共演して≫          ヤングやまざき

 あの有名な「涙の思い出」のアルファードと共演できる。

たった一枚のレコードを自主レーベルから出しただけの謎のGSだったが、曲のよさと作詞・作曲がタイガースのメンバーという知名度もあってか、70s、80sにもカバーレコードが発売され、我々GS好きのチョイ若者(みんなもう30代から40代になったからもう若くはないか、だからチョイ若者)達の間で人気のあり、よくカバーされDJで流された曲の一つである。

 共演のお話があったのが去年(当時)の11月のことで、三茶メンバーとアルファードのアニキさん、タロウさんと渋谷のある居酒屋で会合が開かれ、その全容が明らかになった。

アルファードのメンバーのみなさん、解散してから今まで、音楽の世界から離れ、一社会人として生きてきたが、インターネットのmixiを通じ当時の写真やアニキさん執筆のアルファード・アンソロジーが反響を呼び、今回のオリジナルメンバーによる再結成につながったと聞きました。

パーティ形式で関係者だけに声をかけて食事や飲みながらやるライブも可能でしたが、あえて昔プロでやっていたことを思い出して一般客を入れるライブ形式で、最初で最後の再結成をするとのことで、当時のライブ構成で2ステージ、生のアルファード、すなわち当時のグループサウンズライブをそのまま見ることができ、僕もわくわくしています。

 ここ数年、我々のお師匠にあたるブルーコメッツをはじめ、多くのGSが再結成をしていますが、大半は一部のメンバーを除き現役ミュージシャン、芸能人が再び集まる形がほとんどですが、今回のアルファードのケースは全員我々と同じ一般社会人による再結成ということで、至るまでの経緯と重さが違います。

今日までいろいろと苦労があったと思いますが、ここまでこぎつけたアルファードのメンバーには敬意を表したいと思い、この大切な一瞬に参加させてもらったことを感謝したいと思います。

 なお、今回のライブでグループサウンズとしてのアルファードは最初で最後とうかがっていますが、社会人の音楽好きおじさん軍団としてのアルファードは再び始まったばかりだと思います。オリジナルメンバーだけでの演奏はもうないかも知れませんが、これを機会にみなさんの音楽好きの熱は火がついたかと思います。

その時はまた声をかけて下さい。我々も誘います。音楽好き社会人仲間として一緒にセッションしましょう。ベンチャーズ、ビートルズ、そしてグループサウンズを。
≪フレンズ・・・・・素敵な贈り物≫       アニキ

 昨年の春に、毎年恒例の「のっぽ&アルファード会」があった。
場所はゆかりのある新宿2丁目。
2次会で、めずらしくカラオケに行ったのだが、その時、久しぶりに「コットン・フィールズ」を3人でハモったのだ。
楽しくて、心の奥に眠っていた何かがさわぐような感覚を覚えた。

その時は、「いつの日か、もう一度みんなで演奏できたらいいね」などと言いながら別れた。
この時点では、単なる願望で、いつ実現するのかは、夢の夢だった。

その願望を、せめて想像の世界だけででも、実現させてみようと思って書いたのが、6月のミクシィ誌上で、日記として公開した「架空実況ライブ前編・後編」だった。

これが、予想を上回る反響を呼んで、そのパワーが、あちこちに飛び火して、本当に火がついてしまった。
僕らに関わった何人もの人たちが、重要な役割を果たして、その計画は独り歩きをするように進んでいった。

それは僕らが積極的に進めたわけではない。
逆に、僕らの気持ちのほうが遅れ気味で、勝手にどんどん進んでいく復活計画に、なかなか追いつけない状況だった。

 1曲だけのライブだった昨年の8月11日。
タローさんの好意で、同じステージに立たせてもらった。

やれやれ、やっと終わったなと思っていたら、このムーブメントは、もっとすごいことをやれと言ってきた。
それは、2007年3月16日の銀座タクトのステージとして実現した。

スケールも会場も、「架空実況ライブ」とは比べ物にならないほどグレード・アップして。
みんな、みんな、ありがとう。そして、ありがとう・・・・・。

≪アルファード回顧録≫          ケント

 あれから約35年か〜、もうそんなになるんだ〜。そういえば、いつ、どうして、どういう状況でアルファードに参加したのか、今となってはまるで憶えていない。

それまでは、レッドツェッペリンとかクリームとか、どちらかと言えばロック系のバンドをやってたから、どうしてこういうアイドル系?のバンドに入ったのか・・・わからん!
多分心の奥ではアイドルになってキャーキャー言われたかったのかもしれない。ま、若かったし・・・!

 この4人の中では私が一番最後に参加したので他のメンバーのように「ノッポ」とのかかわりあいはまったくない。

正確にいえば私の後にヨーチン(Gt.)が入ってきたのだが・・・。
ヨーチン、今はどこでなにをしてるんだろう・・・。
そういえば、ヨーチンが入って5人になったあたりからグランド・ファンク・レイルロードとかユーライヤ・ヒープとかロック色の強いレパートリーが増えてきた。ロック好きの私としてはうれしかったのを憶えている。

しばらく活動したが、ある時、突然ヨーチンが脱退してしまった。そしてまた元の4人に戻ってしまった。
それからどれくらい経っただろう、ほとんどのバンドが必ずといっていいほど経験する出来事、解散・・・。
解散についてもどうしてそうなったかはほとんど憶えていない。私としては、もう少しみんなで頑張りたかったけどね。

 アルファード解散後いろんなバンドに参加したり、自分で作ったりもした。
音楽的、また人間的にもごきげんな連中と数多くのステージを経験してきた。

でも私の青春はというと、やっぱりアルファードなんだよね。

もうGS時代の波には乗り遅れちゃってたし、アイドルグループにしてはイマイチ中途半端で、べつに特別人気があったわけでもなかった。
でも私にとってはそんなアルファード時代が、悲しくも楽しい、おかしなおかしな青春の1ページだった。
ただ、最後の解散はあまりにも淋し過ぎる終わり方だったけど・・・

おっと、忘れちゃいけない、バンド・ボーイのジローのことを!彼がいつも頑張ってくれてたからこそ我々が気持ちよくステージができたんだよね!
どこで何をしてるのか、もう一度会いたいね〜。

とにかく30年以上経ってまたこうしてみんなと会えて、しかもライブができるなんて夢にも思わなかったよ!
もうそんなに長くない人生だけど、これからも友情を大事にして、出来る限り連絡を取り合って行きたいと思う。 みんなで長生きしようね!!

≪最高の財産!アルファード!≫       タロー

 あのタイガースでさえもメンバーの対立があったと聞いている。
当時のGSはどのグループでも若いエネルギーがガチンコ勝負だったんだろう。

メンバーチェンジ、解散は当たり前。
もちろん「アルファード」もいくつかの危機を乗り越えてきた。

でも他のグループと唯一違っていたのは、僕らはバンドをやろうとして集まったメンバーではない。
大学生、浪人生、特にすでにタイガースで仕事をしていたヨシノリ。
みーんな 、タイガースが大好きで「ノッポ」で知り合った仲間だった。

本来であればすでに就職活動に入らなければならない奴、留年を心配しながら通う奴、来年こそは第1志望を目指している奴、そんな「友達」がある時、誰からとも無くとんでもないことを言い出した。
「バンドやろうぜ!」
・・・・不思議なことに誰も驚かなかった。

この出会いは「運命」だったんだろう。

今でもその仲間と年に1度会っている。
そしてのちに新しい「友達」となるケントとも今日同じステージに立てる。

「アルファード」はボクにとって何ごとにも変え難い最高の財産である。


≪アルファードと私≫           グー

 「アルファードと私」と、改まって今、聞かれると?うーん……しばし考える。
映画でいうと、長いフイルムの数枚分、長い人生のひとコマ・1頁。

アルファードは、私の中の青春という火山の大噴火。
今まで閉じ込められていたエネルギーを放出した瞬間だった。

 毎日毎日受験勉強に明け暮れていた無機質な高校(男子校)時代。
当然のごとく女の子にもてたことが無かった。その機会すらもなかった。(涙)

そして入った大学は内ゲバ・安保闘争やらでほとんど休講状態。
私にとっての学生生活はまさに無味乾燥、もやもやが鬱積していくだけの日々だった。
振り返ってみると、忸怩たる思いしかない。

 しかしやがて、そんな空虚な日々を埋めてくれるものが現れた。
タイガースのサリーの店「のっぽ」。
そこで、アルバイトを始めたのだ。

どうして「のっぽ」だったのか?これは、長くなるのでやめておく。
「のっぽ」での暖かい人たちとの出会いは、私を癒してくれた。

そして私の将来を決定づけてくれたところと思っている。
私にとっては、人生の大きなターニングポイントであった。
それだけ私に大きな影響を与えた。

自分の人生を語るにおいて「のっぽ」を語らずして成りえない。
アルファードを語るにおいて「のっぽ」を語らずして成りえない、と、思っている。

「のっぽ」には、私のほかにママ、おばちゃん、まゆみ、あっこ、ゴン、エミ、アニキ、イチがいた。そして、時々タイガースの付き人をやっていたヨシノリ、森本太郎似のタローも遊びに来たりしていた。

当時、周囲はグループサウンズブーム、そして当時絶頂期を迎えていたザ・タイガース。
誰からともなくバンドを結成して有名になりたい、という想いになっていったとしても全く不思議ではない。

ただ、タイガースみたいに女の子からもてたいから、という本音の言葉は誰の口からも聞かれなかったと思う。(笑)
動機はどうであれ、ここで、生まれるべくしてアルファードは誕生した。

楽器を鳴らして曲を演奏しお客を喜ばし、終わって飲み屋に行って一日を終える。

寝て起きると、次の日がやってきている。こんな毎日を繰り返した。それでよかった。楽しかった。アルファードは多くの充実感・満足感を味あわせてくれた。

しかし徐々に怠惰を感じるようになってきた。同時にそれぞれの和音も乱れてきた。
……やがて……解散。

もともと、アルファードの名前の由来は‘孤独の星’。それぞれが元に戻っていった。
何十年生きてきた中で、感激・感動は枚挙に暇がない。その中でもほんとうに記憶に残り心に刻まれているもの、それはそう多くはない。

刹那であったかもしれないが、自分の持っている輝きを引き出してくれたアルファードは良きにつけ悪しきにつけその一つだ。

私にとっての「アルファード」は、やりたいことを自分で見つけ、そしてやり始めた初めての大きなイベントであった。
怖いものは何もなかった。先々の不安も全くなかった。ダメだったらどうしようなんてことはこれっぽっちも考えなかった。若さゆえの賜物だった。

大学を卒業したとしても、自分のやりたいことを最後まで見つけられなかったかもしれないと考えると、ほんとによかったと思っている。
「若い時の過ち」でなく「若くして賢い選択」をしたと、今でも後悔は全くない。

今、自分が親になって思うことがある。
それは、私の親、当時私をどう見ていたのだろう? 期待ではなく大いに心配していたのあろうか? 「無鉄砲に、馬鹿なことをしよって」と。
今さらではあるが、それに答えてくれる親はもういない。

さて、「アルファードと私」を少々持ち上げすぎて書いてきたかもしれない。
とりあえず私はアルファードを‘良き想い出’として、これからもそっとしておくつもりだ。
もちろん、オリジナル「涙の想い出」と共に。

そしてアルファード(…素晴らしい青春…)を思い出すのは、一年に一回みんなと会う時でいい。

最近は年々老いていく彼らに会うのも楽しみ(いや、悲しみか?)の一つになっている。
そして、そんな彼らと昔話に花を咲かせてバカを言い合えればいいと思っている。

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