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丸山圭三郎コミュのツッコミ

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 丸山圭三郎氏の主張はとても、当時の僕らにとっては衝撃的なものでしたが、やはり”それはちょっと”的なものもありまして、それは、ツッコミを入れていた方がよいと思います

 ええと、今手元には無いのですが、たしか「言葉・狂気・エロス」だったと思います。

 先生、さだまさしの「男は大きな河になれ」は、まんまモルダウです。ちゃんと「作曲:スメタナ」となってます

コメント(5)

『言葉・狂気・エロス』は全て読んで、
『ソシュールの思想』も
第一部第三章 「ソシュール理論とその基本概念」
第二部第二章 「シーニュの恣意性」
をちょくちょく読んでいます。
と言っても、両方とも今週になってから読んだのですが(門外漢)。

そこで一番疑問になったのが、やっぱり例のシニフィアンとシニフィエです。
ラカンのシニフィアンとシニフィエや、一般的に概説される説明は解り易いものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8

ランガージュとラング、ラングとパロールまではいいのです。

ところが、丸山圭三郎氏は、
ラカンのシニフィアンとシニフィエは、ソシュールのシニフィアンとシニフィエではなく、
ソシュールの用語ではシーニュとレフェランにあたるという書き方をしています(『言葉、狂気、エロス』、pp175-181)。
さらにセームなる語まで登場するpp184-185。

解らないのは、
丸山圭三郎氏の「ソシュール」がいう「シニフィアン」と「シニフィエ」です。
丸山氏は「恣意性」ではなく、「恣意的必然性」を強調するのですが、
これが一体どういうことなのか、どなたかできれば解り易く説明していただけないでしょうか。
しぶふさん
はじめまして。

『言葉・狂気・エロス』は残念ながら読んでいません。

>解らないのは、
>丸山圭三郎氏の「ソシュール」がいう「シニフィアン」と「シニフィエ」です。
>丸山氏は「恣意性」ではなく、「恣意的必然性」を強調するのですが、
>これが一体どういうことなのか、どなたかできれば解り易く説明していただけないでしょうか。

『ソシュールの思想』を十分読み込んでいないので、ちょっと答えられないのですが…。
少し外れますが、影浦/田中訳のコンスタンタン『ソシュール 一般言語学講義』をぼちぼち読み、再度『ソシュールの思想』に戻って読み解いてみようというところなので。

どなたかおわかりになる方がいらっしゃったら、よろしくお願いいたします。
それ以外の方のソシュールなら解るのですが・・・。
ソシュール自身にあたることが私にはできませんので、何ともいえないのですが、
丸山圭三郎氏のソシュール理解を、括弧にくくろうと思います。

『言葉・狂気・エロス』についてです。
丸山圭三郎氏は、「実際の猫」がレフェランであるように、
「実際の愛」とか「一角獣」、「神」もレフェランであると書いています(p180)。
しかし他の概説書などに、そのようなことは書いてありません。
これが、おかしいと思う第一点目です。

さらに、「シーニュとレフェランの結びつきや、シーニュ内の音のイメージ(シニフィアン)と概念(シニフィエ)の結びつきは、いくら必然的様相を呈していても、歴史・社会的実践の惰性化の結果でしかない」とソシュールが考えたと書いています(p184)。
「一角獣」がレフェランであるとすれば、「一角獣」のシニフィエとは何でしょうか?
第一点目にちなみますが、これがおかしいと思う二点目です。



『ソシュールの思想』の、ランガージュとラング、ラングとパロールまでは大変参考になりました。
しかしその不可解さから、
丸山圭三郎氏がいう「ソシュールのシーニュとレフェラン、シニフィアンとシニフィエ」は、
間違っているのではないかと私は考えます。
しぶふさん

はじめまして。 清水穣が「不可視性としての写真 −ジェームズ・ウェリング−」という本の中で、比較的丸山に近いレフェランの解釈をしていると思います。
http://www.wako-art.jp/publications/james_welling/the_photographic_invisible/

この本で清水は、私たち人間の様々な行為の対象となりながら、はっきりとした形で目にすることの出来ない不可視の存在(すなわち「実際の愛」「一角獣」「神」)として、レフェランを考えています。
そしてこのように透明なため見過ごされてしまいがちなレフェランへ、ふと、なんとなく、何らかの行為を促す導き手として、シーニュを考えているようです。

丸山にとってのシニフィアンとは、このようなシーニュの働きによって行為の対象とはなったものの依然として不可視なレフェランへ、具体的な姿形(=シニフィエ)を現象させる言葉の働きです。
シニフィアンは、本当は誰もはっきりとした形で見たり触ったりしたことがないはずの「実際の愛」や「一角獣」や「神」へシニフィエを与え、それらに対する私たちの行為をより明確に厳密に規定していきます(=文化のフェティシズム)。

なお、シーニュによってレフェランが行為の対象とされる過程の具体的なありようは、たとえば浜田寿美男が「「私」とは何か −ことばと身体の出会い−」という本の中で取り上げるような、母子間における三項関係(「母」と「子」および「両者が共に行為する対象」の三項の間の関係)の成立に見ることができると思います。
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30613197

また対象化されたレフェランにシニフィアン及びシニフィエが生じる過程の具体的なありようは、おなじく「「私」とは何か」の中で取り上げられている、母子間における四項関係(「母」と「子」および「両者が共に行為する対象」「両者が共に行為する対象について語る言葉」の四項の間の関係)の成立に見ることができると思います。

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