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美容院での自分が森昌子に見えるコミュの森進一 基本情報

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森 進一(1947年11月18日 )は、演歌歌手。演歌のみならず日本の芸能界を代表する大御所の一人に数えられる。本名は森内 一寛(もりうち かずひろ)。元妻は大原麗子と森昌子。

セミヌード写真集を出したことがある。

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来歴
山梨県甲府市生まれ。鹿児島など各地を転々し、中学は下関市立長府中学校卒業。(鹿児島市立長田中学校卒業という噂もある)集団就職で中学卒業と同時に東京へ出、幼い頃からの歌手への夢の実現を目ざして、数十箇所のアルバイトを経験。

1965年、フジテレビ系の歌謡番組に出場して優勝、チャーリー石黒氏にその才能を認められ、渡辺プロダクション(ナベプロ)に入社、スクールメイツを経て、翌1966年、その後、彼の数多くの代表曲を手がける恩師・猪俣公章氏作曲、川内康範氏作詞による「女のためいき」でデビューする。

当時は「恍惚のブルース」でほぼ同時期にデビューしたた故・青江三奈とともに「ため息路線」として売り出され、美声歌手が主流であった当時の歌謡界では「キワモノ」「短命に終わる」という酷評を受けた。 しかし、その後もスマッシュヒットを次々と発表、さらに翌1967年の「命枯れても」から1968年の「年上の女」「花と蝶」「盛り場ブルース」は軒並み大ヒットし、この年、第19回NHK紅白歌合戦にデビュー3年目にして初出場を果たす。

以後、紅白には初出場以来、現役最多の38回連続出場を果たし、トリを9回務めている。なお現役歌手の連続出場としては五木ひろしの35回連続(現在更新中)、細川たかし(同)などの31回連続と続く。

1969年には全国の港町の情景を織り込んだ「港町ブルース」(余談ではあるが、同曲は雑誌「平凡」で募集していた歌詞をもとに作られた)が大ヒット、弱冠21歳の若さでレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞、そして、出場2回目にして早くも紅白のトリを務め、一流歌手の仲間入りを果たす。

1971年には名曲「おふくろさん」が生まれ、この曲の歌唱により2度目の歌唱賞を受賞。このときの紅白・レコード大賞における「絶唱」の姿は両番組史上に残る名場面として語り継がれている。

しかし、1973年、最愛の母親が50代を目前にして自殺。そしてファンの一部から、全く事実無根の汚名を被せられ、順調に昇り続けてきた一流歌手への架け橋は暗雲立ち込めるものとなった。だが、この苦境が「演歌の枠にとらわれない歌手・森進一」への成長の土台となった。

また、同年に文芸作品的な雰囲気を醸し出す当時としては異色の曲「冬の旅」(詞・阿久悠、曲・猪俣公章)がヒット、そして、翌1974年にはニューミュージック・フォーク界の第一人者・吉田拓郎作曲の「襟裳岬」が大ヒット、この曲で日本レコード大賞、日本歌謡大賞など主な音楽賞を総なめにし、紅白歌合戦でも初の大トリを務める。

この「襟裳岬」との出会い以降、彼の曲の世界は通常の演歌歌手にはない広がりをつづけている。1975年「ああ人恋し」、1976年「さざんか」、1977年「東京物語」「雨の桟橋」1978年「雪よおまえは」「きみよ荒野へ」「甘ったれ」と、激情的演歌(雨の桟橋)からポップス調(東京物語、甘ったれ<世界的シャンソン歌手・S・アダモがこの曲の作曲を手がけた>)まで様々な曲調に挑戦した。

1979年2月、デビュー以来約14年間にわたり在籍したナベプロを独立、新たに「森音楽事務所」を設立して、新たな一歩を踏み出すが当時、沢田研二、布施明、木の実ナナ、そしてハナ肇・植木等などのクレイジーキャッツの面々など一流スターが多く在籍し、ゴールデンタイムで多くの番組の制作に携わっていた大手事務所ナベプロからの独立は、芸能界からの事実上の追放を意味していた。この独立以降、彼はNHKを除く民放各局へのテレビ出演やコンサート・舞台公演の開催が、ナベプロからの圧力によって困難な状況に陥ってしまう。

ところが、同年夏、「新宿・みなと町」を再起を賭けて発表し、大ヒットとなり、ふたたび森進一はブラウン管の前に戻ってきたのである。

翌1980年に当時人気ナンバーワン女優であった大原麗子と結婚。1982年にはナイアガラ・トライアングルの大瀧詠一、松田聖子らの曲の作詞を手がけていた松本隆両氏による「冬のリヴィエラ」が大ヒット、そのほかに「命あたえて」「恋月夜」「モロッコ」「男の真情」「冬桜」「紐育物語(NewYork Story)」と従前に引き続き多用なジャンルに挑戦、仕事・私生活ともに磐石のように見えた。

しかし、大原もまた、当時大河ドラマや民放の連続ドラマで相次ぎ主役に抜擢され、結婚当初から既にすれ違いの生活となっていた。病弱であった亡き母が汗水流して働いている姿を見て、そして、自身が貧困のために中学卒業と同時に家計を助けるようになったために満足に学業に専念できなかったこと、その経験が弟、妹を大学に入れてやりたい、そして母親に楽をさせてやりたいという家族への想いへと繋がっていったという森にとり、生涯の伴侶として大原と連れ添うことは困難であった。 結局、この結婚は長く続かず、わずか4年で離婚という結末を迎える。

離婚後、彼は新しい領域に挑戦する。社会福祉活動「じゃがいもの会」を立ち上げたのである。デビュー当時より面識があり、その前年(1984年)からはユニセフ親善大使の職を拝命され、テレビ出演の傍ら、年間1ヶ月以上を途上国の視察に宛てる日々を過ごしていた黒柳徹子がこれに賛同、その他歌手仲間として、原田直之、小林幸子、森昌子らが参加した。この「じゃがいもの会」での活動により歌手以外の社会的活動家としての「森内一寛」の一面が開花し、1998年の長野冬季五輪の委員会理事、カンボジア地雷除去キャンペーン活動の発起人など以後、数多くの福祉・社会的活動に参画している。

他方、この「じゃがいもの会」は新しい出会いを作るきっかけとなった。森昌子との出会いである。この会の趣旨に昌子は強く感銘を受けて参加を快諾し、この後、交際をスタートさせた(この1985年の紅白では、森・森コンビがトリを務めている)。そして、交際から約1年半後の1986年9月に結婚する。森昌子はこれを機に歌手を引退、3児を授かり、理像的な家庭像・夫婦像の象徴としてのイメージが森夫妻に定着した。

1988年の「京都去りがたし」で初めて作曲を手がけ、その後も「指輪」、「わるいひと」、「泣きむし東京」などの自身の曲で作曲を担当、また、平成の世になってからもシャ乱Qのメンバーによりプロデュースされた「夜の無言」、谷村新司の提供した「悲しみの器」、井上陽水が提供した「風のエレジー」(カバー)、長渕剛の提供による「狼たちの遠吠え」、ZARDの坂井泉水のプロデュースによる「さらば青春の影よ」、細野晴臣が作曲を手掛けた「ウィスキー色の街で」(サントリーCMソング)など、他ジャンルとのアーティストとの交流を広げ、「演歌の枠にとらわれず、いい音楽であれば何の障壁もなく耳を傾け、自分の世界に取り込みたい」という彼の意欲が若年層にも支持を受けている。

また、2002年からは妻・昌子(後に離婚)とともにジョイント・コンサートを実施し、デュエットソングも2曲発表している(書籍扱いという異色の発売方法)。しかしこれは、歌手復帰を望まない昌子を自らの人気克服のために出演させたというのが事実である。

しかし、2003年頃より長男の高校編入問題で少しでもいい学校・いい人生を堅実に歩んでほしいと願う父・進一と、子供の意思や自由を尊重する母・昌子の間で意見の相違が決定的となったことや、ジョイントコンサートへの参加以来、妻の定期的な歌手活動再開を望む夫・進一と、専業主婦に戻りたいと願う妻・昌子との仕事に対するスタンスの根本的な違い、事務所スタッフの刷新により新たな境地を開拓したいという進一の思い等が旨く家族やスタッフ内に伝わらなかったことなどの幾つもの夫婦特有の理由が重なり、ついに結婚19年目の2005年3月、芸能界随一のおしどり夫婦は別居。その心労もあってか彼はこの報道が表に出たその日に長年の持病であったストレス性による肝炎を悪化させ都内の病院に入院。4月19日には所属事務所から二人の離婚が発表され、二度目の結婚生活も破綻してしまった。

様々なジャンルとの融合により演歌歌手としての固定観念を打破し成果を残してきた、森進一。こういう歌手は残念ながら、今の日本の音楽界には少ない。演歌歌手は演歌に固執し、J-POPは演歌を毛嫌いする。その中にあって、20代で吉田拓郎、30代で大瀧詠一、40代でシャ乱Q、50代で長渕剛、坂井泉水(ZARD)らと新しい音楽との融合を図ったことなど幅広いジャンルへ視野を広げ続ける彼の存在は貴重である。

NHK紅白歌合戦などで共演している歌手和田アキ子は、森昌子との離婚に際して、ホリプロで昌子の先輩でもあることから、当初誰からも擁護されなかった昌子を擁護。自身の番組で徹底的に批判した。これにより昌子は悪い目で見られることはなくなり、むしろ森進一の方が世間体が悪くなった。いわば和田は昌子の代理として森に対抗したのだ(この件に関して、森進一は和田に対して「言いたい事があるのなら、マスコミを使わず、自分に直接言って欲しい」と不快感を表明している。他のタレントに対しても近年、和田は同様の行為を番組内で行うことが多いためか、和田に対して不快感を持つ大物タレントは多いらしく、その限りで森はそれら他の大御所の感情を代弁しているとも言える)。息子は元ジャニーズ事務所所属であった。

更に森は2006年3月17日に公演されたジャニーズ事務所所属の人気ユニットKAT-TUNのコンサートに来場しており、テレビ朝日系の音楽番組「MUSIC STATION」で映されていた。

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NHK紅白歌合戦出場歴
森は1968年・第19回紅白に初出場して以来、2005年・第56回の紅白まで38回連続出場をしており、これは連続出場記録としては現在1位の記録である(尚、通算出場回数も北島三郎に次いで2位)。初トリは相当早く、出場2回目である1969年・第20回の「港町ブルース」から。これまで9回トリを取っているが、ここ10年はトリを取っておらず、冷遇されている傾向がある。なお白組のトリについては森進一が最年少記録である。またトップバッターも2回経験した。

コメント(4)

長くてすみません。

セミヌード写真集には昌子もビックリでしょう。
どっちにしてもかなりのバーローですね★

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