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秀吉コミュの「秀吉一代記」その10 〜藤吉郎負傷す〜

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皆さん、こんばんは。
今宵の一代記は「藤吉郎負傷す」です。

永禄12年(1569年)8月、信長は伊勢に侵攻します。
すでに北伊勢は前年までに織田家の支配するものになっており、
今度の出陣は伊勢国司家・北畠氏の主城大河内城の攻略でした。

前年の永禄11年10月、京都奉行に任じられて京都に常駐して
いた秀吉ですが、この伊勢攻めには常駐先である京都から出陣し
たという記録は無く、信長とともに岐阜から出陣しているようで
すから、この頃には京都奉行の任を解かれ岐阜に戻っていたと考
えられます。

8月20日に岐阜を出陣した信長軍は23日小造に着陣します。
ここで降雨の為数日滞陣することになります。この間多くの斥候
を放って調べさせると、阿坂城に北畠側の大宮入道が城兵一千で
籠っているとの報を得ます。信長は秀吉に先陣を命じ出向させます。

この時点で織田家における秀吉のポジションはどの程度だったのか?
という疑問が出てくるわけですが、城兵一千とは言え先陣を命じる
ほどですし、信長公記には他に援軍をつけたとは書かれていないわ
けで、そうなると、秀吉勢一手だけでの城攻めを命じた、と言うこ
とになります。
この時秀吉が率いていた軍勢の数は不明なのですが、野戦ではなく
城攻めですから少なくても1,500から2,000はいないと話にならない
ですね。
この年の正月に三好勢が本國寺の足利義昭を襲撃した事件がありま
したが、信長はこれを契機に義昭の為に新御所の造営を始めます。
有名な藤戸石を綾錦で包み、信長自身が石の上に飛び乗り京の町衆
に祭りさながらに囃子を鳴らさせ、諸将に石を曳かせた・・という
逸話がありますが、秀吉もこの時にこの藤戸石を曳いたようで、
これらを考えると重臣の末席あたりにはいたと考えられるでしょう。

さて阿坂城攻めですが、信長公記にはその城攻めの様子が以下のよ
うに書かれています。
「あざかの城木下藤吉郎先懸いたし攻められ候て、塀きはへ詰よせ、
 薄手をかふむり罷退かれ、あらあらと攻められ、抱へ難く存知、
 降参候て退散なり」

ここにある「薄手をかふむり」というところが秀吉が負傷した場面
なんですが、この場面を他の軍記物、あまり記憶が定かではないの
ですが、信長公記を書いた太田牛一のもう一つの著作である「大か
うさまくんきのうち」だったか・・・これを解説している文章を見
たことがあります。それには秀吉負傷の場面を以下のように書いて
います。

「城主・大宮入道の息子、景連は弓の名手であり、攻め寄せてくる
 秀吉勢を散々打ち倒した。秀吉はこの光景を大層くやしがり、
 『あの矢を射る者は誰ぞ!たった一人の者に恐れをなし退き下が
  るとは何事ぞ!かかれかかれ、進めすすめ!!』と叫び兵を叱
  咤します。大宮景連は先頭を走るこの武者を狙い矢を放つ。
  放たれた矢は狙いが僅かにくるい馬上の武者の左腿にあたる。
  この武者こそ秀吉であったのです。秀吉は矢を引き抜き再び兵
  を叱咤しつつ攻め続けました」

まぁ、多少の脚色はありましょうが、激しい城攻めの様子がわかり
ますね。この時秀吉が討死していれば本能寺の変は起こらなかった
かもしれません。秀吉黒幕説ではありませんよ、念の為(笑)

この阿坂城攻めにおいて、秀吉のイメージが変わったという方もい
るでしょうね。従来の秀吉のイメージというものはこの城攻めに見
られるような「猛将」タイプではありませんからね。

ともあれ秀吉はその生涯で最初で最後となる戦傷をこの戦いで負う
のでした。この知らせを岐阜で聞いたであろう於禰はどういう気持
ちだったでしょうか?

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