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vivi用とりあえず個人的物置き場コミュの蝿日記

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 お聞きください。

 蝿の話をお聞きください……。

 ……ぷらりぷらりと春風が心地よい。もう一眠りしてしまいたいのは分かりますが、寝ればそれまで。あなたも私も醒めることはないでしょう。ゆっくりと、静かに。吐息もじょじょに聞こえずに。
 ですので、眠気覚ましにお聞きください。

 自らについてお話しましょう。私、このような見てくれをしておりますが、蝿に生まれたわけではございません。父も母も数十年来にわたり自営業を営み、その忙しい最中に私を授かりもうし、光を受けた次第で……。私はヒトでございます。ニンゲンでございます。齢二十になる男であります。
 おや、不思議な顔をなさる。無理もありません。連中は――もう私にとっては連中になるのですが――私らの何倍もの大きさを持ち、世代毎に知恵を重ね、至極安全に生きております。互いの腐肉を奪い合う私らとは明らかに異質な世界が広がっておるのです。あなたは人間であったことがないので分からないかも知れない。高揚感に満ちた感触を、舌だけではなく、全身で浴びることが出来る生き物なのです。私はそれを毎日感じておりました。

 まだ信じてもらえてないようです。もう少しばかりお時間を頂戴します。お許しください。
 私は前述のとおり人間でございました。人間というのは多様な生き物であります。私とほとんど血の変わらぬ両親でさえ私とは似ても似つかない。体中が毛に覆われた父。骨にへばりついた皮だけの母。そして丸々と、母からの生気を搾り取り、肌つや、血色もよい生まれたばかりの私。まぶたも、鼻も、小指の長さも何もかもがどちらとも似つかない「それ」を、両親はひどく憎んでおりました。

 しぃ……。――慌てず。お静かに。この声はあなたにだけ聞こえるようにしております。信じられないでしょうが事実なのです……。すでにナイフやフォークの扱いも心得ておるのです。――続けましょう。

 私が生まれた時、これ以上ない難産でありました。おぎゃあと産声を上げた時からすぐに容態が悪化し、母は私を抱くことはおろか姿を目に焼き付けることも出来ず昏睡に陥りました。そしてよくない夢を見たのでしょう。彼女が目を覚ますと父のことも、生んだばかりの私のことも、自分自身についてすら全く覚えてはいなかった。大事と見た父と医者によって母は真っ白な病室へと移され、その乾いた身を休めることになったのです。幾日かして容態が落ち着いたとの知らせを受けた父は、私を連れて病室へと向かいました。
 そこでは母はぼろぼろになった赤子のぬいぐるみを抱き、何度も乳をやろうと試みていました。乳で汚れたぬいぐるみはぶらりと首をもたげ、部屋に入った私たちを迎えます。湿ったぬいぐるみを剥ぎ取り、父は興奮気味に言いました。ぬいぐるみは首がもげ転がります。
「見ろ。お前の生んだ子だ」
 母は虚ろな瞳でぬいぐるみのない胸をさらけだし、口をぱくぱくと何か言いたげな様子でございました。私は乳が欲しくなり、母へと手を伸ばします。父は助けるように私を差し出しました。
「くふふふ!」
 母は我慢を抑えきれないように笑い、私を熱く抱擁します。――その喜びは、腹を痛めた赤子との再会に対してではなく、新たなおもちゃを与えられたことに対する興奮であることは、間もなく赤子にして分かる事態が起こるのです……。
 母は私を胸に押しつけ、乳を飲ませようとするのですが、まったくもって加減がございません。圧力に負けた私は腹に溜まった乳をぶちまけますが、母はすぐに床に垂れた乳をすくい集め、私の鼻から押し流しました。……苦しみもがく私を見た父は必死に引き剥がそうとするのですが、母が抵抗したため、私は激痛に泣き叫んだのです。母のサイレンのようにけたたましい笑い声が響きわたり、混乱した父は血相を変えてすぐに部屋を後にしました。
 そうして母は二人きりになった途端、ぬいぐるみの首部分を拾い上げ、優しく微笑みかけます。
「ねえ、聞いてくれるかしら。やっと自分の子が生まれたの。今乳まみれで泣き叫んでるわ。ああ……なんて素晴らしいことなんでしょう。これで私に名前をつけてもらえるのね!」
「さああ、大好きな愛しい赤ちゃん。私に名前をつけてちょうだい! 私に名前をつけてちょうだい! 早く、早く! 名前が欲しいの! お願い、あうあうと叫んでないで早く名前をつけてちょうだい!
 ああ……そうなのね……私の名前はあうあうなのね……。いや。そんな名前はいや! もっと長い名前がいいの! 二十文字以上がいいの!
 そうよ、急いでまた赤ちゃんを生んで新しい名前をつけてもらわなくちゃ!
 
 ねえ赤ちゃん、私たちの子をつくりましょう」

 そう言って母は私を胸に押し当てたまま、自らの服を全て脱ぎ始めました。私は酷く絶叫します。私の叫び声を聞いて急いで戻った父が、私を思い切り引き剥がしました。母はその時の衝撃で後ろに倒れ、頭を打って首を折り――絶命したのです。混乱した父は言葉にならない言葉を捨て、私を放り投げました。
 やがて父の呼んだ医者が飛んできた時には、もうその部屋で生きている者は私だけでした。私はというと、母の胸をまさぐり愛撫しながら元気に乳を吸っておりました。父は窓ガラスの向こう側へと行ってしまい、床に転がるぼろぼろのぬいぐるみの様に散ったと聞いております。
 私を最も愛してくれるはずの二人は消えました。あなたの母は暖かかったのでしょうか。私は人間でありましたので、母の生ぬるい乳房を吸う必要があったのです。私は口から乳を垂らし、毛むくじゃらの腕にしがみついていた時につけた爪の毛をなめ、機嫌良く待っていました。間もなくして駆けつけた警官たちが何とも言えない顔で私を見下ろしていたのを覚えております。この子も死ねば良かったろうにと口に出さないまでも考えていることは一目瞭然でありました。罪を知らない私は無邪気に、その顔へ向けて手を差し伸ばしておりました。
 
 やがて私は施設で育てられることになります。私は生まれる前からの記憶がございますので、出生を知らない孤児とは違い、生まれて間もなくに両親の絶命を目の当たりにしております。ゆえに他の孤児のような無邪気な一面をのぞかせることはなく、一人寂しく首を縫い合わせた赤子のぬいぐるみと遊ぶのが日課でした。飯を食う時も、クソを垂らす時も、寝る時も、一度も洗わずに匂い発つぬいぐるみは肌に触れさせたまま過ごしました。ぬいぐるみは文句の一つも言わず私に弄ばれます。周りにいた孤児たちは、その匂いもさることながら私に対する畏怖によるものでしょうか、次第に近づくことはなくなっていきます。――無論、大人も同様に。彼らは飯を食う時以外は、私と接しようとはしませんでした。
 私が九歳になった頃。ある老夫婦が施設を訪れました。二人は優しげな微笑みをたたえ、大人たちに施設内を案内されているようでした。その後をついてまわる孤児たちは、いつも食事やおもちゃの奪い合いをしているにも関わらず、その日は皆、子猫のように甘えた声と目で二人の周りを飛び跳ねていたのです。私はその光景に堪えきれず、ぬいぐるみを連れて群がりから離れていきました。数人の大人はそれに気づいた様子でしたが、見ぬふりをしてやり過ごします。……ところが老夫婦は見逃しませんでした。
「あれはなんだね」
 しわに覆われた甲の血管をぴくぴくと震わせ、私に対して指差し、周りに問うたのです。大人たちは苦笑いを浮かべて、あれは違うのです、あれは別なのですと気を逸らせようとします。ですがその老人はあきらめが悪く、今度は孤児たちに対して再び問いました。
「あれはなんだね」
 孤児たちは顔を見合わせて、私に二度三度と目を配り、再び顔を見合わせます。そして孤児の中で一際体格の目立つ少年が答えます。
「旦那様。あれは虫でございます。私らの食べ残しを狙って常に離れたところから機会をうかがっておるのです。何度か駆除を試みましたが、骨ごと焼き尽くさん限りはどうにも。施設に住むドブネズミも腹を壊してはたまらんと、あれだけは口に入れないようにしておるのです。近づいてはなりません。皮膚が腫れ上がりますゆえ」少年は饒舌に、口角を上げて告げました。
 私は腹を立てることもなく、また、腹を立てたところで二周りも大きな相手に勝ち目があるわけでもなく、いつものように目を合わせないまま聞き流しておったのです。くすくすといつものように、乾いた声が遅れて聞こえます。枯れ木の束に火をくべた様に、私をゆっくりと燻していく。この良くない煙に包まれるのもすっかり慣れておりました。……うっすらと皮膚が焼ける感覚を覚えます。
 しかし、老人は、今度は緩めた頬を引き締めて問います。「あれはなんだと聞いているのだ」
 大人の一人が答えました。「あれは両親が不幸な死に方をした少年でございます。死ぬ瞬間に立ち会ったがために、心を壊してしまったのです」
 老人の眉が動きます。そして目に光を湛え、私を舐める様に見つめます。
「買おう」
 私は老夫婦の元に移ることになりました。子猫たちは私をじっと恨めしく睨みつけておりましたが、私は浮かれることもなく、淡々と準備を進め、施設を後にしました。老夫婦の車に乗り込んでからというもの、爛々と輝いていた子猫たちの目は光を失い、瞬きも忘れて私を見つめているのです。私は一度だけ振り返り様子をうかがったのですが、大人たちも孤児たちも、誰一人として手を振る者はなく……ただただ、魂を抜かれた様な人形がいくつも並べてあったのでした。――これには流石の私も我慢出来ずに吹き出してしまう始末で。ぼろ人形と戯れる私を哀れ見ていた目が、今や羨望のどん底にあったからなのです。今までぼんやりと見ていた連中の数を、人形になってから初めて数えてみることにしました。ひい、ふう、みい……ぞろぞろ合わせて十五体、掛けることの二で、三十の哀れな玉。私は車内で肩を震わし、指折り三週したところで、両手で顔を覆うと、施設での楽しかった毎日と今の連中の表情を重ねながらくすくすと枯れ木を燃やしたものです!
 老夫婦は何も言わず、ミラー越しに私を見ることもなく、車を進め、やがて二人の住む屋敷へと到着しました。それはそれは立派な屋敷で、大きな門が開くのを少しばかり待ち、車のまま中へと入りました。綺麗に整えられた木々と道が私たちを迎えます。私は別世界へ迷い込んだかの錯覚をし、胸の高鳴りが止みませんでした。車はその豪華な屋敷の前に止まると、召使いが現れ、ドアを開けてくれました。ぬいぐるみを預かろうとしていたので、やんわりと断ります。老夫婦は私を屋敷内へと招き入れました。

コメント(5)

 屋敷の中は広々としており、西洋骨董品や東南アジアの土産物なども飾られ、小さな博物館のように見えます。私はそういう珍しいものを書物でしか見たことはなく、手に触れてきたものと言えば食器とぼろぼろのぬいぐるみくらいでしたから、少し恥ずかしい気持ちになるのでした。おや、まあ、自分なんぞにも羞恥心はあったのだなぁと、当時を思えば心がくすぐったい。私にも人間らしい感覚はあったのです。――続けましょう。
 老夫婦は私を二階の奥にある部屋へと案内し、ここにあるものは全て私のものだと言いました。本当なら嬉しくて飛び上がるところなのでしょうが、その部屋にはベッドがあるだけで、机はおろか、窓も本棚も時計すらもありません。部屋は灰色の塗料で塗りつぶされており、掃除もあまりされておらず、壁の色に似た埃が舞っていました。
「ここがお前の部屋になる。わしらが良いと言うまでは出ることはおろか、扉を開けることも許さん。扉には鍵をかける。鍵はわしが持っている。中からは決して開けられんぞ」
 ……私はこの老人が何を言っているのか理解に苦しみました。この良く分からない部屋に私を閉じ込める理由があるのか。私はこの老人に買われてきたばかりで、施設にいた時の様に、連中の飯を盗み食いしたり、施設にあるものを少しずつ町へ売りに行ったりなどという小悪行は、これっぽっちもしておらんのです。これからする恐れはあったでしょうが、間違いなく、確実に、私は無垢で哀れな少年に過ぎないのです。しかし老人は続けました。
「ここに濡れた布巾を置いておくから、これで良く体を拭いておけ」
 もうすっかり黒と灰の中間色にまで染まりきった、水に浸して絞られないままの布を渡されます。それはぽちゃりぽちゃりと水滴を落とし、床の埃を滲ませる。彼はそれを渡すと、小奇麗な朱色のハンケチで濡れた両手を拭き、部屋を出ました。直後に鍵を閉められる鈍い音が聞こえました。そしてしばらく、外側を歩く音も聞こえなくなりました。
 私は三角に足を畳んで、ベッドの上で考えます。……何も聞こえない。退屈だ。寒い。暗い。腹が減った。息苦しい。狭い。ベッドが硬い。誰も来ない。飯はまだだろうか。寂しい。濡れた体が冷える。爪を切りたい。外が見たい。人間を見たい。分かりますか? 誰かが遊んでいる声が聞きたい。料理をしている音が聞きたい。煮込んだスープの匂いを嗅ぎたい。腹が減りすぎて胃が痛い。喉が渇いた。今は何時なのか分からない。部屋の色が真っ白に見えてきた。耳鳴りが酷くなる。ぬいぐるみが私を嘲笑している!
 私がいよいよ壊れそうになった時、部屋の鍵を開ける音がしました。私は酷く鋭敏な状態だったので、その爆音に驚いてベッドから転げ落ちます。肌の一点一点の神経の先までも研ぎ澄まされており、その際の痛みは感じたことないほどでした。ドアは開けられ、光が差し込みます。何日、何ヶ月、何年に感じる沈黙を裂くようにして、料理が運び込まれました。窓のない部屋に暖かい温度と匂いがたちこめます。召使いの女は無表情に、私の前に皿を置いて、やはりそそくさと出ていきました。再び重厚な音とともに扉は閉められます。
 ……先ほどよりは多少ましにはなっていたものの、鋭いままの神経は、この塩付けも火の通し具合もままならないであろう鳥肉の丸焼きを、至高の味へと変化させました。私はこの様な姿になった今でも度々、鳥の肉を頂戴する機会はありますが、後にも先にも、人間の少年であったこの時に勝る味はないと確信しております。
 骨の表面までも舌で削り終える頃には、腹は二倍近くに膨れ上がるほどでありました。施設にいた頃には満腹を知らなかったものですから、この様な部屋に入れられている身でありながらも幸福に包まれておったのです。  
 それからしばらくは召使いが皿を取りに来る様子もなく、また、どれくらいの時間が過ぎていったのかも曖昧に、眠りと目覚めを繰り返していた覚えがあります。窓もなく扉も閉められた空間で動き回ると埃が舞い上がるため、とても静かに過ごしました。ですので、体が疲れないためにあまり眠くもならず、かといって起きていても考え込む時間が心を苦しめるため、私はいらいらと爪を噛む癖が酷くなり、以前よりも気は短くなっていきました。時折与えられる食事によって緩和されるものの、心と体は崩れていき、私はいつの間にか生まれたばかりの赤子であった時と同じ様に丸々と太っていました。
 何度目かは分からない食事の際。私はここ数回ほど召使いに対して悪態をついていたのですが、今日の彼女は皿を渡すのと同時に濡れた布巾を添えてきました。それは変わりなかったのですが、今までのような黒いぼろ雑巾ではなく、それは新しく真っ白な布巾でした。それこそ食器を磨くような綺麗な布で、水気もじゅうぶんに取ってあります。私の乱暴な態度が彼女の心を揺さぶったのだろうかと考えましたが、彼女は今までにも怯える様子を見せたことはなく、いつも私に対しそそくさと料理を運ぶだけであったので、私は少し不安にかられたのです。鋭敏な神経はそこで働きました。どうしたのかと尋ねると、彼女は口を開きます。
「もうじゅうぶんに太ってしまった。じゅうぶんに」
 おそらく翌日。老人が久々に私の様子をうかがいに来ました。体はいつも拭いていたので匂いは少ないはずでしたが、彼はいかにも汚いものを見る目であり、鼻をひくつかせ、あの微笑みとは程遠い顔をしています。側にいた召使いの女は肩幅を小さく、そしてうつむいたまま何も発しません。私はいよいよ様子がおかしいことに気づきます。私を養子にするために屋敷へ連れてきたわけでないことに気づく時間は長すぎたのかも知れない。ですが生まれてから今までの人生においては、普通という感覚も備えないままであったので、多少の疑問を持っていたとしても流されてしまう自分がいました。理解できなかったあの時に抵抗しない自分が、自分であったのです。
「縛れ」
 老人が杖先で私を指すと、扉の外側にいて今まで見えなかった屈強な男二人が部屋へと入ります。共にぎらついた目つきで私を捉え、布を一枚まとっただけで体毛と筋肉をさらけ出しており、獣の様にじりじりと私に近寄ります。私は今まで孤児相手ですら殴りあいに勝った試しはなく、あげく運動らしい運動もほとんどしていないために思うように振り切れず、あっさりと捕らえられました。そして一息する間で、太い縄と藁によって簀巻きにされ、片方の男に担がれてしまいました。始終見ていた召使いの女と一瞬目が合いますが、すぐに逸らされてしまいます。ゆっさゆっさと、私は久々に見る美しい骨董品をいくつも見送りながら、屋敷の地下深くへと運ばれていくのでした……。
 等間隔に置かれた蝋燭の火が、暗闇をまだらに照らし出します。地下への道のりは長く、私は首が揺れる度に、部屋にいた時の感覚へと陥る様でした。ようやく揺れと足音も収まり、重々しい扉を開く音が響きます。辺りには何かが腐った匂いが充満し、鋭敏な私は苦しみもがきました。老人も男も言葉を発してないためどのような顔をしているかは分からなかったのですが、召使いは黒目が激しく泳ぐほど苦痛であったようにうかがえます。決して扉の内側へは入ってきません。
 そして今度は本物の獣の声が聞こえます。「ぐああ」なのか「ぶぎい」なのかはっきりと聞き取れるものはなく、何かが喘ぐような声。それは人間のものではなかったのですが、たちまち何かを理解しました。――豚でありす。成熟しきった雄豚の群れが、木の囲いを破壊せんがごとく四方ぶつかり、その度に声を荒げておったのです。
「わしは骨董が好きでね」
 老人は囲いの隙間から杖を差し入れ、豚をを突き刺します。豚は喘ぎ声をあげて、何度もこちら側へと突進してきます。老人が目を突くと、豚は方向を失い、辺り構わず突進して他の豚を怒らせてしまい、囲いの中は喘ぎ声と異臭が激しくなっていきます。
「骨董商も兼ねている」
 老人は微笑みをたたえて続けました。
「いくつか集めるうちに、子供の木彫り人形を見つけてね。これがまた出来が良くて感心したんだ。わしは財産のおおよそ半分を投げ売ってその人形を手に入れた。子供の出来なかったわしたちには、それが慰めだったのだよ」そう言うと老人はぼんやりとした瞳と杖先を、豚小屋の奥へと向けました。そこには薄明かりで子供の等身大の人形が置いてありました。とても悲しげな顔をしており、自分より少し大きいくらいの人形でした。
「ただ……。あれはいくら見ても、どの角度からであっても木彫りの人形でな。肌も黒髪もつぶらな瞳もない。磨きこまれた光沢が、一層人間味の薄いものへと仕立て――」
 そこまで言ったところで、私ははっと気づいたのです。木彫りの人形は磨きこまれてはおりましたが、ところどころに黒い染みがありました。そして豚どもはとびきり飢えていることは明らかなのです。それは灰色の部屋に時間も分からないほどに閉じ込められ、極限に腹を空かせた自分と変わらない様に映りました。
「皮膚はいずれ水分を失い、瞳は小さく萎んで腐りはじめる」
 その言葉でじゅうぶん理解した私は地上にも届くほどの絶叫をあげます。筋肉が千切れる音がするほど体を揺さぶりますが、担いでいた男に二度三度腹を殴られると、いよいよ動きは鈍り、煌々とゆらめく蝋燭の火が、涙と汗でぼやけて見えます。
 私をこれほどまでに暖かい笑顔で見つめる人間はおそらくこの老人が初めてであったと思います。男は簀巻きの縄を解いて、私を片足で押さえ込むと、腹巻に差してあった大型のナイフを取り出しました。
「ここの雄豚はどれも性欲と食欲が旺盛だ。たまにしか与えないご馳走を前にして、一層活気づいておる。骨の欠片も残さない。だがお前は中身を変えて生き続ける。私の集めた世界中の品の中で、新鮮な空気、宝石に彩られた服を着て、わしと朝食を共にしよう」
「愛しているよ」
 それを合図と取ったのか、男は腹を震わせて私の頬にナイフの先を当てました。私は呻き声をあげます。すると、今まで突進を受け止めていた木の囲いが壊れ、豚どもが地下室に解き放たれたのです!
 もう片方の男は持っていた棒で叩きますが、豚どもはその男を飲み込み、踏み潰します。数頭の豚がその男に襲いかかり、鈍い音を発しながら、恍惚に歪んだ顔を覗かせていました。波はこちらへも襲いかかります。
「ひい」と私に乗りかかった男は飛び跳ねて、ナイフを振り回しますが、間もなく豚に犯されてしまいます。私はその隙を見て必死に走りました。声にならない声を上げ、膝小僧が右へ左へ遊ぶのも構いもせずに、閉じかける扉を目指しました。途中、老人が何かを叫んでいましたが、気も留めず、召使いと共に扉を閉じて鍵を掛けます。何度か鈍い衝突音がありましたが、しばらくすると音は止みました。私は体中の水分を目鼻口から垂れ流し、ぜえぜえと息を切らします。召使いは震えていたのを覚えております。
 私は一人で逃げるにも裸同然で、施設以外の世界を知らないために行く宛てもなく。施設に戻るわけにもいかないため、彼女を頼ることにしました。彼女は私と共に主人を殺してしまったという罪悪感があったのか、その提案を受け入れてくれました。私たちは急いで屋敷を後にします。途中、めぼしい骨董品を手癖で頂戴したのですが、仮にも老夫婦の義理の息子であったのですから、構わないでしょう。そうして私は路商に骨董品を売った金と彼女の知恵を合わせ、南西へと進んで行きます。彼女は十五歳で、私と同じ様に孤児の施設上がりでした。私と同じ歳の弟がいて、共にあの屋敷に買われた様でした。……今は一人とのことです。
 彼女と三年ほど一緒に過ごす中で、私は初めて自分からの愛を持つ様になっていきます。彼女はとても綺麗で、賢く、私はいつもそれに助けられました。施設以外での生活も新鮮であり、そして異性はおろか他人とじっくり話をすることもなかったために、私は彼女をただの異性としてでなく、全ての意味をこめた愛を持ってしまったのです。枯れ木にくべた火が燃え上がり、肉までも焼き尽くす勢いをもって、私の中で増幅していきます。熱は冷めることはありませんでした。彼女も同様に、私と接する中で光を取り戻して行きました。
 ある時、私たちはぶらりと立ち寄った街の路商に声をかけ、持っていた骨董品を売ろうとしました。路商は目を丸くして、その骨董品を慎重に、丁寧に、隅々まで観察を始めました。今の持ち合わせではこれを買い取ることは出来ないので、一日待ってほしいと申すのです。私たちはその日に泊まる宿代が必要でしたので、有り合わせの金で良いと言いましたが、たいそう、その品が高価に思えるらしく、では私の家でなら金を払えるので来て欲しいとまで言うのです。彼女は別の路商にしようという提案をしますが、私は次の街までの足しになればと、彼に着いて行くことにしました。彼は言葉があまり上手ではなく、異国の者だとすぐ検討はつきました。彼の家は路地の奥まった場所にあり、彼が召使いらしき男に異国語で指示を与えると、私たちはテーブルのある席へと招かれ、暖かい茶を出されました。彼はもう一度見せて欲しいと言い、再び目を丸くして鑑定を始めます。そして一時間ほど過ぎたと思われます……。
 家の扉が勢いあまって外れるほど強く開かれ、数人の異国人が部屋へと入ってきました。険しい顔をした男たちが、私たちの行く手を塞ぎ、異国語を激しく捲くし立てるのです。
その後に続いて、見たことのある顔が現れました。――屋敷にいた老婆です。しわの奥にある眼光は冷たく、私たちを捉えました。すると側にいた彼女は金切り声を発し、命乞いを始めました。
「やめて、私だけは殺さないで」 
 老婆はにやにやと、私たちを見つめます。その間も男たちは聞き取れない言葉を叫んでいました。
「おや、まあ。あんた、またそれかい。二度も引き換えに生き延びる気かい」そう言って私をじろりと舐めました。
「やめて……殺さないで」彼女の懇願は消えいりそうで、でもはっきりと聞こえたのです。
 
 私たちは再び屋敷へと連れられました。私は灰色の部屋へとぶち込まれ、彼女は簀巻きにされてどこかへ連れて行かれました。部屋の中でずっと泣いておったのを覚えております。何日も何日も、私は部屋の中で涙も流れなくなり、声も発することが出来ないほど口を枯らし、痩せゆく手の甲を頬に当てて彼女を待ちました。しかし彼女も、老婆も、他の召使いも誰も部屋に来ることはありませんでした。
 私は幾日かして、いよいよ倒れこんだ時です。ベッドの下に横たわるぬいぐるみを見つけました。母の形見であるそれはもう埃まみれで真っ白になり、顔も見えない様子です。私は手を伸ばすことも出来ず、そのぬいぐるみと声にならない声で会話をします。両親のこと、施設にいた少年のこと、微笑む老夫婦、そして三年間愛した彼女のこと。もうこの屋敷には誰もいないのかも知れない。そう思って、私は目を閉じました。すると羽音が聞こえてきます。扉の隙間から、蝿が一匹迷いこんで、指先に留まりました。それは丁寧に私に挨拶を果たし、踊っているようにも見えます。蝿からは三年間一緒にいた匂いがしました。愛した彼女の匂いでした。
「ねえ、ぼくたちの子をつくろうよ」

 あなたに分かりますでしょうか。私はそうして蝿になったのです。彼女と子供をつくることが出来たのかは想像にお任せします。それより、この糸の網から抜け出す方法を考えましょう。……あなたはとても美しい。青虫のままであれば良かったろうに、それほど美しければ捕らえられてしまうのは仕方のないことかも知れません。――誰しもが、欲しがるのです。もしここを抜け出すことが出来れば、私も連れて行ってもらえませんか。なにせ人間であった時間が長いため、どうにも生きていくことに不器用でして。
 ははは。承知しております。あなたは私を裏切らないでしょう?


          了

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