ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

天台本覚思想コミュの山本陽子の本覚

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
山本陽子 「神の孔は深淵の穴」(1966年)の詩には、
自己の深淵に発見されるべき自由の神として、
本覚とよべる神の実存が論じられている。

たとえば255行目ー

 神は個人的な深遠のヴィジョンを通じてのみ、あらわれいで、神
は客体化されえない、規則・形式もありえない。けれど 人間がこ
の根源的な自由において自由の実存的冒険を生きていくなら、そし
て彼が先入感としての神概念を持たないなら、人間は 神としか呼
びえない 実存に出会うだろう。

以下、冒頭を紹介します。


 自由の神の開拓者 そうわたしは彼らを呼ぼう。精神の地下革命
の予言者たち、自由な人間は いつも世界の放浪者であった。しか
し、彼らはひとつのきずなに結ばれている。たとえ遠く離れていて
も たがいに相手を見出して、しかも彼らは つねにひとりである。
ひとつの精神の多様な風土、自由の霊的な世界をひらく 彼らは人
間という種族であった。人間と神の解放をかたり、生の創造行為を
たからかにうたい、そして彼らが死した後 自由は不滅の実在とな
って人間の新たなる魂にうけつがれる。すべての人間たちよ、なぜ
君は生きることをはじめないのか、絶望と死の深淵からそう復活の 10
歌をひびかせるのも彼らである。わたしはいつも考える。彼らこそ
 あのオーデンの 神の種族ではないかと。彼らはほろびさること
はない。燃えつきた彼らの生命のほのおから 不滅の自由がうかび
でてそれは永遠に生きるだろう。人間はそれをひきついで あらた
な生命を発見する。もしそれを、深淵よりかがやきいでる光にみい
だせないとすれば、人間という種族もいなくなって 世界は消え去
るにちがいないのだ。終末が近づいていて 今はその時であるにち
がいない、二つの道がひらけていて、それは孤独な彼らの生命、そ
の光をすいとってより以上の人間になるか、新種のむしになりかわ
るかのどちらかなので、もうそれしか出口はない。彼らの放浪する 20
魂とわたしたちの魂が たがいに手をさしのべあい この歴史的な
時を空間をこえて おなじ世界に神の愛を 生命の創造行為をうた
うことが はたしてやってくるだろうか。勇気はいつも孤独であり、
自由の道をきりひらく、今こそ その勇気の時なのに、人々は が
っしりとからみあって動かない。レヴィアタンは その上に君臨し、
人々は恐怖におびえながら ひっそりと黙りこんだままなのだ。も
し人間が 死にものぐるいのエネルギーで、旅をはじめていかなけ
れば、夜もまた はてることはないだろう。
 一〇〇〇年ののち おそらく最後の審判がやってきて 人類はた
だひとつの 判決をにない 人類がかつて人間たりえなかったこと 30
を 人々はおののきつぶやくだろう。その時神は沈黙して みずか
らもまたになうだろう。神もまた 神たりえなかったという最大の
罪、唯一無比の人類の苦悩を。そのとき、すべてがうしなわれると
き、はじめて神と人間はたがいに手をさしだして いだきあうこと
ができるだろう。人間は神なくして生きられず、神もまた人間なく
して生きられないことを すべてがはじめてさとりあう、審判は
人間と神との和解によって そのときはじめて救いとなり、人類の
滅亡と神の死は 意味をもつにいたるだろう。
 解放のらっぱはひびきあい 人間は人間にめぐりあう、すべての
時空の放浪者、自由の人間の放浪者、彼らも ここにつどいあう。 40
彼らの生涯の十字架は 自由という名の深淵は ひとつに流れる光
の河 生命のいずみのほとばしりとなって 人々はその水をむさぼ
りのむ。そして世界は 没落し 人間は神は 滅亡する。

 二〇世紀後半は、おそらくひとつの終末に近づいている。わたく
したちは 精神の旧石器時代人、ネアンデルタール人なのだ。精神
の新石器時代人、クロマニヨン人は、歴史的人類の死滅のあと、は
じめて新しい人類として、この世界へやってくるだろう。彼らはこ
の世界のなか 新たな生命をはぐくんで、しかしわたくしたちはそ
れに答えるすべてをもたない。飛ぶべきすべをしらないのだ。人は
すりかえを続けてきて 今世界は幻影と化し 虚偽の契約期限をせ 50
まってきて 人間の自由はかつて生きつづけられたことはなく 胎
内ですでに死んでいて 善の衣をかぶった強制が くまなく歴史を
おおいつくし 瞬間ごとに破産宣告をおこなっている。人間は逃走
しつづける世界に生をうけるので、彼もまた世界のただなか、逃走
者であって それが第二の属性であることに気づかない。もしそれ
を知ったなら 人は第一の属性、失った魂の探索に 不毛の荒野に
でかけなければならず、その荒野は都会なのだ。人々は もう生ま
れてはこず おしだされてやってきて、もし生きようとするならば
 頭のなかにそなえてあるすべてのネジをはずしてから、苦悩する
ことからはじめねばならない。瞬間ごとが落下なので体はいつにも 60
逆ざまにぐるぐるまわりつづけるだろう。しかし生のなかの水平の
死をとびこえて 垂直の次元にはいっていき 無底に限りなく近づ
いていく。そして 落下は まさに上昇運動があるからおこるのだ、
そう彼が考えるなら らせん状の回転のなか 限りない高みへのぼ
っていくことが、一瞬のあいだにおこりえる。
 人間は 国家とか 政治組織がなくても生きることができて し
かも新しい人間に なり続けていなければ 人間はもう生きること
ができない。人間は消費し続けてきたので、いま最後の偉大なる消
費、人間の消滅へと向っているのだ。そして人類の絶滅・殺りくは
悲劇ではなく 尾を引いたすい星で 宇宙のちっぽけな排泄にすぎ 70
ず 静かに闇がおしよせてきて その死は無意味なものであり 人
間の不滅の死はもうそこから失われている。
 このあらゆる神なき宗教が偶像崇拝をまきおこしている終末、悪
魔ほど生き生きしているものは もう他にない。死んだ人間の名に
よって世界をつなぎとめようとしても だからむだなことなのだ。
わたくしたちは死んでいて だがすばらしいことにやってくるかも
しれない新しい人間たちの豊饒なこやしとなることができる。いま
必要なのは真の狂気だ、天才の狂気ではなく えせの狂気をかなぐ
りすてて 人々が自らのうちに探りつづける――人間はなんであり
えるかの、その未知の実存への限りない旅――らせん状の回転であ 80
る。それは神への発見の旅であり 意識的に生きることなのだ。
 日本にいて ロシアのそりをかけりながら アイスランドへ向っ
ていき オーデンと巨人族のたたかいのなか 天使のラッパをふき
ならす。名もなければ 兄弟もない 国家も民族も同志もない。な
もたよるべきものもない。十字架すら背にしょわされず、ただひた
すら精神の自由なる第五次元、夜の果てへと旅していて 光と闇の
両極を最大にゆれ動く。次の瞬間はより大きなひろがりで、彼は神
を殺しては神を蘇生させつづける。それが生きることのすべてなの
で そこから創造のエネルギーがぎりぎりとわきあがる。そのとき
夜が果てるかはもう問題ではなくなって それが二〇世紀後半を生 90
きることであり、それは彼の生そのものが、無残な汚ならしい死骸
や 記号としての無機体の死ではなく ひとつの十字架になること
ができるかもしれないということを意味するのだ。冒険に役立つも
のは ただ勇気だけで 彼はひとりでいかなくてはならない。
 自由の神を告知したのは あの現代の要約者、予言者たるドスト
エフスキイだ。芸術の歴史は歴史の原型、生命の創造行為の伝達と
するならば、彼の創造は人間の原型、歴史の時と空間をとびこえて
いく。無神論者にしてキリスト者、悪魔の誘惑にして神の深淵から
の光、人神にして神人であり、精神の急進主義者である世界での反
動主義者、ロシア人でヨーロッパ人である彼、その彼ほど 創造の 100
エネルギーは 実存の両極をゆれうごく動的な把握から発すること、
それは破滅にも生にもつながっているものであることを まざまざ
と啓示する人間は ほかにはいない。
 大審問官の章は 自由の運命の予言であり自由の神の告知であっ
た。人間は根源的な自由をもち それは善でも悪でもない 創造さ
れざる自由(〜自由、精神の息吹き)なのだ。 自由の冒険 実存
の幅広い領域の未知の探索こそ人間の生の行為であり、彼が自由を
創造し 善と悪の認識をみずからなしえたときに はじめて解放が
生まれくる。そして人間の生の創造行為こそ、善の選択による善に
おける自由の動的行為なので、それは自由の神への自由な愛、人間 110
の真理への愛なのだ。 
 神もまた力をもたない。神はほとんど精神のアナキストである。
それは歴史的教会の必然性の権威神にたいする黙示録の神なのだ。
 神は 人間が愛と善の自由を通して 自由に神を信じなければ、
人間を必要としないだろう。そして神もまた神たりえず それは人
間がいなくなったからなのだ。神性は人間によって神のすがたとな
り人は神において人間のすがたとなる。自由の真理の創造をなし
自由の人格をうることができる。神の運命は 人間の運命であり
人間の運命は 人間の自由の運命であり、人間の自由とは――言葉
をあてはめてみるならば――おそらく霊的なものから発する精神の 120
時間への突入なのだ。
 悪の自由の選択は、悪しき必然性に転化する。すべてが許されて
あるならば 人は他者の自由を滅ぼし、人間そのものを滅ぼしてい
く。それによって、自己の自由そのものもほろび去る。
 だが人が本源的な自由にたよらずして 善の自由の名のみによれ
ば それも善き必然性に転化する。世界は強制的に?善く?なるだ
ろう、幸福となるだろう。しかし世界は神性を失い 神も人間(…
…人間)人の間(も)も消え去るだろう。?善き必然?の名のもと
にひとつの偶像をまつりながら 経営者と労働者という他者が発生
する。人はただひたすらこころのうちに避逃して白鳥の歌をうたう 130
だろう。人間は不滅を失って 反逆者は反逆を生涯つづけ それは
死の無意味におわる。革命は善の必然性の名のもとに専制者を倒し
つつ 反革命に転化する。すりかえの子供たち 彼らはそれに反逆
して その潔白な良心は、又すりかえにおちいっていく。
 自由となりえない救い 自由な人間となりえない救い、自由な人
からきたのではない救いは もはやわたしたちになにも語りはしな
いだろう。
 神のこの世界への沈黙は 自由の理念を通じてのみ おのずと啓
示するだろう。神の沈黙こそ 人間への愛、人が自由にたいするこ
とへの、人間の尊厳への愛なのだと。それ深淵の自由の可能性をも 140
つ人みなすべてへの愛である。
 だから神は奇蹟をもたない。奇蹟はただひとつおこりうるだろう。
人間が自由であり、神もまた自由であって、彼が自己の自由を通じ
て能動的に神の自由、究極の自由の真に近づいて、神に手をさしの
べて 神が人間の自由な愛によって神となり、人間もまた神におい
て人間のすがたとなったとき、そのより高い本性において満ち流れ
る 自由なるすべての人々への愛において。そこではすべてが動き、
交錯している。愛は流れ渡ってゆき、とどまることはなしえない。
消え去った愛は なにもしるしをとどめず 人間は生命の創造をな
すために、瞬間を必死で生きるほかはない。上昇していなければ、 150
転落していきつつあるのだから。
 神は、すべての教義、戒律・主義とは無縁であって 自らこの世
を変えることはなしえない。神は永遠のなんじとして自由のうちに
現存し 自由を通じてのみ 働きかける。人間は 精神の自由のた
たかいをへて はじめて人間が世界を変えうる。社会主義は この
唯一にして多様な生命の真実、その根源にたってこそ 人間の真の
解放に役立つ必要欠くべからざる手段と なりえるだろう。
 歴史は必然性の名をかたる。世界であり、あらゆる国家、権威制
度――歴史的教権的キリスト教から全体主義的共産主義に至る神な
き神の宗教は 大審問官の誘惑に身をゆだねて来た。それは人間の 160
名における神のすりかえであった。生存のための必要不可欠な手段
が目的へと転化する。国家というデーモンなしに歴史を生きた民族
がはたして歴史にあっただろうか? ユダヤ民族、イスラエルの民
も ひとつの国家に滅ぼされかけた。彼らはメシア的理念によって
イスラエルという国をうちたてて それは現在国家である。歴史の
必然性の動力は 人間の生存闘争なので 経済的平等化は必須であ
り それと共にいかなければ 精神の真の解放もおこりえない。同
時にこれも明らかなのだ 経済的社会化が、どんなに望ましく ま
た正当なものであっても 全歴史過程において遂行されたような
人間そのものの社会化は すべての奴隷状態とすべての精神的遅滞 170
の根源であることが。社会主義は人間の真の解放の契機にであって、
同時に部分の全体化、自由の破壊、圧政・大審問官の体制にも通じ
る、さまざまな変化をとげうる可能性をもっている。しかしそれが
無神論にたっておこなわれるなら、それがいかに潔白な苦悩からは
じめられたものであろうとも 自由の弁証法によって 必然性へ転
化していくだろう。歴史的社会主義、共産主義はこの過程をありあ
りと証明する。
 ?社会主義はなによりもまず無神論の問題である?というドスト
エフスキイの言葉はこの二つの意味を含んでいる。それは神への反
逆の名における人間の解放の運動であって、しかしそれはそのまま 180
では自由の神の否定 神なき宗教の必然性におちいっていく。 真
の無神論は なかんずく道徳的反抗は 神の実存を前提とする、そ
れが 真の自由の苦悩をへた 深い感情によって生みだされたとき
 それは神の確実性をのべている。苦悩のひとのこころのなか 人
間の名によっておこったことは 真の神自身の神にたいする反抗に
ほかならない。それは 歴史的キリスト教のおちいってきたカエサ
ルの国の精神性、精神がこの世の支配的利益に奉仕するに演じた役
割に対する報復であり 神概念を根源化する実存的弁証法的契機で
ある。しかしそれは、純化された理念を基底としてすすまないかぎ
り またも一元的な国へ転化していくだろう。社会主義は人間の精 190
神の解放からはっしたときに 人間の共同体のありかたとして生命
の創造行為、自由への道を探索する足となり続けることだろう。
 アナーキズムは、精神に根ざした運動である。歴史的なユートピ
ア神話や暴力革命にむすびついたアナーキズムすら 精神の自由の
解放運動を根源としておこり、逆転した動力となったのである。ア
ナーキズムの真の理念は いまだ十分に把握されておらず、熟して
はない。だがそれは 今日の世界に 積極的なパトスをもたらすこ
とができるだろう。アナーキズムは 精神の根源的自由に根ざした
共同体の運動であり 哲学と政治、形而上学と歴史との有機的結合
の 可能性をさし示す。これは予言、ユートピア神話としてではな 200
く、一九六六年 この世界のなか そのような可能性にかけ、追求
していかなければ 人間は人間を?おのれの生をはじめる?ことが
できなくなってきているのだ。それは一つの終末であり 人類が人
間という名による国民 人種の集合体ではなくして 人間としての
結合であろうとするならば、このただひとつの共同体 精神の解放
の行為をはじめていくほかはない。そして人間は根源的な自由から
発しその実存の旅において自由なる単独者―人間と出会うことによ
って、われとなんじの関係を結びつつ、真のわれとなることができ
る。われはわれらとなり、われとなってわれらのあいだに死んでい
た。共同体は人間の自由から発し この関係によって存在する、す 210
べての組織はそこにおいて限定づけられて、ある。だが人間の内な
る革命が ひとびとをゆりうごかし みずからの魂を呼びもどさな
ければ 人類は共同体となることはない。これは多分 人類がひと
つの天底極を通過したときはじめて おこりうることなので、それ
が理想の名において たとえ築きはじまるとも 人類全体の幸福の
追求にのみ走るなら、第二のバベルの塔が築かれて カエサルの国
が世界をおおいつくすだろう。ヒューマニズムの安易さもまた 良
心の無力な運動、ひとつの試みにおわる。人間となることは、決し
てそのまま幸福になることを意味してはいないのだから。
 精神の静かな地下の胎動が、世界をひたしてゆかないなら 世界 220
は人間であったことはなく 二四世紀の人類が、人間の歴史の試み
はここに終ったと、そう書きしるすかもしれないのだ。政治の側か
らの人間の究極的な解放はなしとげられることは決してない。国家
は必要悪ではなく人間が神にひるがえした自由の影の反旗であり
人類はまた神をすりかえつづけたのだ。人間が自ら内在に問いかけ
て、精神の共同体において、生命の創造行為を追求していかなけれ
ば 全人類の経済的平等化も決してなしとげられることはない。そ
してこの平等化がなしとげられたときに 真の革命が姿をあらわし、
人間の根源的な悲劇性――自由の二律背反性と 有限なる時空にお
ける永遠性の問題 がすべての人々の問題としてあらわにされてく 230
るのである。それは人間の全人類的な規模の人間の死と復活の壮大
な試みとなるだろう。それはもう、地下の胎動をはじめている。そ
れは、つねにあった。
 芸術の創造は 根源において 人間的なものと神的なもの 人間
のうちなる融合へ向う 人間のより高いすがたの探索であり、作品
は 世界との関係をむすぶ ひとびとへのヴィジョンの伝達行為
客体化された核による人間の人間へのひらめきの啓示、作家のなし
うる最大の行為は人間の新たなる創造 神への愛における人間の人
間への愛の実存 世界との関係なのだ。それが神への反逆ならば、
人間を求める 彼のうずきがたちのぼり、絶望的な、神への逆理の 240
讃歌が、こだまする、
 人間は 根源的な自由からの自由の冒険のすべてにおいて、われ
となんじの関係によって はじめて真のわれとなり 実存の二つの
出会いをバネとして 新たな回転へむかっていく。作家が?作品?
を通じ 彼のヴィジョンをはたらきかけ ひとがまた能動的に応答
するとき 客体である作品は 単なるもの以上のもの、人間の人間
との直接的な出会い なんじとわれの核となるだろう。 それがな
ければ 出会うこともなかっただろう 真のわれと真のわれとの精
神の 共同体が現存し 神的なるものへ向って、それは能動によっ
て結びあう。関係が、われ―それの、ひとと客体の経験関係に変質 250
し、?〜ということだ?とひとが言うその時でも、かつての出会い
のきらめきは 永遠に流れている瞬間の結晶となり、ひとのほのお
をもえあがらせて 人間はひとつの飛翔をなしおえて、より高く、
広い自由がやってくる。
 神は個人的な深遠のヴィジョンを通じてのみ、あらわれいで、神
は客体化されえない、規則・形式もありえない。けれど 人間がこ
の根源的な自由において自由の実存的冒険を生きていくなら、そし
て彼が先入感としての神概念を持たないなら、人間は 神としか呼
びえない 実存に出会うだろう。私はそれを確信する、超越的存在
でなく、瞬間にひらめく永遠の実在、自由の数限りない真理を包含 260
する ひとつの真理、それゆえに生の意味がせまりくる、言葉にな
らぬ言葉、それが奥底からわきのぼる。
 人間は神のヴィジョンをさまざまな言葉をもって表現する。芸術
の創造行為は、この神秘的な実存の精神のヴィジョンを――直接的
に伝達し、それは最高の意味の芸術がなすことのできるもの 作品
を核として われとなんじまたわれらの時空をこえた、永遠の流れ
る瞬間の、自由なる人間の出合いがここにあり、ふたりに目に見え
ぬきずなに結ばれて それは彼がみずからなすやむにやまれぬ選択
の行為、はたらきかけ、はたらきかけられる全身全霊の受諾である。
 芸術のこの伝達行為、なかんずく感覚における実存のヴィジョン、 270
音より以上の音について メイラーは簡潔な言葉で表現する。?ジ
ャズはある即時的な実存状態についてかたった。それはじっさい芸
術による伝達であった。ジャズは「ぼくはこれを感じる、そしてき
みだっていまそれを感じている」といったからである?(N・メイ
ラー・「ホワイトニグロ」)
 ぼくはトランペットの金色のひびき、ドラムの黒いリズムをきく
ぼくはすべてのリズム すべての旋律のあいだにあって 時の時に
生きている いまそれは永遠にある そしてきみ、ぼくのとなりに
いるきみも ただトランペットにききほれているのではない ぼく
ときみとは互に顔をみあわせて しかも言葉は交しえない かがや 280
きは すべての音からきらめきいでて ぼくときみは いま一瞬こ
こにある。
 メイラーの言葉を用いるなら彼はもうひとりの彼 もうひとりの
彼はもうひとりの彼と with it し、swing できたのであって そ
れが彼と彼の関係、生きることにほかならないのだ。ジャズの演奏
者と 聴衆のかれ、そのかれともうひとりのかれ ピアニストと
ドラマーが直接的な関係に 全身をもって応えて、そこに世界が現
存する。かがやきは、ひとつの真理から流れてきて、それが共通の
ヴィジョンとなる。ジャズは怒りと苦悩のなかの人間の根源の自由
の解放のひびき、あるときには荒々しく あるときには静ひつに瞬 290
間を躍動し、音より以上の音のなか、ことばにならぬことばがひと
びとのこころに流れわたる。それは感覚の本能的な実存の告知、?永
遠?に流れていく、深淵からわきあがる時の時のひかりなのだ。
 精神の実存的冒険は、ここに発し、意識的な生の把握をもってそ
の旅をつづける。意識的な精神のヴィジョンのらせん状の回転、時
空のなかの無限への行為、どこにいくかが目的ではなく、どこにい
まありえてあるか、すなわち いまあるという実在の把握が手段で
あり、目的となるだろう。真の芸術はこの冒険のただなか、生と死
の両極をゆれ動いてきて、そしてなおも動きつづける、実存の深淵
からの光、自由の真理への限りない接近、人間の創造的発見、神に  300
おける人間の愛、人間の解放――そのものである。

コメント(1)

興味深い詩をご紹介くださって、どうもありがとうございます。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

天台本覚思想 更新情報

天台本覚思想のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング