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ルネ・デカルトコミュの「意識と本質」(井筒俊彦)から見るデカルト

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「意識と本質」(井筒俊彦著、岩波文庫)は東洋哲学(禅、イスラム哲学、インド哲学、中国哲学、国学など)を俯瞰しようという意欲的な著書ですが、必ずしも東洋哲学だけにとどまっておらず、その分析に用いられている「分節」という視点が、デカルト哲学の思考パターンと対比させると、興味深く思われます。
まず、この本の内容を簡単に説明します。

1.分節(I)
私達は通常、「花」を花として疑いも持たずに認識しています。花には花、石には石の本質がそれぞれにあり、区別できること(分節)が当然だと考えています。
しかし、禅者が「山はこれ山、水はこれ水」と表現する、万物が分節されて見える世界は、思索をさらに深めていくことで違って見えてきます。

2.絶対無分節
次の段階として、分節されていた「花」や「石」が区別できない精神状況になってきます。いわゆる「絶対無分節」の状態です。
サルトルがこの精神状態をうまく表現しています。
「ついさっき私は公園にいた・・・マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地に突き刺さっていた。それが根だということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる言葉は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒(めじるし)の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれ立った、恐ろしい塊に面と向かって座っていた。」
すべての存在が独立した存在として区別できていた「分節」の状態から、すべてが名前を失い、個別性を失って「黒々として薄気味悪い塊」に見える精神状態。これが「絶対無分節」の状態であり、東洋哲学では、禅であれ儒教であれインド哲学であれイスラム哲学であれ、到達すべき重要な境位として捉えられている、といいます。
それまでは、すべての存在が一つ一つ区別され、美しく輝いていたのに、すべてが色あせてどこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残り、「ぶよぶよした、奇怪な、無秩序の塊が、恐ろしいみだらな(存在の)裸身」のまま怪物のように現れてくる。これが「嘔吐」を引き起こす、と、サルトルは指摘しています。
しかし東洋の精神的伝統では、こうした「嘔吐」の精神状態におかれても狼狽しないだけの準備が方法的、組織的になされている、といいます。
いわば、「悟り」の境地として捉えているからでしょう。
「老子」では、絶対無分節した世界を「無」と捉え、分節された世界を「有」として捉え、次のように表現しています。
 常に無欲、以てその妙を観
 常に有欲、以てその徼を観る
仏教では絶対無分節の状態を「空」と表現し、花を花、石を石と分節して捉える分節したものの見方(「名と形」)を、「妄念」として否定します。
 「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみ」
「起信論」では、絶対無分節の精神状態に至ることを次のように表現しています。
 「この故に、一切の法は本より已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相(意識の対象としてのあり方)を離れ、畢竟平等」
儒教(宋学)では「分節」から「絶対無分節」に至るための精神的修養として、「格物究理」を求め、到達した絶対無分節状態を「無極」あるいは「太極」と表現します。
インドでは、これをブラフマン(梵)と表現します。
イスラム哲学では「マーヒーヤ」といいます。
しかし、こうした境地は西洋哲学の伝統でも存在しないわけではなく、聖アウグスティヌスの「告白」にあるような創世記の叙述、すなわち万物が区別を失うだけでなく、時間もまだなかった創世記。これを絶対無分節の状態と見なすこともできます。

3.再び分節(II)
すべてが絶対無分節に見える精神的境地に至ったとしても、私達は現実に、花は花、石は石として区別する世界に生きています。
日常を暮らして行くには、再び分節したものの見方を取り戻さなければなりません。
しかしいったん絶対無分節の世界を垣間見た者は、以前の分節された世界とは違って見えている、といいます。
分節(I)->絶対無分節->分節(II)というように著者は解説しています。
禅でいうと、未悟->悟->已悟という過程になりますが、青原惟信はこの精神過程を次のように語っています。
「老僧、三十年前、まだ参禅していないとき、山を見ればこれは山、水を見ればこれは水、というように考えていた。その後、優れた師に巡り会い、その指導の下に修行して、いささか悟るところあって、山を見てもこれは山ではない、水を見てもこれは水ではない、というように考えるようになった。いよいよ悟りが深まり、安心の境位に落ち着くことができた今では、以前と同じく、山を見るに祇(た)だこれ山、水を見るに祇(た)だこれ水」
しかし一度は「唯だ妄念によって差別あり。もし妄念を離るれば唯だ一真如なり」という状態をくぐり抜けてきて見える世界は、分節(I)とは違って、絶対無分節の状態を常に感じながらの分節(II)である、といいます。

4.デカルトの思考過程との類似
上記の東洋哲学でみられる分節(I)->絶対無分節->分節(II)を眺めてみて、デカルトの思想を考えてみると、デカルトの方法的懐疑は、理知的にこの思考過程を進めるための有効な手法として理解することが可能で、興味深く思われます。

花は花、石は石に見えていた世界を、方法的懐疑で見つめてみると、十分な根拠があるのかどうか、疑わしくなってきます。
分節されていた世界がどんどんと解体されていき、ついには夢と現実との区別も曖昧になってきて、絶対無分節の境位に至ります。
その中で発見する「考える我」が基底となって、再び世界を再構築(分節(II))していきます。
デカルトの方法論は、東洋思想が重要視する精神的修養(しかし十分には方法論化されていない)を、方法として示したものと捉えることが可能だと思われます。

以上のように、
分節(I)->絶対無分節->分節(II)
の視点から、デカルトの方法的懐疑を見てみると、東洋哲学との類比が可能になり、興味深く思われます。

この点について、議論ができましたら幸いです。

追伸・なお、「意識と本質」にはデカルトの「デ」の字も出てきません。
しかし、詳述される東洋哲学の「分節」をめぐる視点は、デカルトの思想を彷彿とさせるように思われます。

コメント(1)

>すべての存在が独立した存在として区別できていた「分節」の状態から、すべてが名前を失い、個別性を失って「黒々として薄気味悪い塊」に見える精神状態。これが「絶対無分節」の状態であり、東洋哲学では、禅であれ儒教であれインド哲学であれイスラム哲学であれ、到達すべき重要な境位として捉えられている、といいます。 それまでは、すべての存在が一つ一つ区別され、美しく輝いていたのに、すべてが色あせてどこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残り、「ぶよぶよした、奇怪な、無秩序の塊が、恐ろしいみだらな(存在の)裸身」のまま怪物のように現れてくる。これが「嘔吐」を引き起こす、と、サルトルは指摘しています。


黒い薄気味わるい塊に見えてる内は、まだ絶対無分節の境地に至っているとは言えず、せいぜい中間的移行段階だと思います。よく精神の実存主義的帯域と呼ばれる所で、脆弱曖昧になった分節がまだ根強く残っている状態だと思います。

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